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hasunoha 問答検索結果 : 「他人 できない 幸せ」
検索結果: 3220件
2025/05/14

今の平和は嘘。だから何もかも虚しい

例え何かを為そうとしても、何か努力をしようとしても、自分の人生を生きようとしても、いずれ戦争ですべて奪われます。だから、何を感じるのも苦しい。ずっと泣きながら生きています。 そして、死んでもまたこの世界に生まれてしまいます。自我とは物質的肉体に付随するものでしかありませんし、極楽浄土なんてフィクションの産物にしかすぎません。確かなものは死と絶望と残酷な営みだけです。もしも極楽浄土が本当に存在するならば、この世界中で起こっているありとあらゆる残酷な環境の中に生み出される命に説明がつきません。どうして、戦地や過酷な独裁国家の中に、まだ人は生まれ続けるのでしょう。いつかの自分がファーストペンギンとしてシャチに食い殺される可能性は、この世界が終わるまで永遠に付きまとい続けます。 だから、この人生も、今の平和も、「人類」という営みも、何もかも束の間の嘘でしかありません。この世界の本質は、破壊と暴力と残酷な営みだけです。私達は死んだ後、更に過酷な環境の中に産み落とされる覚悟をしなければなりません。そして、強制的にもたらされる死はもう目前にまで迫っています。 存在しているのが辛い。物質的存在から逃れられない自我が辛い。脳科学的に言えば極楽浄土なんて信じるのも難しい。なぜなら、超常的上位存在なんて本当は居ないからです。あるのは残酷な物質的営みだけ。 ・物質的世界や自我や人類の営みなどといったものは、全てが偶然の産物でしかない ・必然性や何かの意図が介入していないということは、どこまでも無秩序で残酷になるということ ・それでいながら、結局は物質世界から逃れることなどできない。死んでもまた他の生き物の感覚器官が「自分」になるだけ だから、ありとあらゆる平和や慈悲やぬくもりが嘘のように感じられ、「どうしてこんな世界じゃないんだ」と苦しくなります。愚かにも、嘘っぱちな温かいものを望み、「これらが尊ばれる世界であるべき」などと思ってしまいます。その度に、残酷な真実との落差に苦しくなります。何を為すのも、希望を持つのも苦しい。死ぬことで物質的世界から「本当に」解放されるなら、安心して生きられるのに。 どうして極楽浄土を信じられるのですか。こんな残酷な世界で。私は悪くない。世界が悪い。だってこの世界は本当に残酷だから。慈悲や幸福よりも破壊や暴力や不幸の方がずっと大きくて強い世界。

有り難し有り難し 19
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心にぽっかり穴が空いています

初めまして。Epicaと申します。30代前半の独身男性です。 昨年10月から12月末までの短期で仕事をしていました。 そこの職場で、40代後半の2人の子どもを持つ既婚女性の方に恋愛感情を抱いてしまいました。 その人は、数年働いており、皆から頼られる非常にノリの良い愛嬌のある人です。 初対面の自分にも、愛想よく下の名前で話し掛けてきて、所々、笑わせる様な和ませるような行動をするムードメーカー的な女性です。 12月に入ってから、相手の方からボディタッチが増えたり、他愛もない雑談で、「○○(自分の下の名前です)、今度私とデートしよっか?」とか「○○、1人で帰れる?一緒に帰ろ?」と冗談ぽく毎日聞いてきました。 その度に、デートいいですね。嬉しいです。と答えると、「○○、上手ねー笑」という感じではぐらかされていました。 ボディタッチも仕事終わりの際に、自分にだけハグをしてくる感じになってきていました。 その人がいるだけで、仕事が楽しくてたまりませんでした。 年内最後の出勤日も、いつも通り変わらず仕事していました。 次の仕事に就職が決まっているため、繋ぎとして短期で入っているなどの事情は相手は把握しています。 お互い連絡先は交換していません。 実際にデート等遊んだこともありません。 こちらから連絡先を聞いたり、デートの誘いには応じるだろうという確信はありましたが、躊躇していました。 というのも、2人で遊ぶと体の関係をもつ雰囲気になると予想していたからです。 それらを踏まえて質問があります。 年末年始はその人に会えないという寂しさで胸が苦しく、恥ずかしながら涙する事もありました。 今も書きながら胸が苦しいです。 あの時、連絡先を交換しておけばよかったと後悔しています。 どうしたら、このような辛い気持ちは消えますか? ちなみに、数年前、一度不倫していました。 当時の相手も40代既婚女性で、数回、体の関係を持ちましたが、相手の気持ちが重かったので連絡等関係を一切断ちました。 その時は、寂しくも辛くもなかったです。正直、どうでもよかったです。 この馬鹿な男につける薬があれば、ご回答の程宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 22
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なぜ私は生まれたのでしょうか

