長文になりますが、見て頂けますと幸いです。 私の曽祖父は神戸市須磨区にあります須磨寺というところで副住職をしていたと伝えききました。年齢的に戦前であったと思われますが、寺務所では確認できませんでしたので、定かではありません。その曽祖父が何らかの理由で須磨寺を離れ、神戸市長田区の善心寺というお寺へ移りました。その後曽祖父の娘婿さんが跡を継ぎ、現在は別の方が住職をされております。 この度祖母の四十九日法要を善心寺で行うこととなりましたので、縁は続いておるみたいです。 私の先祖代々のお墓は曽祖父が須磨寺へ建立しております。四十九日法要のあと、納骨は善心寺の方が須磨寺まで来てくださり行います。 私は今まで宗教に無関心でしたが、祖母が亡くなったことをきっかけに、祖母への感謝、後悔などの想いと真言宗の僧侶であった曽祖父の存在で仏教に関心を持ちました。 仏教をしっかり学び、ご先祖様への供養をしたく、また自分の生き方のヒントとしたく思っております。 私が曽祖父のことをもっと知りたいと思ったきっかけはもうひとつあり、私はご先祖様が守ってきてくださった苗字を受け継ぐ長男です。曽祖父には13人子供がおりその中で男が4人で13人兄妹の末っ子が私の祖父です。そして父、私となりますが、祖父の兄妹のお子様方は女性のみで苗字を守れる血筋が私の所だけとなっております。私は2人子供がおりまして2人とも男の子なので、ここからまた苗字を守れる子孫が繁栄してくれると願っております。 こういう経緯で偶然とは思えずご先祖様方の意志や願いなどを託されていると思うようになりました。 長くなり申し訳ございませんが何点かお聞きしたくよろしくお願いいたします。 ・私が真言宗の仏教を学ぶに当たり、善心寺のご住職へ師僧となって頂きたいと思うのですが、仕事をしながら仏教を学ぶために師僧となって頂けませんか?とお聞きすることは失礼に当たりますか? ・仕事をしながら得度し仏弟子として学んで行くことは可能ですか? ・私の菩提寺はお墓のある須磨寺だと思いますが、これから関係を深めるべきは善心寺でしょうか? 私は父に血筋のことや宗派の話などあまり詳しく聞いてきませんでした。この度のご縁で私のルーツを知り自分の子たちへ受け継いでほしいと思っております。 長くなり申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
こんにちは。 私は、高校・大学と仏教(曹洞宗)の学校を卒業しております。 高校卒業時には禅師様直々に戒名を頂いたりと、かなり本格的な学校でした。 社会人になってからも仏教に関する本を読んだり、時には座禅会に参加したりと、仏教については興味を失わずに来ました。 しかし、先日インターネットで 「在家僧侶養成講座」 という、初めて目にする通信講座を見付け、これが仏教に興味を持つ方に役立つ物なのかどうか全く分からず、頭の中が「?」だらけになってしまいました。 どなたかに 「僧侶って通信教育でなれるの?」 もしくは 「仏教の修行は通信教育でできるの?」 と質問されても、今の私には答えられる自信がありません。 実際、通信教育で「在家僧侶」と認定されているお坊さんもいらっしゃるのでしょうか?
春から専門学校に通う予定なのですが、将来自分が大卒でないことがコンプレックスになりそうで不安です。 大人になってからでも大学にいくことはできますが時間的にも金銭的にも簡単じゃないと思います。 お坊さんの皆さんは学歴についてどうお考えですか?
こんにちは。 見て頂きありがとうございます この度、実家の仏壇に如意輪観音さんを、お迎えしました。 今まで開眼されてない掛け軸とお位牌があったのですがなんとなく仏様がいた方がいいのでさないかと思い、檀家のお寺の御本尊と同じの如意輪観音さんを購入しました。 買って開眼供養したのですが、あとあとになって大日如来さんでもよかったかなと思い小さな大日如来を買いました。 如意輪観音さんは大きめで、真ん中にぴったり入ります。本来なら菩薩さんより如来さんの方が上らしいので真ん中に大日如来さんの方がいいと思うのですが、そうすると本当に小さいのでなんだか歪なかんじがしてどうしたらいいのかなと思っています。 まだ大日如来さんは買っただけで開眼供養していません。 開眼供養した場合如意輪観音を真ん中にしてとなりに大日如来さんでも大丈夫でしょうか?
