過去にいじめられ、現在でも憎んでいる人たちがいます。もはや時効であり、逆恨みの域まで達していると思います。 いじめられたわけでも敵意すらなかったにしろ、それでも許せない人もいます。 そもそも因果応報とはどこからどこまでで成り立つのでしょうか?悪いことをすれば跳ね返ってくるんでしょうか? 実際に今でも何かされているわけではありません。それでも不愉快なのです。
最近、お浄土にはたくさんの種類があると知りました。 私の家系は浄土真宗なので、阿弥陀様の極楽浄土に生まれ変わらせていただくことになると思います。 ということは、生前に阿弥陀如来様を信仰していた人と、死後に極楽浄土で再会できるということでしょうか? また、たとえば薬師如来様を御本尊として信仰している人が往生した場合、東方浄瑠璃浄土というお浄土に行きますよね? そうした場合、私はその人とは会えなくなってしまうのですか? 仏教初心者なので、どこか間違っていたら申し訳ありません。 いろんな宗派のお坊様から回答をいただけたらありがたく思います。 よろしくお願いいたします。
私は子供が産めません。 しかし、子供が大好きです。 なので2年前に赤ちゃん人形を作って貰いました。本物の赤ちゃんみたいに重さも3000g、大きさも赤ちゃんそのもの。 本当に我が子のように可愛くて、いっぱい話しかけました。 例えば、一緒に映画を観て、一緒に祝い日を過ごして、人間関係について人生の難しさを語って、夜になると毎晩のように子守唄を歌って… それから2年彼の異変に気がつきました。前は口元に磁石が内蔵されてる為おしゃぶりをつけれるのですが、ふと気がつくとおしゃぶりが移動していたり、外れていたり…いままでそんなことはなかったのですが、顔つきも前の写真と比べるとなにか…ちがいます。 そこで相談…質問です。 人形にも愛情込めて毎日接していたら、命が吹き込まれ、ピノキオではないですが本当の子のように見たり聞いたり感じたりしているのでしょうか? 教えて下さい。 そしてその子は私のことをどう思ってくれているのかも知りたいです。真剣です。お願い申し上げます。
初めまして。29歳独身女性です。どうにも苦しいので相談させてください。 仲の良かった友人が結婚することになりました。 私は長いこと彼氏がいません。そして友人も長いこと彼氏がいなかったので、一緒に婚活をしたりコンパに参加したりしました。 最近友人に彼氏が出来、交際三ヶ月で結婚。 私結婚が決まりましたのメールを読んだとき、すごく苦しくて苦しくて。 思えば私は嫉妬しやすいのか、友人の結婚出産の報告を聞く度に胸が締め付けられるような苦しさと焦り、不安、嫉妬でしばらく落ち込んでしまいます。 ふとしたときに友人が頭に浮かび、子供と遊んでいる様子やドレスを選んでる様子を想像して涙が出るほど辛いです。 本当は自分の事のように祝福したいです。 本当に辛いです。どうしたらいいのでしょうか。
先日の痛ましい事件を受けて、職場の挨拶等で1日1日を大切にしよう と人が仰られていました。その通りだと思います。例として出させて貰いましたが、この事件が起こる前から私は1日1日を大切にできてないと思ってます。 20代という比較的なんでもできる歳なのに、枯れています。(上の年代の方すみません) とても焦りを感じてます。 私何してるんだろう、なんのために生きてるんだろうって思います。 人生に意味など無く、考えるのは無駄というのを見た事があり、承知してますが そちらではなくほんとになんのために生きてるか分かりません。 自分から疎かにしてるのではなく、(半分そうかもしれませんが)上手くいかなくて困ってます。ダラダラもしてませんし。 仕事をしてるので納税は果たせてますが、そういうのではなく、あとYouTubeが好きなのですが、私はYouTube見るために生きてるって言うのはなんか悲しいです。 (十分、いいじゃないかと思うかもしれませんが伝わるといいです) 大袈裟に言えば、私の人生の内容はYouTubeしかないのかって思ってしまいますし 夢を持て とよく言われがちですが、簡単に見つからないですし、叶わない事だってあります。 あと最近自分に響くのは暗い曲で、感情が欠落気味です。 おまけに人との関わりも微妙です。 (割とひとりが好きですし、人間の嫌な面とか見えてしまい疲れます。) このままだと、食べ物のように腐ってしまいます。腐るという表現がピッタリです。 それとも腐るのも、人生なんですかね…(若いながらに悲しいです)
