自分が死んでも誰も困らないのではないかと考えるのがつらい
常日頃、気分が落ち込んでいる時は勿論の事、楽しい事をしている最中などでも「自分が死んでも誰も困らない」「むしろ自分が生きているよりも生きていない方がみんなはメリットがある」「だから自分はみんなから死んでもいいと思われても仕方がないし、殺されても文句が言えない」と考えてしまいます。
これを両親や知人(友人と言うのは相手に失礼な気がするのです)に言うと「死ぬだなんて言うな」「貴方に死なれると哀しい」などと言われます。泣きながら言われた事もありました。それが嘘だとは思いません。ですが客観的な認識として、自分がいなければ自分という存在がかけている負担(肉体的・精神的なものから金銭的なものまですべて)が存在しなくなります。自分に関わっている時間やリソースをもっと他の人やものに費やせる訳です。社会的に見れば切って捨てるべき人材です。
また、私が死ぬとメリットがあると考える理由のひとつに「自分が関わって起きてしまう出来事を阻止できる」事が挙げられます。例えば誰かが機嫌を悪くしたり、電車が遅延したりした際に、自分が関わっているという証拠も無ければ、関わっていないという証拠も無い訳ですから、逆説的に自分が全ての主犯であり死ぬべきであるとも考えられるわけです。
繰り返しになりますが、自分が死んでも誰も困らない筈です。例えばこの書き込みは自分がいなければ投稿されることはありませんが、なかったところで誰の得にもならないのです。
これは現実的な見方であり、自分はきわめて冷静に・理性的に判断していると思います。
しかし、どうにもそういうことを考えると、当然であるという認識と同時に酷い寂しさに襲われるのです。
自業自得なのはわかっていますが、毎日のように考えてしまい辛いです。
有り難し 59
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