hasunohaでの問答で勉強させてもらっています。 ふと思いました。 僧侶の先生方は 僧侶を辞めたいと思われた事はないのでしょうか? 『クソ坊主』だの『生臭坊主』だの 『税金を優遇されてる』だの 気分が悪くなる事も有るかと思います。 どう対処されてますか? 師走でお忙しくなるかと思いますが 先生方、どうぞご自愛くださいませ。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
グローバルという言葉が当たり前になった現代でも、宗教はいまだ閉鎖的であるように感じます。 中東をはじめ宗教を理由にした紛争はいつまでもなくならず、中世の時代から少しも変わっていません。 それぞれの宗教はいい教えだと思うのですが、なぜ対立という方向に走ってしまうのでしょうか。 宗教の教えはよくても、それを運用する人間に問題があるのでしょうか。 仏教会(?)は宗教を理由とした紛争について、どう考えているのですか? いまこそ一致団結し、世界平和に向けてなにか活動してもいいのではと思うのですが、人任せで無責任な考えでしょうか。 ちなみに私は神社の町で育ったので神道が好きですが、仏教も尊重しています。
有難き法縁を最近恵まれて、僧侶になることを考えている者です。仏道に生きることは自分にとって良いだけでなく、それを世に広めることは非常に大きな意味があると思っています。教行信証を読んで、これは広めるべき教えだと深い感慨を得ました。寺族でない者が僧侶になる道もいろいろと調べました。 しかし、私が今まで積んできた学業を捨てて僧侶になることは本当に社会にとって最善なのか、と思いました。(現在、米国の大学に在籍し工学を勉強しています。ちなみに浄土真宗の寺に毎週通うようになったのもこの地です。) もちろん、そこには自分が工学をやりつつ仏教もやるという煩悩もありますが、私がここまで工学の勉学を多額の費用が掛かるにもかかわらず進められてきたのも立派なご縁で様々な人のおかげです。技術者になれば社会に貢献できるとも思います。寺族でない者が別の職業に就きつつ僧侶になり寺を開くことは現実的でしょうか。 親鸞聖人は非僧非俗といいました。関東の農民とともに農作業にも励んだと聞いています。今日でも、別の職業に就き世の荒波に揉まれつつ、僧侶として(例えば、毎週日曜日に自宅をお寺にするなど)人々とともに仏道を歩むのは意味があることだと思うのです。 休日を持たない覚悟はあります。また、通常の寺という形に囚われず、布教所のように小さな形でも仏法を広められるのなら良いと思います。しかし、寺族でない人が別の職を持ちつつ寺を開くケースを拝見したことがありません。実際のところどうなのでしょうか。
どうしても過去に執着。忘れられない。 煩悩を断ち切るには?
数週間前に父が就寝中に76歳で突然死しました。 コロナ発病後に身体が弱くなり、よく風邪を引いては治るを繰り返していました。 今回も亡くなる数日前に風邪を引いて、母もいつものことと思っておりましたが、就寝中に亡くなり、朝母が発見しました。 娘の私は、亡くなる1ヶ月前に孫を連れて会いに行ったのが最後でした。 晩年は孫に会う事を楽しみにしており、祖父が亡くなった77歳までは生きたいと、何十年間吸っていたタバコもやめ、健康体操に行くなど身体に気を遣っていた父。 いつも私の体調にも気遣ってくれていたのに、なぜ私は気遣ってやれなかったのか、 私があの時病院へ連れて行ってあげたら、今頃はまだ生きていたんじゃないか。 まだまだ生きているだろうとどこかで思い込み、親孝行を何ひとつしてあげられなかった。 父への後悔や罪悪感、また父の無念が痛い程分かり、胸が押しつぶされ苦しいです。 母や孫ためにも前を向かないといけないといけないと分かっていても、死を受け入れられず、また会いたいと強烈に寂しくなり涙が止まらなくなります。 どうしたら死を受け入れ、前を向けるのでしょうか。 また突然亡くなった父は、死を受け入れ成仏が出来るのでしょうか。
空について考えてたら頭がグチャグチャになって何が何だかわからなくなってきました。 全ては同じだとか、無ではなく空だとか、縁起がなんだとか、自然に身を任せるとか、日常生活を大切にしろとか、分別はするなとか… 端的に何が最重要なのか教えて下さい 空を掴むのに最も大切なのは執着を手放すことですか? でしたらその方法を教えて下さい。 それとも他のことが最も大切なのですか? 何にしろとりあえず何を意識してどうすれば良いか方法を教えて下さい。 よろしくお願いします。
