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hasunoha 問答検索結果 : 「 般若心経 」
検索結果: 499件

不安症とどう向き合えば良いでしょうか

こんにちは。はじめまして。 私は某地方国公立大を卒業後、某旧帝国大学の院を出て現在大手の企業に勤めています。 現在はIT系の部署で働いており、仕事をする中で、色んな人が喜ぶシステム(まさにhasunohaはそんなシステムだと思います。)を作りたいと願い転職活動を始めました。 転職活動中に知ったとあるIT系ベンチャー企業が、社会の役に立つシステムを作っていると知り、面接を受けて採用されました。数年はその会社でお世話になりながらITのスキルを磨き、さらにステップアップをしてより広範に人の役に立つシステムを作っていこうと考えています。 しかし初めての転職、大手からベンチャーと不安に押し潰されそうです。 収入面、初めての業務内容、会社が潰れないか、老後の資金は貯まるのか…などなど。 何人もの友人に相談した結果、人一倍不安を抱えやすい性格だと知りました。不眠症でもあります。 また、私には結婚を約束した同棲中の彼女がいます。彼女と協力してこの先の人生を渡っていこうと考えています。 彼女は私が不眠症だということも知っております。彼女を心配させないためにも不安症と向き合い、できれば克服し、不眠症を治したいです。 座禅から派生したマインドフルネスを実践していますが、煩悩(特に不安)が多く、うまく集中できません。 仏教の考えにも共感することが多く、もっと学んで煩悩と向き合いたいのですが例えば空という考えはこの世には実体と呼ぶべきものがないと言うのならば私の彼女に対する愛情や信頼はどう解釈すれば良いのでしょうか。煩悩をなくせば愛情を感じなくなるかもと思い悩んでいます。 長くなりましたので質問を要約します。 1. 住職(敬称が違っていたら申し訳ないです)の方々は不安を感じないのでしょうか。例えば住職になることに対して不安を覚えたりしないのでしょうか。もしあればどう向き合っていますか。 2. 社会の役に立ちたい、愛する彼女と協力して人生を歩んでいきたい反面、(路頭に迷わせたくないというような杞憂にも感じる)大きな不安とどう向き合えば良いでしょうか。 3. マインドフルネスを行なっていますがどうすれば煩悩と向き合えますか。 4. 不安と向き合う時に仏教の教えをどう活用すれば良いですか。 5. 不安にはプライドに高さも関係してると考えていますが、プライドとの向き合い方をご教示下さい。

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スッタニパータ「874形態は消滅する」の内容について

いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。  次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者  ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。

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修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?

(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?

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釈尊の言行

 厚かましく、非宗教説を続けます。  釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。  先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。  仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。  これは中国の仏教を模倣したのでしょう。  釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。  次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。  元々葬儀には無関係だったようです。  確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。  釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか?  仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。  蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。  これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。  参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。  本堂は娑婆から切り離された死の世界です。  本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。  「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。  仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。    従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。  現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。  像は本堂を向くべきだと思います。  さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。

