昨年秋に兄を突然亡くしました。今年は兄の一周忌があるのですが、実家は遠方にあり、コロナ禍で高齢の父母がいるため、実家での一周忌の参加を断念することにしました。 命日にはそれぞれ自宅でお経を読んで故人を偲ぼうということになりましたが、兄には私が住む地方に来るたびに訪れる寺院がありました。実家の宗派とは異なるのですが、兄が大切に思っていた寺院で、生前は私や甥のためにお守りをよく買ってきてくれました。 できれば、その寺院で個人的にお経をあげてもらえないだろうかと思っているのですが、宗派も違うためどのようにお願いしたら良いかわかりません。また、その寺院は鬼子母神を祀っており、普段は御祈祷など行なっているようなので、このような個人的で小規模が供養をしてもらえるかわかりません。 無理して、お願いせず自宅で偲んだ方が良いでしょうか。仏事に疎く、ぜひお教えいただきたいと思っております。どうぞよろしくお願い致します。
先祖供養をしたいのですが,実家にも自宅に仏壇はなく,菩提寺やお墓も遠方にあり,なかなか出向くことができません。費用や部屋の狭さなども理由で,自宅に仏壇を置くことは難しいです。 そこで現在,カラーボックスの上に場所を作り,線香とお菓子をお供えして,手を合わせております。本当はきちんとお経も上げたいのですが,こういった中途半端な行為はよくないのでしょうか?
家族に新興宗教の集会に連れて行かれ、幹部に浄土真宗の信仰をしようとしているという旨を話され、幹部に浄土真宗などという最低な教えをやる必要はない。枝葉の教えである浄土三部経などではあなたは救われない。と言われてしまいました。 挙句の果てにはお釈迦様などより新興宗教の教祖に従っていればいいなどと言い出す始末です。これは仏教ではありませんよね?そんなことを言われ私は何も言い返すことができませんでした。 私は親鸞聖人の現世利益和讃などを読んでも分かるように浄土真宗にも現世利益はあると思っていますが、間違っていますでしょうか? また、浄土三部経でもお釈迦様が説かれたのですからちゃんと仏にならさせていただけると思うのですが間違っていますでしょうか? また、今度集会に連れて行かれた場合、どのように言い返せばいいと思いますか?本来仏教徒であればこういった言い争いがなるべくしないほうがいいと思うのですが、浄土真宗のことを侮辱されたようで悔しいのです。どうぞお知恵をお貸しください。
とあるお寺の檀家です。結論から申し上げますとタイトルの通り、初めて集会に参加する時の心得やマナーなどお答えいただければと思い相談します。 散歩をしている時に偶然見かけ、気になって調べてみたところ毎月一回開催されていることが分かりました。いつも閉じているお堂をその日だけ開放し、皆でお経を読んだ後ご住職のお説法を聞くという内容です。 少し聞いたお話がとても面白く、もっと聞きたいと思い参加しようとしましが、勇気が出ません。お金はどれほどいるか、数珠や経本は必要か、見た感じご年配の方が多く浮くのではないかと心配になりました。 ご住職に直接伺ったところ、お金や道具は特に必要ありません、いつでもお越しくださいとの暖かいご回答をいただくことが出来ました。ではそれで解決したではないかと思われるかもしれませんが不安で仕方ありません。 それは建前でやはり払わなければ失礼ではないか、自分のような仏教をあまり知ず信心深くもない人間が来てもいいのかという思考に囚われ、わざわざ休みを取っていったにもかかわらず引き返すことを3年くらい繰り返しています。 案ずるより産むが易し、とはよく聞きますがとても敷居が高いです。一緒に行ってくれるような友達や家族はいません。ですが一回くらいは死ぬまでに行きたいと考えています。 このようなくだらない質問で申し訳ないのですが、ずっと悩んでいます。お坊さん方は行事の際どのようにされてるか率直に聞きたいと思い書き込みました。
初めて質問させて頂きます。宜しくお願いします。 先日、大好きだった母方の伯父が事故の為亡くなりました。 私は、早くに父を亡くしていて、父のように私達兄弟を可愛がり、私に子供が産まれてからも、本当の孫のように喜び可愛がってくれました。 そんな伯父が突然、仕事中の事故で亡くなりました。あまりにも突然で、また納棺師の方々のお陰でとても綺麗にして頂いたのですが、叔母も憔悴しきるほどの酷い状態だったようです。 また今も捜査中ではありますが、怪しい部分も多いにも関わらず、事故の責任を全て伯父のせいにされそうになっています。 伯父伯母は長男ではありませんでしたが、長男に代わり父母(私からしたら祖父母)の介護が必要な中、ずっとお世話をしてきて、祖父母が亡くなった後も、それはそれは供養も本当にかかすことなく誰よりも祖父母の供養もきちんとされていました。 そんな伯父のこのような死に、私自身悔しくて仕方ありません。 確かに、口が悪く破天荒な部分もありましたが、誰よりも情が深く人情味がある伯父でした。 母も突然このような事になってしまい元気がありません。 伯父は何故このような死を遂げなければいけなかったのでしょうか? 悔しくて悔しくてたまりません。 また、憔悴している伯母や母をどうしたら元気にしてあげられるでしょうか? 宜しくお願いします。
