神道の教えの真髄は、中今主義だと最近知りました。中今の精神、「今に集中して今を生きることで道が開ける」。 理屈はとてもよくわかるのですが、いざ日々の生活に取り組もうと思うと、いまいちコツがつかめません。 神道の教えをお寺のお坊さまたちに伺うのはおかしいかと思いますが、 もしご存知でしたら教えてください。 「今に集中する」やり方、コツなど。 よろしくお願いいたします。
私には中絶という選択をした水子がおります。 お寺に行った際 慈母観音像やお地蔵様を見かけた時に お供物やお線香を焚き、手を合わせてきました。 ですが、時間が経つにつれ 思い出す回数が毎日から1ヶ月に1回、半年に1回、1年に1回、、と減っていきました。 そんな自分を許せないですし これからも生んであげられなかった子供への供養と、自分への戒め、修行、色々な意味も込めて 自宅に慈母観音像を小さくても置き、 毎日手を合わせようと考えております。 が、しかし、 値段や見た目、材質もピンキリ。更に 自宅はアパートで、海外を行き来する様になるか、海外移住になる為、お仏壇などの設置が困難に近いです。 ・慈母観音像、または違う像の方がいいのでしょうか? ・仏壇が置けないですが大丈夫でしょうか? ・方角や向きなどはありますでしょうか? ・値段や材質、どこで購入かなどは気にしなくてもよいのでしょうか? ・慈母観音像などを置き、水子を供養する場合なにかお経を唱えた方がいいでしょうか?私はお唱えしたいと考えていますが 何かアドバイスをお願いいたします。
もう死んでしまいたいです。 自分で決めて彼から離れたのに 今はどうしようもない気持ちでいっぱいです。 悲しさも寂しさも いろんな気持ちがまざって どうしようもなくなっています。 変えられない事実だから 受け止めなければいけないけれど 悲しくて泣いてしまいます。 どうしたらきちんと受け止められますか? ほんとに心から愛していました。
死ぬ勇気なんて全く無いし、自殺未遂すらしたことがないのですが、 簡単に死にたいと思ってしまうし、よく病んでしまいます。 人に嫌われる勇気も、(生きている間に)逃げる勇気も、だからといって立ち向かう勇気もありません。 自分でももうどうしたいのか、何をしたいのかが分からなくて、 これじゃあ死んでいるのと変わらないと思ってしまいます。 ただただ、自己嫌悪が募り、この世界(時間)から逃げたいと思っていて、 そのためには死ぬしかないのかなって思ってしまいます。 自分より辛い人も大変な人も沢山いるだろうに、ただ休みたいと思ってしまいます。 でも自分の身勝手な行動で、誰かに迷惑をかけてしまうことを考えると、そんなことも言ってられなくて、 ただ日々をこんな気持ちで過ごすことに、虚無感と情けなさを感じています。 人それぞれで皆さまざまな苦労があることは分かっていますが、前向きに努力を続けておられる方を見ると、 さらに自分への嫌悪感が増します。 ハスノハの過去の相談を見ていても、同じ想いを抱えている人は沢山いるんだなと思いました。 本心では死にたくないと思うのですが、自分がどうするべきなのか(どうしたいのか)、もうよく分かりません。 自分が不器用すぎて弱くて卑怯で、それなのに他人に何か言われると、いちいち傷ついてしまって、本当に嫌です。 稚拙でもはや相談でもない文章ですが、よければ皆様にご助言をいただきたいです。
