もう死ぬしかない気がします。 頑張っても、学ぼうと思っても 学んでたことが 間違ってることだらけでした。 惨めです。 こんなに間違ってる人はいないです。 みんな笑ってると思います。 私は最下位です。
数年前に旦那の母親の母が亡くなりました その時に義母と義母の妹の話が聞こえてきました 妹が『旦那の母親が死んだんだけど、葬式出たくなかった。嫌いだし嫌がらせされたから』 それを聞いた義母が『そんなの出なくていいだよ。嫌いな人の葬式なん行かなくていい』 と言っていました。 私は衝撃を受けました。 旦那の親なら出るのが当たり前だと思ってたのですが、嫌いだからという理由で出なくてもいいのですか? 出なくていいのなら 私も義母に 『なんであの子と息子は結婚しなかったのかなぁ』と受け入れられてないので 出たくないです。
先ほど親に産まなきゃ良かったと言われました。 私もこんな家庭産まれたくなかったのですが、なので、質問したいのですが、輪廻転生?したら今度はまた人に産まれて、尚且つ家庭を選びたいのです! その為にはどんな徳を積んだら良いんですか? 書いてる間も涙が止まらなくて、これって多分早くしないとやばいなと思います。 前からドラマとかであんたなんか産まなきゃ良かったって言われた子が泣き喚いてて、何であんなに泣くんだろうな〜〜って思ってたんですけど、なんか予想以上にシッョクなんですね。 頭も痛いし、指もふるふるしてます。 もし次があるんだったら是非とも今度は自分の産まれる場所くらい選びたいです! カテゴリーはよく分からなかったのでその他にしました、ごめんなさい
自分の悩みというよりも、知りたくて困っていることなのですが。。。 私は子どもの遊びの研究をしていて、「遊びとはなにか」という問いにずっと向き合ってきました。言葉の意味を探るうちに、遊戯という言葉以前に使われていたという「遊化(ゆげ)」という言葉にたどり着きました。 これは仏教用語ということなのですが、言葉の成り立ちや、意味をネットで調べてもあまり詳しいことは載っていなかったので、ここなら教えていただけるかと思い投稿しました。 修行の末、悟りをひらいたのちに自由自在に振る舞えるようになった”状態”の事を指しているということでしょうか。 また、それにまつわる仏教上の逸話などはありますか?
ネットで調べたら、人を笑わせる人は地獄に行くと書いてありました。お笑い芸人などは地獄に行くと。 僕は今まで人を笑わせるのが好きで、何人もの人を笑わてきました。 僕は地獄に行くのでしょうか?地獄に行くのが怖いです 中学と高校の時、親の金を盗んだり、万引きをしたりしてました。 これについては、地獄に行っても自業自得だと思ってます。どうか、どうやって償えばいいのでしょうか。地獄に行きたくないです。 幸せになりたいです 最近たまにシンクロニシティが起きるときがあります。 シンクロニシティが起きるということは、正しい方向に進んでるということみたいですが、 本当に正しい方向に進んでいるでしょうか。 今、乗り越えられないんじゃないかと思うくらいの試練を受けてます。 あと、人を襲うんじゃないかという不安に駈られる時があります。 幸せになりたいです。どうか、救いのお言葉をください。お願いします。
いつも親切なご回答有難うございます。 たびたび申し訳ありません。 「喪」は仏教の教えでしょうか? 「喪に服す」は穢れを伝染させないようにする、というような意味合いがあるのかなと考えているのですが… 個人的には「喪」は無くてもいいのではと思っていますが、お坊さんはどう考えるのでしょうか? 亡くなった檀家さんにも年賀状等は出していますか?