現在、サラリーマンをしています。それ自体は順風満帆なのですが、、サラリーマンをしながら、お坊さんになる事はできるのでしょうか? 先日、祖父が他界し告別式を行ったのですが、ある僧侶が読経中に寝てて、、とても悲しい気持ちになりました。告別式の打ち合わせの際には、院号を頂いたので僧侶は5人必要。一人でも欠けると故人を送る事ができない。と言っていたのに、、欠けてるにも関わらず、無事に故人を弔いましたとの事。こちらはきちんと祖父を送る為に出来るだけの事をしたいのに、ただ高い金を取って行っただけにしか感じません。 それなら、自分が亡くなった人をきちんと送り、お布施もできるだけ少なくし、残された人達をいろいろな意味で安心させたいと思いました。 田舎なので、代々のお墓があるので今の檀家から抜けれない。葬儀は教師認定されたお寺の住職、副住職しかできない。また、私はサラリーマンを続けたい。しかし、僧侶になりたい。 いろいろ柵があるので、どうすれば良いのか迷っています。どなたか良い知恵を与えて頂けませんか?
初めて質問させていただきます。 私は今将来について悩んでいます。 将来は尼さんになりたいのですが、どういう高校に 行ったらいいのか分かりません。 どうしたらよろしいでしょうか?
私の生家は「真言宗」です。 先祖代々続いてる旧家でもあります。 私が嫁いだ家は「日蓮宗」です。 よく考えると、私自身の御先祖様は、私の生家の方にいて、 嫁いだ家には、私自身の御先祖様は、一人もいないことになります。 このままの、ご縁でいくと私は「日蓮宗」としての戒名を頂き、 「日蓮宗」のお墓に入ることになります。 でも子供がいない夫婦なので、私の御先祖様(血が繋がっている人) は「日蓮宗」のお墓の中に一人もいないことになります。 それが、なんか、とても寂しいのです。 私は「真言宗」のことも「日蓮宗」のことも、よく分かっていないのですが、 ご縁に任せて「日蓮宗」のお墓に入るべきでしょうか?
知人にこのサイトを聞いて初めて質問します。よろしくお願いします! 神社では二礼二拍手一礼の様なお参りの方法がありますが、お寺へ行った時はどうやってお参りすればいいのかわかりません。 お参りの方法ってあるのでしょうか? 後、神社みたいに願い事を手を合わせてお願いしてもいいのでしょうか? お寺では二礼・・・の事はしませんがついつい手を合わせてお願いごとをしてしまうので正しいのかどうか分かりやすく教えて貰えたらうれしいです
はじめまして。 この度、派遣社員として一か月勤めましたが体調を崩してしまいここ数日休んでいます。 初日から仕事内容が合わないのと、焦りや不安から自分で自分を追い詰めてしまい毎朝吐き気がありました。 それまではとりあえず頑張ろうと出社していたのですが、休日も仕事のことばかり、睡眠も浅くなり眠っているけど起きているような感覚、食欲もなくなり、涙することも増えました。 数日前、吐き気がひどくなりフラフラするので早退してから、そこから何かプツリと切れてしまいました。 こんな状態で続けれないと思い迷惑承知の上で派遣会社には思いを伝えました。 後任が来るまで来て欲しいと言われましたが、体調はそれどころではありません。 今までの職場では、いろいろありましたが長く勤めてこれたので自分自身にもショックです。 職場環境も良い方なので、なおさら自分でここまでになる訳が分かりません。 責任を持って契約期間働くべきですし、引継ぎもするべきですが、本当に身体が無理なのです。 誠意を持って謝罪するつもりですが、これからの人生に不安を感じます。 ただの甘い考えなのも分かりますが、どうすれば前向きに自分を追い詰めることない人生を歩めるでしょうか。
