最近こちらのサイトを知って登録し、はじめて投稿します。 私は20代の頃から日本的な(東洋的な)景観に惹かれ、お寺の建造物・庭園・造形物などに興味を持ち、趣味として仏閣めぐりをしているうちに、仏教に興味を持った者です。 これまでのQ&Aを拝見すると、お坊様方の回答の中に「縁」という言葉がよく出てきて、そういえば父方の祖父母(故人)がよく「縁」という言葉を使っていたのを思い出しました。 日本的で趣ある言葉とは思っておりましたが、もとは仏教用語なのでしょうか? ちょっと変わったうちの母が、曖昧な言い方が嫌いなのか、犬猿の仲の姑がよく使っていたからなのか、「縁」という言葉を毛嫌いしてまして・・・。 「縁なんてものはない!魅力のないモテない女が、モテないという事実を認めたくないがために、縁がなかったという言い方に逃げて、実在しない縁というものを捏造した!」という奇抜な主張をするんですよ~^^; 縁は男女の出会いだけではないし、第一、「良縁に恵まれました」を「私の魅力によって良い男つかまえました」と言っては印象良くないですし(苦笑) でも、そんな母はお寺さん・お坊さんを尊敬しているので、もしも仏教用語だったら、それを知らせたら毛嫌いしなくなるかなぁと思いまして。。。
半年前に息子が自死しました 彼の魂はどこにいるのでしょうか。苦しんでいないのでしょうか 生前苦しみ、もうどうしていいか分からず、死を選択するしかなかった息子の魂は苦しみから解放されているのでしょうか? 一昨日、夜中にコンコンコンというノックのような音が聞こえて、5分おきに5回くらい、玄関とか彼の部屋を見に行ったりしたのですが何にもなくて、気になっていたのですが、昨日の夜中に金縛りに合いました 体が動かなくて、声も出なくて、ベットから引き摺り落とされそうになるのを踏ん張って耐えた気がします。夢かも? もしかして、息子は悪い霊にいじめられて苦しんで助けを求めているのでは?とか成仏できずに彷徨って苦しんでいるのでは?と心配になりました 現世でも十分苦しんだのにこれ以上苦しんでほしくないです。
この数日間、健康面を痛感しております。 明日は我が身ではないですが歩みは紙一重。 暫く仕事もお休みをしても職場が気にかかり葛藤が続いています。 一人ひとり限りある命、思った以上に身体と気持ちがついていかなく儚く、無情さを感じております。 儚く、無情さを感じても「今を生きている」ことは皆さんと一緒、楽しい、嬉しいこともあれば苦しい、辛いことが多い場合もあります。 先ほど自宅近くの川岸にある銀杏の木は黄金色へ変わり始めています、木々も自然と共に「今を生きている」 苦しいから乗り越えた先には嬉しいこと、辛いことが分かち合えるのかも知れませんね。 共生と寄り添いながら。
こんにちは。どなた様か教えて下さい。 ①自害は悪いことですか? ②もし悪いのであれば、なぜ悪いのですか? タイでは、自分の中でポイントがある。 自分の中で設定した、ポイントを達成することで、次の人生で良い人生が送れる、と考えられている。 つまり早くにポイントを、達成できれば自害する。という仕組みに、なってるというのをメディアで見聞きしました。 日本では自害は良くない。地獄に落ちる、という説が濃いように見えます。 たまに「死ぬ権利」という言葉も耳にしますが…
こんにちは。大学生の女です。恋愛についての相談をさせていただきたいです。 私はもともとサークル内恋愛をしていました。ただその彼とは、恋愛への温度差が原因でなかなか上手くいかず、しばらく付き合った後私から別れを告げました。 悩みというのは、その後私に同じサークル内で別の好きな人が出来てしまったことが始まりです。元彼と別れる1、2ヶ月前くらいから徐々に距離を置いていたのですが、その間に元々友達としてとても仲の良かった人が気になり始めてしまいました。 同じサークル内で2人目というのは、元彼にも好きな人にもサークルの仲間にも、みんなに気を使わせてしまって申し訳ないという気持ちと、私も彼もこれからあまりサークルに顔を出せなくなるので、想いを伝えるなら今が最後のチャンスだ、という気持ちとでとても悩み、より後悔が少ない方はどちらかと考えた時、私は想いを伝える方を選択しました。 その結果、幸いにもお付き合いすることは出来たのですが、別れた時期と付き合い始めた時期が近いということもあるのか、申し訳ないという罪悪感がずっと消えずうじうじ悩んでおります。自分で悩み決断したことなのですから、すっぱり前を向かなければと思うのですが上手くいきません。こんな調子では、せっかく付き合ってくれた彼にも申し訳ないです。どのように気持ちの整理をすればよいのか、アドバイスを頂きたいです。 長文失礼いたしました。何かお言葉をいただけると嬉しいです。
