<お位牌に関しての相談です> 両親のお位牌を本体とは別に作っていただき、現住所である海外の自宅に置いて手を合わせております。このことは、実家がお世話になっておりますお寺の御住職もご存知です。実家の宗派は真言宗です。 よかれと思ってやっていたことですが、最近日本に住んでいるきょうだい達が、私の身に何かあった際の、私の自宅にある両親のお位牌の扱い方に不安を覚えていると聞かされました。 ・私の主人は日本人ではなく日本語も話せないため、私の身に何かあっても、お仏壇(小型のものです)やお位牌に関して、日本にいる私の家族と話し合うことができない ・私のきょうだい達は、日本から両親のお位牌を受け取るためだけに、海外の私の自宅に来るようなことはしたくないとのことです。 ・予想される色々な状況を考えて、主人を含むこちら(海外)の義理の家族に後のことは頼めない。 結論としましては、大変残念ではありますが、私の存命中に両親のお位牌を手放して、きょうだい達の精神的負担をなくしたいと思います。 お世話になっている御住職に相談させていただくことも考えましたが、きょうだい達の耳に入ることを避けたいと思い、こちらでおしえていただければ有り難いです。 また、お位牌と共に日本から持ち込んでおります鈴、鈴棒などの仏具一式も手元にございますので、その扱いについてもおしえていただければ幸いです。なお、私自身は仏事等で年に一回は日本に行きます。 お位牌をそばに置いて手を合わせることばかりを考え、想定できたであろう問題について何も考えなかったのは迂闊であったと反省しております。
私の家の宗派は浄土宗で、私はよく、祈る時や心が苦しい時等に念仏(南無阿弥陀仏)を唱えます。しかし、最近不安に思う事が有ります。 それは、念仏の唱え方と、阿弥陀様についてです。 私は、念仏を唱える際には、御仏を念じ、御仏の名を口にする事を心掛けています。ですが、それが本当に正しい唱え方(観想念仏、称名念仏)と言えるのか、御仏に失礼ではないか、と思ってしまうのです。 そしてもう一つ、阿弥陀様は、御釈迦様とは、どの様な関係が有るのでしょうか。私は、以前にネットに“阿弥陀様は御釈迦様の先生である”と書かれてあるのを見た事が有るのですが、果たしてそれが事実なのか、それを鵜呑みにするのを躊躇してしまいます。もしかしたら、私は阿弥陀様の事を勘違いしているのではないか。阿弥陀様の事も知らずに、御仏を信仰し、念仏を唱えてしまっているのではないかと思うと、不安で仕方無いので御座います。 これを御覧になって下さっているお坊様、正しい念仏の唱え方と、阿弥陀様の事について教えて下さい。どうか、宜しくお願い致します。
お彼岸などでお墓参りをするとき線香をたてますが、そういえばなぜ線香をたてるのか考えたこともなく、何気なく行っていました。なぜお線香をたてるのでしょうか? また我が家には仏壇はありませんが、親の実家には仏壇があります。 遺骨はお墓に眠っているのに、なぜ仏壇があるのでしょうか?
日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。
当方、40代の既婚女性。(子供なし、夫と2人暮らし。) 数年前に住職であった実父が死去、兄が後を継ぎ母と姉が寺の雑務をしています。(兄と姉は独身。50代) 近年、母が高齢になり一抹の不安が自分の中に渦巻いております。 現在の状況を整理しますと↓ ・兄と姉は発達障害で社会人として外部で働くのがシンドイので、寺で働かせてほしいと自ら申し出た。(母から聞きました。) ・それなのに兄と姉は折り合いが悪く、兄は寺の業務が終わると一人暮らしのアパートに帰宅。(本来なら住職である兄が寺に住むべきだと思うのですが。姉と生活を共にするとトラブルになるのが嫌なようです。) ・亡くなった実父も発達障害でかなりの変わり者。 兄とのコミュニケーションも苦手でした。 ・拝観寺院で檀家は十数件ほど。兄は几帳面な性格で住職として職務には忠実ですが、喜怒哀楽が乏しく愛想や日常会話が苦手。 また芸術関係の趣味があり個展などを開催してるが、そっち方面の収入はほぼなし。 ・姉も几帳面だが自分の思い通りにいかないと癇癪を起す。 上から目線のモノの言い方が多い。 悩みの種は兄と姉の不仲です。日常も寺の業務関係以外の会話はせず、食事も共にしません。(同居は不可能・・というか、しないほうが賢明です。) さらに困ったことに兄は本職である住職ではなく、趣味の芸術関係で食べていきたいと言い出しています。20代の頃からの夢のようですが何歳になっても諦める気配はないようです。 姉も何年も前から「一人暮らしする、いずれは出ていく。」と口先ばかりで、 自立する様子はありません。 2人ともお寺に育った有難さを全く理解しておらず、どうしたら今の立場や自分の人生設計を見通しさせることができるのか?悩んでいます。 (母が亡くなったら助言できるのは自分しかいないので。) また、お寺の住職というのはサラリーマンのように中途退職できるのか? (宗派によって違いはあれど) 発達障害という特性上、難しいと思いますが回答いただけたら有難く思います。