仏壇を持ち、先祖供養をしたいと考えています。それにあたり、問題があるためご相談いたします。 私は幼少から、親族との縁を切っていた家庭で育ちました。親権を持っていた母が新興宗教の信者であり、仏教を毛嫌いしておりました。その影響で私自身も数年前まで、仏教に恐怖心すら抱いておりました。そのため我が家に仏壇はありません。仏壇というものも、正直まだよくわかりません。 しかしふとしたきっかけで仏教を学ぶようになり今日に至ります。 今は親族がない身ですが、自分がいるのはご先祖様あってこそと、最近思うようになり、仏壇をもって先祖供養を自宅で行いたいと考えています。 ただ供養しようにも思い浮かべる具体的な親族がなく、もちろん位牌も遺影もありません。 このような場合は、仏壇をもってはいけないでしょうか。もし許されるのであれば、どのような形で整えればよろしいのでしょうか。
よろしくお願い申し上げます。 先日、父親の葬儀を無事終えました。 浄土真宗です。 いくつか疑問に思ったので質問致します。私の勉強不足で失礼な物言いになってしまっていましたら申し訳ありません。 葬儀の打ち合わせをした際、直接お寺さんにお布施をどれくらいにするかをお聞きしました。 お車代1万(片道車で30分)精進落としは辞退(つまりお膳代1万) 法名付けて30万で結構ですよ。 と仰いました。 結構ですよという文言が気になりました。 お布施は阿弥陀仏に捧げるものなので、金額に不満ということではありません。 全国のお寺さんは集めたお布施をどのくらいご自身の生活に使われて、どのくらいを修繕維持費や拡張費、又は広告費や檀家接待費に割り当てているのでしょうか?それはお寺によりまちまちですという回答はお控えください。どうあるべきかを教えてください。 私個人としてはお布施に各寺院による金額差が出ている時点でおかしいと思っています。 例えば30万のうち20万はどこのお寺さんでも阿弥陀仏に必ずこの額のお気持ちを捧げますという意味で本山などへ送金し、残った10万はお経、説法の勤めと維持費に使いますという約束が欲しいのです。 先日では通夜葬儀含め1時間もいらっしゃったかどうか。荼毘に伏す前にお帰りでした。 葬儀社の方もそれが一般的と仰っておりました。一般的ってなんなのでしょう。 葬儀に伴い、初七日を式の日に合わせて行うことが多いそうですが、言い方がわるいですが、いい加減だなあという印象です。 どうしても仕事が外せないとか、遠方で行けないとかということで日にちを改める事を遺族から伝えることは致し方ないことと思いますが、葬儀社やお寺さんがまとめて法要をすることを勧めたりというのは如何なことなのでしょうか? 不勉強ですが私は霊的にちゃんと日を数えることに意味があると思うのですが、大事なことはそこではないのでしょうか。 四十九日がお盆になるということでその日はずらしましょうと言われました。 宗教は眼に見えず、なかなか体験し難く、自分なりの解釈を得るまでむずかしいですね。 私は無宗派ですが、神仏を習慣ではなくて本質的に大事にしたいと思っておりますので、尚更疑問に思っております。システム化して商売っ気を持ち込んで来ているように思えるお寺さんに対し虚しくなります。 皆様どうお考えですか?