死んだらどうなるのでしょう? 最近そんなことを考えて怖くなる時があります。 私は仏教が好きなのですが、実際自分が死んだらどうなるのか不安になって怖くなる時があります。 何もしないと死後はどうなるのか? 修行をしたら死後は変わるのか? 死後にお坊さんにお経をよんでもらったらどうなるのか? とても不安です。
読んでいただきありがとうございます。 我が家は真宗大谷派です。 今までずっとお坊さんに来ていただいていた祖母の月命日の法要を、このコロナ禍により中止させていただいています。 まとめて1年分のお布施だけお渡ししております。 今は、月命日の法要の代わりに、家族がそれぞれ好きな時間に仏壇にお参りしている形です。 しかし、来月で祖母の七回忌になるため、困っています。 お坊さんには来ていただかずに、家族だけでやろうと思っているのですが、どのような事をしたらいいのでしょう? お経はYouTubeの動画を流そうと思いますが、真宗大谷派の七回忌では、どのお経を唱えるのが正しいのでしょうか? 真宗大谷派では、追善供養という概念が無いから、あまりこだわらなくてもいいといも聞きましたが、私としては祖母の七回忌を何もせずに過ごすのは何となく嫌で…。 ご教授いただければ幸いです。
初めて質問します。 私は宗教に興味を持ち、勉強したいと思っています。 しかし、大学の専攻として仏教を学びたいわけではなく(他に学びたいことがあるので…)仏教の考え方を知りたいと思っています。 そこで欲張りではありますがいくつか質問させてください。 ①仏教はいろんな宗派があると思うのですが、それぞれで考え方は大きく変わるものでしょうか。もし変わるとしたらどの宗派を学べば良いのですか ②私はお経は南無阿弥陀仏しか知らないのですが、お経の解釈は独学でもできるものですか ③お寺などで仏教について学ぶことはできますか。やはり僧になる人でなければだめなのでしょうか ④結果手始めに何から学べばいいのですか 以上四つの質問です。ネットで検索してたら他の方の質問の回答もあって見てみたのですが、よくわからなかったので質問させていただきました。 だいぶ欲張ってしまったような気がするのですが、どうか回答よろしくお願いします。 また言葉遣い等失礼があったら申し訳ありません、今後気をつけるようにするので教えていただけるとありがたいです。
大般若理趣分の理趣分とは何なんでしょうか。 たしかに大般若理趣分の文中に「般若理趣~」とありますがそれが関係しているのでしょうか。
毎回相談させていただくたびにありがたいご回答を賜り、本当に本当に感謝しております。 毎日夫とともに朝晩仏壇に向き般若心経を唱えています。 私はお経を唱えるとき、精神というか意識が100%完全にお経に集中できていません。 夫が般若心経を読む脇で手を会わせるのがいつものかたちですが、私は亡き娘を思いながらなので生前の娘のあれこれが頭に浮かんで、 娘との面白おかしかったことを思い出したり、仏前に備えてある供花に目がいけば、花がいたんでるから取り替えなきゃいけない→どこの花屋にいこうかな→そういえばいつもいくあの花屋は…などといろいろなことが頭に浮かんできてしまい、 そうしている瞬間は、仏様に気持ちを向ける大事な時であるのはわかっているに、集中できていないということで、 これでは仏様に失礼で供養になっていないのでしょうか。正しく向き合う姿勢はどのようにあるのでしょうか。ご教示いただき改めたいと思います。
私の家は浄土真宗です。 とはいっても祖父が浄土真宗のお寺の檀家、二男の家の子の私はお盆や法事の時にお寺に行く程度で、熱心なわけではありません。 ただお寺等は大好き、旅行が趣味で、神社仏閣や宗派に関係なくお参りしています。 最近写経に興味を持って少し書き始めたのですが、浄土真宗では般若心教の写経は行わないということを知りました。 願文に先日亡くなった祖父の供養を書いて納経したかったのですが、良いのでしょうか? 宗教的には無効でも個人的な気持ちの問題として行いたいのですが、それが故人や阿弥陀様に対して失礼にあたらないかが心配です。 祖父と一緒に旅行に行こうと約束していたことを果たせなかったので、できればこれから色々な旅先で納経したりしたいと考えていたのですが・・・。 何卒ご教授ください。
葬儀が無くて暇だと住職が愚痴って来たので 葬儀が無いと言うことは今日は悲しんでいる人が居ないということで良いことではないのか? と聞き返したところブツブツ言いながら去って行きました。 こういう態度は人の不幸を食い物にしているようで気分悪いのですが 皆さんどう思われますか?
