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hasunoha 問答検索結果 : 「 死後 」
検索結果: 1332件

たった今中絶をしました

どんな理由があるにせよ、これ以上の無責任な事はないと思います。 たった今目が覚めたところで、今点滴中です。 3人目の子を授かりました。 長男には体の障害があり、抱っこや補助などがずっといるのと、成長すればする程、本人の不自由さも増す障害なので、長男をほっておけないのと 次男はまだ1歳になったばかりで、次の子が産まれる時も、まだまだ話がちゃんと通じるというか、聞き分ける事の出来ない年齢という事と 金銭的な問題 旦那も、朝から夜中の1時2時にならないと帰ってこれない仕事なので、ほぼサポートが得る事が出来ないので、今回は泣く泣く諦めました。 でも、流産しやすい危機も乗り越え、ようやく人らしい形になんとなくなっていました。 1ヵ月を過ぎると、お腹の赤ちゃんも本能で逃げるそうです。それを掻き出す形になります。 長男の障害を受け入れる時に、命とはどんなに大切なものか。子供とは何か。当たり前のようで、全て奇跡で、日々感謝していこう。と思いながら、障害を受け入れただけに、今回の決断が悔しくて悔しくて、お腹の子に申し訳なくてどうしようもありません。 ちゃんと水子供養もするつもりですし、エコー写真を飾って毎日手を合わせるつもりではいますが、本当にやりきれない思いです。 親として最低の事をしてしまいました。せっかく来てくれた命なのに、、、産んであげられなかった これから私に出来る事。そして心の持ち方など、何かアドバイスがあればよろしくお願いします。 一生この罪は背負って生きていくつもりです。

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母が他界してから

昨年の年末に大好きだった母が病気が原因で他界しました。 複数の病気を患いアルツハイマーもありました。 糖尿病で数年でふくよかだった母がガリガリになってしまい別人のようになり私は正直他人に接している気になりました。 しかし自宅で世話をしたいと言う父の気持ちもあり他界数ヶ月前まで自宅で介護をしていました。 昼間は父が介護で夕方からは私が介護という形でしたが、食べたのに食べていないと言ったりトイレに何分も入っていたりちょって歩いただけで大袈裟に疲れたと言い出したりと、だんだんとストレスも溜まり冷たくしてしまった事もありました。 元気だった頃は年に1回私の子供達も連れて一緒に旅行をしたりボーナスが入ったら好きな服をいっぱい買ってあげました。離婚して戻ってきた時も嫌な顔せずに迎え入れてくれて、それからは父と母に旅行をプレゼントしたり思い出に残る事、感謝の気持ちをいっぱい伝えたつもりでしたがアルツハイマーになり生活が狂ってしまい辛い事や悲しい事がいっぱいありました。  数歩歩いて疲れたと言う原因は肺気腫だったからだそうですが私は母の苦しみを知らずに怒ったりしてしまいました。 母が亡くなった今何故あんな事をしてしまったのか、母は幸せだったのか、何故もっと優しくしてあげられなかったのかと後悔しかありません。 亡くなる夜に施設から連絡があり『到着する頃にはもしかすると』と言われていましたが20分ほどかかる施設だったので急いで向かい、到着した時に施設の方が『お母さん来るのを待ってられましたよ』と、かなり危ない状態だったのに私の後に父が到着するまでの40分ほどは頑張ってくれて父が到着後5分ほどで息を引き取りました。 私や父の事を待っていてくれたんでしょうか? 私は母にとって良い娘だったのでしょうか? 未だに仏壇の前で母に語りかけますが夢にも出てきてくれません。 悲しみは癒えることはあるんでしょうか?

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比喩表現なのか...謎

お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。

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罪人の命(死刑について)

重い罪を犯した方が、死刑判決を受ける事がありますよね? 死刑の実行の仕方のようなものを人から聞いた事がありますが…。 私は、どんな酷い罪人でも、人間が人間に手を掛けるべきではないと思ってしまいます。 殺したところでご遺族の方の傷が癒えるわけでもないし、それなら死を迎えるまで償い続けるべきなのでは?と。 ご遺族の方々にとったら、生きていてほしくないし死刑を望む方もいると思いますが、人間が手に掛けることは私には納得出来ません。 無期懲役で良いのではないのでしょうか? 最終的な償いや処罰は、罪人が亡くなった時あの世で神様なり仏様が下すものなのではないかと個人的には思うのですが、御坊様達はどう考えますか? それに、昔読んだ禅語の本で、何という禅語か忘れましたが、その禅語に対しての解説文の様なものの一部に 「どんな罪を犯した極悪人でも、仏の心がある事を忘れてはならない」的な事が書かれていました。今の世の中卑劣な事件が多く、私自身も胸を痛めたり嫌な気持ちになったりしますが、その禅語を信じたいです。 被害者やご遺族の方にとったら、本当に赦せないと思うし辛くやるせない気持ちになるし憎しみを拭い去る事は難しいでしょうが… 自分がそういう目に遭った事がないから、この様な綺麗事がいえるのでしょうか…。 昨日別の質問をさせて頂き、なんだか心が軽くなった気がして、そしたら色々質問してみたい事が出てきてしまいましたσ(^_^;)ごめんなさい。 ありがとうございました。

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