hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
問答一覧
検索結果: 365件

疑問

度々すみません。車についての過ちを相談し、過去に一度しか犯しておらず、その後は当たり前に無意識に、安全運転をしてました。だから事故も起こしておらず、その証拠を免許証が語ってます。それでも罪悪感を感じさせてもらえたおかげで再度車の恐怖、安全運転の大切さを知り、この先運転する際この罪悪感が事故を起こさせないと思います。ただ、何故だかわからないのですが、幸せになる事が物凄く怖いです。幸せになろうとするたびに過去の過ち(今までの無数の罪)が脳裏に出てきて、まるで「お前、分かってるだろうな。」と言われてるように感じてしまいます。他の人みたいにしれーっとしたり、能天気に生きれたら楽なのに、幸せへ近づくと、悪いことが起きそうで、因果応報が起きそうで、仮に起きなくても死後何かありそうで、今恐怖の中で生きてる感じです。何で生きてるんだろう、何の為に働いてるんだろう、この先何があるんだろう、.、職場は空港という華やかな世界なので働く人もお客さんも恵まれた環境にいる人達なのが当然でそんな景色を見る度に恵まれていない人たちのことを考えては仕事に集中できず、、、仕事でも先輩とかが話しかけてきてくれても、一線を引いてしまいます。昔はこんな事考えた事なかったです。自分勝手に、時には自暴自棄になって生きてました。この現象はなぜなのか、何を私に言いたいのかが、知りたいのですが、そんな事できるはずもなく、、、とにかく怖い。 どうしたらいいですか。とにかく耐えることが修行もしくは試練となるのでしょうか。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

不条理について教えて下さい。

人は 「真面目に生きていれば」「頑張っていれば」「悪い事さえしなければ」 「人の為に」「困っている人の為に」 と考え実行し生活をしている人も大勢いると思います。 又はそういう考えを持たなくても 自然とそういった生き方になっている方も少なくないと思います。 そういう生き方に対しては成果が出て欲しい、 成果が出なくともよくない事は最小限であって欲しい又はあるべきと そういう生き方ではない人達でさえも そう思うものではないでしょうか? しかしながら現実はそうではありません。 尊敬したくなるような方 普通の方 他人を蹴落としずる賢く生きる方 極悪非道な方 他様々な方 それらとは全く関係ないような事象が起き そのまま終わりを迎える事が多いように思えます。 例えば、生まれてから悪い行いもなく 逆に一生懸命血の滲むような努力を続けていても成果が出ないばかりか よくない事が多く、どうにもならなくなり力尽き 最後には苦しんで苦しんで人生を終える方も少なくないと思います。 それは本人も苦しいし周りにいる人も苦しい上に 本人が居なくなった後も周りの人は苦しみます。 これらを不条理とした場合、 子供にどう教えていったらいいのか難しいと思う事や 自分自身どういう考えを持ったらいいのか悩みます。 結局「努力をすれば」ではなく「成果の出る努力をしないと」になってしまうだけです。 これを前向きになれるような説明をするには 死後の世界・死後の魂・前世などを持って来ることが多いかと思うのですが それを信じる又は受け入れる事が出来ない人も少なくないと思います。 私自身そうですが、かと言って宗教思想を否定する考えでもなく 普段は仏壇に手を合わせたりお墓参りをして 形だけではなく心から敬う気持ちも持ち合わせます。 ただ先の事を考えると人生の最後は「無」になってしまいます。 そういう人に人生の糧をのようなものを見出させてあげる考え方が思い浮かびません。 仏教(ほかの宗教もそうだと思うのですが)は基本的には 死後の世界・死後の魂・前世など有りきの思想だと思うのですが それを無くして人に何かを見出させることは出来るものでしょうか? それとも死後の世界などを信じる事が出来ない時点で宗教思想を否定することになり そういう人との間には相容れないものなのでしょうか? どうぞ宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 45
回答数回答 3

