宗教・宗派を超越して、宗教家・僧侶は、決して自殺はしてはいけないと俗人に「説教 説法」しますよね。 否定しません。その通りです。 しかし・・・・・ チベットのラマ僧侶は、中国共産党の悪行に抗議するためと称して、よく焼身自殺しますよね。 軍事政権下にあったビルマ・ミャンマーでも、タイでも、ベトナム戦争時の南ベトナムでも、仏教僧が支配者・独裁者・軍部の悪行に抗議すると称してよく焼身自殺をしていました。 日本では、昔は「生き仏」になると称して、僧侶が穴倉にこもり、すべての飲食を断ち、「御陀仏」するという『挑戦」をしていたこともありましたが、これも自殺ですよね。 僧侶の皆さん、仏教では、仏陀は、自殺を認めている・奨励しているのでしょうか? 俗人の自殺は許されないが、僧侶の自殺は許されるのでしょうか? いかがでしょうか。
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「他者を助けること」について教えて頂きたいです。 仏教では相手の苦しみを理解し取り除くという慈悲がありますが、どれくらいの意気込み(?)のものなのかよくわかりません。 例えば、困ってる人が近くにいたらできるだけ力になろうと努力する、というくらいなのか 、自分のことを後回しにしてでも助けようとするのか、全てを投げ捨ててでも助けるものなのか、死を覚悟してでも助けるのか…… 仏教ではどのように説かれていますか?よろしくお願いいたします
何度かお世話になりました。 以前から環境も変わり憎しみは癒えませんがなんとか働いてみんなに支えてもらい生きています。 憎しみが自分を悪くしていくのか、以前にも増して、自分は人が悪くなったような気がします。イライラしやすくなり、日々に疲れきっているからといって人を適当にあしらってしまったりちょっと当たってしまったり。そんなんでも職場の人々は直接的に嫌なことは言ってきたりせず、一人の人として接してくれて有り難いと感じています。 そんななか先日、一緒に組んでいる方が遅くまで残っている私に帰らないのかと気にして声をかけてきていて。なに?と不思議に思ってましたが帰る時間が複数人で一緒になり、いつも通り帰ろうと思い一緒に歩いていたらお疲れ様でした!と一斉に言われて 一緒に食べに行くのか私以外の人たちはいつものルートとは違う方へ皆で歩いていきました。 そこでこんな自分でも普通に接してくれてることに感謝しているはずなのに、仲間はずれにされたと思って凄く悲しくなったり皆で私の悪口を言いにいくんじゃないかなど、憎い気持ちがぶわーっと出てきてどうしようもなくなりました。こんなこと惨めだしそんな風に考える自分が恥ずかしくてだれにもいえないし、どう切り替えていけば良いのかとモヤモヤしてしまっています。 自分は憎しみを手放さないといけないと思っていますが元夫にたいしてもですが人にたいしてもなぜこんな気持ちになるんでしょうか。元夫も、戻りたいといってきたりなんか混乱することばかりです。子どもも歪んだ私に育てられしんどい思いをしていると思います。 思い通りにいかなくて、からだが辛くて、当たったり憎しみを持つなんて。もとから人が悪いからでしょうか。本当に自分が嫌になります。 乱文すみませんが、何かお言葉をいただければと思います。どうぞ宜しくお願いします。
3/6に母を亡くしました。酒を飲み吐いたものを詰まらせての窒息死、前日にはメールをして、亡くなる5日前には電話もしました。13日には会う約束もしていた突然のことに心が追いつきません。 母は仕事で遠方に行くことが多く共に過ごしたのは4歳まで、12歳までは2、3ヶ月置きに20日ほど、中学の3年間は共に過ごしましたが、15の頃事件に巻き込まれ両親は離婚、以降母とは別に暮らしていました。母には月に一回会いに行く生活でした。親子で過ごした時間はとても少ないと思います。 私が小さな頃に母は兄を自殺で、8年後父(私の祖父)を失っています。家事もして優しくて、けれど二人を失ってからは心のバランスを崩しがちでした。事件以来パニック障害とうつ病も持っていたことを、死後知りました。 私は酒を飲んでいる母が嫌で、つらいことがあるという事もわかろうとせず、冷たくしてしまうこともありました。 