hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん 宗派 」
検索結果: 1134件

極楽について

以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。

有り難し有り難し 110
回答数回答 6

僧侶になりたいが別の職も目指したい

有難き法縁を最近恵まれて、僧侶になることを考えている者です。仏道に生きることは自分にとって良いだけでなく、それを世に広めることは非常に大きな意味があると思っています。教行信証を読んで、これは広めるべき教えだと深い感慨を得ました。寺族でない者が僧侶になる道もいろいろと調べました。 しかし、私が今まで積んできた学業を捨てて僧侶になることは本当に社会にとって最善なのか、と思いました。(現在、米国の大学に在籍し工学を勉強しています。ちなみに浄土真宗の寺に毎週通うようになったのもこの地です。) もちろん、そこには自分が工学をやりつつ仏教もやるという煩悩もありますが、私がここまで工学の勉学を多額の費用が掛かるにもかかわらず進められてきたのも立派なご縁で様々な人のおかげです。技術者になれば社会に貢献できるとも思います。寺族でない者が別の職業に就きつつ僧侶になり寺を開くことは現実的でしょうか。 親鸞聖人は非僧非俗といいました。関東の農民とともに農作業にも励んだと聞いています。今日でも、別の職業に就き世の荒波に揉まれつつ、僧侶として(例えば、毎週日曜日に自宅をお寺にするなど)人々とともに仏道を歩むのは意味があることだと思うのです。 休日を持たない覚悟はあります。また、通常の寺という形に囚われず、布教所のように小さな形でも仏法を広められるのなら良いと思います。しかし、寺族でない人が別の職を持ちつつ寺を開くケースを拝見したことがありません。実際のところどうなのでしょうか。

有り難し有り難し 24
回答数回答 4
2025/03/21

父の突然死

数週間前に父が就寝中に76歳で突然死しました。 コロナ発病後に身体が弱くなり、よく風邪を引いては治るを繰り返していました。 今回も亡くなる数日前に風邪を引いて、母もいつものことと思っておりましたが、就寝中に亡くなり、朝母が発見しました。 娘の私は、亡くなる1ヶ月前に孫を連れて会いに行ったのが最後でした。 晩年は孫に会う事を楽しみにしており、祖父が亡くなった77歳までは生きたいと、何十年間吸っていたタバコもやめ、健康体操に行くなど身体に気を遣っていた父。 いつも私の体調にも気遣ってくれていたのに、なぜ私は気遣ってやれなかったのか、 私があの時病院へ連れて行ってあげたら、今頃はまだ生きていたんじゃないか。 まだまだ生きているだろうとどこかで思い込み、親孝行を何ひとつしてあげられなかった。 父への後悔や罪悪感、また父の無念が痛い程分かり、胸が押しつぶされ苦しいです。 母や孫ためにも前を向かないといけないといけないと分かっていても、死を受け入れられず、また会いたいと強烈に寂しくなり涙が止まらなくなります。 どうしたら死を受け入れ、前を向けるのでしょうか。 また突然亡くなった父は、死を受け入れ成仏が出来るのでしょうか。

有り難し有り難し 16
回答数回答 2

自分の人生に責任を持ちたいです

お世話になっております。 今回聞きたいのは、自分の人生に責任を持つには、どうしたらよいかということです。 これまでの人生、健康や、学業、将来のこと、人間関係など、あらゆることで、理想と現実のギャップに悩みました。努力では変えられないものもあると思います。しかし、私の場合は、できる努力をしていません。なにもせず、問題を問題のまま抱え、何かを達成した、克服した、という経験を持てないまま、大人になりました。すべての悩みは、なぜ努力できないのか、ということにつながります。 私は努力ができません。たいていのことを面倒がって、楽なほうに流れてきました。たまにやる気を起こしても、やる前にやる気を失うような調子で、やる前からあきらめることが多いです。子供のころから3日どころか1日も満足にこなせないことばかりでした。やりたくないことならそれでも仕方がないかもしれないですが、多少でも好きであったり、興味のあること、やりたいことでさえ、少しの障壁で、すぐにあきらめてしまいます。なにかを好きだと思っても、行動が伴っていないので、たいして好きではないんだなと思います。 こんな自分が嫌なのに、努力できないのはなぜか、と考えると、頑張らなくても生きてこられたからだと思いました。勉強や運動ができなくても、人間関係がうまくいかなくても、趣味や特技がなくても、働けず家にこもっていても、家から追い出されることもなく、三食ご飯を作ってもらえて、今日も生きています。家族関係は良好ではないですが、非常に恵まれています。だから、私は頑張る必要がないと思っているのかもしれないです。また、わたしの命を望んだのは親なのだから、なんで私が頑張らなくてはいけないんだろう、と思っています。 親に依存して、自分の命、人生の責任を持ちたくない、と思っていたら、頑張れるはずがないと思いました。そういう感情があっても、現にこのままではつらく、将来的にはこのままではいられず、努力する必要があります。経済的に自立すれば、頑張れないなどと言う暇もなく頑張ることができるかもしれない、学費も自分で払うなら、勉強を頑張れるかもしれない、ということを考えてみましたが、あまりの重責に想像だけでつらいです。 自分の人生に責任をもって、必要な努力をしたいです。自分のために行動できるのは、自分だけだと本当に理解したいです。どうしたらいいですか。

有り難し有り難し 63
回答数回答 2