私が仏教に関心を持つようになったのは最近の事です。 あまりにも辛い出来事があり、うつ病になりかけた時に、偶然テレビで般若心経を解説するプログラムを見て、心がすっと軽くなった、というのがきっかけでした。 ところで、わが家は浄土真宗なのですが、浄土真宗では般若心経を唱えるべきではない、と聞き拍子抜けしてしまいました。般若心経の教えに救われた私としては、何だかスッキリしません…。 実際に浄土真宗のお坊さまたちは、般若心経についてどのようにお考えなのか、お聞きしたいです。
以前子育てで後悔していると相談した者です。過去にこだわって現在を見ていない、とお教えいただきました。 これから何ができるか前向きに行動するためにも、今そこにいる子供たちをそのまま見て受け止められるようになりたいと思ってます。 ですが未だに後悔や不安にかられる癖が直りません。 どうすればこの凝り固まった後悔の念を手放すことができますか? すぐになくす事はできなくても、現在やこれからを考えるために自分の中でどう割り切ればいいのか、お教えいただけますか。 今できる事に集中したいので、過去は過去として現在と分けて考えたり感じられるようになりたいのです。 わかりにくい文で申し訳ありません。
いずれ訪れる死が怖いです。 人はいつか皆、必ずこの世界とのお別れが来ます。 人間も生き物である以上、生まれて生きていつかは死んでゆく。 そのサイクルは理解しています。 でも、そのいつか訪れる死が怖いのです。 物心ついた時からです。 ー死んだら人はどうなってしまうの?死んだらまた生まれて来れるの?ー そんな風に考えしまったら恐怖で息が苦しく、目の前が真っ暗になりパニックを起こしてしまいます。 死にたくない。怖い。嫌だ。そんな感情を抑えきれなくなってしまいます。 生き続ける事の方が怖いという話もよく聞きます。 永遠がないからこそ、時間が有限だからこそ、生きる事に意味があると。 生きる事も死ぬ事も人間の儚さであると。 そんなのは綺麗事なのではないかと思ってしまいます。 ふとした瞬間に思うんです。 今、こうして生きていてもいずれは全てなくなってしまうんだよなぁと。 どんなに嫌で怖くても、決まっている運命には抗えない。 子供が2人居ますが、この子達がおじいちゃんおばあちゃんになる頃にはこの世界に自分は居ないと思うと不思議な感覚になります。 時の流れに逆らう事は出来ません。 じゃあ、人は何の為に生まれて、何の為に生きて、何の為に死んでゆくのか。 いずれ死んでしまうのに自分は何故、この世界に生まれてきたのか。 考えれば考えるほど、「逃げられない恐怖」の底へと引きずり込まれてしまいます。 何故、せっかく生まれてきたのに死ななければならないのですか。 助けてください。 逃げられない恐怖と向き合っていく方法はあるのでしょうか。
今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
浄土三部経が偽経や非仏説と言われている事についてどう向き合えばいいでしょうか。 自分はこれで阿弥陀様の信心を失ってしまいました。 事実としてお釈迦様が直接説いたわけではないことは、「歴史的」には分かっているそうですし、それでもお釈迦様以外の仏様が説いたので仏説と言われていたりと、結局どれが真実なのか分からなくなってきました。 浄土宗や浄土真宗のお坊様はこの事についてどう思っているのですか? そしてどうやって信じているのでしょうか。 自分はこの事で信心をもらえそうにないです。 回答お願いいたします。 この前までは単純に阿弥陀様を信じられていませんでしたが今度は大乗非仏説で信じられなくなっしまいました。
今までずっと我慢してきました。常に他人に迷惑がかかるんじゃないかと思って、ろくに人に頼ることもできません。友達に相談したいのに、できません。自分のキャラに合わない。心配なんてさせたくない。親になんて相談したくありません。自分のこと理解しようとしてないんだなって思って余計へこむ。けど、最近相談して甘えたい欲求がでてきました。でも、当然甘えなんて許されない。浪人という分際だし。みんなは自立しろという。そもそも誰かに相談して解決するようなもんでもないし。 大好きな友達はいるが、折角友達と一緒にいても、「どうせ数時間後には自分は孤独だ」と思って楽しめません。そもそも、何か楽しいことがあっても、「どうせ終わる時がくる」と思って楽しめません。気を紛らわすなんて無理です。 それと、私は同性愛者ですが、そのことも自分を苦しめる要因の一つです。自分がメジャリティーだったならば、無意味なことで傷心せずによかったのになぁとどれほど自分を恨んだことか。 今まで見て見ぬふりをしていた感情、欲求不満が爆発しました。それらを解決するにはどうすればよいだしょうか? 拙い文章で申し訳ございません