死後、家の整理をしていたところ母の履歴書がたくさん出てき、母が頑張ろうとしていた事も知りました。また母のメールから、母が男性に金銭面で援助してもらい、代わりに身体を差し出していた事、その中で暴力行為があった事も知りました。それが母の病状を悪化させたのではないか、知らなければよかったと苦しいです。 なぜ、もっと優しくしてあげなかったんだろうと後悔しています。 誰か一人、私だけでももっと優しくすれば、必要とされていることを母に伝えていれば、向き合って話を聞いていれば母は酒に溺れる事もなく、吐いたものを詰まらせて亡くなる事もなかったのかもと考えてしまいます。 母は依存症でしたが、私のことは常に愛してくれていました。毎月いつ来るかを聞く母は嬉しそうでした。残された沢山の私の写真、母の写真はほとんどありません。 ここ数年は一緒に写真も撮っていなかった、大切だと伝えていなかった、話をして共に出かけたかった、全てを後悔しています。 母の依存症で辛い想いはたくさんしました。普通の家庭がよかったと思う事もありました。 それでも母のことを愛しています。嫌いになったり割り切ったりできません。死後の世界でも、苦しみから解き放たれてほしいと思っています。 残されたものがくよくよしてはいつまでも然るべき世界に行けないと聞いたので前を向きたいです。けれどどうしたらいいかわかりません。 よろしければお言葉を下さい。
度々の質問を失礼致します。 最近、安楽死に関する映像を観ました。 今まで実際に安楽死される方を観たことがなかったので衝撃と同時に安楽死についてとても考えさせられる内容だと思いました。 実際に病気に苦しまれているご本人やご家族を拝見して苦しみながらも安楽死を選択する場面を観てやるせなさを感じると同時に苦しみから解放される場面を観て涙が止まりませんでした…。 安楽死に至るまではご本人、ご家族共に議論を重ねており、最終的には自分のことは自分で行え、自分の意思を伝える自由を持ち人間としての尊厳を持ったまま生きたいというご本人の気持ちが痛い程に伝わってきました。また、それを見送るご家族も本当に悲しかっただろうけれどもご本人の意思を尊重できる思いやりの深さも痛い程に伝わってきました。 それを観て病気で苦しむ本人が「どんな苦境でも生きたい」という意思がないのに治療を続けることや生を強いることはとても残酷なことではないかと思いました。 また、私は安楽死がもし許可されるようになったら本当に苦しんでいる人が救われるし、そうじゃないとしてもいつか生きることに疲れ切ってしまった時に尊厳をもって人生を終えることができる選択肢が存在するということは安心して生きていくことに繋がるのではないだろうかと感じました。 生きていれば確かにいつかは病が治るかもしれません。でも、そうならなかった場合苦しみを味わうのは病気になった本人です。今の日本はなぜ、苦しんでいる本人の意思を無視して無理やり生かそうとするのでしょうか…。そして、苦しんでいるのに死にたければ本人の尊厳を踏みにじるような残酷な方法で自殺する方法しかないのは何故なのでしょうか…。 生まれてくることは選べないのに死ぬことは許されないのは何故なのでしょうか…? 苦しみぬいてまで生きることは本当にそんなに価値のあることなのでしょうか…? 家族は確かに生きてくれた方が心の支えになって良いかもしれない、でも苦しみを味わう本人の意思を無視しても正しいことなのでしょうか? 笑顔で最後までご家族を労わりながらも亡くなっていく患者様ご本人を観て「生きる」とは何か本当に考えてしまいました。 安楽死について、どの様に考えるのかお坊様方の意見をお聞きしたいです、よろしくお願いいたします。