20代の女です。 なぜ私は生まれてきたのか、生きている意味があるのか、存在する価値があるのか、と悩んでいます。 私が生まれた家庭環境は決して良いと言えず、母親はギャンブルに狂い、家のお金を使い借金を作り、最終的には人のお金に手を付け私が18歳の時に刑務所に入りました。 私は父親に引き取られ暮らしましたが、20歳の頃に私に借金を作らせて蒸発。 運が良いことに親戚が助けてくれて借金の肩代わりをしてくれて一人暮らしをする手助けまでしてもらいましたが、最終的に残ったのは学歴も資格もお金もない私だけ。 最近では病気が見つかり、病気が原因で仕事を解雇されました。 何もない空っぽの私が人に助けてもらうまで生き続ける意味があるのでしょうか。 家族がいた頃は縛られながら、親の言うことを聞きながら生きてきたので、1人で生きていく術を覚えられずに生きてしまいました。 今は親戚が後見人のような形でたまに様子を見てくれたりしますが、ありがたくも正直うざったく感じてしまう自分がいるのです。 学がなくとも人はやっていける、自分の周りにいる人の一例を挙げて私に話してくれるのですが、聞かされるたびに私の無力さを押し付けられるようでとても心苦しいのです。 そのような人たちはちゃんとした両親に育てられ、私とはスタートが違うのですから。 それでも私は両親とは違う、と親戚の前では虚勢をはり、親戚の前では良い子を演じてしまいます。 仕事を解雇されたのも、病気が見つかったのもまだ親戚に言えていません。 仕事に就く際も何度も揉めて、やっと納得してもらって就いた職なのにあっさり解雇されたのを非難されそうで辛いんです。 仕事も探して受けていますが受けては落ち、仕事もなかなか無く、このまま再就職できなかったらどうしようと不安で仕方ありません。 こんな状況でも遊び呆けようとする自分にも嫌気がさします。 でも毎日が寂しくて、友達に会いたくてしょうがないんです。 生まれてきた頃からずっと不幸で、生き方もどうしようもない生き方で、こんな私は何故生まれたのか、何故生きているのかと思うのです。 まとまりがない文章で申し訳御座いません。 お答えしにくいかもしれませんがお願いします。

有り難し有り難し 182
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❀ 空の芸術 ❀

お忙しいところ、恐れ入ります。 誰にも お話できない内容なので 思わず、こちらへ書き込みました。 ※長文 失礼いたします。 頭では、弱肉強食の競争社会ゆえ 人を人と思わぬ むごい蹴落とし合いを 当然のように日々くり返し 己のイスをしっかり確保して 安泰な経済活動になるように 皆様 勤しんでおられると理解して 許しの慈悲修行を独り行って 今日まで耐え続けてきましたが やりきれない瞬間が増えてきました。 やられても やり返さない私のような者は ベーシックインカムにでもならない限り 経済活動は非常に過酷な現実です。 ジサツをしても救われないのは 解っているので、ジサツもできない… 尼僧さんを目指す勇気もない… 弱音を吐いて、ごめんなさい。 もう、どうしていいか判りません。 『 私は平和が大好きです。』 どうして頂いたご神仏縁(-人-)❀ 容赦なく潰し合わなければ いけないのでしょうか? 大手企業の職場をいくつか経験させて 頂きましたが、同調圧力で強要されます。 お釈迦様の教えは 平和を大切になさるものかと存じますが 仏弟子の皆様は、弱肉強食の現実と どのように調和しておられるのですか? 今の私に有効的な経験談があれば 是非、実体験をシェアして頂けませんか? 貴重なお時間をさいて ご一読いただきまして ありがとうございましたm(_ _)m

有り難し有り難し 36
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同性愛者の生き方

こんにちは。 以前、結婚、出産はなぜするのかとの問に沢山のお答えをいただき、ありがとうございました。 あれから悩み、迷い、婚活もしてみたのですが上手くいかず。 ふと、自分の中で封印してきた気持ちに気付きました。 私は、男性を恋愛対象として見ることが出来ないのかもしれない。ということです。 思えば、初恋の相手は女性でした。 小学生の頃、習い事をしていた先で出会った少し年上の女の子で、綺麗な容姿に一目惚れし、気付けばいつもその女の子の事を考えていました。 それから中学、高校で好きになったのも男性ではなく女性。 手を繋ぎたい、付き合いたいと感じるのもいつも女性でした。 成人し、男性とお付き合いしたこともありますが、女性に対してのときめきやドキドキした気持ちを感じることがなく、なぜか違和感を感じ、別れてしまいました。 そんな中、周りはどんどん結婚し、出産していく。 自分はどんどん焦っていく。 それで以前の問いをさせて頂いたのですが、ずっと内にしまっていた気持ちには気付かず。 ふと、最近気付きました。 私は、女性が好きな同性愛者なのかもしれないと。 それに気付いたあと、絶望的な気持ちにしかなりませんでした。 本気で好きになる人はいつも女性のため、好きな人と結婚することや子供もつくれない。 周りに自分は同性愛者と言うことを打ち明ける勇気もありません。 どんどん気持ちは内にこもるようになり、しまいにはなぜこの先結婚も出産も出来ないのに、生き続けなければならないのだと思い詰めるようになっております。 この気持ちのやり場がなく、とても辛い日々を送っております。 同性愛者は、どうやって生きていけばいいのでしょうか。