2/4に実父が亡くなりました。35年前に母と離婚をしており私もその際、母方に。 今現在、父の血の繋がりでは、娘の私のほか、父の妹2人(76.78才)と、異母兄妹が3人います。父は、2年前脳梗塞で倒れてからは寝たきりとなり、生活保護を受給しながら施設におりました。 私は海外在住ですが、実父が亡くなる時ちょうど名古屋におり、お見送りができました。葬儀は市が設けて下さりましたが、宗派を問われ、あわてて父方の静岡にあるお墓の菩提寺を調べ、名古屋の曹洞宗のお坊さんを呼んでいただきお経をあげていただきました。遺骨はしばらく葬儀所に預かっていただき、納骨は私がまた日本に帰国した際に、静岡の菩提寺へと思っていましたが。。 確認のために、菩提寺に葬儀後にご連絡をしましたら、もう一度葬儀(戒名式)をしないと納骨はできないと言われてしまいました。ただ、もう一度お葬式をあげ、納骨をしても、父方ご先祖様のお墓をこれから引き継ぎお守りする人がいなく、どうしたらよいものか悩んでます。 しかも、菩提寺でもう一度葬儀(戒名式)をして、納骨するにしても100万、先祖代々を永代供養するとしたら、もう何百万とか言われてしまい、あまりの金額に途方にくれています。 ただ、葬儀に来ていただいた、名古屋の曹洞宗のお寺さんでは、合同墓地ですが、永代供養に10-15万と、こちらは私でも出費できる金額でした。 代々続くご先祖様のお墓に納骨するには莫大なお金がかかりますが、やはり菩提寺へ納骨してあげるべきでしょうか。お墓を引きつぎ見守りする人もいないので、それを放置するのも心配ですが、、先行くお金もなく、どうしたら父を供養できるのか、混乱してます。 よきアドバイスいただけたら幸いです。
今から12年前に母方の祖父が亡くなり、それから100日法要?だったかで魂入れの時に突然肩が重くなり、お経の時に体が前後に揺れました。お経の終わりと共に、ふっと軽くなり、元に戻りました。両親や親族も見ていました。 それから年月が経ち、昨年の初夏に父方の祖母が亡くなったのですが、火葬場でお骨になってから葬儀場に戻ってからのお経の際にもやはり体が揺れました。横揺れでした。不思議と、「入ってくる」のがわかり、正直言ってあまり良い関係とは言えず、悲しさなどはなかったのに涙が止まりませんでした。 体が揺れる間、色んな人達への「ありがとう」と言う感情が込み上げてきたのがわかりました。終わってから、私は炭酸飲料を買い、一気に飲み干したのですが、普段はまず飲みません。両親は驚きながらも「ばあさんが来たんだ。ばあさんは炭酸が好きだったから」と。そういえば、昔は家に行く度にファ◯タグレープが出されたものです。それを、私は350mlも飲み干したのです。 そして先週、親しくしていた叔母(母方)の義母の告別式へ参加しました。前述以外にも色々と不思議な事はあるので、このときも「来るかも……」と思っていました。両親も思っていて、事前に叔母一家にも言いました。実は、私の親戚にも同じ体質の人がいますので、叔母も理解がありました。 そして、やはり体が揺れました。実家の宗派と違うし、私にはお経の終わりはわからないのですが、縦に揺れたあと、横に揺れ、「終わるのかな」と思い、揺れが止まったあとにすぐお経も終わりました。 叔母夫婦や従兄弟たちは「おばあちゃんが喜んでくれた」と言っていましたが、そうなのでしょうか。ただ、揺れていた間、やはり「ありがとう」という思いがあったので伝えました。 最近では、実家の祖父の仏壇に手を合わせると体が揺れたり、合わせている手が上下や横に、円を描くように揺れたりするのです。 嫌な感じはしません。困っているというわけでもないですが、やはり不思議でなりませんし、他人には理解してもらえないと思うと、多少悲しくもあります……。気持ち悪いのかな、とか。 気になるのは、祖父母たちは本当はどんなことを訴えようとしているのでしょうか?