自分の意見を言う場になると、涙が出てきます。 Q&Aサイトで、女性が同じ悩みを相談されているのを見かけます。泣くのは悪いことではない、感受性が豊かなのは良いことだ、とアドバイスを頂いたりしておられます。 しかし、40代の男です。社内で、顧客の前で、PTAの会議で、いちいち泣いていてはおかしいですし、みなさんに余計な気を遣わせてしまいます。 そういうわけで、対立するような意見を言わないようにしてきました。意見を述べないといけない場面になったら、極力感情を高ぶらさせないように話そうとしますが、それでも顔が熱くなって、目に涙が溜まってくるのを感じます。 そんな自分が、PTAで重い役に選ばれそうなのです。PTA活動自体が嫌なわけではないのですが、いろんな意見(苦情も)が出てくる、自分の意見を求められる、そんな場面で涙がでてきてしまったら・・・と考えるととても怖いです。 「自分はそんな性格でなないので・・・」と言ってみましたが、「まわりのみんなも協力するし、1人で抱え込む必要はない」と返され、その先の反論はできませんでした。 今はとにかくやってみよう、という気にはなっていますが、人と討論する場面がきたらどうしよう、という不安がかなりあります。 どうすればこの問題を解消することができるのでしょうか。 どうぞよろしくお願いいたします。
ここ数年、前代未聞の裏切りや怪我や病気やトラブルが続き、どうしたら負の連鎖から脱却できるか教えて下さい。 まだ今より体が動く時、お祓いや厄除けに行きましたが、それでも怪我や病気が続き、今は外出困難。仕事も休職し困っています。 本来頼れるはずの家族は絶縁状態。 行政は、高齢者には介護サービスほか手厚いが、65才以下には冷酷。自分で何とかしろと言われました。 自腹の介護タクシーや高額なネット販売で食料や日用品を買うなど、潤沢なお金がなければ生活が成り立たない。 引きこもりたくはないですが、人の手がなければ1人で部屋にいるしかなく、辛い。 誰かに相談しても、楽しいことしたり考えたらと言われましたが、この状態では難しい。 何も悪いことしてないのに、なんでこうなるのか? 悪い事して逃げ回り、大金稼ぐ輩も世の中にはいるのに、と思うと悔しいです。 仏壇はないですが、ご先祖様に助けてください!と手を合わせています。 他にどうしたらこの状況を抜け出せるか?教えて下さい。
私は親の反対を押しきって 念願の一人暮らしをはじめました。 親に申し訳ないという気持ちもかなりありましたし、心が痛みながらも自分の自立と自由の為に応援してもらえるようになりました。 ですが、いざ一人になると、自由と孤独は同じなんだと気づきました。 家族がそばにいてくれる幸せや温かさに、未熟な私は今さら気づいたのです。 一人でいることは気が楽で、親の顔色をうかがわないでいい気楽さもあります。 でも、私は給料もすべて生活費に使ってしまうこの生活を家族との時間を犠牲にして手に入れたのかなぁと、心が複雑で、ふと道を歩いているときに涙がでてきます。 未熟な私に、どうか生きる上でのアドバイスをください。 よろしくお願いいたします。
火の鳥鳳凰編で、死後、輪廻しても虫やカメにしかなれず、この世がなくなるまで永久に人間になれないという輪廻が描かれていました。(「火の鳥 茜丸 トラウマ」などで画像検索するとそのシーンが出てきます。) 漫画ですが、こうした輪廻は仏教的なのでしょうか? 仏教の輪廻の教えは、どのような救いがあるのでしょうか?