自分自身の考えに限界を感じています。 人生的な考えであって、哲学書などを読みふけっています。 ただ、仏陀の教えに関して詳しく書いている書物を読もうとしても どうしてもその介錯が何か仏陀の教えと言えるものは違うことのように解釈をしている翻訳家が多いように感じます。 仏門を修めている方にその辺りを詳しく書いている本や、自分は仏教や仏陀の教えをこうして学びました、というものがあれば教えていただけるでしょうか。 よろしくお願いします。
修行僧の人達は何のためにどんな事をしているのですか?いくつか教えてください。
お世話になっております。 今回聞きたいのは、自分の人生に責任を持つには、どうしたらよいかということです。 これまでの人生、健康や、学業、将来のこと、人間関係など、あらゆることで、理想と現実のギャップに悩みました。努力では変えられないものもあると思います。しかし、私の場合は、できる努力をしていません。なにもせず、問題を問題のまま抱え、何かを達成した、克服した、という経験を持てないまま、大人になりました。すべての悩みは、なぜ努力できないのか、ということにつながります。 私は努力ができません。たいていのことを面倒がって、楽なほうに流れてきました。たまにやる気を起こしても、やる前にやる気を失うような調子で、やる前からあきらめることが多いです。子供のころから3日どころか1日も満足にこなせないことばかりでした。やりたくないことならそれでも仕方がないかもしれないですが、多少でも好きであったり、興味のあること、やりたいことでさえ、少しの障壁で、すぐにあきらめてしまいます。なにかを好きだと思っても、行動が伴っていないので、たいして好きではないんだなと思います。 こんな自分が嫌なのに、努力できないのはなぜか、と考えると、頑張らなくても生きてこられたからだと思いました。勉強や運動ができなくても、人間関係がうまくいかなくても、趣味や特技がなくても、働けず家にこもっていても、家から追い出されることもなく、三食ご飯を作ってもらえて、今日も生きています。家族関係は良好ではないですが、非常に恵まれています。だから、私は頑張る必要がないと思っているのかもしれないです。また、わたしの命を望んだのは親なのだから、なんで私が頑張らなくてはいけないんだろう、と思っています。 親に依存して、自分の命、人生の責任を持ちたくない、と思っていたら、頑張れるはずがないと思いました。そういう感情があっても、現にこのままではつらく、将来的にはこのままではいられず、努力する必要があります。経済的に自立すれば、頑張れないなどと言う暇もなく頑張ることができるかもしれない、学費も自分で払うなら、勉強を頑張れるかもしれない、ということを考えてみましたが、あまりの重責に想像だけでつらいです。 自分の人生に責任をもって、必要な努力をしたいです。自分のために行動できるのは、自分だけだと本当に理解したいです。どうしたらいいですか。
初めまして。 私の干支の守り本尊である虚空蔵菩薩様に魂を入れて頂きお祀りしようと考えております。 家には仏壇があり浄土真宗なのですが、他のお寺で魂を入れて頂く事は可能なのでしょうか? また、魂を入れて頂く場合に虚空蔵菩薩様が祀られていないお寺で開眼供養して頂いても大丈夫なのでしょうか? ご回答宜しくお願い致します。
昨年暮れに父が亡くなり、葬儀をあげた際には仏式にて執り行いました。 今後、法要等もお寺さんにて行ってもらう予定です。 そのため、元々興味があったこともあり正式に仏教徒になりたいのですが、どのようにすれば仏教徒になれるのでしょうか? また、祖父のお墓とお仏壇ががあり、お仏壇は祖母の家にあるのですが、お骨は祖父のお墓でお仏壇は父のものを新しく用意して我が家におけたらと考えているのですが、このようにお墓はご先祖様のところでお仏壇は別にするということは可能でしょうか? 分かりにくくて申し訳ありませんがご回答いただけると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