過激なゲイのイメージや運動には正直共感できないのですが、ごく「普通」のゲイの友人がいます。社会的に他人に迷惑をかけず一市民としてのルールを守り社会的責任を果たしている以上、そのひとの人格もなにも見ずにただゲイだからという理由で否定されることには疑問を感じています。日本の社会ではまだまだ偏見も強いと聞いたのですが、仏教界ではどうなのでしょうか。 宗派問わず、一般的に日本ではどうなのかという質問なのですが、一部キリスト教やイスラムで弾圧されがちな同性愛(Abominationと強い言葉で否定されることもありSinだとされたり、一部イスラムの国では迫害をうけ罪人として投獄・殺されることも)は日本における仏教界ではどのように考えられていますか? 1.教義(仏教の教えという点からは肯定否定されているのか)、 2.現状(理論などとは別に実際にはどうなのか、仏教界に受け入れられている例などあるのか)、 3.個人的には、ひとりの人間・ひとりの僧としてどう思われるか。(どうあるべきだと思われるかも教えていただければ嬉しいです) 4.もしも1-3の質問にて否定される理由がある場合は、なぜ、否定されるべきなのかを教えて下さい。本当に率直な意見をお聞きしたいだけなので、どんな意見でも参考になりますので(世界にはたくさんの意見があってしかりなので)正直な意見を聞かせていただければとても嬉しいです。 5.日本の社会でまだまだ偏見があるというのは、なにが一番の問題なのでしょうか。ゲイのひとを現実に身近に知らないからおこる偏見なのでしょうか。 NB: 性同一障害などの医学的な病気ではなく、ここでの対象は、 ゲイ=女性・男性を問わず同性のひとのみが恋愛対象、 バイ=性別関係なしにどちらもパートナーとして恋愛対象となる、 という意味で、見かけ・態度・人種・国籍・その他諸々では区別がつかず、どこにでもいる普通のひとをさしています。(いわゆるラブパレードなどでみるような過激な服装の下品なイメージのゲイではなく、ファッション的・ゲーム的なものや、AVなどで表現されるような歪んだゲイの対象は別なので除きます)
私は福岡県の日蓮宗の寺の次女で、今は実家から企業に勤務に行っています。実家の寺は長女の姉が婿養子を貰う予定でしたが、うちの正干与の寺の住職が持ってきた見合いの話を受け、東京の寺に嫁がせることになりました。 よって私に実家の寺の継承の話が回ってきたわけですが、私は継ぐ気もなく、会社員の方と恋愛しているので、僧侶と結婚する気もなく、そろそろ実家を出ていくつもりです。しかし父は3年間したら戻ってこいと言います。そこで思ったのですが、日本国憲法では職業の自由も婚姻の自由も保障されているのに、人々の幸福のために働いている僧侶たるもの(父)が、そのように実娘の意にそぐわない婚姻をさせようとするのは、僧侶としていかがなものだと思われますか?姉も結婚などしたくなく泣いておりました。前時代的にもほどがあるし、うちの寺も檀家が減っており今後経済の保証があるかどうかもわかりません。寺の継承のための親のエゴでしかないように私は思います。実際姉の嫁入りの話も私には秘密裏に行われており話し合いもなにもなく決まりました。反発をすると感謝の意が足りないと言ってきますが、それと継承の話は話が別だと思います。 また、父母は私に「信仰しろ、拝みなさい」と言ってきますが、信仰とはそのように強制されるものではないと思っております。また生まれた家がたまたま寺であったというだけでその寺の宗派の信仰をしなければなりません。これは寺に産まれた場合、信教の自由はないのでしょうか?"改宗は良くない、バチが当たる、絶対に良いことがない"、などとよく言われてきましたが、改宗は本当に良くないことでしょうか。 現在の日本では宗教より法律が上です。私の人権、私の法の下の平等は宗教により制限されている気がします。 他のお正人方のご意見をお伺いすることができればと思います。
広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。