はじめまして。 今回はお寺さんとの関係の築き方についてご相談です。 以前、臨済宗のお寺さんに観光目的でお邪魔した時に、住職さんが「お庭だけ見て帰られる方が多くて残念です。お寺に来たからには、仏様に手を合わせ、そこの住職たちとお茶でも飲みながらお話でもするのがお寺本来の在り方ではないかと思います」と話しておられました。当方と宗派は違いますが、そのお話に非常に共感しました。私自身、高齢の父母がいるので、そろそろ葬儀などについても普段からご相談できる方がいればいいなとも思っております。 しかし実際問題として檀家制度が薄くなりつつある現在、お寺さんと在家の若い人たちとの間にはハードルができてしまっている気がします。縁もゆかりもないのにいきなり飛び込んでいってご迷惑をかけないか、また法事などの特別な用事もないのにお電話をしてアポを取ってお邪魔してもよいものか…そこにいらっしゃるご住職やお坊さんたちもとてもお忙しいでしょうし…とまあこんな具合に悩んでいます。 ちなみに昔は父方の家系が村にあるお寺さんにお世話になっていました(もしかしたら元々は檀家だったのかもしれません)。 しかし村を出た父の代から疎遠になり、祖父が亡くなった現在、私はご挨拶へ伺えていません。また、自分の意志でそちらのお寺さんへ伺おうにも、新幹線の駅から車で一時間以上はかかるところで、なかなかご挨拶へ伺いにくいです。父へ真剣に仲介をお願いしてもはぐらかされてばかりで。私ひとりで伺ったところで相手してもらえるかと思うと気後れしてしまいます。 問題をまとめると ①新しく今住んでいるところの身近なお寺さんとのご縁を築く ②それとも祖父の代からのご縁を何とか復活させる どちらにするか悩んでいます。そして、どちらにせよその方法論もわからないので更に悩んでいます。 長々とすみません。上記の三点について、どうかご助言お願いできないでしょうか。
初めてご相談させていただきます。 亡くなった母の33回忌が近づいてきました。法要に詳しくないため、インターネットで検索をすると、33回忌をもって弔い上げをすることが多いとありました。その件でご質問させていただきます。 母は離婚しており、独り身でした。我が家の仏壇には母の位牌しかありません。お墓は、母が亡くなった当時、私が若かったこともあり、母の実家の墓に収めてもらいました。お寺は浄土宗ですが、私自身は宗派にこだわりはありません。 1)今後、年忌法要をする予定がない場合は、33回忌で弔い上げをすべきでしょうか。いずれ母の遺骨は私が自身の墓を用意して収めるか、共同墓地などに移すことを考えていますが、具体的なスケジュールは決まっていません。移すまではお彼岸等で従来どおり墓参りしようと考えています。 2)母の位牌は従来通り自宅の仏壇に祀っておいて問題ないでしょうか。我が家には合祀する先祖代々の位牌があるわけではありません。弔い上げに際し、魂抜きをして仏壇ともどもお焚き上げするといった説明も読みましたが、上記のような事情から、仏壇、位牌とも当面はそのまま自宅に置いておくのがよいのではないかと考えています。ただ、仏壇は場所をとっているので、先々どうするべきなのか判断しかねています。 以上につき、ご相談させていただきます。よろしくお願いします。
私は一人っ子で、両親が亡くなり実家にお仏壇を置いたまま月参りに来ていただいていたのですが、実家を処分することになり、永代供養することになりました。(実家は姫路で、大阪在住です) 父は、平成25年に、母は平成20年に亡くなりました。 宗派は真言宗です。 お寺さんから、100万と言われたので、両親の遺産でお支払いしようと思っていたのですが、お位牌を渡した後も、毎月27日に護摩焚きをしたりするので、お盆と2回のお彼岸で年間3万納めてくださいと言われました。 月参りのお布施(5千円)はお経をあげていただいているのでお支払いしてると思っていたら、お寺の維持費も含まれると言われました。 お盆にはお施餓鬼代として5千円も渡しています。 私は、永代供養が終わったら、年に2回父と母の命日にお寺に行って拝んでいただいてお布施をすればいいと思っていたので、ずっとお金がかかり続けるとは思っていませんでした。 そのための、100万だと思っていたのです。 もちろん、7回忌以降の法要はちゃんとしようと思っています。 法要は5万円です。 両親の遺産もいつまでもあるわけではないので、心配です。 1代祀りなので、子どもは関係ないとはおっしゃってくださってるのですが‥ 両親のことなので、ちゃんとしてやりたいとは思うのですが、どこのお寺さんでもそうなんでしょうか? 私が生まれる前からのお付き合いなので、もめたりはしたくないのですが、今後どのようにお寺さんとお付き合いを続けていけばいいのかも教えていただきたく思います。 よろしくお願いします。
