日本の仏教において救いとはどのような事なのでしょうか? 墓参りに行く寺の住職によく話しかけられるのですが 悩み事の話題になっても一切皆苦なので諦めろ的な話しばかりで 1度もスッキリしたことがありません。 寺で人生相談自体が間違っているのでしょうか?
以前、法座で冥福の冥は、暗闇の世界だから適切ではないと伺っております。テレビを見ていると泣くなった人に対して、アナウンサーは必ずと言って良いほど「ご冥福をお祈りします」と言っています。その度に違和感を感じてしまいます。 身内を亡くしているので、余計に感じます。 もちろん、言っている人は悪気はないのは承知していますし、間違っていると言う訳でもないのかなと。しかし私は、「お悔やみ申し上げます」を心がけています。 ずっと気掛かりだったので教えて下さい。
一時的な感情で後先考えず、衝動的に行動して後悔ばかりです。 自分で自分を不幸にしてしまったり、他人を傷つけて自分を悪者にしてしまう結果しかありません。 どうしたら普通に生きられるのでしょうか。
毎日、不安と焦りと孤独感がつよく、ひどいときは希死念慮もあります。 ひとりでさみしくて、でもまわりにはなせる人もいません。 電話相談やチャット相談もやってますが、なかなか繋がらず、よけい孤独感が強くなってしまいます。 生きるのが辛いです。たすけてほしいです。
死にたくて死にたくてたまりません。 近いうちに死のうと考えています。私が死んでも悲しむ人はいません。死んでも地獄だとしても構いません。もう限界です。生きる価値がないので死ぬだけです。地獄でもいいのですがどちらかというと極楽浄土に行きたいので祈ってください。厳しい言葉は聞きたくありません。聞き飽きました。仏教の勧誘も入りません。わがままでごめんなさい。
こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。
私は恐がりの癖に暇な時間怪談話などの朗読動画をよく聞いていました。 ある日聴いた内容が目が見えない霊なのでその霊知ってる人間だけを探し殺しにくると言った内容でした。 その朗読を載せた人は次は自分のばんだと思い少しでも生存率をあげるためにのせたと言っていていつその霊が私の前に来るのかと思うと怖くて怖くてたまらないのです。 成人までに髪伸ばしたら?と親に言われたのですが、その霊は後ろ髪をのばしてると掴まれるといったことで女なので剃ることはできないのでショートカットです。 聴かなければよかったと後悔しても遅いしどうすればよいのでしょうか。 本当に、霊が殺しにくるなどのことはあるのでしょうか? ここ毎日そのことが怖くて怖くてずっと考えてしまいます。
結局一日券眠っていましたが、死ねませんでした。はやく死に死にたいです。からだと心の病気が辛くて生きているのが苦痛でしかありません。今週中にもう一度そうするつもりです。色々アドバイスをくださった僧侶の方、私を心配性してくれる人ありがとう。しねるとおもうと少し穏やかな気持ちになれるのです。 地獄とか天国とかそんなことを超越した穏やかな世界へ旅立ちます。もう、痛いのも苦しいのも怖いのも散々です。逃げたいです。さようなら。さようなら。さようなら
仏教が好きで学んでいるものです。 単純な疑問があるので教えて下さい。 仏教は出家をして修行し仏になる教えだと学んでいます。 一般生活をしている私には遠い存在です。 しかし、現代の僧侶は結婚してお酒も飲んで在家の生活をしていますよね? それでは全く修行ができないと思うのですが、何を根拠に結婚しているのでしょう? 何かのお経のご文を論拠にしているのでしょうか? もしくは既に仏道修行は諦めたということでしょうか? もし結婚をしていいのならば、何故一時的にだけ出家(修行)するのでしょうか? 各宗派の考え方を教えて下さい。
古代人は、漢語が分かったので、あえて日本語に訳す必要がなかったそうですが、現代人にとっては、難しいと思います。本来、仏教は生きている人への教えなはずです。みんなに教えを分かりやすく伝えることが大切ではないでしょうか。お坊さまの中には意訳を取り入れている方もいらっしゃると聞いています。もっと、意訳勤行が広まればいいのに・・・と思います。 当方は、真宗大谷派の門徒です。
スマナサーラ長老さんが、サマタ瞑想よりもヴィパッサナー瞑想を推奨していらっしゃる文章を目にしたのですが、 臨済宗の座禅(数息観)は、サマタ瞑想に入りますか? 1日のうち、臨済宗式での座禅も10分くらいして、スマナサーラ長老さん式の実況瞑想を別途1時間。 (連続ではなく、一日のうちで、別の機会をもうけて。) そんな感じで実践してOKでしょうか? それとも、ミックスせずに、長老さんオススメ方式でいくなら、臨済宗の座禅はやめてしまって、実況瞑想(ヴィパッサナー瞑想)オンリーでいったほうが良いでしょうか?
