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検索結果: 1075件

初めてご相談します。気持ちの整理の仕方、教えてください。

今年の1月末まで3年半程、海外に住んおり、その内の約半分の期間、現地でお付き合いをし、1月末に帰国してからつい先日まで遠距離をしていた外国人の彼氏がいました。(彼のご家族とも親しくしていました) その彼氏とは、私の帰国前から、彼が私のビザの事等(結婚しろと迫ったりは一切ありません。ただ話し合って、お互いの意見を知りたかったのです)、真面目な話し合いを避けるので、度々喧嘩をする事もありました。 私の帰国1ヶ月ほど前に元彼女との浮気メールが発覚し(元彼女も他国在住の為、実際に会っての関係はありません)、元彼女が好きなら私と別れれば良い。そうじゃないなら元彼女との関係を絶ってほしいと伝え、彼は、私を選んだ。元彼女には真実を話して、もう関係を絶ったと言い、その後も度々疑心暗鬼になる私の目をまっすぐ見つめて、泣きながら、もう二度と嘘は吐かない、愛している。と繰り返していました。が、その後遠距離となり、一ヶ月程前に急に「君には正直になるべきだ」等と言い、実は発覚後も元彼女との関係は以前と変わらず続けていた。それではダメだと思い、元彼女には今度こそサヨナラを言う。全て終わったらまた連絡をする。と言い出し、その数日後、やはり私との関係を修復したいと連絡がありました。反面、「彼女は去ってしまった」と電話口で泣き出し、結局は元彼女に未練はあったが、最終的には元彼女の方が優柔不断な彼に愛想を尽かして去っていった為、私の所へ来たようでした。その後も私も彼とは終わりにすべきだとも思いつつ、修復しようと試みましたが、信頼などできず、喧嘩ばかりで、彼は彼で日本に会いに来る、愛していると言ったり、もう会いに行かない、新しい出会いが楽しみ、もう親しく話している人がいると言ったりと、もう修復は不可能だと思い、自分自身の為にも数日前に完全に別れました。 建設的でない関係に終止符を打て、ホッとした反面、彼の嘘や彼の矛盾した言動と行動に振り回されたことに非常に傷付いている自分がおり、帰国後、仕事も上手く決まらず、更に30を過ぎて一人になり、自分の人生に絶望してしまいます。この結果も私自身の選択の結果ですから、彼だけが悪いとは言いません。もっと前向きに生きたいし、希望も持ちたいのですが、どうしたら良いのか分からないのです。何か助言を頂ければと思います。宜しくお願いします。

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仏教の「助け合い」

先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。

有り難し有り難し 243
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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
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