hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「親 お経 」
検索結果: 445件

自分を大切にするとは?

自分を大切にしなさいと言われました。 自分を大切にするとは具体的にどうしたらいいでしょうか? 自分の立場が悪くなるようなことはしない方がいいと、割りきることも大切だと、上司の言うことを聞いて仕事をしていれば、 「自分のために働いている」と責められ、 自分の思ったことを言えば、なんでそんなにこだわるのか、と責められる。 疲れているから休め、と言われるが、休んでいる余裕はない。 諦めれば楽になる、でも、諦めたくない 自分の体を大切にしろ、と言われるが、大切にする方法はどこにも書いてありません。 誰も教えてくれません。 自分の立場を守れと言われるが、お前は自分の立場を守っていると責められる。 心構えがないのは詐欺師だと。 人を信用するな、でも、信頼関係が大事だそうです。 自分の好き勝手やっている人は許されるが、 私が自分の考えを持てばそれは違うと否定される。 いろんな人から矛盾することを強要され もう壊れそうです。 もう誰にも迷惑をかけたくない。 両親にも申し訳ない。 諦めたくない、でも私はいったいどうしたらいいのかもわかりません。 考えがまとまりません。 自分を大切にするとはどのようなことですか。

有り難し有り難し 60
回答数回答 4

最愛のペットを亡くし後悔、懺悔

こんばんは。はじめまして。 今年の1月15日に大切な我が子を亡くしました。 あの子は私にとって大切な大切な家族でした。 なのに、あの子が生きている時はあの子が今生きていること、朝はおはよう、 夜はおやすみを言える事が当たり前になってしまい、あの子の気持ちを考えることもほとんど無く、何事も自分優先、あの子たちの事は後回しになってしまっていました。 就職で実家を離れてから一人暮らしになり、仕事から帰ってきたらすぐに出かけ、夜遅くになる事も何度もありました。 去年の11月頃から体調を崩し、良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。 体調が悪くなったら懸命に看護し、悪い間は生きた心地がしないほど心配で心配でたまりませんでした。 なので前日体調が悪そうな様子に気付いた時も、また良くなってくれると心から願っていましたし信じていましたが、それは叶わず翌日の18時58分頃息を引き取りました。 あの子が亡くなってなぜ病院に連れて行かなかったのか、なぜ今までこれで大丈夫だったから今回も大丈夫なんて思ってしまったのか、それ以前になぜ正しい知識をもっと学ぼうとしなかったのか、自分で自分が憎くてたまりません 私の保温不足が原因でした。 14日の昼、お昼休みに家に帰ったとき、元気そうで室温も高かったので、寒暖差がいけないと思いケージ内のヒーターを消して仕事に戻りました。 その後仕事から帰宅し、ただいまーと挨拶し、あの子が元気そうなのをチラッと確認しただけで、自分はお腹が空いたからとお菓子を食べたり祖母に電話をしたりして、あの子がまた体調悪そうにしている事に気づいたのが2時間後くらいでした。 あの子は寒さに耐えながら必死に生きてくれていましたが限界だったのだと思います。 どうしようもない後悔、毎日毎日後悔しています。 私が殺してしまったも同然。私が殺してしまったんです。 なぜ罪のないあの子が死に、大罪をおかした私が今この世に生きているのか、あの子は懸命に生きようとしてくれたのに。 明日で49日を迎えますが、後悔と懺悔、自責の念でいっぱいです。 死んであの子の元にいき、心から謝りたいです。 私にこの世で生きていく資格はないと思いますが 支えてくれている家族や今生きているペット達の為にもこの世で償いながら生きて行かなければならないという事もわかっています。 ですがどう償えばいいのか分かりません。

有り難し有り難し 35
回答数回答 2

世界が無くなれば良い

地球の寿命はあと50億年と天文学では言われています。 つまり今ある社会や生物等は全て無になります。無価値となります。 世界では毎日のように苦しい事が起きています。 それを否定してこの世界は楽しい!と言っても地球は消滅します。 世の中には嫌な事ばかりあります。 常に人類だけでなく昆虫も動物も生ある物全て絶滅すれば良いのにと思っていますがそれが50億年後には事実となります。 つまり無価値な世界で盲目的に何の目的もないままみんな生きて行動してるわけです。 私にはまだ寿命がありますが、この世界に貢献したい気持ちもありませんし、人に優しくする動機も気持ちも喪失しました。 何故かというと怒りがあるからと思います。 それは生まれてきたくなかったのに生まされてこの嫌な世界を嫌というほど体験してるからです。 でもそれは良くないという気持ちが出て苦しくなります。 それに他人に対して危害を加えても罪悪感が出るので全く他人には迷惑をかけずに生きてます。 しかし他人に危害を加えて儲けたり稼いだりする人が世の中には腐るほどいます、例えば不動○産業界とか人材派○遣等の企業は人を搾取したりしていますよね。他人を搾取して平気な人が世の中に腐るほど沢山いて、私は世界は滅びれば良いという気持ちがあるのに他人には危害を加える事すらできない弱者という気持ちがあり何にも他者に利益や貢献を与えられず危害を加えることも出来ずに生きて、この世界を恨んで怒りをあらわにしてるのが苦しいです。

有り難し有り難し 220
回答数回答 5

自分探しの旅について

私は2カ月前に大好きだった彼と別れました。 あの頃は、周りの方を大切に出来ず、彼に依存していました。別れた後このままではいけないと思い、自分の人間関係を見直しました。 最近になり、友達と遊んだり、趣味を楽しんだり、自分を変える努力をしてきました。 しかし、心は寂しく、不安や焦燥感があり、人と関わることに疲労さえ感じます。 私はもともと1人が好きで、人を信用していない一面があります。やはり、自分の根本にある性格は簡単には変えられない、人は簡単に変わらないという事を痛感しました。 今、私は、傍にいてくれる人、心を許せる人、愛しいと思える人がいません。 彼を失ってから、自分の存在意義や生きる目的はなんなのか、自分は何がしたいのか、何もみえなくなりました。 他人に依存せず、自分で何かを見出せる、自律した大人になりたいと感じています。 これからしばらく、1人旅をしようと思っております。今、四国の88箇所にも参っております。 自分と向き合い、自分を見つめ直すことを目的にしようと考えております。 考えがまとまっておりませんが、皆様の生きる知恵や自分とは何なのか、なんのために生きるのか、生かされているこの時間とどのように向き合っているのか、これから先の人生のために皆様のお言葉をお聞かせ願いたいです。 是非、よろしくお願い致します。 最後まで読んで下さってありがとうございます。

有り難し有り難し 65
回答数回答 5

南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 742
回答数回答 12

肉食妻帯並びに出家と在家の違い

日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?

有り難し有り難し 88
回答数回答 5