お世話になります。 私は今年で27歳になります。 昔から劣等感が強く、ずっと希死念慮を抱えたまま無駄に生き長らえております。 私が今苦しいのは、つまるところ私が未熟だからと承知しております。 物に恵まれるための努力も、精神的な充足を感じる為の努力も半端にして来た故、こうして時々自分を憐んで反芻を繰り返しております。 私は現在、奨学金200万ほどを返済している最中であり、今死ぬと親族に迷惑をかけてしまう為、自殺を踏み止まっている状況です。 今の職場は人間関係が良く、仕事が楽しく思える瞬間もあります。 しかし、それでも私はやはり早く死んでしまいたいと思う次第です。 理由は下記の通りです。 ・モテない。 ・低収入(未経験の転職なので仕方はないですが) ・自分の夢のためにすら頑張れないことに気づいた。 日々への感謝も出来ず、この恵まれた日本で楽しく生きることができないなら、私は何のために生きなければならないのでしょうか? 自殺を30歳までにするのが目標ですが、それまでに何とか楽に生きる方法はないものでしょうか? ご回答をお願いします。
こんばんは、いつもお世話になってます。 唐突ですが、私は、世の中には二通りの人間がいる事に気がつきました。 それは、持つ者と持たざる者です。 例えば、 裕福な者と貧しき者 屈強な者と病弱な者 容姿端麗な者と醜い容姿の者 才能のある者と凡人 勝つ者と負ける者 運の良い者と運の悪い者 上に立つ者と下で支配される者 好かれるもと嫌われる者 これらは、全て持つ者と持たざる者です。そして持たざる者が持つ者と同じ土俵に上がった時 持たざる者は持つ者の倍努力しなければならない 私は、そこらへんの図式に気がつきました。仏教においては、この図式とどう向き合うのでしょうか?智慧をお貸しください。
私の母は末期癌で四年前に余命一ヶ月と宣告を受けました。有難い事に四年経った今でも生きています。その頃から私は母の介護をしています。ここ一年くらいは寝たきりの状態で精神的にも不安定であり介護するのも大変になってきました。私も介護で追い込まれていたので少しでも休みが欲しいと思いショートステイを利用しようと思いました。しかし母は泣いてそれを嫌がりそんな母の姿を見たら可哀想で無理矢理ショートステイに預ける事は私には出来ません。母は自分が生きていたら迷惑かけるからと毎日のように泣き死にたい殺してくれと懇願する日々です。とても苦しそうにする母をどうしたら救えるのか悩む毎日です。どう声をかけていいのかどうしたら救えるのか悩んでいます。母はもうこれ以上生きて周りに迷惑をかけたくないの一心です。私もこれ以上苦しむ母を見てられません。どうにかして、苦しみから救ってやりたいです。
一人暮らしをしています。 家に帰っても、ご飯を食べる時も1人なのがとても寂しくて、でも恋人とかを新しく作る気もしないです。 仕事もしんどくて、もういっそ実家に帰ってしまおうかとも思います。家族が少し過干渉なので悩んでいます。 自分がいま何をしたいのかとか、しんどくてどうでもよくなりつつある自分がいます。とにかく美味しいご飯を食べて、ゆっくり休ませて欲しい…。もう頑張りたくない、死にたいとまで思います。 生きる気力が持てません。わたしはどうしたらいいのでしょう…。
先月、今年新入社員として入社した会社を退職しました。 退職理由としては、日々業務に追われ残業が当たり前で、7時出社21時退社に慣れきっており、毎日死にたいと泣きながら会社に行っていたためです。また、社員が次々と退職し、残った社員が新卒のみになったため、今後の仕事量や経営を考えると恐ろしくなり、逃げるように退職しました。 退職した現在は、コロナで求人数が激減し全く先が見えません。 父と母は退職を受け入れてくれたものの、仕事をせずに転職活動をしている自分に毎日罪悪感を感じて、生きている意味があるのかと考えてしまいます。 また、生きていく上で仕事が必要なことは分かっているため転職活動をするのですが、前職のトラウマで正直働きたくはないと思い、自己嫌悪で苦しくなります。 親孝行もできず、情けなくて、でも社会にまた戻るのも怖くて、無駄に真面目なので転職活動をしないで体を休めることもできず、友人に最近の話を聞かれるのも怖くて、こんな自分が全て嫌になってしまいます。 いつか転職活動が終わり、仕事ができる日が来ることは絶対であるとわかっていても、苦しくて怖くて消えたくて仕方がありません。 頭の整理すらついていないのに、こんな相談をしてしまい申し訳ありません。 私に何かお言葉をいただけたら幸いです。 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
