お坊さんの煩悩とは何ですか? 煩悩が生じた時にそれをどう対処されますか? 失礼過ぎてすみません。
おはようございます。 今日は文化の日で、イジメが原因で中退させて貰いましたが母校では文化祭を催しています。実の妹も母校の出身なので必ず来ているので私は行きません。私がイジメに遭っている時はまだ妹も小さかったので話しませんでしたが二親は無視でした。有名校なので卒業して欲しかったんです。でも出来なくてもう、この時点で不名誉な子になったんだと思います。おまけに高卒止まり。妹は有名な大学2つ出ましたし。笑えます。 座間市の事件はその猟奇さが際立っていますが大抵の人は信じられない、遺体の一部と生活なんてetcと言っている人は沢山います。私もそう思いますが容疑者は想像し得ない闇を抱えているのでは?と思っています。私もイジメに遭って家族の中でも孤立してから闇を抱えていると思っています。誰かしらあるのでしょうが深ければ深いと厄介なものです。闇に潰されない様に私はお坊さま方や周りの人に助けられながら四苦八苦していますが、私はこの容疑者を非難する人達よりは、闇を持つ容疑者に近いと思っています。自分を律しないといけないなと思いました。どうかお坊様方お祈り下さい。お願いします。
幸せの価値観は人それぞれですが、 よく言われるのが、 満足度を高めるや、豊かになる、誰かの役に立つなどだと思います。 私も満たされた生活こそ幸せだと感じますが、 満たされる=必要とされる、没頭できる、会話をしてくれる人がいる、等々だと思っています。 しかし、それが『幸せ』なのですか? 『幸せ』って何ですか? そのために『どんな生き方』をすればよいですか?
私は今大学生をしています。 生活を送っている中で努力の意味がよくわからなくなってきてしまいました。 成功を収めるために努力をする。すごくわかります。努力なしでの成功はあり得ません。 しかし成功しなかった場合の努力はどうなのでしょうか?失敗が許されるときの努力は意味があると思います。それを糧に本番で失敗しないようにすればいいのですから。 ですが、例えば浪人をしたのに受験を失敗、単位取得のために勉強したけれど結局取得することができなかった、など失敗が許されなかったときの努力には意味があるのでしょうか? 成功するために努力した。けれど何の結果も残せていない。結果論になってしまいますが、その場合は単なる時間の無駄だったように感じてしまいます。 努力に意味はあるのでしょうか?また失敗が許されないときに失敗してしまったその努力にも意味はあるのでしょうか?回答のほどよろしくお願いいたします。
座禅は無限の功徳であるとか、それ自体が仏であるとか、色んなお坊さんから十人十色のお言葉を頂きました。悟りを開く手段の一つに座禅があるときき始めたはいいのですが、ふと、タイトルにあるような疑問が浮かびました。悟りへの執着は煩悩だとしたら、修行とは何なのでしょう? 自分で考えでも頭の中がグルグルして答えが見つかりません。仏教の極道であるお坊さんからのお言葉を頂戴したく、投稿させて頂きました。沢山のお坊さんからの回答お待ちしております。宜しくお願いします。
今は私自身が1人暮らしのため少し離れていますが、20年以上ずっと一緒に同居していた祖母が間もなくこの世を去るときが近づいています。 癌の末期ですが、本人は知らずあと2、3日と医者から言われましたがもぅその日にちは過ぎています。大好きだったおじいちゃんが、そろそろ呼びに来たと思っていますが、分かっていても落ち着かず仕事にも集中できません。 何もしてやることが出来ず待つだけです。その毎日の気持ちの持って行き方に悩んでいます。
悟りとは 実はすべて幻だった!ときづくことですよね? 悟りすら単なる概念ですよね?