死にたいけど、首吊り自殺は私には無理そうです。高いところで台を蹴ってがいいのでしょうが、うちにはそんなところがなくて、自分で体重をかける方法しかなく。やっぱり怖くなってしまいます。 生きていたくもない、私の心はどこに行けばいいでしょうか? 自殺だけは成功者の話をネットで聞くことが出来ないので、難しいですね。 今日今まで話を聞いてくれていた上司にあきれられました。もとからそれが本音だったとは思うのでやむを得ないとは思いますが、本当に私が存在している事を申し訳なく思ってしまいます。 多分私は世に言う鬱なんだと思います。それを承知でかなり強い口調をしたので、本当にもう嫌なんだと思いました。
なぜ、仏教では宗派を問わず、誰もが持つ死への恐れを信者から取り去るためのありがたい話をせず、「死後のことは分からない」と突き放すような言い方をされるのでしょうか。比較するのもおこがましいと思われますが、キリスト教でもイスラム教でも、一応はそれなりの死後はどうなる的なお約束を説教してくれるのに。
過去に様々な出来事があり、自分で自分を許せずにいます。 開発プロジェクトの失敗などで大切な命を間接的に亡くす結果となったこと、悩んでいる友達を救えなかったこと(自殺なども含めて)、自分を待っていてくれた大切な人たちの思いに答えることができず(私がくるのを待っていた人たちがいました。それぞれの事情は違いますが、どれも国が違っていたため私はいつも最期に間に合いませんでした)、多くのひとにつらい思いをさせてしまった気がしています。常に、あの時にこう行動できていれば、とどこかで自分を許せずにいます。 過去を振り返ってめそめそするタイプではなく、あくまで毎日を大事に、一生懸命精一杯自分のできることをこなして生きているつもりです。ただ、あるきっかけがもとで過去を思い出すことが増え、思い出す度にやはり失った大切な人たちへの思いで胸が痛みます。そして、自分を許すことができていないことに気づかされます。長年の様々な葛藤から、怒りや憎しみ、嫉妬などは持たないと決めているので、私にとって他人を許すことはとても簡単にできますが、自分を許すことがどうしてもできない。 潜在意識で、それは夢となって襲ってくる時があります。自分を仏として仏性があると、そう思うことは他人に対してはできるのですが、自分に対してそう思うことは私にとっては難しい。最終的に、空のレベルでの境地においては善悪もなく、そして許すも許されるもないとわかっていても、現実の世界でのレベルでは感情がついていきません。 自分を許すということを、仏教ではどう捉えていますか? そして、ご回答いただける方へ、あなたは自分を許せますか?
いつもお世話になっています。以前、本や聞いた事があるのですがお釈迦様は弟子に死後の世界を説かなかったと聞きましたが本当でしょうか?死後の世界かあるのかという弟子の質問に対して、矢か刺さればまず抜く事だ!だから死後の事など考えず、今ある生を精一杯生きなさいと言ったような気がします。本当にお釈迦様は死後の世界は説かなかったのでしょうか?ある人の本によると仏教は哲学に近く、また無神論に近く、中世ヨーロッパでは無を広める宗教だと恐れられたそうですがその事についてはどう思いますでしょうか?お考えを聞かせてください。
今アロマトリートメントの勉強をしていて、人体についても勉強しています。 その中でとてもきになるものがありました。 人間の脳のある箇所に前世の記憶も入っているというものでした。 私は死とは一度死んでしまったら記憶もなくただの固体になってしまうのかと思っていましたが、死んだ後も記憶が残るものなのでしょうか。 魂とかそういったものがあるのでしょうか。 だとしたらかなり面白いです。 私は不思議体験よくする割に占いや霊的なものはあまり信用してませんが、考えれば考えるほど興味深いです。 途方もない質問をしてしまい申し訳ありませんがお考えを教えてください。
よろしくお願いします。 輪廻転生について教えてください。 輪廻転生とは生きていて、死んだら記憶を消されてまた新しく生を受けて死んだらまた記憶を消されて…の繰り返しということだと知りました。 なんだか、穴を掘って、埋めて、また穴を掘って、埋めての繰り返しの拷問のような気がします。 生きていて同じ日は二度とこない、大切に生きなければならないことは知っています。 でも、なんだかもう慣れたというか飽きてしまったというか、なんとも言えない気持ちでずっともやもやしています。 そんな風に考えると何のために自分は生かされているのだろう、なぜ生きているのだろう、ととても虚しくなり、毎日がとても苦しいです。 そうやっていつも一人で泣いています。 自分でも何をどうしたらいいのか見当が付きません。 自分は何に苦しんでいるのか、それすらもわからず苦しいです。 何かアドバイスを頂けないでしょうか。 よろしくお願いします。
