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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 罪 怒り」
検索結果: 535件

彼女が風俗店で働いていた

題名の通り彼女が風俗店で働いていることが判明しました。 実は以前にも一度風俗で働いていることが判明し話し合ったのです。 この時はお店の出していた求人広告が普通のバイトの求人のように装った虚偽のものでありそれに応募してしまいはんば強制的に入店させられてしまったということで完全には本人の意思ではないということもあり「次は無いからな」と強く念を押し、本人も「もう絶対にしない」と言ったため付き合い続けました。 ですが今回は自らの意思で入店したようなのです 理由も「手っ取り早くお金が稼げるから」とのことでしてショックのあまり言葉を失っています。 前回のことから時間もそこまで経っていないため余計にショックが大きく裏切られた感が大きくとても悲しいです。 ここで本来ならば「次は無い」と言ったのだからすぐにでも別れるのですが彼女のことが嫌いになった訳ではなく今でも好きという感情はたしかにあります。 どちらかと言うと「なぜこんなにも早く裏切ったのか」や「なぜあの時嘘をついたのか」などの疑問の方が大きいです。 嘘をつかれたことに関しては許せるかどうかまだわかりません。 私達は別れるべきなのでしょうか また、もし仮に付き合い続けるにしても「本当に今はやっていないだろうか」などの疑惑を持ってしまい本当の意味で信頼が出来なくなってしまうと思うのですがどうしたらよいのでしょう。

有り難し有り難し 71
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自殺って最高の救いではないか?

全ての苦しみから逃れることが出来、生きるという動から離れることができる。 自殺に対して迷惑!とか好きに死んでもいいけど、他人に迷惑かけるクズは死ぬべき!とかいっちゃう世の中の大半の利己主義な人達からも離れることが出来ます。 自殺は迷惑というのは=自分が損したくない、もしくは自分が死ぬ時に社会の迷惑になってないと思ってるお花畑。老人になって大量の国家予算のかなりの占める医療費を国が払い沢山のワーカーの働きにより初めて死ぬことができる。 しかし自殺は家で首をつれば終わり。アマゾンですぐ買える。 死ぬ前に警察でも業者でも呼んでおけばいい、もちろん死体の横に迷惑料数十万とか置いて掃除代金や葬式代にして貰えばいい。首吊る場所も山の中とかにすればいい。 本来ならマグマに落ちるとかそういうのが完全に死ぬ方法としては最高だと思うけど、そもそもマグマには行けないし遠い。 家族も悲しむけど、それだけ、遺書も70年分くらい書いたりしておけばオッケー。 でも生きてて変な苦しい生き方をしてて親も苦しんでるなら自殺した方が良くないか?と思うのです。 どうせこれから生きててもいい事はないし、小さなくだらん事で幸せを、噛み締めて生きるよりは安楽死した方がマシだろう。 いや実際こわいと思う、死刑囚と同じ死に方だし、何千億年も経っても目覚めないってのが壮大に怖い。 でもおそらく大半の自殺者はそれよりも今が苦しかった、あんまり考えてない小学生とかでも自殺してておそらくその場の雰囲気が大事。 輪廻転生とかいうけど本気で信じてるなら死も怖くないはずだよな。 生まれてきて知的障がいとか植物状態とかに生まれたらそもそも生きてる私という認識すら持てない認知症もそう。俺たちは結局は脳で動く電気信号にしか過ぎないって。 ISISとかの動画とか見たことあります?頭打たれて顔がそもそも原型をとどめていない。そんな人達が意識を残してると思う? 首切られた人は叫んでいて、ある一定に達したら半目になって徐々に意識を失う。 彼らの輪廻は?意識は?沢山殺した人はどうなるの? 結局チリになるだけだろう、魂なんてものはなくてコンピュータシミュレーションのようなこの世界で苦しみいつか死ぬ それが早いか遅いか。 何をしても苦しみはなくならない。 だから私は自殺は最高の救いではないか?と思う。そう思わないでしょうか?