自己憐憫とは自分をかわいそうに思うことですが、誰しもツライことが続くとなんで私が?とか私なんて・・など卑屈な感情を持つことがあるかと思います。このような感情は持っていけない又は持ってもロクなことがないということはわかりますが、こういう自己憐憫にような気持ち持った場合どのようにその感情を捨てて自分と向き合えばいいのでしょうか? また、誰かに頼る(頼りすぎはよくないけど)、弱音を見せる、話を聞いてもらうということはいけないことでしょうか? それとも、自分で抱え込んで一人で解決したり、耐え忍ぶということが、 ”自己憐憫による人に依存していない”ということなんでしょうか? 悩み、苦しみがある場合、誰にも言わない方がいいのか?誰かに頼っていいのかということがわからなくなってきました。 自分ひとりで解決できればいいでしょうけど、ときには人に頼りたくもなり、弱音を吐く姿は人間らしいとも思えるのですが・・・
お釈迦様は、大切な存在が辛い思いをしたり、見送らねばならないとき、どんなふうにとらえたのでしょうか。 大切だと思ってずっと元気でしあわせでいてほしいと願うのは、執着でしょうか? 命あるものだからこそいつか、と頭ではわかります。 また、生きていくことは喜びも多いけれど苦しみや辛いことがおおいから、楽になれるのだとも思います。 見送らせる側は、相手を悲しませるから罪になるでしょうか? また、見送る側が辛く悲しく感じてしまい、とても苦しいと感じてしまうのはどうしたら楽になるでしょうか。 今まで居てくれたことに感謝しているし、苦しいなら早く楽になれる方がいいだろうとも思います。 でも辛そうにしていたり、弱る様子を見るとやっぱり悲しいし心配です。 わたしが辛いからどう考えればいいのか、もあります。 でも、相手のためにどういう気持ちで向き合えばいいのかがわかりません。 お釈迦様は、大事な存在を見送る時、残す時、辛い気持ちをどのようにしたのでしょうか。
本日、父が亡くなったと連絡がありました。自死でした。 父は単身赴任でした。 私はこの数ヶ月、精神的かなりダメージを受けていたのですが、今日更に父親が亡くなり、自分を責めることしかできず、どうしたら良いかわからないので、ご連絡させて頂きました。 父がストレスからパニックになってしまい、母にきつく言ったり、一日中電話をかけてくるので、きつく言ったりしていました。 単身赴任先では異変を察知しながらも、周りは助けを求めても聞いてくれない、眠れないと私の妹に話をしていたそうです。 私の妹もなんとか励まそうとしていましたが、多分、私達家族に迷惑かけてしまい、もうどうすることもできないと思ったのかもしれません。 父は鬱状態だったようで、全てを背負ってしまいました。 家族みんなが疲弊してしまい、父の言葉をちゃんと受け止められず、最悪の結果になってしまいました。 何で戻ってきなさいと言えなかったのか、何で大丈夫だからと言えなかったのか、本当に自分が馬鹿で自己中な人間だとしか思えません。 コロナで単身赴任先に行けなかったので、会うことも出来なかったです。 父は凄く苦しかったのだなと思うと涙が止まりません。父にそんな選択をさせてしまったこと、ただただ申し訳ない、罪の意識でいっぱいです。 恩返しも出来ず、何も出来なかったので、自分を責めるしかありません。 せめて成仏してほしい、苦しみから解放され、来世は幸せになって欲しいと思います。 自殺した人は成仏できないとか地獄に行くといわれますが、自分を犠牲にして他人に尽くしてきた父にこれ以上苦しみを与えないで欲しい。遺された私達はどう供養し、成仏させて天へ逝ってくれるのでしょうか。 せめてもの償いとして、父をおくり、祈りたいです。