夫以外に誰にも相談できない重たい相談です…。 第一子が二年前に産まれ、すぐに皮膚の難病だとわかりました。遺伝病です。 ただ、私や主人の家系には誰一人としてその病気の人はいません。 たまたま、私と主人の遺伝子の悪い物同士が引っ付きあってできてしまったのが第一子です。 運がいいことにこの子は訪問看護の力を借りながらも健常者と同じ生活が送れています。 ただ、これは兄弟(性別かかわらず)でも症状は違うらしく、一生車イス、一生流動食等、生まれてみて育たないことにはわかりません。 そして、遺伝病の為1/4の確率でこの病気になり3/4はこの病気にはならないそうです。 どうしても兄弟をつくってあげたい、やっぱり子どもが好き等で、第二子を望みました。 結果すぐに妊娠しましたが、羊水検査でこの病気、まさかのまた1/4に入ってしまいました…。 この病気だとわかって産む勇気がなく、中絶の道を選びました…。 こんなことはしたくなかったので、子どもを作る前に遺伝子専門の病院に行き、体外受精、着床前診断で判断できないのかと訪ねたところ…倫理的問題が発生するのでできないとのことでした。おかしなことに妊娠→羊水検査→中絶ならばできると…。 3/4にかけましたが、ダメでした…。 せっかく授かった命だったのに…。 こんなことを思いながらも、どうしても兄弟を諦められず、しかしまた1/4に入ってしまったら…。 ほとんどの人が健康な子ども(途中病気や障害、事故らは除いて)を授かるのになんで我が家だけなんで…。 次こそは…。そう考えてしまいます。 体力的、精神的、金銭的に今度の子作りが最後…。 子どもは欲しいけれど、この遺伝病だったら育てられない…作りたいけどまた中絶…。どうしたらいいのかわかりません…。 何度考えても、病気が判明したら育て上げる自信はありません、産めません…。しかし、自分の子どもがもう一人欲しい(もともた、第一子が産まれる前から夫婦とも二人の子どもを希望していました)。わがままなんでしょうか?主人も同じ気持ちです。 悩み事を簡潔に書けなくてすみません…。 お忙しい中読んでいただきありがとうございました。
禅に興味を持ち始め、禅に関する本などを読んだり、このサイトにもよく見にきます。 こうして仏教と触れていくうちに、自分の雑念などそういったものに振り回されないような生き方を身に付けたいと思うようになりました。 しかし、だんだんとその雑念というものを振り払うというのが、自分の大切な感情を無視しているように思えてならなくなり、何か大事なものを見落としてしまいそうな気がしてしまうのです。 なんともまとまらない文章になってしまいすみません。一体どうしたら良いのでしょうか
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
死んだらどうなるのでしょう? 最近そんなことを考えて怖くなる時があります。 私は仏教が好きなのですが、実際自分が死んだらどうなるのか不安になって怖くなる時があります。 何もしないと死後はどうなるのか? 修行をしたら死後は変わるのか? 死後にお坊さんにお経をよんでもらったらどうなるのか? とても不安です。
昨日や一時間前、一週間前が一瞬に感じる様に そう言ってる間に10代20代は終わって やがていい歳になっていく 答えがない死後について頭を悩ませて 金や権力の道具にされた宗教が みんなに馴染んで ちっぽけなこの先の安定を求める 蠅や犬と変わらない生物の分際で ごく当たり前の様に驕り高ぶって 人が人を裁く 真理が聞きたいです 教えてください この様な事をどう受け止めどう生きるのか 仏陀の様に真理を知りたいです 本当の仏教で教えて欲しいです
近年、量子力学等の学問での研究に目覚しい進歩が見られます。 量子力学や精神系分野で輪廻転生の研究の話題が盛り上がっています。 量子力学では遂に死後の世界について【量子もつれ】と呼ばれる現象で論文を発表したり輪廻転生の研究をしていらっしゃる学者さんもいますし少し前ですが精神系分野では著名なアメリカのジム・タッカー博士は輪廻転生をしたと思われる2500人の子供達に関して発表しました。 この子供達の実例を見る限り明らかに例えばAという死んだ人物とは関係ないBの少年又は少女がAの生前の記憶を持って生まれてきている事があるようです。 それでも脳の錯覚だとして懐疑的な学者さんが多い中、現在進行形でこの分野の研究は着実に前へと前進しています。 ちなみに、私は死後の世界も輪廻転生も存在すると考えています。 そこで、今回は輪廻転生についてお聞きしたいです。 お坊さんは輪廻転生とはどのようなものだとお考えなのでしょうか? 輪廻転生の仏教的解釈やお坊さん個人のお考えをお聞かせください。
