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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 人生 」
検索結果: 20306件
2023/09/06

社会不適合者の生き方

今自身の存在意義について悩んでいます。 背景を記載致します。私はASDという発達障害を患っていることを社会人になって初めてしました。これは先天的なものであり、不治です。 学生時代から社会不適合や問題児として扱われてました。しかし、それも一つの味だといじられキャラとして何とか楽しく過ごせて来ました。また、人なりになれない部分ばかりですが、一部は無茶して何とかして来ました。 しかし、社会人になるとそうはいきません。普通の人が出来ることにやはり数倍苦労します。ミスばかりで他人に迷惑をかけます。無茶をすると逆に会社として困る存在になります。 学生時代からぼんやり思っており、発達障害とわかってはっきりしましたが、このような発達障害で何の取り柄もなく、人の数倍労力をかけないと人並みにすらなれない人間に何の意味があるのだろうと自己嫌悪に堕ちる日々です。 この先は生きていても誰の役にも立てず迷惑ばかりかける存在になると思っています。だからこそ、命を粗末にすることは悪いことと思いつつ、早死にしたいという気持ちがあります。苦しむために生まれて来たとさえ思います。 その反面、健常者と同じように生きたいという欲深い気持ちもあります。 難しい質問ではありますが、どんな心持ちで生きれば、この苦しい罰のような人生を乗り越えられるでしょうか?どうやって自身の存在を受け入れればいいでしょうか? 長年の悩みです。アドバイスをいただければ幸いです。

有り難し有り難し 11
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2023/06/11

やりたい仕事でない仕事に向き合うのが辛い

詳細はプロフィールに記載させていただきましたが、紆余曲折あり、新卒で販売職に就き、その後職を転々として、今月からまた販売職をしています。 しかし、この仕事は、本当に自分がやりたい仕事ではありません。 奨学金を返済したり、日々の生活費を稼いだりするためだけに、この仕事を選びました。 転職の際は希望の業界・職種の試験も受けましたが、不器用で何のスキルもない私が、必要最低限の収入を得るには、この仕事しかなかったのです。 そこで潔く、腹を括ってこの仕事をやっていければ良かったのですが、そうはいきませんでした。 幼い頃から目指していた音楽の世界は、私にとって、そう簡単に諦められるものではなかったのです。音楽は私にとって唯一の生き甲斐で、それがないと死んでしまいたくすらなります。 音楽は生半可な気持ちでは向き合えません。だから、音楽とは関わりのない仕事をする日々がとても辛いです。販売の仕事をして、私は日々、販売員の顔になっていきます。それは同時に、“音楽をする人の顔”ではなくなっていくということです。 進学も就職も、大事な進路選択のタイミングでいつも音楽を選択できなくて、私はもう、音楽に向き合うに相応しい人間ではありません。 今でも音楽の道へ進みたいと思っているけれど、それがかなうことがないと分かったいま、私はすごく死んでしまいたい。 それでも諦めずに音楽の道を目指すという考えもあるにはありますが、私が音楽をしたいと思っている限り、今の仕事に対しては不誠実な向き合い方をすることになります。 私は、家に帰ったら音楽の勉強がしたいし、お金が少しでもあったら音楽の勉強に費やしたい。 でも、その音楽に費やす時間やお金は、本来ならば仕事のために費すべきなのだと思います。それができておらず、会社やお客様に本当に申し訳なく思います。 乱文になってしまい、申し訳ございません。 できる限り端的にまとめますと、音楽に対しても、現在の仕事に対しても不誠実な向き合い方しかできていない自分が嫌で、この自分を背負いながら今後も生きていかないといけないと考えるともう一刻も早く人生を終えたいです。 今の仕事にどのような姿勢で向き合えば良いか、これから先に希望はあるのか、厳しいお言葉でも良いです、この人生に向き合い、背負っていくための力がほしいです。

