宗教は自分の考えで選ぶ事が出来るのでしょうか? ある人から創価学会への入信を勧められています。 私の実家は禅宗です。違う宗派の家に嫁ぎましたが離婚しました。 この場合、実家の宗派に戻るのか?新しく自分で選ぶのか?判りません。その家に伝わる宗教は先祖と自分を繋ぐ絆のような気がするので新たに自分の代から変えるのは不安です。 自分で抱えきれないような悩みがある時,人はどうして乗り越えていくのでしょうか?
私は仕事の関係で、中国や韓国の方々と接する機会が時々あります。 中にはあまり友好的ではない方もいます。 彼らが日本の悪口を言う時や、ニュースなどで反日運動を目にする時などは非常に腹が立ちます。 しかし一方、最近ネットなどでよく見かける極右的な意見には賛同できません。 あまりにも極端なコメントを見ると背筋が凍るような悲しい気持ちになります。 教育現場などでも取りざたされているように、健全な愛国心を育てる事は必要なのかもしれません。 しかし私自身も恥ずかしながら愛国心をどのように表現するのが良いのか戸惑うことがあります。 仏教的な観点からは「愛国心」をどのように捉えるべきなのでしょうか? 愛国心をもつことは望ましいことではないのでしょうか? また、中国や韓国の方々の非友好的な態度に接するときは、どのように対応するのが良いのでしょうか? 是非ご意見を拝聴させていただければと思います。
現在退職を考えています。 理由は、勤務シフトに暮らしがついていかず体調不良が続いていることと、休憩中の受動喫煙が辛いということなのですが、甘いでしょうか? 職場は、勉強出来る環境ですし、業務内容やスタッフに不満はありません。 2交代制のシフトなのですが、遅・早・遅・早となるのについていかないのです。 始発で出勤して終電で帰宅するような激務の人もいるんだぞ!と言われればその通りです。 帰宅が遅くても朝がゆっくり出来たらいいじゃないか!と言われても当然なのですが、帰宅が遅くて夕ご飯が食べられないのが何よりのストレスなのです。 休日にたくさん作って冷凍するなどの努力はしていますが、足りません。 元々同年代の人に比べて食事の必要量が多く、いわゆる痩せの大食いです。すぐに底をつきてしまいます。 コンビニの弁当やカップ麺など便利なものもあるだろうといわれるかもしれませんが、 そんな粗末なものを毎日食べても食事の多幸感が無く涙が出ます。 手作りの健康的な食生活を送っていて、たまにジャンクフードを食べるからそれが美味しく感じるのです。食費は浪費するのに、食事内容が不幸であるなんて、不幸以外の何物でもないと最近は感じます。 好きな仕事をしているのに、仕事のために自分の暮らしを犠牲にしている被害妄想が激しくなってきました。 栄養状態が悪いので貧血になり、休憩室の受動喫煙も頭痛に拍車をかけます。喫煙者は上の人ばかりなので誰にも言えませんし、鼻をタオルで覆うなどのあからさまなことは嫌味になるので出来ません。 けれど、お昼休みにまで外で食事をしていてはお金がもちません。 今のところ、貧血と頭痛・吐き気・舌の痺れ・疲労くらいの症状なのですが、病院でもらった薬を飲んでいても改善していません。痛みは強くなっています。 これ以上長く続けたら本当に体を壊すと思っています。 社会人として体を壊すまで働かないと、甘えによる退職になるのでしょうか。 症状を文字で羅列しても、「そんなんみんな一緒や。みんなしんどいねん」と言いたくなるようなものでしかありません。 今は、同じ業種のほかの会社から「うちに来たらいい」と言ってくれてるところがあるので、 いろいろと考え込んでしまい、結果そちらに転職したい気持ちが強くなりました。 でも、自分の退職理由がただの逃げな気がして、何とも表現しがたい苦い思いです。
先日、相談させてもらったものです。また相談させて下さい。只今、妊娠10ヶ月、逆子で明日に帝王切開する事になりました。こんな大事な時ですが、もう母と絶縁したいです。理由は、逆子になり帝王切開する事になったと伝えた時は手術当日も病院に来る気満々で、身の回りの世話もすると言われました。しかし、今日になって「手術直後だし行っても意味がない」「結局、旦那さんがいれば良いんじゃない?」と言われました。あり得ないほどの自己中ではないですか?母は夜勤もある職業で、手術当日も夜勤です。しかし最初は「夜勤前でも行く!大丈夫だから!」と張り切ってました。いきなりめんどくさくなったとしか思えません。さすがに手術前日で我慢の限界で、「もういいです。」と電話を一方的に切った後、メールで「明日来なくて良いです。産まれても連絡しないし、このメールの返信もいりません。」とメールしました。出産後、実家に帰る予定でしたが、帰る気もないですし、もう会いたくもないです。私の考えはおかしいですか?