この世に我こそは『真理』と言う宗教があふれているのはどうしてですか? また、偽物と本物はどこを見れば区別つきますか? 人間に絶対的真理なんて見分けられるのですか?
先日、住職である義父が亡くなりました。 通夜には当然私の家族も参列したのですが、翌日に坊守である義母から呼び出されました。内容は ・私の家族が座った位置 ・役員さんが帰る際、通りすがった母もお見送りをした事 を指摘されました。 お寺では1番は住職、その次に家族、親族、役員さん方が来て嫁の家族は1番下だとはっきり言われました。 なので座る位置も1番後ろ、表立ってお見送りするのはもってのほかとの事。 そしてそれは常識だと言われました。 役員さんに文句を言う人もいて経営に差し障ると困ると叱られました。 知らなかった私たちも悪かったと思いますが、これは常識なんでしょうか? 寺では常識かもしれませんが一般常識では無いと思います。 ちなみに、副住職である主人は知らなかったそうです。 そして見送りをしていた母に義母は 「しゃしゃり出て」 と言い放ちました。本当に常識がある方はこの様な言動するでしょうか? 席順も私の家族は誰かに席を譲られたそうで流れで座ったので悪意も全く無かったと話しても義母は聞く耳持たずです・・・ 住職様方にお聞きしたいのはこの扱いはどのお寺でも当然なのか否かです。 2日間夜遅くまで手伝いに来てくれた母が不憫になり質問をさせていただきました。 長々と失礼しました。回答をよろしくお願いします。
朝起きた時、よし!今日もがんばるぞ!と充実した気持ちになるような生活がしたいです。 最近は夜寝るときも考えごとばかり、朝目覚めても、起きたくない・・このままじっとしていたい・・とまったくすっきりしない日が続いています。 会社での仕事が本来やりたいことではない、趣味仲間の人間関係がぎくしゃくして楽しめなくなってきた、目指していることがうまくいかない。またあのめんどくさい人に会わなければならない。 旅行に行っても、飲みに行っても、心の中に雲がかかってカラッと快晴な気持ちになれないことが1年以上も続いています。 活き活きと生きている人がとても羨ましいです。
大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。 私は、長らくサービス業に従事しております。 ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。 宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。 そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。 まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。 何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。 『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。 お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。 無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。
初めての投稿です、お世話になります。 現在、契約社員として勤務しております。もう10年を超えて働いております。正社員とは、仕事内容は同じ、収入に違いがあります。 正社員への登用試験が不定期にあり、今までに三回受けましたが、すべて最終面談まで行くも落とされています。 先日も、試験不合格の通知を受け取ったところです。 契約社員とは言え、資格も正社員より持っておりますし、契約成績も上位のほうで、何度か表彰もいただきました。 今回、同じ試験を受け、合格した面々を見ると明らかに自分より(会社にとって)価値がないひとばかりなのです。 収益をあげていないひと、周りから使えないと評判のひと、主要部門でないひと。 そして、重役の子供であったり、役員の親戚の人が多いのです。 