初めまして。長らく辛い日々が続いています。一年半ほど前に片親を亡くし、その後、彼女(婚約者)に別れを告げられました。 その後、ボロボロの心で何かに惹かれるように巡礼に出かけ霊場各地を巡りました。自分の未熟さに気付くとともに大切な人を失くす前から平凡な事が至極の幸せであると思いながら過ごしてきたにも関わらず、それすらも理解し切れていなかったのではないかと思い知りました。 巡礼の途中、京都で事情を知った尼さんから、「辛いことがあっても試されてると思ってしっかり生きて行けば、必ず仏さんは見てくれている」という言葉が心の支えとなっています。 一時は吹っ切れたと思っていましたが、やはり辛いという気持ちに変わりはありません。親を亡くし、事後処理に追われ半年ほどのちに婚約者は僕の元を去りました。恐らく、色々なことにいっぱいいっぱいになっている僕が頼りなく思えたのでしょう。 周りの友人や、同年代の人が結婚したり街でカップル等を見かけると胸をえぐられるように辛いです。 また、亡くなった母に対しても子供として何も恩返しできず、これからもっとしてあげられるはずだったのにと申し訳なさと、なぜ救ってあげられなかったのかという気持ちでいっぱいです。 正直なところ、なぜ周りの人は物事がトントンすすんでいくのになぜ自分は思わぬところでつまずいてしまうのかと辛くなります。 しかし、最後はどこかで必ず自分にも幸せが訪れると信じで日々過ごしております。こんな僕にこれから日々を過ごして行く上でのアドバイスをいただけないでしょうか。よろしくお願いします。
最近は、犬や猫などの小動物はペットというよりも家族、という感覚になってきていて久しいですが、その反面酷い動物虐待の事件が後を断ちません。 ネットが出来てからというもの、わざわざそういう動画や画像をネットに流したりする外道も多いです。 殺処分も同様ですが、そんなひどい目に遭った子たちは、ちゃんと成仏できるのでしょうか? 恐怖と苦しみを引きずったまま、この世を彷徨っているのではないだろうか? そしてそんなことに楽しみを見出す外道にはちゃんと罰が下るのでしょうか? 最近立て続けに酷い事件を知ったので、どうなのだろうとずっと思っています……。
こんにちは。 よく夏になると心霊番組をやっています。 そういう番組がやっていることを考えると日本人は霊魂を信じている人が多いのだと思います。 しかし私は霊魂について疑問を持っています。 ほとんどの宗教では霊魂の存在を認め、人は誰でも死ねば不変不滅の霊魂になると言われています。 しかしそうなるとこの世は霊魂だらけになってしまいます。 一方、仏教では不変不滅の霊魂については否定し、あらゆるものが輪廻すると説いています。 仏教では輪廻するものに魂が宿り、霊魂単体では存在できないという考え方なのでしょうか? だとすると霊魂は体に依存した物質的な存在という事になります。 また解脱した場合は無になるとお釈迦様は仰っています。 無になるとは具体的にどういう状況ですか? 寝ているときのような意識がない状態を指すのでしょうか。 あるいは別の次元に行くことなのでしょうか。 疑問に思ったので教えていただきたいです。
大学で仏教の授業を受けてから、仏教がとても怖い教えだと思うようになってしまいました。 仏教は怖い教えではないですか?
カクヨムなどの小説投稿サイトでムトウゲンジ名で人間の真理の考察しております。 とりあえず自分の行き着いた人間の真理が仏陀に近い事は理解しました。 仏陀もまだ甘いですがね。 そこで質問。 仏陀は死んだ後とかそんな事は教えてないよね? 人間が人間として生きる道を説いていた。 どう生きたら良いかを説いてました。 生きていくための道をですよ? なのに念仏唱えりゃアータラコータラ。 極楽だ浄土だ。 昔の高僧が栄養不足の睡眠不足でトリップした妄想を大事に残してこれが仏の教えとか仏陀をバカにしすぎてないですか?仏教全般。 仏陀が生きていたら仏教の信者に助走うつけて殴り付けるレベルまで落として仏陀の教えバカにしまくり。 本当にそれにすら気が付かないぐらい何も考えないのが修行なんですかね? 悟りの境地ぐらいあちこちの人がしてますよ。 アインシュタインから宮本武蔵、今はイチローと下手したら江頭2:50もね。 昔のシリアルキラーもしてた可能性高いのはいますね。 仏陀が半端な知識なため善人しかできないと思っただけで。 自分も到達しましたしね。 さて? 仏教なんぞしてると悟り開くのは無理なのになんで悟りだのなんだの言葉を使うか知りたい。
足りない。どうしよ。不安。やらんと。