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hasunoha 問答検索結果 : 「他人 人生 」
検索結果: 4516件

人の絵を見て嫉妬してみたい

 人の絵に嫉妬してみたいです 他人が書いた絵を見て嫉妬したことがありません  日常生活で嫉妬してるかといえば、さほどそうではありません。  人生渡されたもので勝負するしかないです。  学生の時から、努力をした人間はそれが失敗しても成功して泣いたり、悔しがったりしてました。  自分はそういうのあんまりなく、よくわからないところでだっだっこのように感情コントロールができてなかったです。 話がそれましたが、人の絵を見て嫉妬したことがありません。 それがどれほど、うまい人でも、それがどれほど若い人でもです。  歴史上の人物の例えばアルフォンス・ミュシャさんなどうまいな。すごいなとも思いますし、ケルト文様を勉強して絵にいかすなど努力もされています  名前を忘れてしまったのですが、天井にガラスを張ってモデルの人を見ながら天女図を描いたという方も知っています。  でも、すごいなで思って終わってしまうのです。  御朱印めぐりをして、お寺を見たり、博物館見てもすごいな。で、終わってしまいます。  絵を見て、すごい人を見ると嫉妬している人は本当に怨念のように思われている方もおられます。私は同じ絵を見てもすごいな、うまいな、努力してるんだな、っとか思って終わってしまいます。  これは私の感性が何か間違っているのか知れません。    今の私が当時の人と比べれば恵まれています。資料も探せばあります。昔に比べれば印刷技術など、すぐれているところなど数え切れずにあります。努力が足りないというか、努力しても手の届かない世界があるのを理解しています。  私の努力が足りなかったり、感性が足りないから嫉妬ができないのでしょうか。

有り難し有り難し 3
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不幸が続きます。不幸と思いたくないです。

まず生い立ちを説明します。 16歳で水商売に入り、17歳で風俗。 闇金の保証人や男に騙され続けました。 20歳で同じような職種の方と結婚出産。 もちろん上手くいくはずもなく、23歳で離婚しました。 中学生の頃から少しですが霊感があり、離婚直後に仲良くしていた霊媒師の方に影響されかなり視える方になっていました。 優しい新しい主人と出会い、26歳で再婚出産し、子供は二人います。 その時に霊媒師の方に、彼は良くない、苦しむ運命を辿ると言われていました。 それでも彼を選んでしまった私も悪いのかもしれません。 彼は精神疾患があります。 2年前に彼の弟が白血病で亡くなり、それからは仕事もできず廃人のようになってしまいました。1年でやっと仕事へ復帰できるようになりました。 ですが、彼の隠していた借金、生活費で私はまた身体を売らなければならない程に金銭的に追い詰められています。 今はコロナのこともあるのでまた動き出してはいません。自己破産も正直したいです。 私は自分の人生を宝物だと思っています。人から見たら不幸だとかアホな人生と思われるかもしれませんが、こうした人生を生きてきたからこそ見える世界や美しく感じる光景もあるんです。普通が何より難しくて大変なのか、そして美しいのかを知っています。それは今までの自分があったからこそだと思っています。 きっとこれも乗り越えなくてはいけない道筋なのだと思っています。 簡単にこれまでの人生を書きました。 本題に入ります。 私は多少ですが霊感があります。離婚直後は口コミで霊視をお願いされることも多々ありました。自分が視える分には良いのですが、他人のものを視るのは怖いです。知らないのに知っているように話す自分が怖いです。しかし、自分自身のことは視えないしわかりません。 彼も、色が視える人です。 霊に関しては関与し過ぎたらいけないと思い、普段は何も見ません。見ようとすれば見える程度です。 数年ぶりに主人を視ました。黒いモヤが覆いかぶさっています。 どうしてあげればいいかわかりません。 あまり良くないものだと思っています。 ちなみに私がみえるのは基本的には亡くなった人が多いのでモヤはあまり見る機会がありません。 何かの前触れでしょうか? もうこれ以上私は身体を売ることもしたくない。ただ普通に生きたいだけで子供達を幸せに大きくしたいだけです。

