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hasunoha 問答検索結果 : 「 否定 」
検索結果: 5187件

全世界同時安楽死ガスがあったとして

 これは過激な提案であり、思考実験であり、私の望みです。  私の望みは、ありとあらゆる生命が、一瞬で、同時に、何の苦しみもなく死に絶えることです。私はこの世界に心底失望しており、肉体という物質からの脱脚を強く望んでいます。五感と意識を手放し、何も感じなくなりたくて仕方ありません。  自殺してもこの世界がある限り、また生まれてしまう可能性から逃れられません。それに絶望して、「何もないこと」を希求するようになりました。  人間は「全世界同時安楽死ガス」を開発するためだけにここまで進化したと思っている部分があります。  全生命の生殺与奪権を一部の人間が握ることになる点、自然に続いている生命を人為的な手段で終わらせる点、今まで誰もそんなことを言わなかった点を除けば、私の提案は遠い未来に訪れる太陽の消滅や阿弥陀様のもたらす救いと同質ではないでしょうか? 「存在しない」以外の希望がどこにも見当たりません。  生命の本能は他を侵害することにあります。人間だってその本能から逃れられていないばかりか、「自分を大切にしたい」という欲望のままに他者を排除する時代です。  今まで見て見ぬふりをすることでうまいことやっているように見せかけてきた沢山の苦しみが「多様性」や「人権」という言葉のもとに噴出し、その結果は今まで以上の苦しみの再生産です。  善意なんてものは、もともと神話の遺物でしかありません。  何かを犠牲にしなければ社会は成り立ちません。  ならば、全て消し去ってしまった方が良いとしか思えません。 「全生命同時安楽死ガス」が間違っているのだとしたら、私はどうすれば 良いのでしょうか?

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死にたい衝動を抑えられない

今年新卒で社会人になったものです。社内でモラハラやパワハラがあり、体調が優れず心療内科に通い始めました。 良い先生で、私の気持ちをわかってくれた上で、「友達などに自分の胸のうちを打ち明けてみるといい」とアドバイスをくれました。 ですが私には、弱音を受け止めてくれるような友達がいません。愚痴は嫌われます。 丁度、友達と遊ぶ機会があったので、思い切って職場のことを打ち明けてみましたが、引かれ、馬鹿にされ(たように私は感じました)、恥ずかしくて仕方がありませんでした。 友達に話したことを後悔しています。もう友人たちの輪には戻れないと思います。身勝手ですが、心療内科の先生のことも信じられなくなりました。 心療内科に行くのも、やっとの決断でした。死にたくて死にたくてしょうがなく、でももしかしたら助かるかもしれないと思って行きました。幸せに楽しく生きたいです。 でも死にたくて仕方ありません。ちゃんとした会社で働いている友達が羨ましい。そう思う自分が憎い。まともな会社に入れなかった自分が憎い。だから死にたい。私の人生の責任を取って私には死んでほしいんです。生きて責任を取るのは嫌なんです。怖いから、死ぬという行為1回きりで許して欲しいんです。 今まで沢山悪いことをしてきました。今こうして死にたいのも悪いことです。 自殺するにはまだ勢い(もしくは消耗)が足りないように思えて、毎日飲むよう言われている薬や心療内科で処方された薬はすべて捨てました。食事も水分も取らないように生活しようと思います。絶食は、死にたくなる度にやっていて、でも最後はやはり食べてしまいます。今回は頑張ります。身体に限界が来たら勝手に死んでくれるだろうと思います。 いまこの質問をすることに、少しだけ希望を感じています。本当は、自分は生きていたいんだろうなって思います。 どうしてこんなことになってしまうのでしょうか、とはあまりに抽象的ですが、この嫉妬心や死にたい衝動といった生きづらさは、仏教ではどのように解釈されるのでしょうか。自分で自分をいじめるような身勝手は、苦しみとさえ言えないものではないでしょうか。 長くて申し訳ありません。お寺や、神社に行くのが好きでした。お答え頂けますと幸いです。よろしくお願い致します。

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お坊様方、改めて教えに向き合ってみませんか?

報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌

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どうすれば、すべての人を尊敬できるようになるのでしょうか?

長文で申し訳ありません。どうぞよろしくお願いいたします。 私は小さな頃から「天才だね」「何でもできるんだね」と言われて育ちました。実際にかなりの才能に恵まれているようですが、自己肯定感が強いので、どうしても傲慢な気持ちが捨て切れません。 私は長い間、業務能力が芳しくない人と一緒に働くことで生じてしまう様々な非効率に悩まされてきたので、正直「賢くないことを自覚していない人」がとても苦手です。 正直「賢くない人と働きたくない」という思いもあり、学生の頃に個人事業を起こして順調に経営していましたが、25歳の頃に孤独なお金儲けが虚しくなり、大きな仕事を純粋に楽しむことを目標に一流企業に入社しました。 日本でも指折りの入社難易度を誇る会社でしたので、入社後は優秀な人に囲まれて本当に楽しく働いていました。「やっぱり、優秀な人に囲まれて過ごせば悩みは解決するんだ。賢くない人に関わりさえしなければ、健全な気持ちで働くことができるんだな」と感じたのです。 しかし心の底では、「優秀ではない人を見下してしまう自分」がすごく嫌いです。その人の人として尊敬できる部分を探して尊敬しようとしても、「あ、この人頭が悪いんだな・・」と感じるとどうしても上から目線になってしまうんです。 これではいけない、傲慢だ・・・と思い何度も謙虚になろうとするのですが、「頭の悪い人に対する嫌悪感」が強く、うまくいきません。 「頭の良さ=人徳」ではないことはわかっているのですが、経験上「頭が悪い人からは迷惑をかけられたり失礼な目にあう」という認識が拭えないのです。 しかし、私が人より器用に生まれたのは、自分ではなく誰かを助けるためなのだろうな、とも感じています。 どうすれば、賢いとはいえない人に対して尊敬の念を持つことができますか?

有り難し有り難し 116
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これからの母との付き合い方

初めて相談いたします。よろしくおねがいします。誰に聞いてよいかわからず、悩んでおります。 私の母のことなのですが、心の持ち方についてご教授願いたいと思っております。 両親は私が15歳の時に離婚し、それから母親だけで育てられてきました。ちなみに私は一人っ子です。 大学、大学院はバイトと奨学金でなるべく母には迷惑をかけずに勉強し、就職後は毎月母の収入以上の仕送りをしています。 母は私が就職をしたころから、依存するような発言をしており、それが不快です。 また私の生活に色々とアドバイスをくれるのですが、その発言が耳障りでつい辛く当たってしまいます。 母の面倒は生涯に渡って見るつもりでいますが、何か納得してないような気がしています。 心のどこかで、両親のせいで貧しい思いや嫌な事があった上に、就職してからも仕送りをし続けている私は何のためにこんなことしているんだろう?と考えています。 見返りが欲しい訳ではないのですが、私が苦労する(労力を使う)意義が母親のためだけなのか?と思うとやりきれないです。 自活してちゃんと働いて生活しているのに、どうして色々言われないといけないのか。と思ってしまいます。 最近私が結婚して、母がより一層私に依存してきます。 今は別々に暮らしていますが、いずれ一緒に住むと思うと不安です。 どのような心の持ち方をすれば、母に優しく接することができるようになるか教えて欲しいと思います。 よろしくお願いします。

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仏教の教えについて

 こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。  以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。  これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。  これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか?  その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 80
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