上山春平・梶山雄一編 「仏教の思想 その原型をさぐる」 より 縁起ということは相依性(idappaccayata)ということで、相依性とは「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがなく、これが滅びるから、かれが滅びる」ということであると説かれている。後の中観学派では、この相依性は交互因果・交互媒介の意味でAとBとが、AがあるときBがあり。BがあるときAがあるという、A⇔Bの関係を成立させることであるという。『中論』の立場は空すなわち無自性(自己原因としての実体概念の否定)ということを、一切の存在(法)の交互媒介性によって考えようとするのである。 原始仏教の縁起説で縁起支の相互の関係が一方的な基礎づけの系列であるか、あるいは交互媒介的であるかは、わが国の学者の間でも議論のあったところで、一方的基礎づけと考えるのは和辻哲郎説であり、交互媒介説は宇井伯寿説が代表的である。和辻説によると、縁起支の関係がもし全く相互的であるとすれば、根拠付けの系列に縁起支の全体を秩序付けることも、本来不可能なことになる。これに対して宇井説は、原始仏教の縁起では、それぞれの縁起死が自己の中に全系列を映じ、いわば世界とモナドのような互いに映じ合う関係にあるとする。その結果縁起支AとBとの間に予定調和に基づく相互融入の関係が成立する。要するに相即相入という華厳哲学の交互媒介を───一即一切の世界観を前提としながら───原始仏教の縁起説の相依性を及ぼそうとするのが宇井説の特色である。 宇井伯寿や和辻哲郎は共に十二支縁起を「相依性」と解釈していた筈ですが、これによると両者の縁起観に若干の違いが有ると見受けられます。 和辻の主張する「一方的基礎づけ」と宇井伯寿の主張する「交互媒介」にはどのような違いが有るのでしょうか? 両博士は縁起の「相依性」を主張していた筈ですが、私にはこれらの差異が何を意味しているのかさっぱりです。
女手一つで育ててくれた母が癌になり、余命僅かです。 母は父の裏切りで離婚した後、子供の為に働き詰めでした。40代で髪は真っ白になったそうです。 苦労だらけの人生でしたが、ようやく定年後にゆっくり過ごせる時に癌が発覚しました。 しかも、漿液性癌と言う珍しい癌で予後が悪いものです。 母は常に周りの為に動き、みんなが嫌がる事も進んで引き受けるような人です。 そんな徳を積んだ人生を歩んだ母が、今は末期癌の痛みや苦しみでもがいています。 なぜ母がこんな目に遭うのでしょうか。 なぜ運命は最期まで苦しめるのでしょうか。 世の中、太々しい人や性悪な人の方が長生きして最期まで人生を謳歌しています。 神も仏も無いと思いました。
仕事など、家以外で目一杯頑張って外面を作っているせいか、家では誰にも気を使わず一人になりたいと最近特に思います。 子供にも穏やかに接してやれてない事も多々あり、そのせいか、子供達も喧嘩が絶えず、それを見てはまた腹が立ちイライラしてなんとも言えない気持ちです。 周りの全ての人に穏やかに、自分を繕って接する事が出来ません。 精神的に疲れてしまった時はどうすればいいのでしょうか。
こんばんは 八十八箇所巡礼/R指定 という曲はお坊さんの為の曲だと思います ビジュアル系インディーズバンドです 興味を持たれましたら、お聴きになって下さい 歌詞を御覧になるだけでも結構です ちなみにR指定の他の曲は聴いては駄目です 真っ当に生きてらっしゃる方が聴く様なものではありません しつこいようですが、絶対にお聴きにならないで下さいね 聴いてしまった場合、何という曲かお教え下さい 中には無害なものもあります よろしくお願いいたします
質問というか。 在家出身のお坊さんって大変じゃないですか?お坊さんとしての仕事はほとんどゼロという方が多いのでは? 個人的な推測ですが。