相談させてください。 私は26歳の大学院生です。高校卒業後に3年間、精神疾患の治療のため引きこもりのようになっていました。 その3年間はもちろん、高校在学中も精神疾患により勉強が出来ず、勉強の遅れはかなりのものだったと思います。 しかし当時の私は「絶対に治るんだ」と固く心に決めていて、また両親が教師であったことも幸いして、 疾患が治った直後の半年ほどの勉強で地方私立大学に合格出来ました。 その後、やはり足りていない勉強を頑張り、また不眠症で使える体力が限られる中、 外部受験を行い、現在は地方国立の院生になれました。 今の大学はとても良い就職先を持っていて、今までの気を張りつめた感じは全く必要ありません。 特に私は理系の女子学生であるため、就職はよほど変な事をしない限り大丈夫でしょう。 しかし私は、それに怒りのような、やるせないような、気の滅入るものを感じています。 環境の変化によるもの、と言ってしまえばその通りだとは思いますが、 実害(研究活動の遅れ)が出てしまい、非常に困っています。 研究活動が主なのですが、頑張ることが犯罪のように感じています。 というか、今の自分が嫌いです。 頑張っても、頑張るなんて悪いことをしている、と全然喜べません。 嫌な夢もたくさん見ますし、嫌なこともたくさん思い浮かびます。 (私をいじめた人(精神疾患の原因はいじめなのです)は今どんな大学に行き、 どこに就職しているか、結婚しているか、幸せか、など。) これらは考えても仕方のないことです。それはわかっているのです。 が、どうにも悲しくなります。地方とはいえ国立大に入れたことで、「いじめが無かったらありえた人生」が具体的に描けるようになってしまったのが原因ではないかと自分では感じています。 要するに、ありえた人生に比べたら、今の人生はゴミクズのように価値の無いもの、と感じているのだと思います。 それで"いじめをした人"に思いが及ぶようになったのではと思っています。 私は人生をやりなおしたいと感じています。 また、今はこれまでの努力に価値を感じられません。 悲しさが極まると自分の頭を叩きます。自分を罰することが出来たと感じられ、その時は自分を許せます。 こういう気持ちで居続ける事が辛くなってきました。 助言を頂けないかと思っています。 よろしくお願い致します。
非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います
分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿だと教わりました。 ああその通りだなと思うのですが。 分別をはさまずに無分別だと生活すらできません。 この無分別の知恵を生活に生かすにはどうしたらよいでしょうか?
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
30代未婚です。 親とは離れて暮らしています。車で五時間くらいの距離のため、 盆、正月に帰るくらいです。 関係は良好で、一人でいる私を心配しながらも、 温かく?見守ってくれています。 身近に友達もいますが、結婚してそれぞれの家庭をもっているため、 相手をしてほしい、一人で居たくないときに、わがままを言える状態ではありません。 最近、孤独感が半端なく押し寄せてきます。 自分が一人ぼっちのように感じて、誰かと話したいと思うんですが、 つい家に引きこもりがちになっており、 満たされない心とどう付き合えばよいか悶々としています。 どうしたら孤独感を取り除くことができますか?
お忙しい中、申し訳ありません。 お釈迦様本来の教えに最も近いと言われる最古のお経の中には、 お釈迦様は、何がしかの行為を行った場合にお布施を受け取ることを拒否された、 と書かれていると聞きます。 またお釈迦様は、死者に念仏のようなものを唱えることは意味がない、と説かれたとも。 お釈迦様が対機説法を用いられたと言われていることを少しは存じておりますが、 お釈迦様の教えを学び実践する目的は、たった一つしかないと思っています。 現代のお坊さまの方々は、葬儀などでお経を上げお布施を受け取ることを、どのように考えておられるのでしょうか?
はじめまして。 私は義両親と同居している専業主婦です。 日頃、義母の干渉と、義両親の不仲、揉め事に振り回され、悩んでおり、知り合いの提案で拝み屋さんに見てもらう事にしました。 その結果、同居がとても悪かった。今すぐにでも息子を連れて家を出なさい。でなければ、産まれてくる子に何かしらの障害(厳密に言うと変な赤ちゃんが産まれてくると言われました)を持って産まれると言われてしまいました。 怖くて、心配でいてもたってもいられない心境なのですが、現実問題、経済的にも余裕などなく、拝み屋さんに示された方角に手頃な物件もすぐに見つかる理由もなくもうすぐ出産を迎えてしまいます。 ヤキモキ焦るだけで、行動にもうつせずどうしていいのか分かりません。 この拝み屋さんの言うことを守らず我が子に何かあったら…かと言って、鵜呑みにするのもいかがなものか? 私はどうしたら良いでしょうか?
