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検索結果: 328件

納得のいかない法話

質問させていただきます。 回答しづらければ、スルーでお願いします。 母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。 「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。 小学生の甥は、「心の中」と答えました。 それは、亡くなった母が教えたことです。 母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。 が、その和尚さんは、それを完全否定しました。 人は死んだら「無」になる、と。 何もなくなる、心の中ということはない、と。 実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。 和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。 ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか? マチガイハ タダスベキということですか? 甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です) また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。 いや、ちょっと待て! 人は死んだら無になるんじゃなかったのか? 無になったら、地獄も何もないのではないか? それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか? それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!? それが仏教なのか? 和尚さんの偏見ではないのか? 和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと… お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました… ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。 もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。 過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。 ただ、その本当のところが知りたいです。 数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。 hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!) よろしくお願いいたします。

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私の信仰について

今の現状について私なりに答えを出してみました。家族の新興宗教のせいだと思ってきましたが、私が仏教に興味を持ったのもその新興宗教に対する対策がきっかけでした。 全ては仏縁なのかな。そう思えるようになりました。すべてを否定する。それでは新興宗教と一緒ではないかと。仏教を勉強してきて思えるようになりました。 以前、hasunoha様で浄土真宗から日蓮宗への改宗を考えているということで相談して、その縁で近くの日蓮宗のお寺に行き法話などを聞かせていただいております。 改宗や墓じまいなどの未来のことで暗くなって急がなきゃと焦ってしまっていた自分を見つめ直せました。hasunohaのお坊さま方、ありがとうございます。 前置きが長くなり申し訳ありません。ようやくここで質問に入らせていただきます。私は南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経を同時に信仰しているというような状況になっているのですが、この状況は問題ないのでしょうか? 日蓮聖人は南無阿弥陀仏を唱えると地獄に落ちると仰られており、親鸞聖人は念仏をして地獄に落ちても後悔はないと仰られたと歎異抄にありますが、 日蓮聖人や親鸞聖人は今の私の信仰の有り様にどう思われているのかなと思い、不安というか、こんな不安定な信仰をしている人間でいいのかなと思ってしまいます。以上まとまりのない文章ですが、お坊さま型のご意見お伺いさせていただきたいです。

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比喩表現なのか...謎

お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。

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2021/12/17

自殺したら成仏できるのか

自分は20代の男です。 うつ病に罹患してから5年前が経つのですが発達障害もあり最悪に生きにくいです。 そろそろ精神的に限界で近いうち死のうと考えています。死にたい原因は挙げればきりがないくらいたくさんありますが大まかに言えば社会に順応するのがもう無理だと言うことです。 ここに相談するのもやっとこでこれだけの文を書くだけで15分位かかっています。 お聞きしたいことはいくつかあるのですが1つ目はタイトルにさせていただいた通り自殺したら成仏できるかと言うことです。 よく自殺したら地獄に行くとか地獄さえ往けずこの世にとどまってしまう(霊として?)とかその場合生きていた時の何倍もの苦しみがずっと続く(現世にいる時みたいに気をまぎらわすことさえできずダイレクトに悲しみや苦しみがおそう)等と聞くのですが本当なのでしょうか? また宗派によってどのくらい解釈が違うのでしょうか? 二つ目は自分がこのまま自殺したら家族も後追いしその際自分は後悔でかなりの長い時間この世にとどまって苦しみが襲うのではないかと言うことです。 書き方が家族のことをなにも考えてないような感じになってしまいましたが、自分が自殺したことによって家族も自殺してしまうのではないか、と言うこととその場合自分は死んでからもずっと後悔で地獄、または霊として現世にとどまってしまうのではないかと言うことです。自殺した人全員が成仏できるのになぜ霊というものが存在するのでしょうか?それとも一般的に言われる霊と本質的な霊は違うものなのでしょうか?重ねてお聞きしたいです。 色々な宗派やお坊様によって考え方が違うのは承知しておりますが自分の場合は死んだら輪廻転生をまた繰り返してしまうのでしょうか?今の気持ちは正直言ってもう二度と生まれ変わりたくはないです。とにかく苦痛がないところにいきたいというか心のそこから安心したいです。それは可能でしょうか? 自分もまだ若いため稚拙な文になってしまったことを了承いただきたいです。とても身勝手で未熟者ですが重ねてお詫び申し上げます。