誤字等あれば、ご容赦ください。 今回は、先日感じたことについて、色々なお坊さんの意見を聞いてみたいと思い、投稿しました。 聞きにくい事ですが、勇気をもって質問させて頂きます。 お付き合い頂けるお坊さんがいてくれたら幸いです。 自分は先日、菩提寺に行った時に、住職の車が外車なのを知りました。 よく回答して頂いているお坊さんなどはご存知だと思いますが、その時精神的に沈んでて、「外車かよ…」と悪く思ってしまいました。 というのも車整備のバイトをしたこともあり、日本の車道にはやはり日本車があっていること知っていて、実用面よりブランドで選んだ、執着しまくりじゃんと思ってしまいました。 今振り返ると、大人気ないです(-_-;) ただし、お坊さん達は、お坊さん達が上等なものを持つという事に対して、どういう考えをお持ちなのかは、ふと気になることがあります。 「お坊さんだって好きなもの欲しい」「お金があるならいいだろう」というお坊さんもいると思いますし、自分もある程度はいいと思います。 ですが仮に、全うに稼いだお金が潤沢にある一僧侶や一寺院が、ロールス・ロイスやリムジンを持ったとしても、同じことが言えますか?と考えてしまいます。 例えば、超貧乏な檀家さんを前にして。 テレビに良く出演されているある方は、ある宗派の本山の金文字入ったキャデラックに、追い越される際、全身土埃浴びせられ、追いついた際「あなた達の開祖は貧乏な人々に寄り添い、信仰を集め広めていったのに、弟子であるあなた達はなんなんですか、そのヤクザみたいな金文字入った高級車は必要なんですか」と問い詰めたそうです。 清貧であるべき、節度があれば、自身の金なら無問題など、それぞれに仏教的回答があると思いますし、正解があるのかもわかりません。 多分お坊さんによっても考えが違うのではと思います。 ただ、だからこそ現在に生きるお坊さん一人一人の考えを聞いてみたいと思いました。 そもそも、あなた人を金だけで見ないようにでも結構です。 可能な範囲で結構ですので、回答頂けると嬉しいです。 よろしくお願いします。
初めて質問させて頂きます。 読みにくい点も多々あるかと思いますが、宜しくお願いいたします。 私は今お見合いで紹介された、曹洞宗のお坊さんとお付き合いを考えています。 何度が食事などをしましたが、彼の人柄や考え方にとても好感を持っています。 ただ、やはりお付き合いとなると年齢的にも結婚を意識したものになります。 私は典型的なサラリーマン核家族育ちで、正直お寺に嫁入りは全く想像がつきません。 お寺ごとに様々なようですので、簡単に彼のお寺のことを書きますと ・お墓が五十基程度の小さなお寺、仕事は充分一人で回せれる量 ・人口40万人程度、田舎とも都会とも言えない都市の中心部にある ・彼は一般家庭育ち、親戚のお寺を継ぐかたち ・現住職さんは独身、同居する予定は一切無し(現在も別居) ・彼は専業のお坊さんですが、同じ宗派の大きなお寺のお手伝いへ定期的に行っています、繁忙期(?)は遠方のお寺にもお手伝いへ行くようです 色々と不安はありますが、私が今一番不安なのは金銭面です。 勿論気持ちが一番大事ですが、やはり生活していく上である程度お金は必要なので…。 前記の通り私はサラリーマン家庭で、その中でも少し裕福な方の育ちです。 退職金や手厚い福利厚生、安定した収入やボーナスなどがない中どう家計をまわしていくのか、全く想像がつきません。 また私は体が丈夫ではないので、家庭のことをしながらフルタイムでバリバリと働く、ということが出来ません。パート程度が限界だと思います。 私は親が自分に当たり前にしてくれたように、子供がいて本人が望めば、奨学金など負担をさせずに大学まで出してあげたいと思っていますし、その他金銭面で苦労や負担をさせてたくはありません。 そういった私が思う「普通の生活」は可能なのでしょうか。 長く、まとまりのない文章で申し訳ありません。 どうかアドバイスを頂けたら幸いです。