以前読んだ仏教の本に、 お釈迦様は死への恐怖は、生への執着によるものだと悟った と書いてありました。 では、なぜ生きるのが嫌になったとき、自ら命を絶つのが悪いことなのでしょうか? 失恋したり、仕事がうまくいかなかったり、自分のことが嫌いになって、いっそのこと死んでしまいたいと思うことはなぜいけないことなのでしょうか? 生への執着が悪いことであるなら、自ら命を絶つことは許容されるべきなのではないでしょうか? こんなことをずっと考えてしまう自分が大嫌いです。助けていただけないでしょうか。
先日自分のことを小さいころから苦しめてきた母親を殺害しようしました。 しかし結果的にはできなかったです。痛めつけることだけでした。 やつを床に強い力で踏みつけ、それなりの力で殴って、蹴り続けました。 悲鳴を上げて、叫んで、呻いてました。 本当は殺害する気だったけど、いざ踏みつけていると何か重さのようなものを感じてできないとわかりました。今目の前で動いてるものを一生動かなくすることの大変さというか。 途中で痛めつけることに方針を抱え、今でも不完全燃焼ですがいくらから痛めつけて帰りました。 やつは追いかけてきてどこに住んでるのか連絡先を教えてほしいとか、父親と連絡を取っているのか聞いてきました。 自分は歩きながら住所も連絡先も教えず、父親との連絡も「知らない」とだけ答えました。 本当はここでもう少し殴るべきだったと思います。 そしてちゃんと生活しているのか、幸せに暮らしてるのか聞いてきました。 子供でまだやつの家に暮らしていた時けなして、追い詰めて、苦しめてきた人間が今更そんなことを言ってくる。本当に頭に来ました。でももう外にいて人もいる。自分にそれを見られながら殴る気持ちは整理できなかった。 自分は笑いながら、幸せに暮らしてるし、普通に生活してるとか答えました。 何度もそれを聞いてきましたね。本当に殺してやりたい。今思い出しても胸糞悪くなってくる。 最後にヒステリックに自分がいなくなればいいの?!とかわめきだしました。 意味がわからなかった。もとから自分の周りにいない人間のはずなのにいったいどこにいたというのか。 「なんでそんなことを聞くのか」とキレると奴は帰りました。 幸せに暮らしてるのね、それだけわかればいいからと言って。 奴を痛めつけてるとき、リビングにはTVがついていた。それも許せない。奴にはまだまだ年齢からして30年近くは人生を楽しめる。 日本はやさしい国だ。年をとっても快適に暮らせる制度、環境はごまんとあります。 まだ足りないです。今回のことで実際に殺害することは難しいとわかりました。 だけど痛めつけ足りない。次は警戒されて難しい。今回はインターホンで自分を名乗って入った瞬間殺しかかりました。 次は難しいが奇襲しかないと。 だけどそれだけではできるかわからない。 何か、何か最高の復讐を教えてほしいです。 今回のことで自分に人は殺せないかもと感じました。
こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。
先日、仏教についての本を読んで疑問に思ってもやもやしたので質問させていただきました 空である世の中で、お坊さんは空をどのように認識して、認識してその結果、何をしようとしているのですか?どうして今の行動をしているのですか? 僕は全ては認識であり、認識や表現(言葉など)を利用して認識しているみたいな解釈しました 拙い文章ですみません、よろしくお願いします
川崎登戸殺傷事件、とても心が痛みます。 胸が苦しくてとても悲しいです。 犯人は何も失う物がない 「無敵の人」ともいわれています。 これからの日本、無敵の人が どんどん増えると思います。 無敵の人に対して、一般市民やお寺は どう接すれば良いと思いますが? このような事件が起きないように出来ること、あると思いますか? (家族?にも無敵の人がいて、同じような事件を起こしてもおかしくありません。私の子供も狙われるんじゃないかと想像して涙が出ます。マイナスな想像は無意味と分かっていても、どうしても考えてしまい、恐ろしくて、吐き気がします。。)
好きな言葉(名言)はなんですか?
