天涯孤独な老後が心配です。 心を許せる友人も恋人もいません。そしてなにより、両親が大好きです。 結婚はおろか付き合いたいと思ったことすらありませんが、いずれ結婚して子供を産んで、と漠然と思っていました。 しかし出会いもなくネットやアプリは怖い、となれば今更結婚できる気も、体調的に子供を産める気もしません。 また、大好きな両親がいなくなってしまった時のことを考えると昼は何も手につかず夜も眠れないほど辛いです。 辛い時に支えてくれる人もなく誰にも頼ることのできない、天涯孤独の老後が心配で仕方ありません。 両親は私の心の支えです。 特に母は面白く明るい性格のため、母がいるとその場が明るくなります。太陽のような存在です。同じゲームもしています。 母がいない部屋がどれだけ静かになってしまうのか、想像しただけで寂しいです。 また両親に結婚相手を紹介したり孫に会うという世間一般での普通の経験をさせてあげられないことが申し訳ないです。 今のところ老後の支えは、死後両親に会って今のように楽しく過ごしたい、ということだけです。 死後なので過ごす、という表現は違うかもしれませんが、両親にお迎えされ同じ場所へ行き一緒にいたいのです。 そこでお尋ねしたいことは、 1、死後両親と再会し共にいられますか? 恐らく私は孤独死してしまうと思うのですが、それでも両親に会って一緒にいられるでしょうか? 2、色々調べている中で未練があると成仏できないとありましたが、もし両親か私がお互いが心配で成仏できていなかった場合、私の死後両親と会って共に成仏?再会し一緒にいられるでしょうか? 3、もし両親や私が認知症になってしまって生前お互いを認知できなくなってしまっていた場合、死後お互いを認知できますか?両親と再会し一緒にいられますか? 私はとにかく死後も大好きな両親と一緒にいたい、それだけです。 会える、一緒にいられるのなら天涯孤独で寂しくてもそれを楽しみに生きていけるような気がします。 若いうちから今後や老後の心配して今を楽しめていない自分も辛く、勝手にうつになりそうです。 どうか今の私を救ってください。よろしくお願いいたします。
今月から1人暮らしが始まったのですが、霊現象のようなものがあって怖くて寝れません… 夜になると玄関ドアをノックする音、ドアノブをガチャガチャ回す音が聞こえます。 簡単な除霊方法があったら教えていただきたいです。 寝れなくてとてもつらいです。 よろしくおねがいします。
今はそれなりに平和に生きています。衣食住に困ってもいないし、まだ戦争に巻き込まれているわけでもないと思いたい。世界的に見ればものすごく贅沢な生活をしていると感じています。だからこそ、この生活が終わることを恐ろしく感じ、また、今の生活を続けることに罪悪感もあります。 人間でも、自然界でも、未だに殺生は行われ続けています。私も肉や魚を食べることだってありますし、コーヒーやチョコレートを口にすることだってあります。けれど、これ自体が何かへの加害、搾取であることも事実です。電気や水を使うことは自然破壊に繋がります。けれど、この生活を誰かに明け渡せと言われても拒否してしまう浅ましさがあります。 今の生活は何の根拠も無しに何故か成立している宙ぶらりんなもので、ちょっとした間違いで崩れ去ってしまいます。そして、世界的に見ればそのバランスは日に日に悪くなっているように思います。終わるかもしれない生活、何かを傷つける生活を続けるのが怖いというのに、どうしても、今の生活が続くことを望んでしまいます。 安心して生きていたいだけだけど、自然界で天寿を全うできる生き物は少数派なのだろうという現実、解決策が見つからず悪い方へとばかり進む人間社会、オカルトな視点から破滅的根拠ばかりが積み重なる7月5日(都市伝説、占星術、仏滅)。これらが重なり、今になって自分の命と生活を惜しんでしまいます。 生物の命や感覚や自我を作り出しているのは、脳味噌や神経などの生体反応でしかありません。つまり、例え死んでもまた物質世界のどこかに生まれてしまいます。それが恐ろしい。死よりも、死に至る苦痛が恐ろしいのです。 要約すると「未来が怖い」ということになるのでしょうか。全てを忘れて自分の生活に集中していれば心は楽ですが、それは正しいことではないように感じられる。かといって、自分の全てを投げ打って他者の為にだけ生きる正しさを実行する勇気もない。そして、いつかはどう足掻いても残酷な流れの中に放り込まれる。それはこの命のうちかもしれないし、この命が終わってからかもしれない。けれど、いつか必ずそれは起こる。極楽浄土が本当にあればいいけれど、人間が発生する前、恐竜の時代にも極楽浄土はあったのでしょうか。 とりとめのない文章になってしまい申し訳ありません。解決策などないことも知っています。世界は信じるに値しますか?その根拠は?