以前に「最愛の母を死なせました」として、ご相談をさせていただいたものです。 3月31日に母の四九日法要と納骨を済ませまして、その後4月7日に母の霊に遭遇しました。 状況は明け方4時頃、寝室で眠っていたところ足の部分に重みを感じ、上体を起こすと母が布団の上に座り込んでおり、目が合うとすっと消えてしまったというものです。 母の姿ですが、癌の闘病中のもので、抗癌剤で頭髪は抜け落ち、身体もやせ衰えているという、亡くなる頃の姿でした。 この姿からすると、母は未だ病苦から解放されてはいないのでしょうか。その苦しみを訴えるために、私の前に姿を現したのでしょうか。 また、何故信頼し合った親子であったのに、目が合うや否やすっと消えてしまったのでしょうか。 ご意見・ご教示をくだされば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
度々いろんなお坊様のいろんなご意見を読んでは参考にさせていただいています。 一つ最初に私はあまり信心深くなく、こんな時だけお坊様や仏様の慈悲にすがる浅ましさをお許しください。 かれこれ15年、「死ぬのが怖い」発作に苦しんでいます。 きっかけは祖母の死でした。 当時中学生になりたての絶賛反抗期で、親ともうまくいかず、勉強もうまくできず、何をやってもむなしい、いいことも何もないし死にたいと思っている最中の出来事でした。 自分がいかに死を簡単に考えていたかを身に沁みて理解しました。 悲しみよりもずっと大きく、死んだらどうなるのかという恐怖と、自分が自分でなくなり消えていく恐怖が襲いました。 悲しみよりも我が身の可愛さが先に来た自分が情けなく思いましたが、その恐怖は今もなお私を苦しめます。 必死にその恐怖を押し込めて、忘れ去ろうとすることしかできません。 親には相談できませんでした。 当時の憔悴しきった様子から、自分が何か心配をかけるような真似はできないと思いました。反抗する回数も少し減ったと思います。 その時に適切に恐怖心を処理しなかった代償か、今もふとした瞬間に目の前が真っ暗になり、足元からさーっと冷気が這い上がるような恐怖で吐き気がすることがあります。 お風呂に入っているときが一番その発作が起こりやすく、全くお風呂が安らげる場ではなくなってしまいました。 かといって人間皆いずれは死ぬのに、怖がっていることが恥ずかしく、心療内科の先生(以前適応障害を患い通っていました)にもカウンセリングの先生にもうまく伝えることができませんでした。 とにかく自分が自分でなくなり、何もわからない世界に行ってしまうことが怖くてたまりません。 そして私がいなくなった後も永遠に時間が続き、地球が滅び、宇宙が滅んでいくと考えると、手足の先が氷のように冷たくなって正気を保てなくなります。 お坊様達のご意見が聞きたいです。 お坊様達の世界の捉え方、仏様の世界を知れば、この恐怖から解放され、無事に死んでいけるのでしょうか。 親(二人とも60前後でまだ元気ですが、)が死ぬことも最近は毎日のように頭をよぎり、人間が物言わぬモノになっていくことが悲しく苦しくてたまりません。 身勝手な相談で申し訳ありませんが、どうか少しでも死ぬまでに心やすらかに人生を送れるようなヒントを頂けますと幸いです。
先日ガンで父を亡くしました。55歳でした。 辛い闘病生活の後でしたのでそれなりに覚悟はありましたし、亡くなった直後は「やっと楽になれたね、良かったね」と思っていたのですが、 やはりとても寂しく辛い思いでいっぱいで、毎日遺影の前に座っては泣き、父の使っていた食器や布団を見ては泣き、父が好きだったテレビ番組を見ては泣いています。こうして文章を打っている今も涙が止まりません。 「いつまでも悲しんでいてはお父さんが成仏できないよ」とか、「乗り越えて強くなりなさい」とか、葬儀の時親戚の人に言われました。自分でもそんなことぐらいよく分かっているのです。 それでも、(こんな事を言うと怒られると思いますが)成仏なんかしないでいつまでも私と母の側にいてほしいとさえ思ってしまいます。 父も私も無口で口下手なため、元からお互い交わす会話は多くなく、私が働き始めてからは同じ家にこそ住んでいるものの関わりはあまりありませんでした。 そこにこのような出来事があり、私はこんなに父の事が好きだったのかと自覚しました。それならもっと話しておけば良かった、こんなことになるなんてとまた泣いてしまいます。 私も勿論辛いですが、最愛のパートナーを亡くした母はもっともっと辛そうで、私がいなければ後を追っていたかもしれないと思うほど悲しんでいました。そんな母を見ていると私も悲しくなってしまいます。 父の死を乗り越えるにはどうすれば良いでしょうか。時間が癒してくれるのを待つしかありませんか?