5年以上一緒に住んでいたパートナーを亡くしました。自死でした。 パートナーと私は、不倫関係でした。 最初は、パートナーを亡くした悲しみ、寂しさ、今考えるとサインはあったのに、どうして気づけなかったのか、もっと優しくなれなかったのか、パートナーを追い詰めてしまった後悔が押し寄せてきました。 だんだん、パートナーのことを本当に思うなら、一緒にいるべきではなかったこと、 パートナーのご家族みんなを不幸にしてしまったこと、 人の気持ちを考えず、狭い自分の世界しか見えていなくて、目先の楽しいことにのめり込んでしまった愚かな自分。 パートナーといた時間は楽しかった、幸せだったけど、全部が罪であったということ。 パートナーのことを愛しい、恋しいと、今思うことも、罪なのではないか。 自業自得だと思いますが、心が2つにちぎれたようで、とても苦しいです。 許されることは望みません。 罪を背負って、これからどのような心持ちで、何をすれば良いのか。 ご教示いただけないでしょうか。 自分の家族は心配してくれますが、優しい言葉をもらう資格もないと思い、こちらを頼らせていただきました。
私は海外に移住していて、家にお仏壇がありません。日本に帰ったときに小さなものを購入したのですが、それでも大きすぎて持ち帰ることができず、まだ実家にあります。 日々の勤行をしたいのですが、お供えやお経を読む対象がありません。如来さまの仏画をプリントアウトして、自分なりに簡易仏壇のようなものを作ってもいいものでしょうか? 勝手にそんなことしたら、バチが当たっちゃいますか? あと、身内の多くがまだ健在なのに、仏壇を設置したら縁起が悪いと親に言われちゃいそうだな、とも思っています。笑 ご意見をお聞かせください。よろしくお願い致します。
一月に夫が突然亡くなり、新盆になります。地元では7月がお盆でしたが、仕事の都合で8月に考えています。ただ、どのようなことをしたらよいのかわかりません。金銭的に余裕がないので、家族だけで供養できたらと考えていますが、新盆で欠かしてはならないことを教えていただけたらと思います。よろしくお願いします。
無宗教で葬儀をお位牌なし、僧侶によるお経なしでしました。後日、仮位牌を葬儀屋に依頼して作りましたが、開眼供養はしていません。一周忌を迎えるのあたり、仮位牌に開眼供養をと思っていますが、仮位牌で開眼供養は可能でしょうか?一周忌での開眼供養は、仮位牌、本位牌の順に必要でしょうか?仮位牌を作れば、魂はそれだけで宿るのでしょうか?
日蓮宗の方のYoutube動画で、水行修行についてのものを拝見し、「世の中は楽しみ、苦しみの量が決まっていて(同じ)。修行者が苦しみを皆の身代わりに受ける」 その覚悟で臨んでいるという内容でした。 大変感銘を受けました。 自分もそうですが、とかく人は「どうして自分だけがこんな目に」的な考えで不平・不満を抱きがちですが、自ら進んで苦行に臨む姿に尊敬します。 どうすれば、こうした心境や境地に至れるのでしょうか? 最近仏教思想に興味を持ち、「少欲知足」など、色々な言葉を知るようになりました。ただ、どうしてもまだ頭だけ(知識のみ)で、実践にまで至っていません。 僧侶の方々も人間ですから、時には煩悩に苛まれることもあるかと思いますが、どう考え、日々の実践に移されているのでしょうか? アドバイスいただけますと幸いです。
食べ物が美味しくいただけません。1日一食アイスクリームか、スイカ、どらやきのどれかをたべて元気だしてます。夜だけはお弁当たべますが7割食べると美味しくなくなり胃がロックされたかんじです。 食べたいけど食べたい人とは、食べれない。きっと他の秀人食べてるのでしょう。妄想ですが。父の側にいきのも悪くないか子供らは自分等で成長するし。で、未練?なあ?ただ大きな声でわらいたいくらいです。
こんにちは 日本に住んでいる外国人です。 キリスト教で育ってきましたが日本で仏教を出会い、とても素敵だと思っています。仏教について本読んだり、お寺に訪問したりしています。 キリスト教から仏教に改宗するのは可能ですか?仏教の信者になるため儀式ありますか?
55歳を過ぎ、子育ても仕事も一段落した現在、これからの人生は仏教に関する行いを通じて、世の為・人に為に人生をささげようと考えております。 僧侶とまではいかなくとも、仏法対話ができる能力までになりたいです。 僧侶になるには、どのようなステップがありますでしょうか? 高卒で就職したものですから、仏教系の大学も出ておりません。先祖は日蓮宗を信仰しております。 そもそも僧侶になりたい・・など、甘くみてはいけない!と𠮟られるかもしれませんが。