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未来技術に恐怖を感じ、他の事が考えられない。

AI、VR、AR、アンドロイド等の話にひどく恐怖を覚え、暗い気持ちになり、他の事が手につきません。 最近、テレビ番組でもネットでも書籍でも、未来技術についての話が非常に多いように感じます。己が気にしているから目に入りやすいのかもしれません。これらの話題やそれに対する好意的な意見を見ると、自分にとって非常に怖い未来がくるように思えてひどく落ち込んでしまいます。 技術の革新は素晴らしいことです。私が今こうして会ったことのない方に質問ができているのも技術革新とそれに貢献した方々の努力のおかげです。感謝しなければなりません。昔より、健康で長生きもできるようになりました。しかし、AIの目覚ましい発展により働かなくても生きていけるようになると言われると、社会の中で必要とされる手段がなくなると考えて怖くなりますし、仮想現実を通して、人とコミュニケーションがとれたり、異世界にいけると言われれば、人間がどんどん人との接触をさけながらコミュニケーションの快の部分だけを得ようしているように思えて怖くなります。 例えば、機械音声が発達していけば人気のあった声優の声を完璧に模倣していつまでも仕事をしてもらう事も可能になるいうのです。 どんどん考えていくと、本物の存在価値がわからなくなっていって、自分の趣味すら意味がないように思えてきます。そして、これらが必ずやってくると記事は豪語してきます。多少大げさに言っているのだと頭では考えるのですが感情が付いていきません。私は、現実で旅行に行きたいし、筆を持って絵を描きたいのです。それを構成する全てが模倣されても。しかしそう思わない人が多くいるように、記事を見るたびに感じます。必要が無い、煩わしいと思う所にもしかしたら、自分にとって大切な物や好きな物がころがっているかもしれないのに、どうしてそんなにも身軽に投げ捨てることができのでしょうか?自分と同じ考えのない未来に行く事がとても怖いです。しかし、未来は変えられませんから、今を大切に生きるしかないとも考えます。しかし、未来がそうなると思うと、ひどく悲しく怖くなって、何もできなくなるし、したいとおもえません。かれこれ、三年ほど同じ事を考えています。人は他人を排除しながら生きていきたいのですか?それは自分を否定する事ではないですか?苦しいです。この悩みから抜け出したいです。

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仏教を学びたいです。教えてください

長文になりますが、見て頂けますと幸いです。 私の曽祖父は神戸市須磨区にあります須磨寺というところで副住職をしていたと伝えききました。年齢的に戦前であったと思われますが、寺務所では確認できませんでしたので、定かではありません。その曽祖父が何らかの理由で須磨寺を離れ、神戸市長田区の善心寺というお寺へ移りました。その後曽祖父の娘婿さんが跡を継ぎ、現在は別の方が住職をされております。 この度祖母の四十九日法要を善心寺で行うこととなりましたので、縁は続いておるみたいです。 私の先祖代々のお墓は曽祖父が須磨寺へ建立しております。四十九日法要のあと、納骨は善心寺の方が須磨寺まで来てくださり行います。 私は今まで宗教に無関心でしたが、祖母が亡くなったことをきっかけに、祖母への感謝、後悔などの想いと真言宗の僧侶であった曽祖父の存在で仏教に関心を持ちました。 仏教をしっかり学び、ご先祖様への供養をしたく、また自分の生き方のヒントとしたく思っております。 私が曽祖父のことをもっと知りたいと思ったきっかけはもうひとつあり、私はご先祖様が守ってきてくださった苗字を受け継ぐ長男です。曽祖父には13人子供がおりその中で男が4人で13人兄妹の末っ子が私の祖父です。そして父、私となりますが、祖父の兄妹のお子様方は女性のみで苗字を守れる血筋が私の所だけとなっております。私は2人子供がおりまして2人とも男の子なので、ここからまた苗字を守れる子孫が繁栄してくれると願っております。 こういう経緯で偶然とは思えずご先祖様方の意志や願いなどを託されていると思うようになりました。 ⁡ 長くなり申し訳ございませんが何点かお聞きしたくよろしくお願いいたします。 ・私が真言宗の仏教を学ぶに当たり、善心寺のご住職へ師僧となって頂きたいと思うのですが、仕事をしながら仏教を学ぶために師僧となって頂けませんか?とお聞きすることは失礼に当たりますか? ・仕事をしながら得度し仏弟子として学んで行くことは可能ですか? ・私の菩提寺はお墓のある須磨寺だと思いますが、これから関係を深めるべきは善心寺でしょうか? ⁡ 私は父に血筋のことや宗派の話などあまり詳しく聞いてきませんでした。この度のご縁で私のルーツを知り自分の子たちへ受け継いでほしいと思っております。 長くなり申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

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