こんにちは 質問があり、メールいたしました 子供は親を選んで生まれてくる そう、私はある宗教家の方に言われました 普通に考えたら 精子と卵子が受精し、 子供ができるから子供が親を選ぶんじゃなくて、親が勝手にその子供を産むというのが通常な考えだと思うのですが それはあくまで生物学的なものでしょう 生物学的ではなく 宗教学的と申しますか、 スピリチュアル的にですかね そうした考えとしては 親が子供を選んで 子供が生まれてくる、いわゆるこれは通常の出産 または 私がその方に言われたように 子供が親を選んで生まれてくるのか、 それぞれお坊様に 考えを また間はそれぞれの宗派的な考えでも構いません お聞きしたく投稿致しましたが、 考えを教えていただけないでしょうか私はずっとその事について悩んでおります
大変失礼な質問かもしれませんが、聞ける人がいないのでお願いします。嫌味でなく素直な疑問です。 仏は実際には助けてくれない(祈っても病気が治るわけではない)と言いますが、それならなぜお寺はお守りを売るんでしょうか? 私は子供の頃、神社仏閣で「病気平癒」とあるので「これで治してくれるんだ」と本気で信じていました。なので大変裏切られた思いをしたことがあります。 現在は「超常的な存在が良い人間を助けてくれる」という考えは本当の仏教ではない、あくまで学問という風潮ですが、ならなぜお守りを売ったり祈祷するんでしょう? 施餓鬼や戒名などで、なぜ「これで〇〇が良くなるよ」とするのですか。故人が対象だと、「故人には幸せでいてほしい」という感情を利用されているようで、複雑な気持ちになります。 お寺や宗派によって違いはあると思いますが、よければ教えてください。
いつもハスノハ拝読させていただいております。 さて、もうすぐ娘の一周忌なのですが、法要はしなくてはいけないですか? まだ亡くなったことを受け入れられないのと(体調にも波があり当日どうなるか不安)、実家も遠方なので親戚を法要に呼ぶことも予定してません。遺骨も離れるのが辛く今だにお墓に入れていません。 私一人だけで法要になると思います。 また菩提寺も遠方なので、法要したほうが娘のためになるのであれば、家ではなく近くのお寺で法要お願いしようと考えていますが、問題ありませんでしょうか。 近くに相談できる家族も知人もおらず、近くのお寺でお願いしても良いとなった場合、実家の宗派である天台宗であればどこのお寺様でも良いのかも含めてアドバイスいただければ幸いです。
2023年11月に義理の父が亡くなり、今年の8月に初盆を迎えます。 宗派は真言宗です。 義理の父の家から8月1日に「新盆棚経」を行う。との連絡をもらいました。 義理の父の家の地域は、 8月1日に「新盆棚経(お寺様に経を読んでもらう)」をおこないますが、 8月15日のお盆も行うのでしょうか? 8月1日に「新盆棚経(お寺様に経を読んでもらう)」をおこなったら 8月15日のお盆はおこなわなくてもいいのでしょうか? 教えて下さい。
法然上人の直弟子の流れの宗派として現在、浄土宗(浄土宗も鎮西、証空の流れと捉える事ができると思います。)と真宗系があります。 しかし、浄土宗では、善導大師の著作も法然上人のお言葉もよく拝読し、両大師を仏壇でお祀りしておりますが、真宗系(全派までは分からないですが)では、親鸞聖人の著作を拝読し、親鸞聖人、蓮如聖人をお祀りしております。 そこで疑問なのですが、真宗系は善導大師、法然上人をお祀りしたり、お言葉を勤行でお読みすることはないのでしょうか? 同じ法然上人の流れなのに、真宗系は親鸞聖人の教えというイメージが強い様に思います。 派ごとに少しずつ違うかもしれませんが、ご教示いただけますと幸いです。
近年仏教に興味を持ち、機会があれば参加させていただいています。 座禅は臨済宗・曹洞宗に参加させていただき、阿字観は高野山の某宿坊でご住職自らご指導いただきました。 作法などの違いはわかるのですが、最終的に自分自身としてどちらを選択すべきかわかりません。 「梯子禅」という言葉も知りました。 ドクターショッピングに近い感覚でしょうか? 最終的にどちらを選ぶべきなのかわかりません。 それとも現状維持で、その時々にご縁をいただいた機会を生かすという形でもよろしいのでしょうか? 実家は西本願寺派、嫁ぎ先は新興宗教で、私自身は明確な信仰の宗派?を持っておりませんが、仏教徒であると幼いころから思っております。