有り難し有り難し 139
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殺生を避けられない業種について

お坊様へ 私は今、転職活動の最中にあります。 年齢的にも苦戦しております。 その中、たまたま講演会で 講師で食肉処理センターの社長の話を聞くことがありました。 興味があれば見学に来ませんか? というお話もございましたが諸事情でまだ連絡をしておりません。 パンフレットから企業研究をしておりますが「と畜」を行っているようです。 書いてある作業工程をインターネットで調べますと、一般的技術として行われる工程が殺生ですから私にとってはショックに感ずる可能性があります。 消費者として普段肉は食べております。 食卓に届くまでに欠かせない業種であると思います。 この会社に応募するかまだ分かりませんが、 お坊様から見て職務上避けられない殺生という事についてどのように考えたらよいかいくつか伺いたいと思います。 ・地元のお寺の行事ではお坊様が 「私の後に続いて唱えてください、では『不殺生』…」という形でお唱えしますが、これが守れないようになりますがどうしたらよいですか? ・この業種では100kg位の動物のと畜を専門にしており、 最初の工程では生きている状態の動物にかなり接近して処理を行うようですが、その動物にどのような態度で臨めばよいですか? (「感謝」はするべきだと思いますが、動物にとっては自分の生き死にですので、どこまで許してくれるかわかりません。 また、一日の処理頭数はかなりあるのが一般的なようなので、 「特別なお祈り動作」をしていると作業上事故の元になる恐れが考えられます。) ・ある程度頻繁にお祓いに行く、或いは毎日・毎週・毎月の単位で慰霊碑や近隣寺院にお参りに行くなどという事をするべきですか? (何らかのたたりなどへの心配) ・工場の衛生基準で持ち込めるか不明ですが、何かお守りを所持した方がよろしいですか? ・この仕事に従事することで、 将来例えば「お坊さんになることができなくなる」とか 「一定のお寺に参拝できなくなる」とか 何か仏教上のペナルティのような何かが発生することはありますか? とんでもない事を質問しているかもしれません。 ただ「TPPで日本の畜産がどうなるか」は他で調べられても、 こういうことはお坊様でないとお伺いできそうにありません。 大変恐れ入りますが、お坊様どうか何卒ご教示お願い申し上げます。

有り難し有り難し 216
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2022/02/07

心が壊れてしまう

混沌とした世の中で暮らしていくのが辛く苦しい、この閉塞感の中で平和でもない中オリンピックなど開催しウイグル地区の人達への人権侵害で政府関係者のボイコットなどしても何の意味もなく国の威信をかけての見せかけの平和の祭典に連日お祭りのように報道するマスコミにもコロナ禍とし場当たり的な対応する政府にも嘘が見え隠れし心を保って生活するのが難しく感じています。  ミャンマーのロヒンギャ難民の人達の悲惨さも軍事政権の横暴さにも胸が痛くなります。ミャンマーの人達の解放のためにNPO法人などで助けになろうとされている知人もいます。私も自分の出来ることはと寄付や募金などしていますが、出来ることは少なく苦しい思いです。自分が今あるところで自分の出来ることをして日々生活していくしかないと思いますが、理不尽なことがいつまでまかり通るのかと心が壊れそうです。 都市部は情報が多く心が惑わされることが多いのかもしれません、都市部で働いて都市部で生活するのに疲れました。都市部から離れて自然と共に生活して自給自足までは難しいとしても自然の営みの中での生活をしたいと思います。報道番組はなるべく見ないようにしていますが、連日のコロナ騒動の話題が辛いです。自分の与えられている環境に家族もいて仕事もあることに感謝はしていますが、心のざわめきが抑えられません。どうしたら心を整えて生活していくことが出来るでしょうか、このままでは心が壊れてしまいそうです。

有り難し有り難し 53
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葬式のお経

何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。

有り難し有り難し 578
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ある僧侶の死

前回の質問時に生じた質問です。 もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。 当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。 そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。 筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。 「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」 仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。 「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。

有り難し有り難し 69
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