有り難し有り難し 12
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年明けを待たずに死にます

現在、貯金を切り崩して生きています。 このまま稼ぐ手段が見つからなければ死にますが、自分が野垂れ死ぬことには納得がいくというか、客観的な視点で「こんな奴死んだ方がいい」と自分にずっと思いながら生きてきました。 問題のある人格に対して「そんなんじゃ生きていけない」と家族から「厳しくも厳しくもありがたいお言葉」をいただきながら育ちました。結果、その通りになりました。 この世界がうまく回っていて、私だけに問題があるのならばまだ生きる希望がありました。しかし、現実はそうではない。私が生きていてもいなくても、この世界はどんどんと悪くなっていく。そもそも、生きることそのものが欠陥だとしか思えません。 人生は「他人にどう見られるか」が全てです。完全な自給自足ができない以上、何かの手を借りなければなりません。そのためには他人に好ましい印象を与えなければなりません。私はそれができませんでした。 この世界は私が生きようが死のうがどうでもいいものです。生きていられる人間は、「自分を大事にしたい」という動物的本能を疑わないでいられるから生きられるのです。しかし私はその本能こそが全ての苦しみの元凶と憎み、「全ての生命は存在しないほうがいい」という強固な思想に囚われています。これを打ち破る根拠をこの世界に見出せれば良いのですが、その機能が私に備わっている気がしません。何を論じられても、申し訳ないことに、「わざわざ生きる根拠」にはなり得ません。この世界には私よりもずっと有能で賢い人間が沢山いるのに、全生命を安楽に絶滅させる方向に行かないのは、私が決して感じることのできない「それでも生きる意味」があるからなのでしょう。 私の人格や感性が望まれたことなどありませんでした。それとも、関わる人間の誰からも死を望まれながら、殴られながら生きるのが修行でしょうか? 未来を捨て、この世界や他の人間に「生きさせてください」と頭を下げ、心身を削る「労働」を辞めた今が人生で一番安楽です。つまり、私の幸福は死の直前にしかありませんでした。 私の望みは、「物質世界から解放される」「五感、痛覚、あらゆるものを感じる機能を失う」「誰からも観測されない状態になる」こと、つまり、「永遠の死」「存在しないこと」です。そして、これこそがあらゆる生命が目指すべき地点だと思っています。こんなことを考える人間だから生きられないのです。

有り難し有り難し 13
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良い親に恵まれなかった不幸をどう考えるべきか?

ご質問させて頂きます。ハルソラと申します。 私の人生の根幹的な問題として両親との関係が良くなかったことで、だいぶ長い間苦しんでいます。 私の両親は短的に説明しますと、冷淡で子供とコミュニケーションを取ることをほとんどしない親で、特に父親とは私が30代後半の今になってもいままでろくに会話をした事がありません。 そんなただ食べ物と着る物を与えられ、生かされてただけの実感しかない私の心は小さい時から荒んでいたのだと思います。 愛された経験のない私は自分の存在意義も分からず、学生時代は無気力、社会に出てからはそんな自分を変えようと努力し過ぎて鬱病に、本気で自殺を考える事もありましたし、この世こそ地獄そのものだなとずっと思っていました。 しかしそんな私にも転機が訪れ、30代半ば(つまり数年前)にふと四国遍路に行ってみようと思い立ち会社を辞めて、歩きで八十八ヶ所を結願致しました。 自然の雄大さ、人々の出会いと暖かな態度、また歩き旅の不自由さから日常の便利さを改めて見直し、私は感謝と謙虚の念を学びました。 それ以降も各地を巡礼しながら仏道を独学ですが学ぶ事で、地獄の人生を歩んでいた私は僅かですが平穏さと幸せすら感じられるまでになったのです。 それでも両親との関係は変わらず、たまに思い返すと怒り、悲しみ、後悔、虚無感すら感じる時があり、そんな両親との関係性から自分が子供を生み育てたいとも思わない私が未だにいます。 こんな両親との関係性または私の執着(…でしょうか?)を真に乗り越えるにはどう考え、どう行動すれば良いのでしょうか? お坊さまのご意見、ご回答よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 81
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