禅宗の事を海外の方に、コロナ禍を踏まえながらメディアで伝えたいと思っています。 話の流れとして、コロナウイルス蔓延の主な原因とされている、人間により生物多様性が失われ、ウイルス媒介者のバランスが崩れた事を挙げ、坐禅と山寺の訪問を通して、自然をコントロールするのでなく、自らも自然の一部であることや、他者支配などの執着を捨てる事を受け入れることに繋げて結びたいと考えています。 そこで質問です。 海外の方は、特にIT系の方はスティーブ・ジョブズが実践したように、心を落ち着け、個の霊性、才能や内なる力を目覚めさせる為のメソッドとして禅を捉えていて、憧れています。 そこまでは説明が簡単なのですが、 そこから 執着を外していく中で、自分を自然や宇宙の一部だと考える境地に至るまで、利己でなく利他にまで心をシフトさせることにかなりのハードルがあります。 スティーブは究極の利己のイメージがあるのですが、それが結果的に人の心を揺さぶるものだったという事から、自然との共生のメッセージに繋げ難いのです。 次の時代を生きるヒントとして、 禅の教えを、単なるマインドフルネスのメソッドとしてではなく、人と自然のバランスを考えるための大きな内観法として伝えるには、 どのような言葉で伝えるのが良いでしょうか。 ご教示頂けますと幸いです。
毎朝、自宅の神棚に手を合わせ、インドネシアのガムランボールでお払いをし、キリストキリスト教会で聖書を学び、仏教も学ぼうとしている、多神教のような中途半端なのですが、神様に頼るから手を合わせるのですが、神様はいるのだろうか、全員の祈りが聞き届けられたら、矛盾が生じるとも考えてしまうことがあります。 仏教から見たキリスト教の率直な考えをお聞かせください。
僕は今就職活動でなかなかどの会社に働きたいかきめれません。特になりたいってものがないため他の子がどんどん進んでいく中で自分だけが置いてかれていると思って不安です。自分にあったものをみつけるにはどのように努力すればいいでしょうか。
自分はクリスチャン家庭で育ちました。天の父(神)とキリスト(神の子)を信じれば救われるという教えで日々祈り、聖書を学ぶということを約12年間続けて高校生である時ふと疑問に思うことがありました。 仏教もイスラム教もヒンドゥー教もキリスト教もどの教えも悪ではなく善を教えていて、どの教徒も疑うことなく自分の信じたモノに誠心を捧げて真摯に向き合っているのにどれかが答えで他はアウト、地獄に落ちる、罰をくらうというそんな酷いことあってたまるのだろうかと。 ましてや生まれつきの環境もあるだろうし、出会い方もそれぞれだろうし、無宗教もいるだろうし、そんな一つのものに答えがあるのなら世界人口の三分の二以上は落ちるのではないかと。 母に言及すると跳ね除けられてキリストを信じれば救われるの一点張りです。 牧師にも言及しましたが『信じないものたちは終わりの日(キリスト再臨の日)に悔い改めるチャンスがある。信じなさい』と言われました。 個人的にはそれがすごくショックで幻滅しました。 そこで自分は宗教というものから一旦離れて自分なりに解釈してみました。 この地球を一種の魂の試験場だと考えて良い行い(人に感謝されること)をし、肉体的にも精神的にも人として成長し、全うして生きれば魂ポイントが上がって皆等しく天国に行き、当分そこに留まった後また輪廻転生し、悪を働けば魂ポイントがマイナスになりその回収として地獄で訓練的なものをする(借金状態)、回収後は輪廻転生。 そしてこれを繰り返して魂ポイントがある一定数貯まると次のステージ(4次元とか5次元)でまた訓練して魂レベルを高めて最終的のゴールとして神(世界の創造主)と一体化もしくは神に近づく、という結論に至りました。 御先祖様、守護霊様の存在は固く信じてます。 ぜひ僕の考えについてご指摘あれば伺いたいです。 またお坊さんとしての解釈、回答者様自身の解釈を聞かせていただきたいです。 最近この事でムヤムヤしてろくに眠れてないです…。