最近、初めてのアルバイトを始めました。 ですが、仕事内容と覚えなければならないことの量の多さに初出勤から怖じ気づいてしまいました。長く続ける自信も無くしてしまいました。 慣れれば大丈夫と友人や家族に言われましたが、神経質で緊張しやすく物覚えの悪い私はそう簡単にその励ましを受け入れられませんでした。 他にも家族からは、アルバイトでそんなことを言っていたらこの先就職なんてできないと言われました。本当にその通りだと思います。自分は甘えていると思います。こんな自分が恥ずかしいし、情けないです。 最近そんなことばかり考えていて、こんな自分に何ができるのだろうか、生きていても社会のためになるのだろうか、生きていてもどうしようもないのではと考えてしまうこともあります。 とにかく、失敗が怖いです。それに伴って怒られたりすることも…。 失敗しないことはないとわかっていても、したくないです。 私はどう考えたらいいのでしょうか… 文がまぜこぜで申し訳ありません。
今年大学生になった者です。 高校時代に全く勉強してこなかったせいなのですが、大学生になってとても苦労しています。(大学は特殊な推薦で受かりました)各講義の期末テストをもうすぐするのですが確実に点数が取れません。勉強しなければいけないのに全然しませんでした。 正直この感じでは前期は両手で数えれる程の単位しか取れません。きっとこの先も自分はこんな感じだとおもいます。正直こんな自分から変われるとは思えません。なので3年後に留年して親に迷惑をかけるよりさっさと大学を辞めて自衛隊などに入隊してお金を返そうかなと考えています。ですが親になかなか辞めたいと言い出せません。結構切羽詰まっています。どうすればいいのでしょうか? あと障害の検査も一度してみたいのですが親になんと言えばいいのでしょうか? こんな意味わからない質問ですみません。
こんにちは。 半年前から趣味として座禅を朝晩40分ずつやっています。 最近はお寺さんでも座禅をするのですが、悩みがありご相談させて頂きました。 1.座禅中に時間を気にしてしまう自分がいる事。 半跏趺坐で両足の痺れが出るのが開始後30-35分ほどなのですが、ここ最近は上手く座れてないのか、2個目の質問である足を組み直すのと並行して時間を気にする自分がいます。その時の感情面が、足が限界、まだもうちょっと大丈夫、あと何分やろ?できれば足を組み直さないで一炷終わらせたい、いつになったら慣れるんやろ。 2. 50分間の座禅中に足を組み直さないと両膝、左肩が痛くて仕方ないのですが、我慢してたら慣れるものなのか。共に座禅をしている方達は静かに座れているのに何故自分だけは我慢できないのかと自己嫌悪してしまいます。 3. 趣味として座禅を行っていた時は苦痛だとは思わなかったが、一つの修行だと考え座禅を行うようになってからは苦行、座禅が嫌いとまでは言わないが辛いと思ってしまうようになった。心の持ち様or考え方で変わるのだろうと思うが、何が正しいのか分からない雁字搦めの状態になっています。 座禅というものを真面目に捉えてちゃんとやらないとと思ってるから苦痛と思うのか、もっと気楽に座ればいいのか、考え方やコツなどありましたら教えて頂きたいです。 よろしくお願い致します。