浄土とは何か

お世話になっています。浄土真宗についての質問ですが、浄土というのは死後の世界だと解釈しているのですが、どうも死後の世界ではないと解釈している人もいるようです。浄土真宗は、この「浄土」というのが大前提の教えなので、この「浄土」が分からなければ教えが根底から変わってしまうのですね。そこが悩みところです。 浄土真宗の教義について僕の一連の解釈を書きます。 1本願に疑い無くなるのが信心 2しかし、本願を信じられない 3信じられないのは煩悩があるからだ 4阿弥陀仏は煩悩ある者こそ救う 5そこで、「自分にできることはなかった」と自覚する(機) 6阿弥陀仏の浄土に救うという「働き」(本願)のみがある(法) これが一連の僕の理解です。僕は「異安心」なのでしょうか?すごく不安です。これはあくまで「死後」を前提にした解釈です。 浄土真宗の救いは、「自分の姿が明らかになることだけだ」と言う人もいますが、それだけだと何のメリットもなく、ただただ自分に失望するだけだと思うのです。しかし、自分の姿を知り、「だからこそ、死後、阿弥陀仏に救われるのだ」と解釈すれば、煩悩を受け入れることができ、様々なメリットがあると思うのです。 僕が浄土を死後の世界と解釈する理由は、浄土が死後の世界じゃないと、死後の解決にはなりませんよね。 自然の理法(仮の阿弥陀仏の解釈)におまかせするのも、解決になるのではないかとも考えましたが、それは「死の解決」であって「死後の解決」にはなりません。だいいち、自然は何をするのか分かりません。地震を起こしたり、コロナを起こしたり、そんな自然におまかせするのは、余計恐怖でしかないように思います。 ただ、死後の解決には死後の世界は必要なのですが、仏教には「無記」というものがありますよね。死後があるのかないのかは人間には分からないから、今を生きなさい。という内容だと解釈していますが、これも一理あると思っていて、浄土の教えは死後を説いているのか、いないのか、どちらでもないのか、分からないのです。これは、浄土真宗の一番重要なものだと思うのです。皆さんは「浄土」をどのように解釈しているのか気になって書きました。詳しい方、回答していただけると有難いです。 南無阿弥陀仏

有り難し有り難し 23
回答数回答 3

死ぬことが頭から離れない

私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。 完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。 ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。 こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。 死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。 死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。 生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。 死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。 この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。 まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 87
回答数回答 4

この世がすべてと思うと怖い。生きる執着心

私は生きる執着が強いがために地震や病気に過剰に反応してしまいます。生きたいと言うより死後、無になるのが怖いです。だからあの世の世界を信じたくて霊や死後の世界についての本を見てしまいます。この世が全てだとしたら事件や事故に巻き込まれて亡くなった人の死が理不尽でニュースを見るたび気が滅入ります。でも長生きしたが故に子供の死に直面することもあると考えると長生きが全てではない。死に方は重要ではないと思うようになりました。もともと生まれる前は無でしたからそこに帰るだけなのかなとも思います。生きているから感じる不安や恐怖ですが疲れてしまい、生まれてこなければよかったと小学生の頃から感じています。でも自死はしません。生まれてきてしまったのだから真っ当に生きるのみです。死後の世界もこの世にいる人に語れる訳がないし、否定も肯定もできません。私は白黒はっきりしないと気が済まないので、わからないことに恐怖を覚えます。なので普段あまり悩まないし、答えのないことで悩むことが多いです。生まれてきた意味だってない。ただ、この世は修行だと思うと、わからないことや曖昧なことはありのまま、曖昧なまま受け止められるようになることが課題なのかと思ったりもします。でも、この世でどんな風に生きていけばいいのかわかりません。家族が殺されても、地震が起こっても、戦争が始まっても、隕石が確実に落ちてきて地球が滅びるとわかっていても、動じることなく自分が死ぬまでひたすら淡々と生きるのが人生ですか?人の役に立とうが神様を信仰しようが殺されたり短命の人もいます。いいことをすればいい縁ができると思っていたけど、結局見返りを求めてしまっています。人生が修行なら、その中で楽しいことや嬉しいことを経験できることが有り難く幸せなことですよね。修行はつらく苦しいものだからそれが当たり前なのに、私は恵まれているし幸せです。それなのに過度に不安になったりこの世が全てだと思うと絶望的な気持ちになったりして、罰当たりだと思います。もっと人生を楽観的にというか、いつ死んでも後悔はないし真っ当に生きたと言えるようになりたいです。死後の世界があろうがなかろうがどうでもいい!今を生きる!こんな風に考えられるようになりたいです。この弱さとどう向き合えばいいでしょうか。