私は仕事のサボり癖が抜けず長い間悩んでいます。そのため様々な方に相談させていただきいろいろなアドバイスをいただきました。結局は問題はあまり解決していませんが、こんな相談を聞いていただいた方皆に感謝しています。 さて、この悩みを一度だけお坊さんに相談させていただいたことがあります。妻が昔、評判のよいある高名な僧侶に相談をしたことがあり、その伝手で私もお話を聞いていただけることになりました。 ただし、すでにかなりご高齢であったため、そのお寺に連絡した時点では残念なことにその僧侶の方はお隠れになられていて、跡を継いだ和尚様がいらっしゃいましたので、その御方にお話を聞いていただけることになったのです。 そのこと自体は大変有り難く、またその和尚様が比較的若いとはいえ不満を覚えたわけでもないのですが、しかし、やはりモヤモヤとするものが残ってしまったのです。 はっきり言って、20年近い間に多くの人に相談しておいて未だに解決しないものは、誰に相談しようがどんないい方法だろうが到底変わらないだろうことは感じつつあります。それでも、人生経験が豊富な方や、長年多くの人の悩みに向き合って来た方であれば何かあるのではないか、という考えが頭を離れません。 自分は有能な人や名声のある人に弱いのはわかっていて、それだけでは必ずしも意味はない、と言葉では頭に入れたことがあるものの、本当の意味では身についておらず、すごい人についていきたい、という願望が抜けません。 当時はありませんでしたが、このウェブサイトではたくさんの僧侶の方が様々な悩みにご回答されていて有り難く思います。私自身は仏教の業界にはまったく疎いのでどなたが高名か、などといったことはわかりませんが、しかし仮に評判のよい高名な僧侶の方がいたとして、そのような御方に相談することは意味があることと思えますでしょうか?
私は、正直可愛い方です。それをありがたいと思っています。 でも、自分より可愛い子や同じように可愛い子はたくさんいて、それが嫌で納得がいきません。 十歳以上も年下の子に妬いてしまいます。 また、可愛くなくても愛されるのでしょうか。 どうしたらそういう嫉妬心はなくなるでしょうか?
お坊さんは、どんなふうに休憩しますか。休みをとりますか。 私は、どうも休憩の仕方が下手です。 精神的な疲れが休日があっても全くとれません。 精神的疲労がたまるばかりで辛いです。 仏教と少し関係のない質問で申し訳ないのですが お坊さんのアドバイスをいただきたいと思い質問させていただきました。 よろしくお願いします。
カトリックですが、神父さんに相談しても解決しないので、こちらにおすがりしています。 数年前、ヒルティと言う偉人の書いた幸福論3部作に心酔しました。良い事も書かれていて非常に感銘を受けました。只、迷信も結構書かれていて、、書物や場合によっては人との出会いは導き、とか。人との出会いは導き、と言う事を信じてしまい、当時出会った人と結婚しましたが、タイプの方では無かったのですぐに苦しくなり、、やむ無く離婚を申し出て相手を非常に傷付けました。私もそんなひどい事を自分がした事に傷付きました。以来6年半経ちますが、神は何故こんな事をしたんだろうと、考えています。答えは勿論ありません。神を信じられなくなってしまいました。辛いです。神父さんとかは、その出会いにも別れにも意味があると言いますが、彼女の嘆きを見た私には、意味があったとは思えません。何でこんなひどい事を神はしたんだろうと悩み苦しんでいます。神は予定はしない、と神父は言うのですが、納得いきません。ヒルティが迷信を書いていたのを信じたのが悪かったと思っていますが、抜け出せません。どうしたらいいのかなぁ、、何卒宜しくお願い申し上げます。
幸せを求めると失敗する恐怖がつきまとう。 不安を取り除こうとすればより苦痛は増し、 一つ不安を解消する度、新たな不安が現れる。 努力が実って幸せを感じてもあっという間に 消え去って、また不足感に苛まれる。 なにこの無限地獄。 努力とか目標って聞こえはいいけど、 要するに「今の自分はまだ駄目」と否定してるだけ。きりがない。 「頑張る」という価値観にうんざり。 そうやってうんざりしてる自分、 常識からはずれる不安に苛まれる自分、 何が真実なのか混乱する自分、 求めて得たものに本当の幸せはないと悟っている自分、 色んな「私」が溢れかえってます。 きっと「私」という概念そのものが ただの感覚であり幻想なのでしょう。 ありのままに安らぐことはできるのでしょうか。 白隠のように生きたい。