長年、メンターと尊敬していた人物が詐欺師でした。 母と私の合わせて70年分の貯金を全て騙し盗られました。 パワハラで会社を辞めたい時期に、「お母さんと3人で株の運用会社を作ろう」という話になり、設立後3年もたってから、詐欺師が一円のお金も出していないことが判明しました。その後、会社は勝手に解散しています。 何度も相談した警察には「詐欺師が有能すぎて、刑事事件にできない」と言われました。 弁護士も変え、「民事で訴えることができる」という先生に出会いましたが、費用がまず200万必要で、ためらっています。 死にたいほど後悔している事は、「娘には絶対に老後の迷惑をかけない」と決めて、人生を楽しむこともなく貯金した母のお金のほとんどを、馬鹿な私の為に盗られたことです。 何とか生活は出来ていますし、母に弁済もしていますが、「あのお金があったら、母はもっと豊かな生活が出来ている。あそこにも行けて、あれも買えて・・・」と、いつも、いつも苦しいです。 母は強い人で「お金は心の安心につながっていた。でも無くなったものは仕方ない。人に相談するのも恥ずかしいことなので、もうあきらめよう」と、言ってくれています。責められることもありません。 私に万が一の事があった場合の生命保険の金額も、母の生活が何とかなる金額になりました。支払いに回していたお金を、母との楽しみに使いたいと思っていますが、弁済よりも母の老化は早く悲しいです。 弁護士料に200万は使えません。あれば、それは母の為に使いたいです。しかし、弁護士に払えたら、無念が晴れそうです。 詐欺師がされて嫌なことを逡巡し、「いつか、孫に取り返しのつかない重傷を負わせ、嘆き苦しむ息子の姿を見て苦しめ!」と思います。 私の母の苦労を知りながら、赤子の手をひねるように騙した詐欺師が許せないのです。(私は詐欺師と男女関係ではありません) 私が無知で馬鹿で浅はかだったために詐欺に遭い、母に心労をかけているにも関わらず、時折、母に優しくなれない自分がいます。情けなくて消えてしまいたくなりますが、母を置いては死ねません。 前を向いて、仕事をして、時々母と旅行もして楽しく暮らそうと思いながら、「民事で訴えたい・もう立ち直れない・一人身になったら、孫に重傷を負わせたい」と思います。 心をどう持てばよろしいでしょうか?お願いします。
「理解されない」という惨めな気持ちが、年々強くなります。 音楽をやっており、私は比較的マイナーな楽器を主に演奏します。 華やかな楽器を演奏し、いつも目立っている女性から、以前馬鹿にされたように笑われたことが、未だに傷ついて頭にこびりついています。 その人はどんどん人前に立ち、どんどんきれいに、みんなから人気を集めています。 それに比べ私はどんどん人前から遠ざかり、楽器も手にしなくなりました。 理由は自分でもハッキリとはよく分かりませんが、欝っぽくなって「どうせ私なんか」と自分を責めたり「どうせこんな人たちなんか」と周りのせいにしたり、し始めた頃からです。 なのに、昔は大学で優秀な成績だったことや、小さい頃からずっと音楽が得意で皆から褒められていたという過去の栄光に、どこかですがっています。 「私は上手なのに皆は私を理解してくれない」などと、物凄く醜く卑屈な考え方をします。 人前で演奏しないから上手かどうかなんて誰も知らないのは当然で、何も努力せず理解してもらおうなんて、甘いにもほどがある…それでこの春から気持ちを切り替え、練習を再開したりしているのですが、どうしても、華やかな人と自分を比較してしまうんです。 たぶんこのままだと、もし自分が以前のように人前で演奏するようになっても、他者と自分を比較しては惨めになる繰り返しで、一生悩まされる気がします。 みんな違ってみんないいはずと言い聞かせてみても、「でも私の周りの人は、目立つ人、万人受けする人の事しか褒めない。周りの人に認められなかったら何の意味があるのか」という思考がすぐに打ち消してしまいます。 なぜ年を経るごとに酷くなっていくのかは分かりません。 子供っぽい悩みのようで、周りの人に相談することもなかなかできず、投稿させていただきました。
新卒で入社した身なのですが、失敗して怒られてばかりの日々です。 それが原因なのか、働いてからは些細な事に怒りを覚えるようになってしまいました。 前の人が歩くのが遅い、親友に送ったLINEの既読・返信が遅いなど以前は気にならなかったことに怒りを感じてしまいます。 相手が悪くないのは分かってるのに腹が立って仕方がありません。 今まで怒りを覚えたことのない親友に対して大きな怒りを感じてしまったのは自分でも驚きました。 幸い言葉や行動には現れていませんが、この状態が続くといつか怒りを爆発させてしまいそうで不安です。 どうしたらイライラせずに過ごせるでしょうか?