こんばんは🌃 数日前に、「霊感の強い息子について」 で相談させて頂いた者です🙇 先日、無事に四十九日法要を終えて、 毎日お仏壇に手を合わせております。 息子たちには、「おばあちゃんの心が この中にあるんだよ」と本位牌に向かって手を合わせるよう、今日始めて祖父の家に来たんですが、お仏壇の部屋に入った瞬間息子が、「あ、おばあちゃんが居る」と言いました。 「え?次の世界に行ったんじゃないの?」と聞いたら、「様子を見に来たんだって」と答えました。 ちょうど、四十九日か1日前に祖父宅へ行ったとき、息子は「おばあちゃんいない。何も感じない」と話したので、てっきり次の世界に旅立ったと思ってたので、今日お仏壇の前に居ると聞いてびっくりしたのと、何故か嬉しい気持ちになってしまいました。 息子(長男)は、祖母とコンタクトとる事が出来るので、今日私が次男を叱った事を祖母に話したみたいで、「あんまりしかりなさんな。○○(私の名前)の家の事はちゃんとみてますよ」と言われて、 身の引き締まる思いをしました。 祖父は、このような霊的なものを信じないので、「あんまり良くないから、やめなさい」と言われるのですが、長男が普通に見えてしまうのでどうしたら良いのか迷ってます。 私も母が亡くなってから四十九日間、 台所やリビング、息子達と寝ている和室等で、ふっとお線香の香りを感じてました。 そのたびに「あ、おばあちゃん今ここにいるんだな。様子を見に来てるんだな」と思って過ごしてました。 これから、どのように過ごして行けば良いのか?良きアドバイスがありましたら 教えて頂けますよう、よろしくお願いします🙇
いつもアドバイスをいただくことができて頭でまとめてます。ありがとうございます。アドバイスいただいたことをちゃんと心にとめています。ですが落ち着かないときにまたご相談させてもらっています。同じようなことを何度もすみません。色々なお話しを聞かせていただいてその都度強くなろうと受け止めているのですが弱い自分になってしまいます。頭に何度も心にこれからもよろしいでしょうか。きちんと聞いてます。すみません。
結婚14年目の寺嫁です。 結婚して数ヶ月後に女の子とデート約束のメール発見。飲み屋の子とふざけてのメールと言い訳。 結婚五年目頻繁に会ったり旅行したりの浮気。 こちらは離婚を申し出ましたが 頑張ると言われて今回だけと許しました。 そして今日出張だと思っていたところ 37歳の女の人と旅行中という事が 分かりました。 僧侶としてはお檀家さんからは信頼され 優しくて、何でも出来ると評判。 お寺では義父(住職)と喧嘩ばかり 寺の仕事も中途半端、家庭の事は何もせず、自分中心。 義両親は旦那の事を二重人格だと言っています。 今回の浮気はもう許せず、子供を連れて離婚をしたいのですが いつも私の事を考えて大切にしてくれている義両親は、旦那を追い出して 私にはずっとこのまま ここに居たらいいと言っています。 そんな事が可能なのでしょうか?
人生の3分の2を海外で過ごした私ですが、 日本人として日本で生きていきたいと思い、 帰国して6年が経ちます。 最近代々続く浄土宗のお寺のお坊さんを好きになりました。 私もそろそろ落ち着きたい年頃なので、結婚なども考えますが、 やはり帰国子女はお寺に嫁ぐのは難しいのでしょうか。 彼は私にとって初めて「帰国子女である私が日本に必要な存在だ」と 言ってくれた人です。 彼はまだ知りませんが、1度日本に帰国し生活しようと試みた時、 馴染む事が出来ずに心を病みました。 10年経ちますが、今でも薬を手放せません。 そんな私が自分なりに日本での生活で少しでも 何かを残せたらと思い生きていたので、 彼のその言葉は、本当に感動的でした。 色んな人に出会いましたが、お坊さんである彼は 「ありのまま」を受け入れてくれるような、 そんな空気を持っていて、安心します。 ただ、私は日本の風習などを今まで自分の生活の一部に していなかったので、やはり不釣り合いなのかなと。 彼はともかくご両親や檀家の方々などは、 どう思われるのだろうかとか、 気にしてしまいます。 お坊さんである皆さんは、帰国子女について どう思われますか? 特に気をつけなければいけない事など がありましたら 教えていただきたいです。 よろしくお願いします☆
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。