有り難し有り難し 10
回答数回答 2

母の突然死 後悔ばかり

母が突然死しました。起こしに行くとすでに冷たく死後5〜6時間が経過している状態でした。 元から精神的な病気がちで寝ている事が多く同居している家族も気づかなかったそうです。その顔は本当に眠っているようにいつもの寝ている姿勢のまま綺麗でした。 近所に嫁ぎ妊娠中に急遽体調不良になり入院し出産してからはたまに顔を見せに行っていました。 その度に喜びいつもなら自分の体調の事ばかり話す母が私や子供の事ばかり気遣ってくれ喧嘩もする事なく平和に過ごしていました。 最後に、孫の体調の心配やまた遊びに来てねと電話で話し3日後亡くなり全く気持ちが整理できません。まだ孫は3か月。 第一発見者は私でした。いつもならわざわざ寝室に入り身体をゆすったりしないのですが何故かその日は体が動き母を発見しました。色んな偶然が重なりの発見でした。 母はあの世で幸せに暮らせますか? 中々子育てや家事や自分の体調に追われて会いに行けなかったから寂しい中で死なせてしまい悲しんでいないでしょうか? また私は母に呼ばれて 遺体を発見したのでしょうか? 母にまた会えますか? 夢に母がよく出てきてくれますが未練があるのでしょうか? 質問ばかりで申し訳ありません。

有り難し有り難し 60
回答数回答 1
2021/07/18

過去に人にひどいことばかりしてきました

お忙しい中、失礼致します。 もしよろしければ、お話を聞いてください。 私は現在30代で家庭を持っていますが、若い頃は非常に未熟な人間で、人に様々なひどいことをしてきてしまいました。 自分の保身や利の為に結果的に友人を裏切るようなことをしてしまったり、酔った勢いの悪ふざけで人の体に痕が残るようなことをしてしまったり、人のことを面白おかしくいじってしまったりと、本当に最低な人間です。 言い訳では全くないですが、その当時は私自身に自傷癖があり、人に対しても傷をつけるということへのタガが外れていたように思います。 本当に最低最悪な人間でした。 何年も経ってからようやく自分の過ちに向き合えるようになり、傷つけてしまったという方々には、連絡の取れる範囲で謝罪をさせてもらいました。 それでも、結局私のした最低な事は消えるわけではなく、自己満足でしかありません。 傷つけてしまった方々の心の傷は残りますし、もしかしたら身体的な傷も残っている方もいるかもしれません。 実は数年前に家族を自死で亡くしており、自分がしてきたひどいことが因果応報となって巡ってきたのではとも思っています。 家族までも、私のせいで巻き添えにしてしまったのかもしれません。 こんな私でも現在配偶者も子供もおり、幸せで恵まれていると感じますが、こんな最低な人間が幸せに暮らしていていいのだろうかという気持ちが消えません。 配偶者にも、全部を話しておらず、話すべきとは思いながら、こんな最低な人間であることを話していいものなのか迷っています。 こんな人間は、きっと死後家族と同じところへは行けないですよね。 私のしてきたことが許されるとは思いませんが、私はどのように生きていけばいいのでしょうか。 どのようにしたら、傷つけた方へ償えるのでしょうか。 上手くまとめることができず、わかりづらくて申し訳ありません。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