私は今、両親と下に弟と祖母と暮らしているのですが 過去に祖母が家族に対しての文句やすごくきつい毒舌などを 言っていたりした事が今だに自分の中ですごく深い傷になっているみたいで今はもう弱ってて、嫌味や毒舌を言うわけでもないのに 今だに私たちがいなくなるとなにか言っているのでは?とか 祖母のささいな事でさえわざとにやっているのではと敏感になったりして自分を追い込んで苦しめてしまいます。 家族に考えすぎと言われたり 自分でも自覚していてなんとか考えを変えようとするのですが やっぱり信じきれていないせいか 本人が目の前にいるとまた同じ事の繰り返しになり 結局また自分の首を絞めるような事になってます。 その当時に祖母が文句を言ったり毒舌を言ったり していたのにもちゃんと理由があったと最近になって判明して その時の事はおばあちゃんも苦しかったからだったんだと そこで私が納得して思いやりをもって理解してあげればいいと分かっているのにやっぱり祖母に対しては今だに信じきれずにいます。 私が中学の頃不登校になった時も味方になってくれたりしたのも 祖母だったのでもうちょっと私が器を広く持てばいいのかもしれないですがでもなかなか難しく疑いの気持ちが、日に日にひどくなる一方です。 元々、他人に「もしかして嫌われているのではないか?」 「悪口言われてるかもしれない」と周りを気にしすぎたり 自意識過剰な所や被害妄想がひどい所もあり 自分でありもしないような事まで考えて 実は取り越し苦労だったなんてこともあるくらい。 結局こうなったのは 自分のせいだから変えていかなければと思っているのですが なかなかうまくいかなくて。 それと今はずっと家の中にいる事が多いので 何かやりたいと思った物をみつけても 周りの人たちを気にしすぎるあまりに 前に踏み出せないままです。 長くなってしまいましたが 今の私の心の中の苦しみを全部書いたつもりです。 どうすればこの苦しみから解放されるのでしょうか? こんなどうしようもない私でも変わっていけるのでしょうか?