はじめまして。 私は昔から他人の成功を喜ぶことができない性格なのです。 例えば、友達が仕事で成功したり、難しい資格に合格したりなどの話を聞 と、表面的には一緒に喜びますが、心の中では悔しいような、寂しいような、 不安な気持ちが沸いてきます。 親しい関係であればあるほど、その気持ちは強くなります。親友や恋人に 対しては特に強く感じます。逆に親しくない関係の人の成功は素直に喜ぶ ことができます。 自分でも嫌な性格だな、と思ってはいるのですが、どうしようもないのです。 誰でも少しは似たような嫉妬の気持ちはあると思いますが、自分は特に強く 嫉妬してしまいます。 この気持ちはどう整理すればよいのでしょうか。
いつもお世話になっております。 ゆうりです。 お坊さんの、一言というのは、何故こうも、身に染みるのか。 お坊さんは、話上手です。(この言い方は怒られてしまうでしょうか?すみません。) 気になりました。 タイトルは、以前の質問で頂いた、今、大切にしている言葉です。 私は、将来研究者になるにしても、農業高校の先生になるにしても、(ノンプロで噺家、漫才師、芸人になるにしても)喋るという行為は、不可欠で欠かせません。 特に先生というのは、人間をつくる(あえてひらがなです。)職業であり、また農業を通じて命を慈しむ力を育んでもらわないとなりません。 さらに、私が噺家もを目指すの理由というのも、弱い奴に立ち上がってほしいからです。社会の皺寄せは弱者に来ます。そういう人に、立ち上がってほしいからです。 さて、「こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?」 この「心」という部分があるから、「周りの友達」ではなく「hasunoha」に救いを求めるのだと最近思いました。私もその一人です。 その熱い「心」はお坊さんの場合は、「修行」によって培われているのは言うまでもありません。 (私の場合は、理由が異端なだけに、「信念の強さ」で解決出来てしまうかもしれませんが・・・) しかし、私たち質問者は、どのようにそれを鍛錬すればよいのでしょうか? その「心」どうしたら磨かれるでしょうか? 自分磨きというものは「自分が自分をするのみ。」「自分が自分の行を行うのみ」 精神的な強さを得るためには、「自分が自分を学んでいくこと。」 そう、以前にお言葉を仰ぎました。 これの継続によって得られるものなのでしょうか? また、これだとまだ何か、足りないでしょうか? お手数をおかけしますが、お手おすきの時間がありましたら、回答の方を宜しくお願いします。
悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?
30歳を過ぎだ頃から体調不良が続いています。一つの病気がようやく治ったと思ったら、また別の病気が発覚します。 どれも日常生活に支障がある病気ですが見た目には健康なので周りの人達との関わりに悩む事もあるし、どうしても、そんなに悪い事をしてきた覚えはないのに何で次々に病気になってしまうのかなぁと落ち込みます。悪気のない励ましのつもりでしょうが、病は気から等の言葉をかけていただく事にも疲れました。 心が疲れた時に気持ちを切り替えられる良い方法はないかと相談しました。
寝ているときは、不安や心配がありません。 すなわち、起きているときに存在する私という感覚(自我)は、不安や心配そのものであると言えるでしょう。 また、自我は問題の生じるところにしか存在せず、問題は善悪を裁く部分にのみ存在すると感じます。 言い換えれば、善悪を裁くことがなくなれば、自我による不安、心配から開放されそうです。 そこで、善悪とは何なのか、何によって生じるのか、仏教においての善悪の解釈を教えて頂けませんでしょうか? 今まで善悪についてあまり考えず、周りに流されてきた気がしています。 よろしくお願い致します。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。