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絶望の人生

私は、地獄に堕ちるのが怖いです。 特別に、悪い事をしている訳ではありませんが、このまま自殺したら地獄に堕ちるとネットに書いてあったので、心配です。 以前、投稿した文にも同じ様な文を記述しましたが、顔と声の不細工すぎると高校入学当初から大学生の今に至るまで言われ続けてきました。 一度だけ自分の事をかっこいいといってくれて、ある人(ここでは実名を公表出来ません)が好意を寄せていると風の噂で耳にしましたが、結局その人と付き合うこともありませんでしたし、その人とは大学は違うのですが、同じ電車でたまに見かけた時、あんなブス、なんで好きになったんだろうと陰口をたたかれました。 自分にも、チャンスがあるのかと思っていた自分がばかばかしく思え、凄くショックでした。 今は大学でも、バイト先でも、通学中でもブス、ブス言われて自信が持てなくなりました。 表情も暗く、目の光が失われて、すべてに絶望した私に対して、周りの人は「目が死んでるし、怖いからみんなにいろいろ言われるんじゃない」と私の事何も知らないくせに、いろいろいってくる人間が憎くて仕方がありません。 苦しくて苦しくてたまらない、自殺しても、地獄に堕ちるし八方塞がりの状態で、どうしたらいいのか分からずに生きています。 結局、生きていくしか選択肢はないのですがお坊さんでしたらこの状況をどのように打破し、人生をより豊かにして生きていくのか? 知恵を貸していただきたいのです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 20
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出家を考えております

先日まで、この世は地獄のようだと感じておりました。 しかし、最近お寺に行ったところ、縁あって、仏教の雑誌を 貸していただき、その中で天台宗の記事がありました。 その記事には、忘己利他について記載され、 また、自分の顔は他人のためにあると書かれておりました。 この言葉に強く感銘を受け、これまで地獄と感じていた理由が、 自分のためだけに生きていたからと気づきました。 何かを求め続け、満たされず常に飢えて不満を感じた生活でした。 それが、他人のために行動することを意識すると、 満たされず地獄に感じていた世界が変わってみえ、 私自身非常に救われました。 しかしながら、今の社会では、自分の利益を最大化することが 肯定され、また社会で生きる上では、必要な事だと思います。 しかし、利益追求が本当に自分の幸せになるのか、疑問を感じ 周囲の人のために、仏道へ進むことこそが、自分にとっても 幸せにつながるのではないかと考えております。 そこで、社会の中で様々なことに折り合いをつけながら 生きていくか、出家して生涯を懸けて、人のために仏道を進むのか 迷っております。 そこで、この迷いについて、ご助言をいただればと存じます。

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生前の仏教の触れ具合は死後の「ハンデ」になる?

まず素朴な疑問のうえ、お坊さんの限りある時間と質問を増やしてしまい頭が下がります。 死後の行き先は生前の「行い」によって左右されるというのは勿論ですが、 こちらのサイトでもいろいろ知恵を授かっている内に、 死後の「裁判」は良い悪いの数直線上では計れないところもあると感じています。 たとえば、ある人は日本に住んでいて、 まったく仏教に触れていなかったとしたら? ある人は仏教に触れて、 仏教の「表面上の」知識は身に付けて、 それでもなお多かれ少なかれの悪い行いをして… 後者は私ですが、少なくとも「知っていて尚悪いことをする」のと、 知らずに悪いことをしたのとは、やはり裁判の天秤の重さに違いがあるのでは?と思いました。 「弥勒菩薩は兜率天に住み…」 「虚言はいけない」 「丸々寺は誰々により開かれ」 「般若心経」 「お寺や神社の真ん中を歩いちゃ駄目。」 「蚊を殺しただけで地獄」 「獄卒が火であぶる。」 私はこのような「情報」を得て、我を顧みることもなく過ごしています。 ただ蚊は殺めません。 仏教で守るべき掟も、出家された方にとっては、いままでとはより厳しくなると思います。 まず、 出家された僧たちにある戒律は、破ったときにのちの自分に降りかかるのでしょうか? それとも守ることで人のため、世界が良くなるべきの「願い」の要素がありますか? また、「在家」まではいかないが仏教を信仰する私として、 表面上の仏教を(インターネットで閲覧できる限りの知識を)覚えるごとに 死後の裁判の「ものさし」が厳しくなるということはあるのでしょうか。 おなじく、お坊さんとも一般人とも、仏教の知識が死後の「ハンデ」とはならないでしょうか?