以前より、死の恐怖について相談をさせていただいており、大変お世話になっております。 たくさんの方から頂いたご回答はどれも暖かく、そして勉強になっております。ありがとうございます。 問答の中で、自分の弱い点や、認知や考え方の歪みがわかり、この方法で恐怖を緩和していこうという方向性は見えつつあるのですが、恐怖緩和に対するどの方法を行うにしろ、習得や納得(体でわかるまでやる、なども含め)には多くの時間を要します。死は人生の命題ですので、一年やそこらで恐怖が激減し、納得することはできないと考えます。 私は方向性としては、禅などの「体で納得」を目指したいと考えていますが、これこそ一朝一夕で身につくものではないですし、仕事等による時間の制約もあり、納得に至るには長年の修行が必要だと感じています。 そんな風に時間をかけてゆっくりと学びを深めてはおりますが、もちろんその間にも死への強い恐怖感は消えません。特に、楽しいことがあった日の帰り道や夜には、必ず「この思い出も自分の存在もいつか消える」という思いで気が狂いそうになり、パニック症状が出ます。 それを、娯楽へ走ったり、禅と宗派は異なりますがお念仏に頼ったり、お墓やお寺に行ったりと、一時凌ぎでやり過ごしているのが現状です。このように、最近は「いつか死ぬ」ということがいつも恐怖で気掛かりで、楽しい・嬉しいなどのポジティブな場面が心から楽しめないような感覚になっています。 前置きが長くなりましたが、 お坊さん方の中に、今に至るまでに修行をなされている間に私のように気持ちが揺れたり、恐怖でパニックになったりしたご経験をなされている方がいらっしゃいましたら、「ご自分が一旦、その問題(私で言うところの死の恐怖)への納得感を得られるまで」に、どのような心持ちや行動で過ごされていたのかをお聞きしたいです。 また、現在も私は死の恐怖緩和についての対処を学んでいる最中ですので、もし同じ問題に悩み、納得した方法や考え方があれば、併せて教えて頂けると嬉しいです。 お時間ある時で構いません。様々なご回答を聞きたいです。お手数をおかけ致しますが、ご回答頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
お世話になります。 50代女性。現在、原因不明・治療法なしの病気でほぼ寝たきりになっており、生活保護です。 治療法のある病気の可能性を捨てずにずっと病院で検査していますが、あれも違うこれも違うでそのたびに次の検査…で半年以上です。主治医の先生が根気よくいろんな病気の可能性を探ってくださっていて感謝ですが、保険が効かない病気の可能性が強くなってきました。 最近いくらなんでもおかしいと思うのが、この12年くらい、2年スパンで大病を繰り返しており(それぞれ全く関連のない病気)入院・手術→職を失う→治癒後再就職→また病気、を繰り返してるのです。 その間、病気だけではなく傷病手当の手続きをしてもらえない、理不尽な派遣切りにあい失業給付が出ない、セクハラ・パワハラ等もありアルコール依存、ジリ貧で一家離散、家は任意売却で借金を負う、父が入院先の連絡ミスで亡くなるなどいろいろありました。 そしてとうとう、手術や薬で治らない病気になったようで現在に至ります。 それ以前も、不幸という言い方は嫌いなのですが困難というか試練が物心ついた時から続いていて、反省・改善・研究するも悉く失敗し、普通の人が「最近事故ったり怪我したりリストラされたり、ツイてないんだよね。お祓いしようかな」というレベルが通常運転で、そこにさらにいじめ・DVや離婚、子どもとの生き別れや貧困などのイベントが短スパンにある中でずっと生きてきました。 何故こうなのか、改善したい、努力が報われたい一心で自己啓発本や宗教書、スピリチュアルを紐解きいろいろ勉強してきました。 そして何があってもバイタリティが取り柄でそのたびにやり直してきましたが、今度ばかりはもうダメです。 生きるエネルギーが全く底をついてしまい、この先起こる困難に耐える自信がありません。 自分自身が別人になってしまったような感覚もあります。 もっと詳しく話を聞いて頂きたいのですが、できれば「死んだ後の世界はあり、輪廻転生はある」「この世は修行」というお考えの宗派のお坊さま、個別相談に乗って頂けませんでしょうか。 私自身が、このような考え方でもしないと困難に耐えられなかったからです。 よろしくお願いします。