私の身内にはいつも説教をしてくる方が居るのですが その方との接し方に困っています。 その方とはお正月等の行事や身内と集まった時等、 頻繁にお会いする事が多い方の為に余計に疲れてしまいます。 またお酒もかなり飲む方で、 酔ってくると説教の回数も一層と増えてくるので このような場合には どう対処したらいいのかと思い相談させて頂きました。 御助言頂きたいと存じます。 いつもアドバイスをしてくださる皆様には本当に感謝しています。 有り難うございます。
初めまして。 私は20歳で、去年専門学校を卒業し、現在はフリーターをしています。 自分がこれから、どう生きていけば良いのかわかりません。 専門学校に入るまでは『音楽に関わる仕事』という夢があり、その目標に向かって頑張っていました。 しかし、いざ就活という時にその世界に足を踏み込むのが怖くなり、諦めてしまいました。 チャンスもありました。でも、自ら捨ててしまいました。 この春から一般の企業で働くことになっていたのですが、そこでも働くことが怖くなり、直前で辞退してしまいました。 一人暮らしも辞め、実家に帰りました。 アルバイトをしていますが、親のおかげで生活していけてるので本当に情けないです。 アルバイトはまだまだですが、職場の方々は良くして下さり、好きな音楽に関わる事もできて楽しいです。でも、アルバイトから正社員になるのは厳しいです。 『音楽に関わる仕事』を目指す前は、保育士さんになりたかったです。 そのため、保育士の資格を取ることができる専門学校へ行こうと考えているのですが、向いているのか分からないし、また表面だけ見て憧れているだけなのかも、と躊躇してしまう自分もいます。 世の中には自分のしたい仕事に就いている方は殆どいないとよく聞きます。 そんな中で、自分の本当にしたい事を見つけ、希望の職に就くことは難しいと重々承知しております。フラフラできているのも環境に恵まれているだけで、それに甘えているだけです。 ちゃんと就職して家族に恩返しもしたいし、周りの方達を安心させたいです…。祖母は今年78歳になりました。元気なうちに旅行に連れていってあげたいです。 やりたい事を探すのか、安定した仕事に就くのか。本当はどっちも叶えたいけど無理なのでしょうか。 自分は働くことから逃げているだけなのかもしれないです。前向きに考えるようにしてますが、時々フッと自己嫌悪に襲われます。 こんなに自分の本心をさらけ出して相談することはなかなか出来ません。 分かりづらい文ですが、読んで頂きありがとうございます。どうか、ご意見をお聞かせください。
こんばんは。夜分遅くに失礼します。 当方 21歳 大学生です。 言葉足らずで読みにくい文章になるかもしれませんが最後まで読んでいただき回答してくださるとありがたいです。 今日の午後、私は両親の車(新車)を運転しており、助手席に親が乗り近くの施設まで運転していました。 ですが、パーキングのチケットを受け取り右折しようとした時に曲がりきれず、近くの柵に接触してしまいました。 その後、施設の方に連絡し柵自体は擦り傷程度であり「ペンキで色を塗る程度で大丈夫」と言われました。また不幸中の幸いで人や他の車にはあたっておらず警察にも相談し物損事故として扱っていただいてます。 もちろん事故を起こしたのは私の責任で施設側にも申し訳ないのですが、何より父が大切にしていた新車の破損が激しく「私のせいで傷つけてしまった」とそちらの方が精神的に追い詰めてしまっています。 父は「対人じゃないだけよかった。怪我もないし大丈夫」と言ってくれたのですがやはり責任を感じます。 大学生なので車の修理費を負担することもできませんし、「大学生だからそんなことはしなくてもいい」と優しい対応をしてくれています。 そんな私は今後どのように考え生きていけばいいですか? 私はこの事故をきっかけに何か自分の嫌な部分などを変えていければと考えています。