はじめて質問します。 ここ数年相次いで祖父母を亡くし、いろいろと考えてしまいます。私は生まれた頃から3人の祖父母がおりました(父方の祖父は生まれる前に亡くなっています)。ところが、ここ2、3年で次々と亡くなり、亡くなった当初は仕方のないことだと思っていたのですが、亡くなってしばらくたった最近になって、祖父母に会いたいと思ってしまいます。そして、これから先両親や叔父叔母、周りの人達と別れていかなければならないということがとても怖いです。避けられないことだとわかっていても、考えるだけで泣きそうになります。こんな調子でこれから先、生きていけるのか不安です。どうしようもない悩みですが、お坊さんの意見を聞きたいです。
はじめまして。 私は仏の道に近いところにおります。 そんな環境にありながら、 人道にも仏道にも外れる大罪を犯しました。 10年以上前になります。 内容は、煩悩の欄に記載しました。 大切な人を裏切ってしまいました。 その事を知るのは、 私と、当時その話をした友人二人だけです。 大切な人には話しておりません。 その当時は、とある事から 裏切られた、という思いからの 仕返しの気持ちでやってしまいました。 ただ、裏切られたという思いがあったため 罪とわかりつつも、そこまでの罪の意識はありませんでした。 それがつい、昨年の秋~冬になる頃 とんでもない罪悪感に襲われるようになりました。 罪の大きさ、重さにようやく気付いたのです。 それは、余りにも遅すぎました。 心の底から、本当に申し訳ない思いでいっぱいです。 なぜあんな事をしてしまったのか…。 とても重い罪悪感から、罪を告白しようと 思ったこともあります。 でも、できませんでした。 罪を告白する事によって、相手が深い傷を負うでしょうし、 私は全てを失うでしょう。 大罪を犯した私は、やはり救われる事はないのでしょうか。 また、そんな私が、子どもを叱るときに 嘘をついてはいけない 人を傷つけてはいけない 人を裏切ってはいけない 失敗しても、その失敗を認めて またやり直せばいい 悪いことをした時は、それを反省して 二度とやらなければいい などと言うのは間違っているのでしょうか。 そんな事を子どもに言う資格などないとも思います。 大切な人に、過去に悪い行いがあった時、 反省してもう繰り返さなければそれでいいのだろうか? と問いかけると、それでいいと言ってくれました。 もちろん二度と同じ過ちは絶対に犯しません。 長文になってしまいましたが どうかご指導いただきたいと思います。
先日祖父が亡くなり、生前からの祖父の意向もあり、家族のみ参列し、所謂直葬を執り行いました。 無宗教ということと、以前身内の葬儀の際にお坊さんの振る舞いについてとても嫌な思いをしたことがあったようで、それ以来自分が死んだら戒名もお経もいらないから家族だけで見送って欲しいとのことでした。 祖父の希望通りに直葬を執り行ったのですが、せめて火葬場ではお経を1回くらい読んで貰った方がいいのではないか、と親族の一人から声が上がり、じゃあそうしようということで、その際お世話になっていた葬儀屋さんに相談し、お坊さんを手配して下さるとのことで火葬の前に読経していただけることになりました。 お経が始まり、喪主である祖母がまず焼香し、それに続いて参列者が順番に焼香を行っていたのですが、一人ずつではなく三人ずつ焼香を行って欲しかったようで、お坊さんが読経中ですが参列者のいる後ろを振り返り、すごい目付きで睨んできました。 確かに焼香台は三つありましたが、特に何も言われなかったため、喪主に続き一人ずつ焼香を行っていました。 お坊さんの様子に気付いた火葬場の職員の方が、三人ずつどうぞと声をかけてくださったのですが、その間も時折こちらを睨みつけるように見ており、更には肩を竦めため息を吐いていました。 あまりの出来事に唖然としたと同時に頭にカッと血が登り、動悸が激しくなりました。 そのくらいの衝撃を受けました。 そのお坊さんにとっては数ある内の一つかもしれませんが、私たち遺族にとってはそうではありません。 大切な祖父を侮辱されたようでとても腹が立つと同時に悲しくて仕方ありません。 祖母も気付いており悲しがっていました。 こんなことなら祖父の言葉通り、読経してもらうべきでは無かったと後悔しております。 そのお坊さんへのお布施は一万円お渡ししましたが、お金さえ貰えれば後はどうでもいいのでしょうか? 腹の中で何を思ってようが自由ですが、それを表に出さないようたった数分も我慢できないのでしょうか、それが不思議でなりません。 上記したように、以前にもお坊さんのことで嫌な思いをしたことがあり、それに今回のこともあり、もちろんそんな事はないと分かってはいるのですが、こんな人ばかりなのですか? また、この悔しい気持ちの落ち着け方が分かりません。 アドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。
