私は家が曹洞宗の息子です。 大悲心陀羅尼というお経ですが ネットで曹洞宗青年団というサイトでは 聖観自在菩薩よ と訳されています。 しかし、他のサイトでは 千手千眼観世音菩薩という説明がほとんどで 千手観音についてのお経と思っていましたが 実際はこのお経はどの菩薩様についてのお経ですか またこの功徳は、私たちが生きる上で内を伝えているのでしょうか? よろしくお願いします。
自分自身の考えに限界を感じています。 人生的な考えであって、哲学書などを読みふけっています。 ただ、仏陀の教えに関して詳しく書いている書物を読もうとしても どうしてもその介錯が何か仏陀の教えと言えるものは違うことのように解釈をしている翻訳家が多いように感じます。 仏門を修めている方にその辺りを詳しく書いている本や、自分は仏教や仏陀の教えをこうして学びました、というものがあれば教えていただけるでしょうか。 よろしくお願いします。
大乗仏教の救いについて教えてください。 大乗仏教では出家者ではなくとも、救われるとの教えだと学びました。 では大乗仏教の救いとはなんでしょうか。 出家をしないで煩悩が消せるとは思えません。 人間はいつも何か欲しいと思ったり、仕事に不満を感じていたり、何かしらの煩悩を持っていますよね。 煩悩を持ったままでも悟れるのでしょうか。 大乗仏教の悟りとは煩悩がなくなることではないのでしょうか。
元々心身共に良好とは言いがたい状況でした。家庭に問題があり、暗く、人付き合いが苦手でした。 なんとか明るく前向きに生きようと思って行動もしてきたのですが、なかなか上手くいかず、どんどん病んでいき引きこもり勝ちになりました。 そして魔が差してしまい、脱法ドラッグというものを一錠だけ服用してしまいました。正に地獄でした。そこから完全に精神がおかしくなってしまいました。 服用したのは一錠のみで、物質的には完全に抜けていますし、依存もないです。 しかし、フラッシュバックというのでしょうか、苦しい感覚は戻ってきますし、電車も外出も苦しくなってしまいました。なんども後悔しました。 心の底から落ち着いているという感覚がないです。常に何かに怯え、脅迫的に思考し、苦しんでいます。 ドラッグを飲む前は苦しかったけど、漠然と救いというようなものをどこかで信じていたのだと思います。 しかし、ドラッグで死に掛けてから全てが変わった。 あるの絶望感、虚無感です。 精神科にも行きましたが、色々調べると向精神薬も怖くて飲めません。 仏教セラピーというのも少し調べたのですが、全てはエゴが引き起こしているだの、苦しみは受け入れなさいと言われても、正直苦しい。本当に苦しい。 輪廻のお話を聞いても、正直信じられませんし、ただただ怖いです。 記憶も遺伝子も違う自分は自分と言えるのでしょうか。 この先、周りは人間も老いて死んでゆく。 自分も老いて病か天災か人災か様々な苦しみを味わい死んでゆく。 こんなとりとめもない不安が言葉を変えてやってくる。 言葉以前にただただ不安があるのでしょうか、もう分からない こんな自分は一生苦しんで死んでいくだけなのかと思うと本当に嫌になります。 何を考えてみてもどうしようもない 言葉や観念的な解決法ではあまり意味が無いのだと思います。 救い、安心感を実感しないと。 でもどうしたらいいのか。希望が見えない。自分勝手で醜くどうしようもないとは思いますが、残念ながらこれが素直な自分なのです。 グチャグチャですがお願いします。 どうしたらいいでしょう。どうすれば救われるでしょう。 神仏や救いを信じたい、でも中々信じられないのです。 上辺だけ信じてみても結局意味が無い。心の底から安心できるようになるのはどうすればいいでしょう。 よかったら返答ください
こんにちは。お坊さんが好きな言葉、大切にしてる言葉はありますか?? 禅の言葉などは意味も教えてもらえるとありがたいです。
こんにちは。はじめまして。 私は某地方国公立大を卒業後、某旧帝国大学の院を出て現在大手の企業に勤めています。 現在はIT系の部署で働いており、仕事をする中で、色んな人が喜ぶシステム(まさにhasunohaはそんなシステムだと思います。)を作りたいと願い転職活動を始めました。 転職活動中に知ったとあるIT系ベンチャー企業が、社会の役に立つシステムを作っていると知り、面接を受けて採用されました。数年はその会社でお世話になりながらITのスキルを磨き、さらにステップアップをしてより広範に人の役に立つシステムを作っていこうと考えています。 しかし初めての転職、大手からベンチャーと不安に押し潰されそうです。 収入面、初めての業務内容、会社が潰れないか、老後の資金は貯まるのか…などなど。 何人もの友人に相談した結果、人一倍不安を抱えやすい性格だと知りました。不眠症でもあります。 また、私には結婚を約束した同棲中の彼女がいます。彼女と協力してこの先の人生を渡っていこうと考えています。 彼女は私が不眠症だということも知っております。彼女を心配させないためにも不安症と向き合い、できれば克服し、不眠症を治したいです。 座禅から派生したマインドフルネスを実践していますが、煩悩(特に不安)が多く、うまく集中できません。 仏教の考えにも共感することが多く、もっと学んで煩悩と向き合いたいのですが例えば空という考えはこの世には実体と呼ぶべきものがないと言うのならば私の彼女に対する愛情や信頼はどう解釈すれば良いのでしょうか。煩悩をなくせば愛情を感じなくなるかもと思い悩んでいます。 長くなりましたので質問を要約します。 1. 住職(敬称が違っていたら申し訳ないです)の方々は不安を感じないのでしょうか。例えば住職になることに対して不安を覚えたりしないのでしょうか。もしあればどう向き合っていますか。 2. 社会の役に立ちたい、愛する彼女と協力して人生を歩んでいきたい反面、(路頭に迷わせたくないというような杞憂にも感じる)大きな不安とどう向き合えば良いでしょうか。 3. マインドフルネスを行なっていますがどうすれば煩悩と向き合えますか。 4. 不安と向き合う時に仏教の教えをどう活用すれば良いですか。 5. 不安にはプライドに高さも関係してると考えていますが、プライドとの向き合い方をご教示下さい。