常日頃、気分が落ち込んでいる時は勿論の事、楽しい事をしている最中などでも「自分が死んでも誰も困らない」「むしろ自分が生きているよりも生きていない方がみんなはメリットがある」「だから自分はみんなから死んでもいいと思われても仕方がないし、殺されても文句が言えない」と考えてしまいます。 これを両親や知人(友人と言うのは相手に失礼な気がするのです)に言うと「死ぬだなんて言うな」「貴方に死なれると哀しい」などと言われます。泣きながら言われた事もありました。それが嘘だとは思いません。ですが客観的な認識として、自分がいなければ自分という存在がかけている負担(肉体的・精神的なものから金銭的なものまですべて)が存在しなくなります。自分に関わっている時間やリソースをもっと他の人やものに費やせる訳です。社会的に見れば切って捨てるべき人材です。 また、私が死ぬとメリットがあると考える理由のひとつに「自分が関わって起きてしまう出来事を阻止できる」事が挙げられます。例えば誰かが機嫌を悪くしたり、電車が遅延したりした際に、自分が関わっているという証拠も無ければ、関わっていないという証拠も無い訳ですから、逆説的に自分が全ての主犯であり死ぬべきであるとも考えられるわけです。 繰り返しになりますが、自分が死んでも誰も困らない筈です。例えばこの書き込みは自分がいなければ投稿されることはありませんが、なかったところで誰の得にもならないのです。 これは現実的な見方であり、自分はきわめて冷静に・理性的に判断していると思います。 しかし、どうにもそういうことを考えると、当然であるという認識と同時に酷い寂しさに襲われるのです。 自業自得なのはわかっていますが、毎日のように考えてしまい辛いです。
諸師家様方お疲れ様です。 さて、未だに安居も法戦もままなりませんが、愚禿はこの度漸く伝法(嗣法)、瑞世までの道程を考えて歩ける程度に法灯を賜りました。 そこでこの度安居に入る前に、一つ諸師家様方に「本師としての嗣法のリスク」をお伺いしたくございます。 と言いますのも、可能であらばどうしても嗣法をお願いしたい師がおり、僧堂に往く前にダメ元でも、送安後に、嗣法して欲しいと頼みたいのです。 ですが、背景として「結制していなければならない」だとか「多額に負担がある」だとか「住職後任として世話しなければならない・檀家に公表せねばならない」だとか易々とは行かぬこともあるのではと思ってしまうのです。 私はその師の寺の副住職になって養子になりたいだとかそんな気持ちは無いのです。只、その師を本師と仰げれば何よりであると思う迄であります。 もちろん、嗣法頂ければ、次代の方丈(例えば血縁の婿)が来た際、粉骨砕身して作務を檀務を支えるつもりであります。 そんな気持ちで嗣法賜ることを願い出てもよろしいのか、師家様方にお伺い致します。 どうぞ宜しゅう。合掌九拝。
数ヶ月前に、祖母が認知症になりました。前々から兆候はあったのですが、骨折で入院し、帰ってきた時から少しずつ進行しているようです。 私は、そんな祖母の行動にすごくイライラしてしまいます。毎回同じ話をするのは老いているから仕方ないのでまだ堪えられますが、毎分毎分、特に用事もないのに私の名前を呼ぶのが嫌で嫌でたまらないんです。 こんな事はイライラする事でもない、と落ち着いている時なら思えるのですが、いざその時になるとイライラを堪えきれず、つい大声で反論してしまいます。 祖母はよく認知症らしい事件を起こしていました。私は毎回イライラしてしまい、しまいには、ふとした瞬間に祖母の死について考えてしまうまでになってしまいました。 祖母は、たまにいつもの祖母に戻ってくれます。その時に「怖いねえ、怖いねえ、寂しい」と言っているのを聞くと、言いようのない罪悪感に苛まれます。その度に、祖母も自分も嫌うこんな自分を変えたいと思うのですが、上手くいかず、どうしても後悔する結果になってしまいます。 どんな心の持ち方をしたら、優しく、心の広い人になれるのでしょうか。アドバイスをよろしくお願いします。