私は今までに自分から好きになった人とは100%成就したことがありません。好きになる人ななる人何故か絶対に叶わない相手だったり既婚者或いは恋人がいたり… 恋愛に固執して生きることが駄目なのは100も承知していますが懲りずにまた人を好きになってしまいます。そして今現在も好きな人には恋人がいる気配がします。確かめた訳ではありませんが親しげに女性をと話しているのを見てしまい直感で二人は付き合っているなと思いました。 自分を変えるため或いは恋愛以外のことに意識を向けようと自分が出来るありとあらゆる努力はしてきました。婚活パーティーに参加したり瞑想したり写経したり幸せになるためのワークショップに参加したりポジティブ思考になるための努力をしてみたりその他色々。 ですがもう何もやる気が起きません。ここ最近は仕事も上手く行かず全ての事に疲れてしまいました。ここ数ヶ月は鬱状態に近く頻繁に泣いていまいますし、死にたいという事やどうやって死のうか考える始末です。 世の中には他にも楽しい事や幸せな事が沢山あることは理解しています。たかだか恋愛の一つや二つが駄目になったからと言って全てを悲観するのはおかしな事だと自覚もしていますが生きる気力ややる気が全く出てきません。 世の中には苦しんでいる方々が沢山いらっしゃるのにこんなつまらない悩みで相談するのは大変申し訳ないと思っております。 どんな事でも結構です。何かアドバイス等がありましたらどうかよろしくお願い致します。 合掌
お世話になります。 転職の際に、やりたいことなのはわかるが、待遇が不安と親に反対されてしまいました。 親が言うには「安定した会社で、毎日きちんと働いてほしい」「苦労はさせたくない」ということでした。 言うことはとてももっともで、自分が大事にされているのはわかります。 しかしそもそもの話、自分は働くということがとても嫌いで、一日のほとんどが費やされると言うことがそもそも耐えられないから、せめて楽しい仕事をしたいと思ったのです。 親は仕事はまずまずに、余暇を楽しめば良いと言いますが、苦しみを紛らわせるお金を得るためだけに、苦しい仕事をするのであれば、そもそも仕事をせず、死んでしまったほうが楽で合理的なのではないか、という極端な考えに陥ってしまいます。 しかし、死ぬわけにはいきません。先に死んで家族を悲しませることこそ、自分の本意ではありません。 自分はどう生きるべきなのでしょうか。
人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか? 私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。 例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。
元々心身共に良好とは言いがたい状況でした。家庭に問題があり、暗く、人付き合いが苦手でした。 なんとか明るく前向きに生きようと思って行動もしてきたのですが、なかなか上手くいかず、どんどん病んでいき引きこもり勝ちになりました。 そして魔が差してしまい、脱法ドラッグというものを一錠だけ服用してしまいました。正に地獄でした。そこから完全に精神がおかしくなってしまいました。 服用したのは一錠のみで、物質的には完全に抜けていますし、依存もないです。 しかし、フラッシュバックというのでしょうか、苦しい感覚は戻ってきますし、電車も外出も苦しくなってしまいました。なんども後悔しました。 心の底から落ち着いているという感覚がないです。常に何かに怯え、脅迫的に思考し、苦しんでいます。 ドラッグを飲む前は苦しかったけど、漠然と救いというようなものをどこかで信じていたのだと思います。 しかし、ドラッグで死に掛けてから全てが変わった。 あるの絶望感、虚無感です。 精神科にも行きましたが、色々調べると向精神薬も怖くて飲めません。 仏教セラピーというのも少し調べたのですが、全てはエゴが引き起こしているだの、苦しみは受け入れなさいと言われても、正直苦しい。本当に苦しい。 輪廻のお話を聞いても、正直信じられませんし、ただただ怖いです。 記憶も遺伝子も違う自分は自分と言えるのでしょうか。 この先、周りは人間も老いて死んでゆく。 自分も老いて病か天災か人災か様々な苦しみを味わい死んでゆく。 こんなとりとめもない不安が言葉を変えてやってくる。 言葉以前にただただ不安があるのでしょうか、もう分からない こんな自分は一生苦しんで死んでいくだけなのかと思うと本当に嫌になります。 何を考えてみてもどうしようもない 言葉や観念的な解決法ではあまり意味が無いのだと思います。 救い、安心感を実感しないと。 でもどうしたらいいのか。希望が見えない。自分勝手で醜くどうしようもないとは思いますが、残念ながらこれが素直な自分なのです。 グチャグチャですがお願いします。 どうしたらいいでしょう。どうすれば救われるでしょう。 神仏や救いを信じたい、でも中々信じられないのです。 上辺だけ信じてみても結局意味が無い。心の底から安心できるようになるのはどうすればいいでしょう。 よかったら返答ください
