宮城県仙台市に住んでおります。 普段、、写経、写仏、読経をします。 読経は真言宗、曹洞宗門で唱えるお経が中心です。 以前、東京に住んでまして、あるお寺で朝と夕に勤行をする際に一般の方も気軽に参加してくださいという寺があり、時間が許す時、参加していました。 今回、転勤で仙台に来ました。 近くのお寺で読経する会がありましたら、参加したいと思います。 宜しくお願いします。
販売職をしています。 ある日お年寄りのお客様が私の事を気に入ってくださり、 ご自身で書いた写経をくださりました。 私は最近からお経を仕事前に唱える事を始めたばかりだったのでタイミング的にも驚きました。 なので頂いた写経も 粗末に扱ってはいけないと思い、 大切に持って帰って来ましたが 保管の仕方がわからず悩んでいます。 もしくは お寺にお納めした方が良いのでしょうか? どうか教えていただけると ありがたいです よろしくお願いします。
6月28日に、一番大好きな大切なハムスターの命日があります その命日に法華経というものを読んではいただけないでしょうか どうかお願いします。 名前はぽふ ちゃんです 女の子です お願いします 本当にごめんなさい お願いします。 苦しい方法であやめました、 本当にごめんなさい ごめんなさい 少し考えれば分かることを考えていませんでした どうかお経を読んではいただけないでしょうか お願いします 自分自身も命日には神社様へ向かったり小屋の床材の入れ替えなど、します どうかお願いします
ご覧いただきありがとうございます。 父の一周忌があるのですが お寺へ渡すお金に悩んでいます。 永代経料と仏具料を用意しないといけないのですが、相場はそれぞれいくらなのでしょうか? また上記の他に供物にお菓子と非時料を用意します。我が家にはお金が無く必死に絞り出している状況です。 しかし住職は父の友人の為、最低限はしなくては行けないと思っております。 ぜひ、ご教示頂かないでしょうか?
大切な方が亡くなりました。 これは宗派によって考え方も違うと思いますが、禅宗の和尚さんにお参りをしてもらいました。 四十九日を終えて、六道に生まれ変わったと言ってみえました。 六道に生まれ変わった、六道の中には人間界もあって、どこかに生まれ変わっているのでしょうか? 空から見守ってもらっている?と思っていたら違うのでしょうか? お盆や何回忌に追善供養をするというのは、地獄にいる前提なのでしょうか?人間界に生まれ変わっていたら、人間界に生まれ変わった誰かに追善のお経がとどいている。ということでしょうか?
私は海外に移住していて、家にお仏壇がありません。日本に帰ったときに小さなものを購入したのですが、それでも大きすぎて持ち帰ることができず、まだ実家にあります。 日々の勤行をしたいのですが、お供えやお経を読む対象がありません。如来さまの仏画をプリントアウトして、自分なりに簡易仏壇のようなものを作ってもいいものでしょうか? 勝手にそんなことしたら、バチが当たっちゃいますか? あと、身内の多くがまだ健在なのに、仏壇を設置したら縁起が悪いと親に言われちゃいそうだな、とも思っています。笑 ご意見をお聞かせください。よろしくお願い致します。
僭越ながら質問させた頂きます。 昔 お坊さんのお話のなかで、「仏様にお慈悲をかけられた人は 心に蓮の花が咲く」 みたいな話を聞いた記憶があるのですが (昔の事なので正しくないかも しれないのですがm(._.)m) 何か最近になって気になってしまって 仏様のお慈悲と蓮の花との関係や 「仏様にお慈悲をかけられると蓮の花が咲く」の様な事が書いてあるお経なぞ ご存知でしたら お教え頂ければ幸いです。 よろしくお願いします。
数年前に田舎の実家の寺を継がないと決めて現在は東京で別な職業に就いております。 結婚して家庭もありますので田舎に戻るのは難しいです。 実家は私の他に後継がおりません。 継がないと決心して実家を飛び出したのですが最近寺を継がないことへの罪悪感で押しつぶされそうで自主的にお経を聴いて仏教を学んでおります。 この罪悪感はどのようにすれば軽減できますでしょうか。 御回答よろしくお願いいたします。
原田祖岳著「延命十句観音経講話」という本を読んでいたら、著者が「南無大慈大悲広大霊感観世音菩薩哀愍照明」と序文の結びのところに書いてありました。「哀愍照明」の意味がはっきりと分からず。ネット検索しましたが、中国語のサイトばかり出てきて分かりません。おそらく「民を慈しみ給え」という事なのかなあ?と思いますが、この「愍」とは人間だけのことでしょうか?それとも「一切衆生」ということでしょうか?または他の意味でしょうか?たぶん仏教の用語なのでしょうが、漢字が難しすぎて分かりません。どうぞ宜しくお願いします。
私は昔から周囲の人に大人しい子だといわれてきましたが一度怒り出すとなかなか怒りが収まらないという癖があります。普通は年とともに落ち着いてくるものだと一般的に言われていますが私は恥ずかしながら年を重ねるごとにその傾向が強くなっているような感じがします。一度怒りを感じると何か月も引きずってしまいます。 お経を覚えたり心療内科に通ったり色々やっているのですがなかなか改善しません。お坊様方は怒りを覚えた時どうやって心を清浄にしているのかご教授していただけないでしょうか。