死ぬのが怖い、身近な人にも相談できない 辛い

現在、大学4回生です 中学生の時、突然に「死んだらどうなるんだ?」ということに気が付いて恐怖のあまり嗚咽が止まらなくなったのを覚えています。親に相談しようにも、タブーに触れるようで出来ませんでした。 その時は考えに考えて結局わからないということで放置していたのですが、ここ最近になってまたその考えがまたやってきました。 地元の信仰が浄土真宗本願寺派だったのでその考えに基づき、死生観を考えていたのですが、納得できませんでした。 納得というか、信じきれてないというのが現状なのかもしれません。 真に信仰が出来ていたらそもそもこの質問が出ないことになりますから。 どうしても考え方に疑いを持ってしまうのです。「ホンマかいな」と。この「ホンマかいな」自体が信仰に対する冒涜、罪なんでしょうか。 化学に詳しいわけではないのですが、どうもその前提に結び付けてしまします。(無知なのは重々承知しています)生きている状態なのになぜ人の死後が説けるのか?とか。脳がないのに意識は死後存在し続けるのか?、お浄土は本当にあるの?などです 臨死体験も結局は死に切れてないですし、死後の見解が地域、信仰、人によってそれぞれ違うのも疑問です かといって「死後は無なんだよ」「意識はただの脳内の電気信号なんだよ」と言われればとんでもないくらいの恐怖にのたうち回ります。死後、体も感覚も思考も、自分自身も消えてなくなり、二度と目覚めることはない。そんな状態が永遠に続くと思うと... 様々な文献、記事を読み漁っても「そういう考え方もあるのか」程度にしかとれず合点がいきません。 今を生きることこそが大切、もっと他にすることがあるんじゃないの?と言われそうですが、そうではないんです。死後が知りたいのです。 利己的な見解ばかりで申し訳ありません 自分自身でも、どう質問してよいか漠然としててわからないのです 僕以上に、もっとつらい思いをしている人がいる中で... ここまでの人生、たった21年の短い人生ですが、何不自由なく生かされてきました。両親、祖父母そして周りの人々には感謝しきれません。これから、家族やお世話になる人達にいっぱい自分の受けたモノをお返ししていきたいです。 故に死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。 どうか僕に納得できるようなお考えを教えてください。

有り難し有り難し 66
回答数回答 4
2022/08/21

夫の女性問題後、父が急死。夫への感情

10年前、結婚直後に夫が特定の女性と親しくしていました。携帯での登録は偽名を使うなどし、私に隠していました。 そのことで結婚2ヶ月後に喧嘩をしました。同日はその後、実家で私の両親と食事をとる予定を組んでいました。夫はやめようといいましたが、私はせっかく予定を組んだし、と説得し、夫婦で実家に帰りました。そして楽しく食事をとり、夫とタクシーで帰る途中、夫がまたその女性に「会いたいね」と連絡していました。それを見て、私は泣きながら母に連絡し、母が迎えに来てくれて、私は実家に帰りました。 その数時間後、父が急に心臓発作で亡くなりました。前日にお酒を飲んだこと、その日の朝に飲食せずに運動してしまったことによる脱水に伴う心臓発作でした。いつも朝は母が父に食事や飲み物を出すのに、その日の朝は疲れて寝てしまっていました。 私が無理して帰らなければ父は死ななかった。 離婚を考えました。しかし、父が、夫を改心させるために身代わりになったくれたように思ってしまい、この人と幸せにならなければならないと考えました。 その後、なんとか自分を保ちながら、子供が2人できました。もともと女性関係がだらしなかった夫ですが、父の死後、時間をかけて改善され、今は女性問題はなくなりました。 父の死の直後は、夫は飲み会などには行き、家庭のことを省みてはくれませんでした。一人目の子供(娘)が産まれてからも、私が一人で子育てをしていました。 二人目の子供(息子)が産まれてしばらく経ったころから、夫は家のことや育児を手伝ってくれるようになりました。この頃から飲み会などにも行かなくなり、女性問題はないです。今はとても良くやってくれています。 夫は私のことを大切だといい、長い時間をかけて、家事育児もしてくれるようになりました。今の夫はよき父だと思います。私への思いやりもあるのだと思います。しかし、私より娘ばかり可愛がっているように感じますし、私に優しい言葉をかけてくれたりはしません。夜は、子供を腕枕したりしますが、私にはそっぽを向いて寝ています。 今、父がいないことにより、父の会社が大変になってしまっていること、父の命日が近いことより、ふさぎこんでいます。 10年経っても心の底から幸せと思えず、いま離婚は考えていませんが、このまま夫と一生を過ごすのか、どのような気持ちで過ごしていけばいいのかわかりません。