禅について。 座禅をしてると、この世と一体となった感覚というか、諸行無常が感じられる瞬間があると聞きますが、それは本当ですか?体感しましたか? 私は、虐待という辛い人生経験をして、きっと自分が辛いのは前世で悪いことしたんだなと気づきました。 仏教の初歩ではありますが、因縁自覚したという感覚があり、仏教の輪廻転生や諸行無常を信じてますし、感じてます。 座禅をすると、それ以上のことを感じられたりするのでしょうか? それとも、因縁自覚があれば、座禅してもそれが深まるだけなのでしょうか? というのも、私は読経や写経や掃除などはしますが、座禅が苦手で、一番続いたものでも20分くらいしありません。 このまま座禅を続けていて、その先に今までの価値観が変貌するようなものかあるか気になったからです。 どうか教えてください。
他の人の事をうらやんでその雑念を振り払えない。振り払おうとすると余計に苦しくなります。人は人、自分は自分であると気持ちの切り替えが出来ない。いつも将来の事が気になる。社会不安障害と言うべきでしょうか? 仕事はしていますが給料が低い為、毎月これで一ヶ月やっていけるのかどうか恐怖心にさいなまれます。
始めに手掛かりになるかもしれないので、私の短所を書きます。 ドライ、両極端(興味がある事はとことん突き詰めるが、興味が無い事は触れもしない)、白黒はっきりつける、人の好き嫌いがはっきりしている(好きな人には腹を割って話し、本気で笑いながら接します。関わりたくない人は、目も合わせない所か話しかけられても無視か態度に出します。一度関係が崩れると修復不可能です。職場は仕方がないので上辺だけで接してます)、頑固、優劣を付ける、何事にも効率を重視する、完璧主義、せっかち、やられたらやり返す所です。 私の性格の悪い部分が特に出るのは車や電車が好きだからか、車の運転や電車内が多いです。 特に車の運転に関しては若い時から練習を重ね、人一倍気を遣って運転しています。 具体的事例ですが、目の前の車が制限速度以下で走っていて邪魔になっていたり、左右確認に不備があって、こちらに気付かず出てきたり、後方を確認せず車線変更され、ヒヤっとしたりと、兎に角自分のペースを乱されたり、この人周りの事を考えて運転してない。下手だなと思う場面に遭遇すると、「バカだろ、こう運転するべきなのにそんな事も出来ないのに運転しているのか、そっちが死ぬ分には構わないがこっちも加害者になるじゃないか」と言った事を口に出したり、自分が一人で運転していてぶつけられそうになった時は追いかけて行って注意した事もあります。 この他にも赤信号で横断歩道を渡り、接触しそうになった老人をその場で叱責したり、電車内で堂々と音を出してゲームや動画視聴している人を叱責したりと、自分が正しいと思ったら言わないと気が済みません。 先日一旦停止の十字路でお辞儀してから渡る老人を見て、こっちは一旦停止だからお辞儀する暇があったらさっさと渡った方が効率がいいのにと口に出した所、恋人と口論になり、性格を治す様、最終警告を受けました。 今までもこの問題で何度か口論になったので、スマホサイトなどで直す方法を度々模索してきましたが、相手の立場に立って考える、ひと呼吸置くと言った内容ばかりで、治す事が出来ませんでした。 元々は過激な性格ではなかったのですが、何故こんなに些細な事や自分の正義とのズレに憤ってしまうのか、何故他人を許す事が出来ないのか自分でも分かりません。 直す事は難しいでしょうか? どうか力をお借し下さい。 よろしくお願い致します。