いつもお世話になっております。また戻ってきてしまい申し訳ございません。 自分のことが嫌いで、死んでしまいたいと思っています。 過去の自分も今の自分も嫌いです。 自分の過失をよく思い出し落ち込みます。 最近は特に夜、自己嫌悪になり眠れません。 ・人に対しての不平不満や悪口を言ってきたこと。 ・相手の些細な言動を攻撃と捉えるところ。 ・人の悪いところばかり見るところ。 ・油断するとすぐ怠けるところ。 ・嘘をついたこと。 ・人間関係を上手く築けず、自分が原因で関わってきたほとんどの人に不快な思いをさせたこと。 ・神経質な割に間違えをよく起こし、間違ったことに気づくのが遅いところ。 このような感じです。 このまま生きていたら、人に迷惑ばかりかけると思います。私のことをよく思わない人は沢山いると思います。 実際、人からは、私に対してイラッとすることがある。そうゆう人なんだなと割り切っていた。と、一人一人謝罪をした後に言われました。 その通りだと思い、相手にそう思わせて、気を使わせてしまっていた状況が情けないです。 考えすぎるあまり耐えきれずかかりつけのカウンセリングを予約しましたが、その日まで持ちそうになかったので、相談させていただきました。 申し訳ないです。何かお言葉をいただきたいです。
どうぞよろしくお願い致します。 諸事情で、親がこの度施設に入居し、実家を引き払う事になりました。私は既に15年前に結婚しており、実家を出ています。実家では先祖代々のお仏壇を祀っていましたが、その中の阿弥陀像や位牌類は実家の名前の直系である私の従兄が守ってくれる事になりましたが、私の手元には親や祖父母が以前集めていた御朱印帳、また経典や写経の為の般若心経の用紙(?)等々が残ってます。お寺にお願いして供養していただくのが良いかと思うのですが、恥ずかしながら今回の親の引越しや実家の撤去等で今大変物入りで、出来るだけ自分で供養する様に出来ればと考えてます。 また、母が昔、授かったけれど事情で産む事の出来なかった私の兄弟の小さな位牌がひとつあり、それは私が引き取ったのですが、うちでは目に付く所に祀る様な場所がなく、私自身、どういう風に持っていれば良いでしょうか? アドバイスがいただければ幸いです。
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
私は回転寿司に頻繁にご飯を食べに行きます。 大体、週に1日くらい行ってます。 そこで気が付いたことに対しての質問です。 回転寿司ではほぼ毎回、お皿22枚(44貫)と青さの味噌汁1杯食べたところでお腹がはちきれんばかりになります。 今日はお皿18枚(36貫)と青さの味噌汁1杯でお腹がはちきれんばかりになり帰ってきました。 ここで普段30皿(60貫)と青さの味噌汁2杯食べる人が、 『その程度の食事で諦めるな(放棄するな)。もっと記録を目指せ』 と言ってきたとします。 自分の中では満足しており別に上を目指す気もない場合は、『諦めている(放棄している)』とはみなしていないです。 また、自分の心の声で、 『普段はもっと食べているんだから諦めず(放棄せず)に普段の記録まで持っていけ』 とあったとしても、今はお腹いっぱいなのでやっぱり『諦めている(放棄している)』とはみなしていないと思っています。 それどころか、満腹でお腹が苦しいという事は、食べ過ぎており、諦めていない(明らかに見ていない=邪見)であるから、次回からはよく心を観察して、今回より減らして食べよう、そしてそれが苦しまずに足りているか確認し、多いようならまたその次は減らそう。 ただし、明らかに少ない皿数(1皿2貫or青さの味噌汁1杯)だけを食べて帰るという真似は足りてないからやめよう、と考えております。 前置きが長くまり申し訳ありません。 ここで質問です。 1.出家者にしろ在家者にしろ、明らかに見た(諦めた)結果の小欲知足は、人によって基準が違うのでは。だからやり方は教えれるけど答えは人によって違うのではないか。 2.ブッディズムでいうところの『気付き』は、特別な場所や時だけのものではなく、いつでもどこにでも転がってお普段から注意深く観察しておれば、誰でもできる『行』となるのではないか。 3.なぜ自分は毎回食べる前からわかっているのに、苦しくなるまで食べ過ぎて苦しんでしまうのか、、それはあれもこれも食べなければ(しなければ)ならないという思い込み、つまり正思惟の逆のことをやっているからでしょうか。 最後は、それでも毎回やめないのは、今現在苦しくても時間がたてば苦しみも治まる(諸行無常である)。それどころか生きてる実感があると高をくくっているところがありますが。 アドバイスをお願い致します。
よろしくお願いします。 「世の中、お金がすべてじゃない」という言葉をよく耳にします。 「しかし、この世の中、いい大学を出て、大きな会社で働いて、お給料をたくさんもらって不自由のない生活をするのが幸せ」 というような雰囲気を感じています。 特に自分のように、まともに社会に出たこともない人間にはそのような雰囲気や考え方はとてもつらく、むなしくなります。 その考え方は間違っているとは100%言い返せません。
お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?