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問答一覧
検索結果: 438件

心の平穏が得られないです。

他の問答で仏教は"心の平穏"を見つける事と書いてありましたが心の平穏が見つからないです。 ずーっと死ぬor投薬を数年続けてて最近本当に生きるのをやめようと確信しつつあり、今はもう絶望感と戦いながら生きてます。おそらく私の年代でここまで人生に苦痛を感じて、失敗して、でも普通の人ぽく振る舞い、誰にも悩みを離さず生きてる人はかなり少ないと思います。 365日10何時間「死にたい、生きる意味は?生まれてこなれけば」と何度も考えている人間ですよ? そんな私はやはり苦しみについて人以上に考えるし、哲学や仏教に自ずと向かいます。 でも普段心の平穏や幸福な人たちはどちらかというと、ここハスノハで説教されるような不勉強な人達で何の苦労もないし、不幸も少ないです。人生勉強とかいうけど勉強の量が圧倒的に違うし不公平すぎる。 ここで説教されるような物事の解釈を変えるとか感謝とか人以上にしてるし、人以上にどうすればいいか勉強してますし考えてます、説教されてない幸福な人より何億倍も向き合いました。 毎日死ぬような目にあって、希望もなくて、自信につながるようなことはなくて、不幸ばかり。 そんな時に"心の平穏"と言われても無理、できるわけがない。仮に少しでも好転してもこの状態があと何十年も続き、もはや変えられないことの方が多い中、苦しみ続けるのに心の平穏なんて得れるわけないです。 いつも思うのですが、苦しみを減らす方法ってどちらかというと他人を攻撃して嘘をついて生まれた環境や遺伝子の有利さを発揮して利己的に生きる方が何億倍も心の平穏が生まれるという事。 毎日苦しんでる私のような人は平穏どころか苦しみばかりです。どんな捉え方をしてもやはり不幸なのです。 そしてそんな運の悪い人は仏教を勉強しても悟りについて考えても知名度のあるお坊さんに負けてしまいます。結局知名度もあり、欲を楽しみ、私よりも恵まれてるお坊さんが"心の平穏"こそが悟りといってるだけじゃないかと思ってしまう。 実際は悟りなんて無くて生まれた時に苦しむ人は苦しむだけの人生なのでは?と。 一度人生の地獄が続くと脳細胞が死滅していてもはや戻る事は不可能です。 仮に生まれて虐待されて親に愛されなくて友達に虐められて苦しんで自殺した人ってもはや何を悟るの?と思います。

有り難し有り難し 44
回答数回答 3

人間はなぜ修行しなければ悟れないのか?

ご質問させて頂きますハルソラと申します。 私は禅の思想に感銘を受け、座禅修行を念頭に日々の生活を送っております。 多数の書物やお話から理屈では「なるほど悟りとはこのようなものか」と理解しつつも、お坊さまはご存知の通り、頭の理解でどうにかなるものではなく悪戦苦闘の日々です。 そこで私はふと思いました。なぜ人間はこんなに修行しなければ悟れないのか?…と。 昔、文鳥を飼っていた事がありますが、文鳥は悟っていると思いました。 すべての行動が「作為なく自然体で、ありのまま」なのです。 例えば、指で突っつくと怒るのですが、次の瞬間に手のひらを差し出すと、怒っていた事はすっかり忘れて手のひらに乗って機嫌良くしているし、 晩年は羽の力も衰えて全く飛べなくなりましたが、そんな事を気にしたり落ち込んだりする様子もなく、シャカシャカと素早く走りいつも通りのご機嫌なのです。 動物植物などはそのように「ありのまま」生きている(…と思う私の推測ですが)のに何故に人間は長い間たくさんの修行をしてやっと悟れるか、あるいはそれでも悟れない、という言わば面倒な存在なのでしょうか? お坊さま方もお忙しい中まことに恐縮ですが、ご教授よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 42
回答数回答 5

修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?

(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?