(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?
私はよく自殺についてネットで検索をしてるのですが、 自殺をすると地獄に落ちますよ! という投稿をしばしば見かけます。 自殺=自分を殺すことと同じ、つまり人を殺したも同然なので地獄へ行くというのです。 特に知恵袋などで多い気がします。 それで自殺防止になるならいいのかもしれないけれど... でも病気などで自殺する人もいるじゃないですか。 私は統合失調症ですが、幻聴に耐えられずその声に従って自殺したというケースもあるみたいです。 それで地獄に落ちるなんて可哀想だと思います。 自殺したら地獄に落ちるのですか?
ここで一度お世話になり、仏門に興味が湧き 元々、下手なりにも書道を趣味としていたのもあって 写経を始めてみようかと思っていました そうした話を友人、知人に話していたら タイトル名のようなことを言われました 知人によると、お経と言うものは修行を積み 徳を重ねた人が唱えることに意味があるのであって 素人がむやみやたらと、お坊さんの真似をするのはやめた方がいい まして写経なんて、なにかおかしなことがあってもおかしく無い程の やってはいけない行為だと言われました 書店では、初めての写経と書かれた本もたくさん見かけます 宗派によって考え方が違うのでしょうか 私の家は曹洞宗のようですが 自分自身、仏教徒ではあると思います。 と言うより、それしか知りません キリスト様より、お地蔵さんの方が気軽に挨拶できます 写経って、やはり辞めておいたほうが良いことでしょうか
都内で医師として働いています。 まず勤務時間が長いです。 朝7時までに出勤、休憩は昼食の時間が15分程度(休みなし食事なしの時もあります)、退勤は平均して21時くらいです。早いと19時半、遅いと日付過ぎに仕事が終わります。 月4回程度当直で夜中働いた後、翌日も通常勤務です。 家に帰っても、職場から電話が来ます。土日は8時に出勤して17時頃と、平日より早めには帰れますが、基本的に職場に行かなくていい日はありません。2-3ヶ月に1日、上司の配慮で丸一日休めています。 責任も大きいと感じます。 どんな仕事でも勿論責任は生じると思いますが、ミスすると命に関わることもあるので、心の負担は大きいです。 いつ緊急で職場に呼ばれるか分からないので、遠出もできません。 患者さんに感謝されることはあまりないです。感謝されるために働いているわけではないのですが。 痛い処置や苦しい処置などをする際、文句を言われたりすることもあります。こちらも申し訳ないと思いながら患者さんの状態を良くするためにやっているので、辛いです。 自分で選んだ職業で、給料もそれなりに頂いているので、不満はないです。厳しく怒られることは頻繁にありますが、上司は筋の通った人達で、理不尽なことはありません。 しかし最近、気持ちに余裕がなくなってきています。 死にたいとは思いませんが、こんな働き方していたら死ぬんじゃないか、と思ったりします。 私は女性ですが、生活が不規則だからか月経もなくなりました。最近は疲れて帰宅してお風呂に入るのも面倒です。 一方で、上司からは、私くらいの年代だった頃はもっと忙しく働いていたと言われます。 確かに、一人前になるにはもっと頑張らないといけないとは思います。 辞めたいという気持ちはなく、なんとか心を強く持って仕事を頑張ろうと考えています。 恐縮ですが励ましの言葉などいただけると頑張れそうです。 よろしくお願いします。
日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。
こんにちは! 素朴な疑問なのですが、いつもお坊さんはずっとお寺にいるイメージなのですが、お坊さん同士の交流や横のつながりはあるのでしょうか? 集会とかあるんですか?