私は出家希望者です。理由は正式な仏弟子になりたいからです。別にお寺の住職になりたいわけでもお葬式でお経を唱えたいわけでもありません。 しかし、最近思うようになったのは、日本仏教において僧侶は在家とほとんど変わらない生活をしています。お寺の住職は別として、それ以外のお寺を持っていないお坊さんは、在家のように働き、在家のように生活を送ります。 すると、どうでしょう? 僧侶といっても剃髪して法名をいただいているだけで、その実際は在家とかわりないわけですよね?在家得度というものもあるそうですが、そうなると出家と在家の区別って物凄く曖昧じゃないですか? 私は仏弟子になりたくて出家を希望していますが、仏弟子になるなら在家のままでもいいかもしれない、と悩みはじめています。 日本仏教において僧侶の存在意義って何なんでしょう?特に、お寺の住職ではないお坊さん。
いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。 次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者 ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。
(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?
きっかけ 私は仏教のおしえにひかれているのと、お坊さんという職業に 漠然とあこがれを抱いています。 皆さんはどのような縁でおぼうさんになられたのでしょうか? 参考までに教えていただけると幸いです。
AI、VR、AR、アンドロイド等の話にひどく恐怖を覚え、暗い気持ちになり、他の事が手につきません。 最近、テレビ番組でもネットでも書籍でも、未来技術についての話が非常に多いように感じます。己が気にしているから目に入りやすいのかもしれません。これらの話題やそれに対する好意的な意見を見ると、自分にとって非常に怖い未来がくるように思えてひどく落ち込んでしまいます。 技術の革新は素晴らしいことです。私が今こうして会ったことのない方に質問ができているのも技術革新とそれに貢献した方々の努力のおかげです。感謝しなければなりません。昔より、健康で長生きもできるようになりました。しかし、AIの目覚ましい発展により働かなくても生きていけるようになると言われると、社会の中で必要とされる手段がなくなると考えて怖くなりますし、仮想現実を通して、人とコミュニケーションがとれたり、異世界にいけると言われれば、人間がどんどん人との接触をさけながらコミュニケーションの快の部分だけを得ようしているように思えて怖くなります。 例えば、機械音声が発達していけば人気のあった声優の声を完璧に模倣していつまでも仕事をしてもらう事も可能になるいうのです。 どんどん考えていくと、本物の存在価値がわからなくなっていって、自分の趣味すら意味がないように思えてきます。そして、これらが必ずやってくると記事は豪語してきます。多少大げさに言っているのだと頭では考えるのですが感情が付いていきません。私は、現実で旅行に行きたいし、筆を持って絵を描きたいのです。それを構成する全てが模倣されても。しかしそう思わない人が多くいるように、記事を見るたびに感じます。必要が無い、煩わしいと思う所にもしかしたら、自分にとって大切な物や好きな物がころがっているかもしれないのに、どうしてそんなにも身軽に投げ捨てることができのでしょうか?自分と同じ考えのない未来に行く事がとても怖いです。しかし、未来は変えられませんから、今を大切に生きるしかないとも考えます。しかし、未来がそうなると思うと、ひどく悲しく怖くなって、何もできなくなるし、したいとおもえません。かれこれ、三年ほど同じ事を考えています。人は他人を排除しながら生きていきたいのですか?それは自分を否定する事ではないですか?苦しいです。この悩みから抜け出したいです。
今から10年位前、夫の両親同居中、義父が室内犬を飼い始めました。その時2歳の娘がいて、お腹に赤ちゃん。環境的に室内では動物を飼いたくはないけれど、主人は単身赴任で留守、私も嫌だと言えず、我慢しました。けれどストレスをすべて犬に向けてしまい、殺してしまいました。今更後悔しても遅いのですか、苦しくて仕方有りません。 現在は家族だけで賃貸を借りて生活していますが、安定剤を飲みながらなんとか生活しています。 私のした事ですから、苦しむのは当然ですが、やはり苦しく助けて欲しいと思いメールしております。
お坊さんは本気で、死んだら仏になると信じているんですか?
