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hasunoha 問答検索結果 : 「 生きる意味 」
検索結果: 6311件

生まれてきたこと、生きること

以前も質問させていただきました。 私には4ヶ月の子供がいます。 今は私と毎日一緒ですが、大きくなるに つれて外に出ることが増え、少しずつ 自立していきます。キリがないくらい 心配事が増え、不安になります。 親である以上、一生続きますよね。 そんな中、ニュースでは罪のない命が いろんな形で奪われていくのを見ます。 飲酒運転による事故、青信号で進んだら 車が突っ込んできて即死、殺人事件、、。 どんなに気をつけても理不尽に 奪われた命がたくさんあります。 加害者も被害者も、この世に生まれたと いうことは、お母さんのお腹の中で 育ち、命をかけて生まれてきた わけですよね。加害者はなんのために 生まれてきたんですか? 殺されて奪われた数ヶ月の命を どのように受け止めればいいんですか? 蓮の葉の回答によく書かれている、 ありのままを受け止める。というのは 無になると言うことですか? 私が受け止められなくても、世の中は 関係なく何事もなく進んでいくんですよね。 生きていくということは、何事にも 逆らえず、現実を見つめることなんですか。 仏教もひとつの考え方であって、 自然の流れの中で自分なりに 考えたり、幸せを見つけることが 生きるということなんですか? ニュースを目にすると自分のことの ように考えてしまって、つらくて 苦しくて、自分が生まれてきた意味さえ わからなくなりますが、意味なんて ないんですよね、きっと。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1
2023/03/24

生きる気力が無く毎日がしんどいです

初めて相談させていただきます。 私はずっと、何をしていても誰といても虚しく、喪失感や虚無感、孤独感を感じ、常に心にぽっかり穴が空いている感覚があります。 家族や友人など周囲は皆良い人ばかりで、恵まれていると思います。それなのに、常に虚しさがあります。 瞬間的に楽しいと思う時はありますが、それ以外のほとんどの時間は、毎日がつまらなく、何のために生きているのか分かりません。 私は自己肯定感が低く、自分に取り柄が無いことがコンプレックスです。一方で昔から何でも平均的に出来ます。そのせいか、一体自分は何がしたいのか、やりたいことや好きなこと、生きる糧や目標が全く分かりません。 そのため仕事も、何をしても「これじゃない」という感覚が強く、「一体自分は何をしているんだろう」と毎日辛くなり、辞めてしまい、転職を繰り返しています。 やりたいことが分からないため趣味も続かず、好きになりたい、趣味にしたいと思うのですが、結局楽しめず苦しくなって辞めてしまいます。 どんどんと生きる気力が失せ、いっそ消えてしまいたいと思う時もありますが、家族や友人を悲しませたくないため、今すぐ死んではいけないことは分かります。 では生きていかなければならない。そのためには食べなければならない。そのためにはお金が必要。そのためには働かなければならない。そのためには仕事を見つけなければいけない。 そこで結局、やりたいことが無い。何の仕事をすればいいか分からない。どうせ働くなら少しでも苦しくならず、楽しいと思える仕事をしたい。でも何がしたいか分からない…というところに戻ってしまいます。 やりたいことも無く、何をすればいいかも分からず、結果無気力となり、虚無感が募る一方です。生きる意味が分かりません。 「生きることに意味など無い」と仏教では考えるのかもしれませんが、ではこの苦しい思いをあと数十年もひたすら耐えなければならないのでしょうか。 どうせ生きていかなければならないのなら、少しでも楽になりたいです。常に胸に巣食う虚無感はどうにかなりますでしょうか。生きる目的が欲しいです。 長々と失礼しました。お答えをいただけますと幸いです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

生きることは苦しです。

急に考えてみたくなりました。「光と闇」それは万物の全ての形。別の言葉で例えれば「表裏」「白黒」「喜怒」他にも色々とある。でもこれは人間が捉えた感情であったり、また二次元的・三次元的な視覚によるものである。人間の欲望は底知れなく何でも欲しがる。人の持つ五感で捉えられるもの以外の、一般にいう第六感的な世界にまで人間の欲望は広がっていく。しかしそこは闇の世界。限られた人間にしか垣間見ることが出来ず、パンドラの箱のように一度蓋を開ければ、閉めることが出来ない。その世界を垣間見た人からみれば「光」の世界で、その世界を見ることが出来ない人から見れば「闇」の世界である。多くの人は見ることがない世界。そういう意味では一般的には闇とは、知識のなさを喩えるのにも用いられるので、「闇」という表現にもなる。「善悪」の表現のように、どちらが善くて、どちらが悪いではなく「個性」とか「宿命」とか「因縁」とかそういう表現に近く、自分の意思に関係なく一方的にあるものであり、生まれながらそれを感じて成長する人もいれば、人生の何かのタイミングで急に花開くが如く現れる場合もあり、その場合花開いてから以後、見るものが自身の道徳、正義と向き合うこととなる。そして次に、それが実は歪んだものなのではないかと揺さぶりをかけてくる恐ろしい衝動に幾度となく襲われ苛立ち、その苛立ちは人を精神的に追い込み、かろうじて保たれていた秩序が崩壊する。そして、人間の醜いエゴや悪意といった闇の部分が表に出はじめる。とにかく、ひたすら、誰にも分かってもらえない自身の苦悩や心の闇にもがき苦しんでいる姿をある意味、別の視覚で捉えながら孤独感や罪悪感を埋めるかのようにさらに刺激を求めるというループにはまり、人の心はどんどん心の暗闇の底に向かって落ちていくかのように思える。ただ命を繋ぐ物資だけに頼って生という時間を過ごす不条理さは、目を覆いたくなる。だから人は何かに価値を求め、何かに意味を求め、何かに証を求め、そしていつしかそのループから脱出する手立てを得る。 離婚を経験して1年が経ちました。この1年間考えてきたことが生きる事の意味でした。まだ苦しんでいます。これからも苦しんでいくのでしょうか。生きることは苦しです。生きることも生への執着だからある意味煩悩ですよね。矛盾していませんか。どうでしょうか。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1