初めまして。お忙しいところすみません。 私の家の宗派は臨済宗建長寺派なのですが、祖父の葬儀を機に、仏具屋さんで看経数珠を買いました。先日、ネットで臨済宗のお数珠(看経数珠)を見かけたのですが、向玉があるタイプと無いタイプの2種類があるみたいでした。 そう言えば、お盆に棚経に来て下さった菩提寺の住職さんの看経数珠にも向玉があったように記憶していますが、一体どちらが正しいのでしょうか。 私が買った臨済宗のお数珠には向玉が無いので、間違ったものを買ってしまったのかな?と思って、気になってしまいました。 どうぞよろしくお願いします。
(編集部より。規約により投稿の一部を変更しています。) 皆さんの無数のおかげをいただき、いつも感謝しています。 やっと自分と同じ境地の人 凡夫成仏していた人を見つけました。 (URL削除) 後半の内容は少々胡散臭い部分があるものの、些細な話で心から赦します。 でも、前半の登場しているお父さんは間違いなく生きて成仏した仏様、如来様です。 全ての宗教宗派を超越しています。 インターネットの発達した現代だからこそ、やっと一人目を見つけました。 心から感謝しています。 まだ、この世には沢山いらっしゃるので、引き続き探してみます。 取り急ぎお礼まで。
初めて質問いたします。 この度真宗大谷派の副住職さんに結婚してほしいと言われ今年の秋頃結婚する予定です。 その中で幾つか疑問があったので教えていただきたいです。 ①この度祖母が亡くなりました。浄土真宗では喪中等は気にしないため向こうのお母様も気にせず式を挙げて良いと申しております。 私の家は曹洞宗でありますが喪中ということで延期したほうが良いのでしょうか、、。 ②私の家は曹洞宗ですがいずれ私が仏様を守っていくことになった時、宗派はどうするのが良いのでしょうか。 ③副住職の妻になることでどのような覚悟を持てば良いでしょうか、、 アドバイスいただければ幸いです*
仕事の都合で、お盆期間中には、自宅に在宅出来ないので、お寺さんに8月5日に自宅にお盆のお参りにお越し頂きます。 お盆には少し早いので、お盆飾り・お供え物ではなく、毎月自宅にお参り頂いておりますので、いつも通りお寺さんをお迎えしょうと思っております。 お寺さんの御布施は、お盆のお参り頂いた様にお納めさせて頂きます。 お盆期間中は、仏壇のお盆飾り・お供え物をお供え致します。 仏壇のお盆飾り・お供え物がなくても、お寺さんに失礼に なりませんか?どうしたものか?困っております。 つまらない質問で申し訳ございません。お教え頂けますでしょうか? 因みに宗派は、真言宗です。
最近、大人になってから初めて葬儀に参列する機会がありました。 喪服やバッグなどは揃えたのですが、数珠はまだ購入しておらず、何かきっかけがないと用意せずにまた…と思い購入を検討しています。 調べてみると略式、宗派別の本式など種類が分かれていることがわかりました。 大人ですので、ある程度しっかりしたものを持ちたいと考えています。 祖父がよく「うちは曹洞宗だ」と事あるたびに言っているので、曹洞宗の本式を持つのがよいのかな?と思っています。 しかし、我が家では特段熱心に信仰しているという感じでもありません。 そのような者が本式の数珠を持っても良いのだろうか?と言う気持ちもあり、この度質問をさせていただきました。 ご回答いただけたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
宗教・宗派を超越して、宗教家・僧侶は、決して自殺はしてはいけないと俗人に「説教 説法」しますよね。 否定しません。その通りです。 しかし・・・・・ チベットのラマ僧侶は、中国共産党の悪行に抗議するためと称して、よく焼身自殺しますよね。 軍事政権下にあったビルマ・ミャンマーでも、タイでも、ベトナム戦争時の南ベトナムでも、仏教僧が支配者・独裁者・軍部の悪行に抗議すると称してよく焼身自殺をしていました。 日本では、昔は「生き仏」になると称して、僧侶が穴倉にこもり、すべての飲食を断ち、「御陀仏」するという『挑戦」をしていたこともありましたが、これも自殺ですよね。 僧侶の皆さん、仏教では、仏陀は、自殺を認めている・奨励しているのでしょうか? 俗人の自殺は許されないが、僧侶の自殺は許されるのでしょうか? いかがでしょうか。