以前相談しました仏壇の件ですが今日無事終わりました。 あれから仏壇を家に持ってきて県外でお世話になってるお寺さまに電話し県外でも大丈夫とのことでしたので今日来て頂き仏壇の中を正しく設置してお経あげてもらいました。 引越しにも「魂抜き」など必要とは知らなかったので勉強になりました。 ハスノハに感謝です。 有難うございました。
相手ではなく自分が変わらなくてはならないのは強く感じています。現世の感情はなかなかそれを許しません。夫の親を嫌い、似ている夫に嫌悪感を抱き、子どもの夢を叶えると言いつつも経済的な負担、それに伴う摩擦や自分の葛藤に押し潰され、火宅からでることができません。 自分の感情とどのように向き合えばいいのでしょうか、いただい試練に大切な私の人生の課題があると言うことなのでしょうか。できることをコツコツしていくしかないのでしょうか。 心が平穏でない現実では毎日お経を読んでいても、たくさんの想念が浮かんでいつの間にか囚われています。 自分の心をどのようにしていけばコントロールできますか? それが修行ということなのでしょうか。
祖母が、私が写経しているときに、コバエを写経用紙の上で潰してしまいました。祖母は軽度の認知症なので、写経しているという認識もなかったのかもしれません。止められなかった私が悪いのですが、この写経用紙をどうしたらいいのか考えあぐねています。 捨てるのも良くない気がするので、全て書き終えてから、お寺に納めることを考えています。その方が虫の供養になるのではないかと…。 ただ、元々、祖父の病気平癒の祈願を込めて写経を始めたので、殺生したくせに、安易な気持ちで納経できないとも思ってしまうのです。 アドバイスをいただきたく存じます。
お恥ずかしいことをお聞きしますが、 先日祖母が亡くなったのですが、逮夜ごとにお坊さんにお経をあげてもらうのですか? そこの、お寺の住職さんには逮夜は私たちだけでやるので、住職さんは最後の35日に来て下さいとお伝えしているのですが、そこの、お寺の住職さんから、逮夜をしないと、あなたたちに大変なことがおきると、言われたと喪主から連絡があったみたいです。そして次の逮夜は行きますと言われたとみたいですが、この場合どうしたらいいのでしょうか?
ご覧いただきありがとうございます。 突然ですが、久しぶりに口内炎ができました。あまりの痛さにろくに食事を取れず、辛かったです。 仏教のいう「執着から離れる、苦しみから離れる」というのは主に「精神的な執着、精神的な苦しみ」として解釈していたのですが、何かのお話しで、お坊さんを殺すため(すいません)寺に火を付けたら、お坊さんたちは慌てたり逃げ惑ったりすることなく死ぬまでお経を唱え続けた……というのを聞いたことがあるので、「精神的な苦しみだけでなく、身体的な苦しみからも離れることができる」のだと思いますが、一体どうなっているのでしょう?どうやっている(?)のですか? 口内炎でこんなにも痛いのに、火をつけられて動じないなんて……。無我の境地というものでしょうか。
看取りまで入院をし 最期を病院で迎える母のことです。 今は 気切 のためも話しをすることもなく 経鼻からのチューブで栄養を摂っています。 そのような毎日の中 いつか迎える最期の日まで 少しでも不安や悲しみなど諸々の 負の感情を 取り除いてあげられ穏やかに笑顔で過ごせるのか 毎日 考えております。 穏やかに過ごせること・穏やかな最期を迎えられる ようにするのには どのようにしていけば 良いでしょうか。
高校生です。 最近、具体的な進路として、僧侶になることを志望しています。仏教系の大学に進学したいと考えています。 僕は、般若心経の教えに感動し、観音経には苦しかったときに救われました。みんなが幸せになれるようこの仏教の教えを広めたい!と考え、僧侶を目指しています。 そこで質問なのですが、僧侶のあるべき姿はどのようなものが挙げられるでしょうか。 上記の質問以外にも、いろいろ教えていただけるとありがたいです。
私は、自尊心が低く、自分というものがわかりません。 自分を認める事が、どーしても出来ず自分自身が嫌いです。 心が疲れてしまっている時、仏様にすがるのは、甘え?逃げなのでしょうか。 お坊さん方は、こういう気持ちになる事は無いのですが? 心が病んだ時どの様に対処なさっているのですか? お経を唱えるとよいのですか? 私なんかより、本当に苦しんでいる方がいる事も、承知しています。 平凡日々を送らせてもらってる中での、ただの甘えなのかもしれません。 けれど、変えたい変わりたいと思うだけで、どーしたらよいのかがわからないのです。
先日祖父の十三回忌がありました。お坊さんにお経をあげていただいている時に奇妙な景色が頭の中に流れてきました。 どこか分からない場所を、お遍路さんが持つような長杖を支えにして祖父が歩いていました。祖父の顔は遺影よりも若く、少し苦しそうでした。 死後の世界とは苦しいものなのでしょうか。それとも供養が足りないから祖父は苦しんでいるのでしょうか。ただの幻覚ならいいのですが状況が状況なので気になります。
先日、親戚の法事に参列しました。 お経の後 和尚さんから有り難いお話があり、 とても感銘を受けました。 煩悩があるから 人間は思い悩むと。 自分の心が自分を苦しめるという お説教でした。 会食の席で 和尚さんは我々と同じ料理を 食されていました。 食欲って煩悩ではないのですか? てっきり精進だと思ってたので 少なからずショックでした。 お子さまの話しもされてました。 結婚してもいいんですね? お説教とあまりにギャップがあります。 そのあたりを 分かりやすい教えて下さい。 よろしいお願いします。