仏教ってなんですか。お答えをいただく度に分からなくなりました 私達相談者皆凡夫という意味ではなにも変わらないのに、もうひとりぼっちだと嘆く人には「私達は友達です」と言い、「友達になっていただけますか」問うと「私達は向かないんじゃない?」と仰います お坊さんにも人を選ぶ権利はありますが、同じ仏教なのに相談者に対してか分かりませんが、お坊さんによってあまりの温度差に猜疑心と言うか、混乱というか、相手を選ぶ基準というか、形容しにくいのですがよく分からなくなりました 今まで相談にお答えいただいた皆さま方へ。 私なんかの回答に、傷ついたこともありましたが、お時間と労力を割いてくださり、ありがとうございました。 さようなら
自分はバイト繋ぎでしかも長く続かず、結婚も出来ず(まあ結婚は半ば望んでいませんが)人生も後半に差し掛かり何事も上手くいきません。 一方で自分の夢を全て叶え、結婚も出産もし幸せな家庭を築きながら好きな仕事をしている人が身近にいます。 こんなに身近なのに、身近でなくともこの差は何なのでしょう。私とてそんなに努力していない訳でもないはずなのです。 何事も上手くいく人と比べてしまってひどく憂鬱でしばらく立ち直れそうにありません。 どんな風に考えればよいのでしょうか。
日本の将来に希望が持てず、危機感を感じます。自分ではどうにもならないネガティブな感情を抱くと、3月に病気になった腹部の調子が悪くなります。 折り合いのつけ方だと思いますが、仕事の現場に復職すると、いろいろな家庭の状況が見えるので、この状態でやっていけるのかと感じます。 私自身の30年ぐらいの経験、親から聞いた先祖(親も含む)の話、親世代の親族間の人間関係、この一年で読んだ本の内容から、社会現象について予想がある程度できるようになってきました。今、ニュースでいろいろな事件が報道されますが、加害者の家庭環境をだいたい予想でき、後で続報で当たっていることが多いのです。直感とかではなく、根拠はあります。 「自分の病気を根本的に治したい」、「仕事で必要なことを本質から理解したい」とやったことが、逆に自分を苦しめることになっています。 おおまかに捉えたままの方が良かったのかと、たまに思うことがありました。しかし、今日、夕飯を食べているときに、「どんなに努力して解決したとしても、また新たな苦しみが現れる。何とかしたいと思わないことが、苦しみから逃れることだ。」と、思い浮かびました。しかし、それは、努力を放棄することではないかとも思います。 今生きている人とその子孫が幸せに、その土地で幸せに過ごしていける智恵が宗教にはあったのだと思います。欧米はキリスト教ですし、中東はイスラム教、アジアは仏教、日本は仏教と神道というように、それぞれの土地の自然環境に合った智恵があるのだと思います。 そう思うのには、三つあります。一つ目は、高校までの地理の知識。二つ目は、大学の教養科目の宗教学で履修したイスラム教の知識。三つ目は、この一年で勉強した仏教と神道の知識。 今の社会現象は、現代日本人が宗教の本質を理解せず、道徳性が崩壊したことに原因があると思います。 お正月は神道に、結婚式はキリスト教に、お葬式は仏教にというように、生きるための智恵を真面目に学ぶ機会が極端に減っていると思います。道徳教育や生活指導は、本来、家庭教育の領域だと思いますが、もう機能していないところが多いように感じます。 私の世代が子供の時から、家庭教育は学校が担うようになっていたと思います。しかし、学校もその余裕がなく、20年、30年経ったのではないかと思います。 もはや、どうにもならない状況になっていると思います。