有り難し有り難し 15
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五逆罪がやべー😱😱

こんばんは小学6年生のこうです。(小6になりました!) タイトルの通り五逆罪がやばいです。   その理由は考えただけて罪になるって書いてあったのでやばくない?って思ったからです。まず母や父や家族を殺すことは普通子どもなら多分怒った時とかに普通考えてしまうと思います。  仏や神様を殺す事は僕はすぐそういうの考えてしまいます。たとえば閻魔大王とか49日の神様とか普通の仏様とか他宗教の神様とか(エジプトの神様とかキリストとかヒンデゥー教とか) 悪魔とか鬼とか、あと笑ってはいけない24時で出てきたこっくりさん(怨霊か霊ですかね?)に殺したこととか死ねとかバカとか前の質問と同じくらいの悪口を考えてしまいました。怖いです 仏の身体を傷つけることはもっと小さい頃おじ蔵さんをふざけて殴ったり蹴ったりしてしまったかもしれません。あと傷つけた想像もしました。もしかしたら僕の悪口で傷つけてしまったのかもしれません(流石にそれはないと思いますが)(エジプトの神様は正直怖くて信じられません)あとお数珠をふざけてちぎってしまったのでもしかしたら仏の一部だったかもしれません。  お坊さんを殺す事や僧団を荒らすこともかんがえてしまいます。 あと死んだ人にざまあとか地獄に落ちろとか(自分の方ですよね)思ったり写真とかをみるとその人を殺す事とかを考えてしまいます。 そうえば考えてないなーと思うとなぜか考えなきゃと思って考えてしまいます。  怒って思うときや普通に思うときや、わざと思うときや、考えたくないのに思う時もあります。僕はふと思ったやつではないのもあります。 正直言ってヤバイですよね😱😱  ハスノハでいろいろ見ていると子供だからしょうがないとかは言い訳無用らしいです。 (五逆罪じゃないのも入っていてすみません)(似たような質問ばっかりしてすみません) このままいっても重い罪を犯し続けるだけです。 阿弥陀仏様も本当に救ってくれるかも分からないのにどうすればいいですか?  まだ地獄が怖いです😱😱  やっぱ懺悔しかないですか?  それでも許してくれるか分かりません、  お坊さんの言葉も本当かどうか心配です。 どうすればいいですか?

有り難し有り難し 22
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間違った教えの見分け方

前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。 (※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q「慈悲」は人によって全く違うのか あるお坊さんの問答にて1 「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。 別のお坊さんの問答にて2 「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。 どちらも実在するお坊さんの問答です。 慈悲とは何でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この回答で、 「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」 というご意見と 「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」 というご意見がありました。 双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。 しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。 非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。 間違っているのでしたら、どのように間違っているか。 どのように見分ければよいのでしょうか。 仏教に無知な私にも分かるように教えてください。 お願いします。

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毒もみのすきな署長さん

という、宮沢賢治の童話があります。 署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。 「実は、毒もみは私ですがね」 かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。 「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」 皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。 という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。 その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。 大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。 ※言葉足らずだったら後で補足します。

有り難し有り難し 81
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