父を亡くし、先日四十九日の法要を終えましたが、四十九日の法要を行った日は亡くなってから四十六日目であり、本当の四十九日の日ではありませんでした。そこで、 ①父はどのタイミングであの世(極楽浄土?)を目指すのでしょうか。 ②お供えなどは本当の四十九日まで行った方がよいのでしょうか。 ③お供えや話しかけたりするのは本当の四十九日が過ぎてもして良いものなのでしょうか。
はじめまして。仏教について疑問を持っているのでお答えいただけると助かります。その過程でキリスト教の例を出すことをお許しください。 キリスト教ではイエス様を地上にお与えになったほどに地上に生きるものを神は愛しており、自分の御姿に似せて人間をおつくりになるほどに人を愛している、と習います。その神の愛こそがキリスト者の信仰のよりどころだと思います。 一方で仏教は悟りを開くことが目的であると聞きました。悟りを開くということと仏様を敬い信仰するということがいまいちつながりません。また仏様は人間をどう見ているのでしょうか?キリスト者にとっての神様と同様に、愛していくださるのですか。仏様を信仰する人にとっての心のよりどころとは何なのでしょうか? 何分仏教について全くわかっていないため、見当違いの質問を多くしてしまいごめんなさい。ほんの少しでも回答をいただけると助かります。
少し前までは天国や極楽浄土があるのが死後だと思ってましたが身内の死以降そう思えなくなりました。死ねば骨になり土に帰りそれでおわり。 天国や極楽浄土の世界はどの宗教にも共通してあり古代エジプトでは来世で甦るための肉体が必要だからミイラにし復活をするという概念がありました。でもそれはすべて現世の人が作ったもので実際みたわけではありません、臨死体験などの話もありますが夢なのか区別がつきづらく天国や極楽浄土が垣間見れていい死後世界だったという話はきいたことがありません。 霊柩車内部にも極楽浄土の絵が描かれ死者が三途の川を渡れるように六文銭をもたせたりする風習があります。ただそれもすべて現世の人が作ったもので実際そうかは誰もわかりません。 身内がなくなり何年もたち、やはり死んだらこの世から存在がきえ手元に骨が残され、墓という形あるものに集約され彼岸に墓参りするという残された現世の人のためで、墓も遺骨をいれる場所としか思えなくなりました。 位牌は魂いれをしますが私にはただの板にしか思えず遺骨だけか故人そのものでその先の死後世界は今まではあるように思えたけどそれは無いのだなとしか思えません。身内を亡くすと死がどういうものかよくわかります、人がいなくなるというのがどいうことかが。なので現世にいる時がすべてて誰もみたことない死後世界は存在するとはもう思えません。 広い世の中、少なからずにたような考えもった人はいるでしょうが誰にでもできる話じゃないので周りに同じ考えの人がいるかきける時があればきいてみたいです。
いつもお世話になっております。 また新たな疑問がありまして、質問させていただきます。ご回答、アドバイスを頂ければ幸いに思います。 私の家は浄土真宗なのですが、なぜ浄土真宗では 南無阿弥陀仏とお念仏を唱えなければならないのでしょうか? 死後にお浄土に生まれさせて頂くため? 今現在の悩みや苦しみを解決して頂くため? まだまだ40代と若く?自分が死ぬことがなかなか実感として沸いてこない年代なのですが、 どういった心持ちで日々南無阿弥陀仏のお念仏を唱えていけばよいのでしょうか? 良きアドバイスを頂ければ幸いに思います。よろしくお願いいたします。
自分の能力では、自分の望む生き方はできなさそうです 自分以外の人に生まれたかった。努力したらした分だけ、他の人より成果を得たかった でも自分は能無しなので努力しても無理です もう死にたいです