有り難し有り難し 86
回答数回答 4

プライドの煩悩と能力を反比例させるには。

1、これまで出会ったデキル人達は、在家も出家も 男性も女性も 総じてプライドの煩悩も強かった気がします。他を見下している人も多かったです。攻撃的な性格の人も多かったです。 有能、優秀で、実績もあり、容姿も優れ、尚且つプライドの煩悩もない、もしくは平均よりだいぶ少ない人物を ご存知のかたいましたら、ぜひ教えてほしいです。こっそり尊敬してお手本にします。 2、読み物を読む限りは、お釈迦様はプライドが高いように感じられるのですが、皆さんはいかがお感じですか? 実際にはお釈迦様は無上の悟りを得ておられるということは、プライドの煩悩も皆無ですよね? プライドが高いかのように描かれているのは書き手の技量不足によるものですか?  3、プライドの煩悩を弱め、最終的には消すための具体的方法をご存知のかた居ましたら、教えてほしいです。 また、実際にプライドを弱めることに成功した体験者のかたいましたら、ぜひ体験談や修行方法を教わりたいです。私も修行に励みたいです。毎日の八正道の実践は正直難しいなぁと感じていますが、難しいなりに心がけてはいます。私は怠け者なので、正精進するだけでも、プラスの効果を感じております。アドバイスくださったお坊さん、有り難うございました。

有り難し有り難し 23
回答数回答 2
2022/09/03

無欲すぎる

無欲すぎることに悩んでいる25歳社会人(8月末退職)です。 新卒で入社した会社を8月末で退職し、次の仕事を探している段階なのですが「やりたいこと」「働く上で興味があること」がなかなかでてこない状況で、自分について考えてみることにしました。   小学生のころから「おこづかいあげる」と言われても「いらない(今の私には必要ないから)」と言って断るので家族から驚かれるような子供でした。 また年頃の友達は「かわいくなりたい」「痩せたい」「メイクしたい」「おしゃれしたい」といった欲から自分磨きに励んだりしていましたが、私は友達のように熱心に自分に向き合う人間ではありませんでした。   私は他人のためなら頑張れたり行動したりできるタイプの人間でした。困っている人は助けたいし、私を頼ってくれた人には全力でこたえたいと思っています。究極の利他主義で友達からは「お人よしすぎる」「自分の利益を考えた方がいい」と言われる始末でした。   確かに、他人に時間を割きすぎて自分を顧みる時間がなく心身が疲れてしまったり、もう少し自分のことだけを考えてもよいのではないかと思うことが時々あります。でも誰かの為になっていることが巡り巡って自分の幸せにもなっていると思います。   長くなりましたが、なかなか自分のこと「だけ」を考えて損得感情をもったり、自分自身に興味や欲望の「矢印」が向いていないのではないかと思っています。 人間は煩悩が誰しもあり、その煩悩を取り去ることが悟りへの道だと思いますが、私はそぎ落としてもいないのに欲望の熱がほかの人より低いと感じます。年を重ねてそぎ落とされ悟るのであればよいと思いますが、25歳の段階でこの具合だとこれからの人生に彩りがなくなってしまうのではないかと感じます。   「お金を稼ぎたい」「キャリアアップしたい」「誰かのために働きたい」こう言った「欲」は良い欲だと個人的には思います。「欲」がないと指針がなく、熱もなく、前向きに頑張る原動力がなくなってしまうからです。   相談する相手が違うと言われればそうかもしれませんが... 欲を見出すにはどうしたらいいのでしょうか? それともこの無欲の状態は人として健全な状態なのでしょうか? 難しいことを聞いてしまって申し訳ありませんが、できるだけ多くの方のお考えやご意見をいただければ幸いです。 どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 12
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私は本当のダメな人になってしまった。