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
私の姉のことで相談させてください。 姉は2人の息子を連れて20年前に離婚しました。その後専業主婦だった姉は一生懸命働き幸せを求めて頑張りましたが、思い通りに収入を得れず10年前に2人の息子を元夫の下に戻しました。現在子供達は元夫の戸籍に入っています。上の子供はその父と生活できましたが、下の子は父との対立から間もなく施設で生活する事になったそうです。息子を手放して毎日泣いて暮らしていた姉はこのことを知り元夫と公的機関に何度も息子との再会を頼みましたが許可されませんでした。姉は酒もギャンブルもしません。気弱なだけです。私もずっと2人の幸せを祈っていました。昨年末やっと息子達と連絡がついたそうで姉はホッとしていました。やっと生きた心地になれたのだと思います。再会は出来ませんでしたが手紙や電話で連絡が取れたらしいです。これから改善に向かうと願っていた矢先、先週下の息子の訃報が届きました。姉は再び絶望です。姉の下に今亡骸を預かっています。その事情から戒名もまだのようです。このような場合どのようにすれば子供は成仏できますか?何処に相談するのか教えてください。
結婚して同居した夫の実家は融通念仏宗(大念仏)の檀家です。 40軒ほどの自治会のほとんどが同じ寺の檀家で、自治会の班(組)毎に檀家会の役が回ってきます。5組あるので5年に1度の周期です。 これまでは義母が檀家会の役をしていましたが、高齢のため今年の役から私が担当することになりました。 春秋の彼岸、夏の施餓鬼、11月の如来さん、年末の大掃除など、ほぼ毎月行事があり、寺の内外の掃除やお坊さんや尼講の方への接待などに終日拘束されます。 行事によって夫婦で来るようにとか女性がという風に決められるので、完全に強制です。 私自信は大念仏を全く信仰していないにも関わらずです。 これは信教の自由に違反しないのでしょうか? 自治会と檀家会が一体化していることにも納得できません。 また檀家には家柄や過去のお布施の額で格付けがあり一覧表が配られます。キリスト教などでは考えられないことです。 考えすぎて体調を壊し、離婚や引っ越しも考える毎日です。 何とか近所の方とトラブルになることなく、個人的に檀家会から抜ける方法はないでしょうか。
先日の身体的弱者と出家の質問を書いていてふと思ったのですが、 重度の知的障害者というのは仏教のなかではどの位置にあるのでしょう。 重度の精神・知的障害者の方たちが僧職にはつけないことは理解できますが、仏教というものを私達の言葉・ものさしでは理解・表現できない、身体的・精神的に障害があるひとたちは、仏教徒にはなりえるのでしょうか。 仏教によって、例えば先ほどの浄土真宗の死後成仏し救われるといったような仏道の道というのは彼らにも開いているのでしょうか。
妻がいて、数か月後には子供も産まれます。 それなのに、他の女性に恋心を抱いてしまいました。 俗に言う、両想いです。 いけないと頭では理解しているのですが、どうしても気持ちに逆らえません。 どうしたら良いでしょうか??? もちろん妻のことも好きで、産まれてくる子供のことも嬉しく思っています。
こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。 素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。 実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。 このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。
躁と鬱と私と共に生きる西條るじん僧侶
和歌山の駆け込み寺・中田三恵住職
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