また、正社員になる必要のない暮らしぶりのひとばかりで(重役の親類ですから)、シングルマザーの私は不合格。 私も、いつか正社員になりたいと願うからこそ努力を重ねて参りました。 とても立派なひとが合格しているならともかく、本当に納得がいきません。 私の周りのひと(=私の仕事ぷりを知っているひと)もこの結果に首を傾げています。 あるひとに言われました。努力の報いは自分でなく、自分の子供に帰ってくると。 でもみんな、自分のも、自分の子供の幸せも追っていますよね? その人の言葉を前向きに捉えて、自分が不幸になればなるほど娘のためになると考える努力をしてはいますが、どうして私だけ、自身の幸せは願ってはいけないのかと悲しくもなります。 今は、早く死にたいと思ってなるべく不摂生にしています。死という最大の不幸が訪れれば娘に幸福がやってくるし、私も悲しい気持ちで生きていかなくて済むからです。 いつか来るその日まで、こんな思いで生きていくのは辛いですが、それでもそれを夢見て頑張らなくてはいけないんですよね。 私だけ、どうしてこんな人生なんだろうと、涙が出ます。次の試験は、という気持ちにもなりません。だって、コネにはかないませんから。 私の何がわるいのでしょう? そして、私の不幸の代わりに絶対に娘に、幸福が来るのでしょうか?不幸なだけで何も帰ってこないと損ですよね。もう本当になにもかも嫌になっています。 こんな思いをするためだけに生まれてきたのかと思うと親、先祖まで憎んでしまいそうです。
突然の質問ですが、ご縁とは仏さまが私に与えてくださっているものなのでしょうか? 仕事で営業をしています。 辛いことが8割、感動が2割というところでしょうか。今日はお客さまが私のことを慕ってくださり、あぁこんな私を大切に思ってくださって嬉しい、と感じました。お客さまが幸せでありますように、と心の中で強く強く願いました。 営業はイキナリ叱られたり、怪訝な顔をされたり、辛いことが多い仕事ですが、時々出会うこのご縁に涙が出そうになるくらい嬉しさを感じます。これは偶然かそれともご先祖の導きではないかと不思議な気持ちになったのでご質問させていただきました。 皆様のお考えや仏教としての解釈のようなものがあれば教えていただきたいです。よろしくお願いします。
初めまして 元々、顔も頭も性格も悪いのであまり人に近づかないで学生時代を過ごしておりました。 就活やバイトで、まともに他人と話さざるを得なくなりましたが、他人が怖くて話せません。 今のバイトは接客ですが、笑顔が固い、雑談にも加わわらないから仲良くしたくても取りつく島が無いとバイト先で言われました。 正直、仕事以外で他人と話すのも親しくするのも大嫌いです。 しかしそれは治した方がいいと言われ、相談に上がりました。 何卒宜しくお願い致します。
皆さま初めまして。 こちらでこの様な事をお尋ねして良いものかどうか迷いましたが、 思いきってお尋ねします。 私は掛軸の表装や仕立て直しを生業とするいわゆる表具屋 でございます。 常日頃より、お寺の方とお付き合いをさせていただきたい と考えておりましたが、知識不足故なかなかご住職にお話 を聞いていただくまでには至っておりません。 大変勝手な、また素人すぎるお尋ねで恐縮ではございますが どのようにしてご住職とお近づきになれるのか、アドバイス いただけないでしょうか? 何卒よろしくお願い申し上げます。
こんばんは。お暇な時に答えてくださると嬉しいです。私のは切迫した悩み事の相談ではなくて、自分が知りたいなと思った事の質問なんです。 仏教の基本的な考えを理解するのに、宗派が違うと考え方も大きく変わってきますか? 私は子供の頃から家に聖書物語の絵本があって親しんだり教会でお話を聴いたりして、小さな頃から仏教以外の宗教の影響を受けてきました。最近初めて仏教の考え方を少し知って、これまでの自分の考え方と根本的に異なる感じで難しいと思ったけれど、もう少し知りたいんです。でも同じ仏教でも宗派が複数あるのですね。基本の考えがそれぞれ違ってくるともっと難しくなってしまうと思って、気になったんです。お坊様からみたことを教えてください。 追伸 亡くなってお葬式とか色々やるまで知らなかったのだけど、私の父は曹洞宗でした。