私はずっとダメなやつだと思っていました。 がんばっても、がんばっても 結果が出ないし、 それどころか 人に迷惑ばかりで、 怒られることがおおくて とても落ち込んでいました。 そんなやつはみんなに嫌われて当然と よく、親から言われました。 私は嫌われたくなくて 必死だったのに、 報われなかったんです。 ずっとです。 自分なりにがんばってきました。 でも他人から見たら 全然頑張っているようにはみえなかったようです。 全く落ち着きがなくて 他人から見ると意味不明なよくわからない間違った頑張りで空回りしてましたから。 私は人に相談ができませんでした。 自分のことをちゃんと話すことがうまくできなかったし、 いつも、おまえは恥ずかしい ちゃんとしなさいといわれていたから ちゃんとしなさいとまた怒られると思うと誰にも言えませんでした。 でも、最近、 それは間違いだとわかりました。 いっぱい心理の本とか悟りの本とか読んで心の整理ができ、 たった数ヶ月で天と地がひっくり返るくらい 自分はだめじゃなかったと思えて、そして誰も私をダメなやつと言ってなかったし、それはわたしの勘違いだったと思えました。 でも、矛盾しているのですが 自分はやっぱりダメなやつと思っています。 自分は気づくのが遅かったと思います。 後悔してます。 もっと人に早く相談すればよかった。 ぜんぜん悩むことじゃなかったのに、 バカでした。 なんで、こんなに、悩んでいたのだろう。幼稚な自分が情けないです。 とんでもない勘違いをしていて こんなに簡単に解決できることを二十年も悩んできたなんて。バカみたい。 普通の人はちゃんと精神科行くのに、 普通は誰かに相談するのに、 自分がおかしいなと思ったらなぜうまくいかないのか、 普通はちゃんと立ち止まって考えるものなのに。 みんな、別にどうも思ってなかったのに 自分が、自分で 「私は弱くてダメな恥ずかしく惨めで気持ち悪い人です」と証明するような生き方をずっとしてきたので、親にも迷惑かけて 自分を自分でダメにしてしまったなととても後悔しています。 今までいきてたくないなと、思ってましたが、 今度は違う理由で 生きてるのが恥ずかしいから 生きていたくないと、思っています。 私はどう考えていきていけばいいでしょうか。 綺麗事とかはもう、うんざりです。

有り難し有り難し 126
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瞋恚を克服したい

2年ほど前に「カタツムリの外見が苦手なのだが見た目でモノを判断するのはどうなんだ」という相談をして、「恨むほどでもないなら別に嫌いでもいいじゃない」といった旨の助言などを頂いたのですが、そのお陰なのか今では手で触れられる(寄生虫がたまについてるらしいので手は洗いますが)ほど克服してしまい、当時を思い返しては内心で驚いています。 ただ、自分の価値判断を省みる中で一つ気がかりな事を見つけて、その事が少々悩みの種になっています。 というのも、これまで蛇蝎の如く嫌っていたカタツムリを克服した事で心持ちに相当の余裕は出来たのですが、自身が本来したかったことはいわゆる瞋恚の克服であり、しかもカタツムリに関しては貝類の図鑑を眺めたりしてどうしたら克服できるか考えあぐねていたはずがいつのまにか慣れてしまったこともあり、実は本当の問題が解決していないのではないか…と思い悩んでいるのです。 浅学の身で大変僭越ではありますが、私の知る限り悟りというのは本来その実利を全く求めずに明鏡止水の心持ちで行を繰り返す事であると聞きます。 ですが、自分はたまにカタツムリの画像を見ては「どうすれば好きになれるかなぁ」と欲望まみれでひとりごちていただけで具体的なことは殆ど何もやってなかったと思うのです。 今は不便こそしていないものの、もし克服したと思った心持ちが来年変わったら…もし再び嫌いはじめたら…と思ってしまうとゾッとします。 それ故、この心持ちが偶然で終わる前に揺るがなくなるような方法を教えて頂きたいのです。 これは、嫌いなものを増やさない為だけではありません。 自身の身に合わないと思ったものを排斥することに執着しない為でもあります。 これは拙い持論ではありますが、人は好きな物事を愛で続けるより、嫌いな物事を憎み、気がすむまで叩きのめすことにより快感を感じる傾向にあると思っています。 しかし、排斥することに味を占めると終わらない闘争の火種になりますし、何より自身の不満不幸に執着し続け、目の前の満足や幸福を取りこぼす事が自分には一番の災厄だと思います。 物事の全てを愛でるには自分はちっぽけではありますが、せめて恨むなら「恨む」という事そのものだけに留めておきたいと思うのです。

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