長文になりますが、見て頂けますと幸いです。 私の曽祖父は神戸市須磨区にあります須磨寺というところで副住職をしていたと伝えききました。年齢的に戦前であったと思われますが、寺務所では確認できませんでしたので、定かではありません。その曽祖父が何らかの理由で須磨寺を離れ、神戸市長田区の善心寺というお寺へ移りました。その後曽祖父の娘婿さんが跡を継ぎ、現在は別の方が住職をされております。 この度祖母の四十九日法要を善心寺で行うこととなりましたので、縁は続いておるみたいです。 私の先祖代々のお墓は曽祖父が須磨寺へ建立しております。四十九日法要のあと、納骨は善心寺の方が須磨寺まで来てくださり行います。 私は今まで宗教に無関心でしたが、祖母が亡くなったことをきっかけに、祖母への感謝、後悔などの想いと真言宗の僧侶であった曽祖父の存在で仏教に関心を持ちました。 仏教をしっかり学び、ご先祖様への供養をしたく、また自分の生き方のヒントとしたく思っております。 私が曽祖父のことをもっと知りたいと思ったきっかけはもうひとつあり、私はご先祖様が守ってきてくださった苗字を受け継ぐ長男です。曽祖父には13人子供がおりその中で男が4人で13人兄妹の末っ子が私の祖父です。そして父、私となりますが、祖父の兄妹のお子様方は女性のみで苗字を守れる血筋が私の所だけとなっております。私は2人子供がおりまして2人とも男の子なので、ここからまた苗字を守れる子孫が繁栄してくれると願っております。 こういう経緯で偶然とは思えずご先祖様方の意志や願いなどを託されていると思うようになりました。 長くなり申し訳ございませんが何点かお聞きしたくよろしくお願いいたします。 ・私が真言宗の仏教を学ぶに当たり、善心寺のご住職へ師僧となって頂きたいと思うのですが、仕事をしながら仏教を学ぶために師僧となって頂けませんか?とお聞きすることは失礼に当たりますか? ・仕事をしながら得度し仏弟子として学んで行くことは可能ですか? ・私の菩提寺はお墓のある須磨寺だと思いますが、これから関係を深めるべきは善心寺でしょうか? 私は父に血筋のことや宗派の話などあまり詳しく聞いてきませんでした。この度のご縁で私のルーツを知り自分の子たちへ受け継いでほしいと思っております。 長くなり申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
好きな言葉(名言)はなんですか?
大忍貫道 様 ご回答を有難うございます。 追記を見落としまして失礼しました。 私は初期経典は全く知らず、大乗経典の一部だけの知識しかありません。 般若経に勝る初期経典とはどんな内容の経典でしょうか? 大変興味深いです。
素人の私ですが、仏教を学んでみたいと思っております。 何か参考になる書籍やサイト等がごさいましたらご教授いただけませんか? 因みに私の家は浄土真宗です。 日常生活の中に仏教の考えって沢山あるように思えるのです。 よろしくお願い致します。
先日、仏教についての本を読んで疑問に思ってもやもやしたので質問させていただきました 空である世の中で、お坊さんは空をどのように認識して、認識してその結果、何をしようとしているのですか?どうして今の行動をしているのですか? 僕は全ては認識であり、認識や表現(言葉など)を利用して認識しているみたいな解釈しました 拙い文章ですみません、よろしくお願いします
私は看護師なのですが、患者さんが不安や恐怖で辛いときに繰り返し唱えられる言葉を探しています。 その患者さんはお経を全て覚えることは難しいので、お経の中に、繰り返しやすく支えになるような言葉があれば教えてください。 心に握りしめて唱えることで、落ち着けるお守りの一つになればいいなと思っています。
以前読んだ仏教の本に、 お釈迦様は死への恐怖は、生への執着によるものだと悟った と書いてありました。 では、なぜ生きるのが嫌になったとき、自ら命を絶つのが悪いことなのでしょうか? 失恋したり、仕事がうまくいかなかったり、自分のことが嫌いになって、いっそのこと死んでしまいたいと思うことはなぜいけないことなのでしょうか? 生への執着が悪いことであるなら、自ら命を絶つことは許容されるべきなのではないでしょうか? こんなことをずっと考えてしまう自分が大嫌いです。助けていただけないでしょうか。