有り難し有り難し 108
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仏教と神道

 こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。  私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。  しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。  なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。  浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。  お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 47
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死にたい

前回質問した時 生きがいは後から見つけるものと教えてもらったのですが結局見つかりませんでした まだ若いからそんなに早く見つかるわけないと思うかもしれませんが、今生きている理由が欲しいです というのも自分は周りにお道化て接していて 知らないうちに本当の自分ではない 所謂もう1人の自分のようなものが生まれました 前までは特に気にならなかったのですが 高校に入り、彼女ができ、 一年過ごし、今、彼女と別れそうになっていて お互い精神が不安定で、相手はいいですが 僕はもう生きている理由が見つからず どんな趣味より死んだ方がずっと楽だと思います 死ぬことが芸術のように美しいとおもいます 人の血を見ると性的に興奮するほどです 自分の人格が壊れていく事が怖いです 周りの目が怖いです 完全なる第三者以外信用できないです 親にも本当の自分をみせられないです 自分でも本当の自分がどっちなのかわからなくなってきました。 もはや生きていないといけないとか、生きてさえいればどうにかなるとか、全然響きません。 でも心の何処かにまだ生きていたいと思うのかもしれません。こうやって質問する事で少しでも生きてみようとしてるのかもしれません。 もう生きるのに疲れました。 このまま苦しい人生を送るなら 死んだ方がましです 最近は自傷をしそうになり、 結局やめました しかし、自傷したい衝動が抑えられません。 ただ死にたいという感情だけが頭の中にあります。 寝ても覚めても死ぬことを考えています。 頑張れとか期待されると苦しくなります。 優しくされると死にたくなくなります でも優しくしてくれるのは かりそめの自分に対してで本当の自分ではありません。 そうしてかりそめの自分に触れた時死にたいとおもいます。そうすれば僕に関係した人の中にはかりそめの自分だけが残り、本当の自分になるからです そうして本当の自分を消してしまいたくなります。 無意識に嘘をついてしまって 直せません。 何度も直そうとしても そのたびに嘘を重ね、自分の首を締めています。 生きている事がそんなに偉い事なのでしょうか 死ぬのは本当に悲しいことなのでしょうか じぶんには死ぬことは名誉だと思えてなりません この悩みについてお坊さんの意見が聞きたいです。 めんどくさい人間ですいません。 こんな質問困りますよね…

有り難し有り難し 96
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地獄について

お世話になりますm(  )m 今臨死体験の本なども読んだり ネットでも見たりするのですが 地獄についてどう思われますか? 私は地獄があってほしい派です 世の中には人を平気で苦しめて 平気でいれる人がいます まさに悪魔そのもので 自分には理解できません 極端な話がテロリストなど イスラム国の人達など あのような残虐な事が平気で出来ることが 本当に信じられませんし あのような事を平気でしてきた人達が 何の裁きも受けないのはあり得ないと 私は思います 同じ人間なのに どうしてあのような事が出来るのでしょうか 私は悪いことをすれば 必ず報いを受けるべきだと望んでいます 完ぺきな人間はいませんから 多少の悪は仕方がありませんが そうゆうレベルではなく もう「 死んでしまいたい 」と その人をおとしめてしまうような 詐欺だったり、泥棒だったり 苦しむことを平気でやった人に対する思いです 殺人は相当に罪が重いと 私は思います しかしネットで見たのですが 地獄は存在しない 人はみな天国へ行く どんなに悪いことをした人でも 天国へ行くと書いてありました ( 死後の世界や天国は信じる方ですが 地獄は存在しないと言われる方です ) と書かれているのを見て そんな訳はない!!と 思いました、納得できません 今自分が読んでいる本( 臨死体験の本です、カールベッカーさんの本です )には( まだ読んでる途中ですが ) 地獄が存在すると書かれてありました ( 臨死体験された方が見てきた ) 鬼の様な人たちがいて その人?により そこに拷問を受けて 苦しんでいる人たちがいた  と書かれてあります グロテスクではありますが 散々悪いことをしてきた人たちには この様な裁きを受けるべきだと 私は思っています!! お坊さんはどう思われますか? よろしくお願い致します

有り難し有り難し 159
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仏教徒に対する疑問パート5

お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?

有り難し有り難し 81
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仏教の「助け合い」

先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。

有り難し有り難し 244
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