有り難し有り難し 24
回答数回答 1

死について考えすぎてしまいます

現在高校3年生です 受験を一通り終え人生の節目に立ったことと、時間がとても余っていて暇なこともあってか、ここ数日死について考えてしまいます。受験とコロナという状況も相まって自室という閉塞的な場所に長期間いて家族以外とあまり会えず精神状態が不安定なのかもしれません。 僕は今までとても幸せな生活を送ってきてこれまでの人生に後悔はありません。 だからこそ、いつか来る終わりが怖くて仕方ありません。 死については科学や宗教など色んな立場の人が色んな意見を出し合っていると思います。 今この世に生きている以上結局死後のことは何も分からないことも分かっています。 けれどあれこれ考えてしまいます。 もう大学生ですし結婚願望もあるので親と一緒に過ごせる時間やそして必ず来る親の死、自分の寿命が尽きた時の自我の消滅などを考えると怖くて仕方ありません。 僕としては自分が死んだら、親や兄弟、ペットとまた幸せに暮らしながら、自分の子孫などを見守り、時が来たらその子とも暮らしたりという、あの世での永遠を望んでいます。 これはとても都合のいい考えだと分かっていますが、こうでも考えないとおかしくなってしまいそうです。 もちろん死ぬまでは精一杯生きるつもりですが皆さんの考えを是非お聞かせ頂きたいです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

愛犬2匹との離別について

以前、離婚するかを悩み相談をした者です。 こちらでとても温かいお言葉を頂き、なんとか修復をしようと思っていましたが結果、離婚する道を選びました。 離婚をしたこと自体は後悔はしていません。 ですが、私達夫婦には子供はおらず2匹の犬を飼っていました。 犬を連れて行きたくて、ペット可の物件を借りました。 しかし、2匹両方は金銭的にも厳しく1匹だけと決めていましたが、悩みに悩み結局2匹とも連れて来ませんでした。 やはり、犬のことを考えると私といるより元夫といて今までと変わらない場所で生活をした方が幸せではないかと思い決めました。 2匹を引き離すことも可哀想で、1匹だけ環境が変わり毎日仕事でほとんど家にいない私と一緒にいて幸せだろうか。 元の家に戻りたいと思うのではないか、もう1匹と離されて寂しい思いをするのではないか…と、いろいろ考えてしまい最終的に元夫に犬2匹を幸せにしてくれることを条件に離婚を承諾しました。 離婚後、元夫と別れたことよりも犬2匹と別れたことの方が辛く毎日毎日思い出すと胸が痛いです。 私はもう二度と元夫と会うつもりはないと決めて離婚しましたので、犬と会うこともできません。 でも、無性に会いたくて会いたいたくて辛くなります。 でも、生きているうちには会えないのは覚悟しています。 だから、せめて死後は会いたいと思ってしまうのです。 いつか、お互い天寿をまっとうして人生を終えた時、あの世で会えるでしょうか。 どうか、教えていただけませんか? どのように心の整理をして私は生きていけばいいのでしょうか。

有り難し有り難し 27
回答数回答 1
2023/02/20

死ぬのが怖いです。

初めてこのサイトで質問をする中学生です。 私は幼い頃、意味もなく虫を殺してしまったことがあります。また、人からお借りしたものを無くしてしまったこともあります。そのことを深く後悔し、捕まえた虫は逃し、精一杯人に親切にするように心がけていますが、今も毎日歩くたびに、手を洗うたびに、息をするたびに、たくさんの微生物を殺し、食事のたびにたくさんの動物の命をいただいて生きています。人に悲しい思いをさせてしまうこともあります。 最近、こんな自分が世界一の悪人であるように思え、命を脅かされることもなく幸せに暮らしていることが心苦しくて仕方なくなりました。すると、死後に罰を受けないはずが無いと思い、何をしていても死の恐怖が頭から離れなくなってしまいました。今この瞬間も生き物を殺してしまっているのだと思うと、心臓がバクバクして、辛くてたまらなくなります。それでも、罰を受けたく無い、死にたくないと思ってしまいます。幸せを実感するたびに、申し訳なさと、死の恐怖で頭がいっぱいになります。自分勝手なことだとわかっていますが、死後もずっと今のように家族や友達と笑い合って、今のように平穏で幸せな暮らしをしたいと思ってしまいます。死によって今の幸せに終わりが来るのが怖いです。 私はやはり地獄へ行くのでしょうか。死んだら、もう二度と大切な人たちと暮らせないのでしょうか。めちゃくちゃな文章でごめんなさい。回答をいただけると幸いです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る

お坊さん33秒法話ピックアップ