有り難し有り難し 29
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人間のあり方とは

これまで自殺願望について何度もご相談させて頂いたものです。皆さんの真摯な対応のおかげで希死観念は徐々に薄れてきて、心の余裕が出来た事で過去の自分と向き合う事をしているのですが、その中で気がかりな方に気づいたので僭越ながら再びご相談させて下さい。 私は、自由意志の尊重をきっかけに自死について興味を持ちました。「他人に命のあり方を左右されるくらいなら自分で死んだ方が得心が行く」という心持ちに至った訳です。 その発端は世間にはこびる根拠の薄い方便でした。「死は悪である」「子供を産むのが人のあり方である」「生産性の無い人は生きてはいけない」…こうした社会を回す為の方便を自明の考えとして押し付けられる事は今でも受け入れられません。 特に、死を絶対悪とする発想は金輪際受け付けないと思っています。現在の自分は生の目的を少しずつ見つけたので辛うじて死を適度に恐れていますが、それでも全ての人に悪であると考えることは思い上がりも甚だしいと多々感じます。 逆も然りです。誰かの生き様に無責任な横槍を入れる発言を私はしたくありませんしまして本人の納得の外で当人の生き死にを自分が左右する事に大変忌避感を覚えます。恐らく政治や企業経営などは自分には全く向いていないのでしょう。 このように自他の意志を尊重しようとすると、どうしても傍観者の立場を取る事になり、一向に他人との繋がりを見出せなくなってしまうのです。 自己という存在は縁起で成り立っているという事を知っておきながら、いざ生活すると他人の預かり知らぬところで淡々と幸福を追求することになります。 全くもって不思議です。 つまるところ、今の自分は人間不信なのだと思っているのです。 他人が信用できないから自分の力でどうにかする術を追求し続けたということです。しかし、そのあり方を果たして続けていいのか、いやしかし「貴方の為を思って」とうそぶきながら自己の為に他人を操作するのもどうなんだろうか、そんな事をずっと思い続けているのです。 これは果たして人間の在り方としてどうなんでしょう。それとも私は人間を名乗る事を辞めた方がいいのでしょうか。

有り難し有り難し 9
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2024/10/17

都合のいいことだけを信じていいのですか?

いつもお世話になっております。 辛い時、苦しい時、hasunohaがある、以前質問に答えて頂いたお坊さんやどなたかの悩みを晴らしてくださるお坊さん方と感謝で繋がったご縁がある、と思い、日々を乗り越えていくことができています。有難うございます。 悩むことが多い人生、書籍やこうしたインターネットの情報源に頼り多くの意見に触れています。 ご相談したいのは 「受け入れるべき指摘/受け入れたくない指摘、 これを自分の判断で分けて良いものか?」という事です。 率直に、自分の判断に自信がない人間です。 「お前は変だ」と学友に言われ育った子供でした。なので、他人の意見をまず調べ、取り入れる習慣が有ります。 中にはこちらを否定するような、辛辣な意見もあります。 真実は耳が痛いもの、「受け入れがたいことこそ真実なのでは」と考え、それも信じていました。 日々情報収集の結果、今では真実は無いと悟りました。 では、都合のいいことだけを信じて良いものか? 悩んでしまいます。 私が最も恐れるものは「裸の王様」「井の中の蛙」になることです。 謙遜しすぎるとまた「卑下ばかりする態度にいらいらする」と思う人がいるそうです。 丁度、ここで「謙遜する私でも認めてくれる人がいるだろう」 と信じるのと、 「謙遜してばかりの卑屈な人間は嫌われ者だから、直すべき」 と捉えるのと どちらが良いのだろうというご相談になります。 他人を気にせず前向きに生きよう!という教えがマジョリティ側と感じていますが、 欠点を直さずに開き直っていることにならないのかな…と迷ってしまいます。 自分の判断で分けて良いのか、といいましても個々誰かに相談できるわけではないので、 いつも悪い方ばかり取ってしまうため、新しい見解を取り入れたいです。 自分より遥かに長くお知恵と経験を積まれたお坊さんは どうお考えになるのか、教えを請いたいと思います。 長文失礼致しました。どうぞよろしくお願い致します。

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