こんばんは 思いわずらうな。なるようにしかならんから、今をせつに生きよ というのは仏陀の言葉なんでしょうか? また 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 とはどういう意味なのでしょうか? よろしくお願いいたします
来る7月に母の一周忌の法要を行う予定です。その際に 26年前 同じ7月に亡くなった父にもお経をあげてもらうことは 失礼(お寺さんにも 両親にも)に当たらないでしょうか?また、お布施は当然 二人ぶんを用意するのが常識でしょうか。お寺さんは真言宗で 50年お世話になっております。どうか 御教示いただければ幸いです。
人生相談ではなくて申し訳ありません。 お許し頂ければ、ぜひお伺いしたいのですが、お勤め以外の時間はどのように過ごされていますか? 何か趣味があったりするのでしょうか。 それとも、やはり仏教を研究していたり、お経を読んだり、座禅を組んだり、してるのでしょうか。 ちなみに、私は写真が好きなので、時間が出来るとあちこちのお寺へ行き、写真を撮らせてもらっています(´∀`*)
お寺にいらっしゃるお坊さん… 呼び方は、和尚様がよいのか御住職がよいのか教えてください。 また、これから写経をしてみたいと思っているのですが、何から始めたらよろしいでしょうか? また、お寺、宗派により、お経は違うものなのでしょうか? 何も知らず、お恥ずかしいですが、ご指導いただけると幸いでございます。 よろしくお願いいたします。
過去に犯した 不邪婬は 許されますか? 償う方法は ありますか。 あと お経や 仏教の本 写経したもの ご本尊を 故意に 破壊したり 捨てたりすることは 五逆罪に 当たりますか。 罰は ありますか? 償い 許される方法は ありますか? 教えてください。
こちらのサイトでお返事をいただいて思ったこと。 棚経は毎年日時が決まっているのでは? お願いしているお寺さんから 今年はいつが棚経で、という連絡は墓守を受けて一度もありませんでした。 年間行事の予定というのも教えてもらった事がありません。 墓前法要はハガキで連絡が来ますが棚経の日程は毎回空欄のままで、返信のハガキに塔婆のお願いと棚経のお願いを書いて返していました。 墓前法要当日まで連絡なくて、墓前法要後にお寺に棚経の事を聞くと「連絡する」と必ず言われて連絡ないままと言うのがいつもの事。 今回も名刺が入ってて連絡をした際、お寺側から「連絡わすれてた」と。 改めて日時をお寺に指定していただいていた当日も施餓鬼法要が午後に、と電話で言われましたが、盂蘭盆墓前法要のハガキには施餓鬼法要は墓前法要の前日日で記載されていたのでその日に施餓鬼法要があった事もその電話で初めて知りました。 元は義祖母が檀家だったのでお寺からも家が近かったようなのですが、孫である旦那になり引っ越しもあったのでお寺からは同じ市内ではありますが区違いになり、いま住んでる近隣にはお寺の檀家さんがいないというのは引退された住職さん(義祖母と繋がりが深い方と聞いてます)に仏壇開きの時に聞きました。 それもあってお寺の都合もあるだろうから、日時をお寺から指定していただいてのがいいのかな?と思っているのですが…。 日程も教えてもらえず、聞いても連絡するで終わって連絡もない(忘れられる)。 それが当たり前なのがお寺なのでしょうか?
ってなんですか。 私の場合、親が許可してないのに黙って食べたり、それがばれて怒られる 今度は、黙って食べた分体重の倍を走ることになる。そして付き添ってる父は、仕事後なのに疲れる無駄な時間だなと。ダイエットのランニング体重の倍を走るという罰になりました。父は、仕事で疲れてる中私と一緒に付き添っていました。私は、ダイエット中夜ご飯は、食べないと決めてました。母も一緒に頑張るといって、やろうとしました。父も、お前が食べないなら俺も食べない。その意味は俺が食べて、お前だけ食べないのは、かわいそうだから。ということで食べませんでした。なのに黙って食べて嘘をつきました。母は、疲れてるだろうからお弁当を作るよ。といって作ってました。夜中黙ってヨーグルトを食べてることを知ってしまった両親はものすごく怒ってました。裏切ったな!と。。。 私のいけないところやったのにやってないとか人の気持ちを考えないところです。嘘つく、ごまかす、先伸ばしにするをやっていて最近そればかり怒られてます。母は、お父さん、お母さんのいろんな思いを踏みにじったといってました。 なかなか自分の本当にいけない部分を直らない。
先日 お寺で法話を書かせて頂いた時に(お寺は浄土真宗本願寺派です) 阿弥陀経のお話で、極楽浄土はどこにあるという内容でした。 阿弥陀経のなかに「從是西方 過十万億佛土」とあるように、「これより西方に、十方億の仏土を過ぎて」と略されます。 しかし、親鸞様は「西方を安心出来る場所、帰る所」「過十万億仏土を他の十万億仏土より優れている」と略されたと聞かせて頂ました。(「過」は「超勝」という意味で、現代語だと越え優れている) この極楽浄土を「他の十万億の仏土より超え優れた安心出来る場所」というのは、親鸞様のどの書物に書かれているのでしょうか? ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授頂ければ幸いです。 すいません、その御法話の時に講師の方に質問すればよかったのですが、家に帰ってお話を思い出していたら気になってきました。 私の記憶違いで間違いがあるかも知れません。申し訳ありませんが、宜しくお願いいたします。