先日知人から共通の友人について「あのタイプの子は自殺しそうで怖い」と言われました。 が、何も言えませんでした。私は死ぬのも生きるのも個人の自由としか思えません。 勿論、幸せであってほしいとは思いますが、死にたいと言われても「頑張って生きなきゃダメだよ」とは思えません。その後幸せなことがあるとは保証できないし責任も負えない。終わりにしたいなら終わらせるのも自由。 お葬式を数多見てきて、どんな人も、例え親や夫が死んで悲しみを抱えてもいずれ日常を取り戻す姿をずっと見てきました。 私の一時的な悲しみのために、苦痛を受け続けながら生きてろよ、とはどうも思えないのです。生きたいと相談を受ければ聞きますが、死にたいと言われても、別にいいんじゃない?としか思えないのです。 同様に病気の友人にも、健康的に生活を改めなよとも言えませんでした。長生きするより、酒も煙草も自由に生きたいと本人が言うのならそうすれば、としか思えないです。しょうがないよね、アハハと隣で笑って、お葬式で泣くだけです。あの時止めてれば、と他の人のように思えません。 私は薄情なのでしょうか。 先月、20年頼の友人が死にました。毎週会っていた仲間でした。かつては恋人でした。悲しいです。喪失感もあります。でも、それは私の勝手な感情。結局考えに変わりはありませんでした。悲しいのはいつ死んでも悲しい。きっと20年後であっても。それでも人はどうあっても生きなければならないとは思えず、どうも繋がらないのです。 自分には何かが欠落しているのかとも思いますが、何かはわかりません。 私は人を大切にできない人間なのでしょうか。
以前、何度か質問させていただきました。 私は信仰心が強く、仏様を信じています。 でも、祈って病気が治るならみんな死なない と言うようなご回答をいただきました。 ごもっともだと思い、見返りを求めていた 自分を反省しました!そして私は心配性です。 別の質問をしたとき、仏様を信じているから このままではいけないと、仏様がハスノハへ 導いてくださったのです。とご回答を いただきました。携帯を変えたので質問が 残っているかは確認してません。 このハスノハでたくさんのことを勉強 させていただきましたが、結局物事は なるようにしてなり、起こるべくして起こり、 現実をどう受け止めるか。なのかなと。 仏様を信仰しているのはただ人が仏様を 信仰することでいいことをした気分になり 救われるような気がするからで、 その後いいことや悪いことが怒っても 仏様の力でもなんでもなく、ただ起こるべく して起こっただけなのかなと思うようになりました。私は祖母に小さい時から仏様に 手を合わせなさい、朝起きたら朝日に向かって 手を合わせ世の中の人の平和を祈りなさい、 そうすると心が穏やかになるんよと 言われて、できるときはそうしてきました。 小学生でひいおばあちゃんが亡くなり、 ショックで落ち込んでいると般若心経を 覚えなさいと言われ、毎日写経しました。 何年か経ち、私が祖母の部屋でなんとなく 写経していると、もう1人のひいおばあちゃんが 亡くなったと連絡がきました。 私が写経している間に眠るように亡くなった そうで、祖母が、ひ孫のお経で逝ったんやね と言っていました。他にも亡くなった人や 仏様との結びつきを強く感じることが 小さいころからたくさんありました。 その度に私は感謝し、手を合わせました。 つらいことが怒っても仏様なんかいない! とは思ったことはなく、どう乗り越えるか 私が強くなるための試練を与えて下さってる と信じて超えてきました。 でもハスノハで仏教のことを いろいろ教えていただきましたが、 現実を見せられた気持ちになりました。 仏様なんか!とかではありません。 私が信じてきた仏様はいないのですか? 人が勝手に仏様と結びつけているだけで。 そう思うと、手を合わせる意味がわからなくなってしまいました。仏様なんか!とかそうではなく、純粋に混乱しています笑 複数ご回答いただけると嬉しいです!
各宗派の違いはあれど 仏教は釈迦の教えから発していると思いますが 端的にいってその教えの心髄、核心、エッセンスとは何でしょうか? 多くの宗派のお坊さんからご回答を頂けるとありがたく存じます。 なお恐れ入りますが、 仏教学的な、学べば分かるようなものは期待しません。