こんにちは、宜しくおねがいします。 生き方について悩みが多く、暴れる心をなんとか鎮めたいと最近、 浄土真宗の聞法に通っています。 随分昔に死んだ明治生まれの祖母を思い出したからです。彼女は封建的な夫に黙々と仕え、息子に戦死されても、一人娘に急死されても、毎日の日課を黙って静かにこなし、仏壇になんまんだを唱え、老いては子に従い、右を向いていろといわれれば右を向き、左を向いていろといわれれば左を向いているような、大切にはされていたのでしょうが全く存在感のない祖母でした。無口で静かでしたから声も覚えていないのです。すっかり忘れていたのです。 ところが、自分も老境に入り、しかしいまだ心穏やかならず、怒りや貪りに振り回され苦しむ有様で、あの諦観したのか、または阿弥陀様にお任せしきったのかのような祖母の姿が私を聞法に向かわせました。 しかしこの身はしぶとく、聞法をいただいている間は少しは素直な気持ちになるのですが、それもなが続きしません。 第一、近代教育を受けた私には、「はからいを捨て、お任せする」のは難しいです。はからうことばかりを目指し、学び、訓練してきたのですから。もしかすると、もっと死が近づいたら少しはそんな気持ちが持てるのかもしれませんが・・・ ただ、三木清が言うように「自分は最後は親上人の言葉どうり、あの世で懐かしい人たちに会えることを信じている」のは私も同じです。 問題はあの世のことでなく、日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されることです。 そんな私が禅宗の教えで行住坐臥を整えることや、禅の言葉に従うことで、少しは苦しみから離れられるように思うことがあります。 子供のころ永平寺を訪れて、「こんな風に生きている人もいるのだ」とショックを受けたことから大人になって、禅林句集や道元禅師を読むようになりました。指針になります。 阿弥陀様にお任せできない私が曹洞宗に頼るのはいけませんか? 浄土真宗では一筋でないといけないと聞きます。お任せしきらないといけないと聞きます。浄土真宗と曹洞宗の二股みたいで罪悪感があります。 迷える私にお言葉をいただきたいです。 宜しくおねがいします。 とんぼ
北朝鮮情勢が緊迫し、アメリカが日本海に空母を送り込んだあたりから「自分は近いうち死んでしまうのではないか?」と思うようになってしまいました。 戦争に対する恐怖感は、ここで他の方の質問の回答を見てだいぶ無くなりましたが、(といっても北朝鮮に加え中国や韓国も怖いですが) 最近、調べ物をしてたら「死海文書によると2018年に人類滅亡」とか、今年とそれ以降の人類滅亡に関する予言とか、そういった予言の記事を偶然発見し見てしまい、最近はそっちの方に恐怖感を抱いています。 ノストラダムスの予言の後に生まれたので、ノストラダムスに関してはあまり知りませんが、2012年のマヤ文明の予言にはすごくビビっていた記憶があります。 そういった記事を見てしまったおかげで、頭の中で終末の時の感じとかを想像してしまったりして怯えたり、「今すぐ世界の終わりが来たらどうしよう」などといったことを四六時中考えてしまったりするようになって体調がさらに悪化し、この間主治医に相談して精神安定剤もまた飲み始めましたが、それでもこの胸の気持ち悪さは治りません。主治医の先生には環境が変わって気が張ってるのかな?って言われましたが、そうでもない気もします。 「まだ見たい景色や、やりたい事も沢山あるのに、若いうちに死にたくない!そういった予言怖いわ!そんな全人類が一斉に死ぬなら戦争で死んだ方がまだマシ!だけど戦争も怖い!」って思うのと、今までの人生ろくなことがなかった自分の母親の人生についに光が射し始めているというのに、こんな予言に振り回されたり恐怖感を持ち体調を思いっきり崩したりして母親を振り回している自分が恥ずかしいです。 一日でも長く生き延びるために、この負のスパイラルから抜け出したいです。 長文乱文失礼しました。
よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。
よく人は死んだら魂が切り離されて天国か地獄に行く、とか三途の川だとか、自殺者は存命時よりも深い苦痛を味わうだとか色々言われますけれど、、、 結局人は死んでしまったら一体どうなってしまうのでしょうか? 分かる方、教えていただけたら幸いです。
こんにちは。 初めて質問します。 私は、いろんなことがよく頭の中で渦巻いて、ごちゃごちゃしています。 ”空”にすることはとても難しいです。 6、7年前に自律神経系を著しく崩して、死がそこまで来るほどに患いました。 いろんな人たちの援助やさまざまな治療方法で、細かい不調はありながらも何とか今、生活できています。 生きていることの毎日が修行のようですが、頭(心や魂でしょうか)の部分で、改善はしていますがどうしても”何か”を越えられません。 現在、私にはもう仏教修行の道しかないのか、或いはその道が最適、ぐらいの考えにあります。 インターネットでいろいろ調べましたが、そのうちに宗派や修行内容など、考えると訳がわからなくなってきました。 (修行体験として出てくるのは限られている気もします。) 身体面で、厳しい修行(横になってはいけない、断食、極寒でひたすら立ち尽くす、1000日歩き続ける、など...)に耐えられるのかどうか不安です。また、死ぬような思いをするのかな、と。 わたしにとっては、その部分の修行は1度やった、ぐらいの感覚であるほど苦しかったんです。(修行を軽く捉えてるわけではありません) 無理ならば、健康でなければ出家はできないということになってしまうのでしょうか。 このような状況や、修行の内容と宗旨のバランスを、自分に当てはめてみたとき、何を選べばいいかわからないです。 このような私に、ご教授よろしくお願いします。 長文、お読みくださり、ありがとうございました。
こちらで戒名を載せていいものか悩みましたが、どなたかアドバイス頂けますでしょうか。 先日、最愛の実母が亡くなりました。長い長い闘病生活、長くはない命と分かっていながらも素直になれず困らせたり、もっと何かをしてあげればよかった、の後悔ばかりの日々を送っています。 私達(姉がいます)に父親はいません。母の葬儀が人生初の葬儀(幼少期に祖母がなくなりましたが記憶に薄いです)となり、姉が喪主となり2人で右も左も分からないまま、ただ母の旅立ちをしっかりととの思いで通夜告別式を執り行いました。 準備段階での事です。母に戒名を頂くために、母の両親を連れ、ご先祖様のお墓のあるお寺の住職さんに戒名のお願いしました。しかし、住職さんはお年を召してるのか全くこちらの話を聞いて下さらず、ただただ同じ事を繰り返し言うのみ。遠方だったので、一度戒名をつけて頂きたいと電話で伝えた際に姉がうまく伝わっていないと思う、と言うので心配になりいざ出向いてみるとすでに戒名が決まっていました。電話で伝えたのは名前と歳のみです。 私達はお恥ずかしながらあまり知識がなくネットなどで調べるのが精一杯です。戒名とは、俗名から一字、人柄から一字、というのは間違った情報でしょうか? 母の戒名は、瑞雲蓮花妙○○大姉霊位、です。○○の部分には母の俗名がそのまま入っています。意味を伺っても、読み方しか教えてくれず、母の両親に訴えても、もう決まったみたいだから、と。 もちろん、頂いた戒名に不満があるわけではありません。ただ、人柄なくして戒名がつくのか、どういった意味合いなのかが知りたくて投稿させて頂きました。 よろしくお願いします。
ずっと心に気になっていることがあり、お伺いします。よろしくお願いします。28年前に結婚し、マンションに野良猫がよく来ていたので、餌を与えていました。離れているぶんには逃げないのですが、手を出すと逃げていくような関係でした。でもある日、とても雨がひどい日のことでしたが、その猫が具合が悪いのか濡れそぼってやって来て、部屋に入りたがりました。今まではいくらこちらから近寄っていってもさっと逃げて行っていたのに、猫のほうから部屋に入れてと言うように鳴きながらやって来ました。私は長女を妊娠中で、お腹の子への影響を気にして(猫が持っている菌による奇形)可哀想と思いながらも入れてあげませんでした。猫はしばらく鳴いていましたが、どこかへ行ってしまいました。いくらお腹の子への影響が心配とはいえ、ひどいことをしてしまったと、この時のことが心から離れません。思い出すと、心が痛く、自責の念から逃れられません。長女はトラブルメーカーで何かと心配事を次から次へと起こし、実家を離れて一人暮らしをしている妹も姉の愚痴を聞くの嫌だから帰って来たくないと言います。長女がこのようなのは、あの時助けを求めていた猫を見捨てた報いなのでしょうか?