よく、ネット克服関連でお世話になっております。 ネットの書き込みやネットの百科事典は、よく嘘が多いと伺いましたが、インターネットのニュースへの対処はどうすればよいのでしょうか。 livedoor、全国新聞のネット記事etc・・・ 一応、信ぴょう性がありそうなものもありますよね。 よくそれでも不安になります。見るな!というのが一番の答えだと思いますが(汗)、運悪く見てしまったら、どうしたらよいのか(汗) 毎回、同じような質問で申し訳ございません。
結局一日券眠っていましたが、死ねませんでした。はやく死に死にたいです。からだと心の病気が辛くて生きているのが苦痛でしかありません。今週中にもう一度そうするつもりです。色々アドバイスをくださった僧侶の方、私を心配性してくれる人ありがとう。しねるとおもうと少し穏やかな気持ちになれるのです。 地獄とか天国とかそんなことを超越した穏やかな世界へ旅立ちます。もう、痛いのも苦しいのも怖いのも散々です。逃げたいです。さようなら。さようなら。さようなら
お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。
お忙しい中、申し訳ありません。 お釈迦様本来の教えに最も近いと言われる最古のお経の中には、 お釈迦様は、何がしかの行為を行った場合にお布施を受け取ることを拒否された、 と書かれていると聞きます。 またお釈迦様は、死者に念仏のようなものを唱えることは意味がない、と説かれたとも。 お釈迦様が対機説法を用いられたと言われていることを少しは存じておりますが、 お釈迦様の教えを学び実践する目的は、たった一つしかないと思っています。 現代のお坊さまの方々は、葬儀などでお経を上げお布施を受け取ることを、どのように考えておられるのでしょうか?
私が仏教の入門書で最初に目にしたのは「仏教の目的は輪廻転生からの解脱である」ということでした。 外国の仏教では輪廻転生が信じられていますが、日本の仏教ではその話は殆どおこなわれていません。 その理由を知りたいです。死に対する最も重要な事項だからです。
私は子供の時に小児癌を患い顔半分に障害が残りました。孫も小児癌になりました。私の母は結婚せずに私を産み、私は2度結婚し子供を産み、その娘も2度結婚し、その娘の子供が小児癌になりました。私は最初の夫の両親を看取りませんでした。今の夫の両親は介護し看取りましたが心から介護はしていません。早く亡くなってほしいと望みました。そんな私だから私もまた娘から疎まれています。もう誰とも関わらず一人で生きていきたいのですが、そういうわけにもいきません。亡くなった姑、舅。80になる実母。今まで私に関わった人にどう償えば、この悪循環を断てるのでしょうか。
まず、煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか? だとすると、「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。 何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。 個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。 (本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが) では仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。
最近仏教関連の事柄を勉強しています。 大抵のことには首肯でき、今までの自分にない発想に心が洗われるような気持ちになりますが、イマイチ納得出来ない部分もあります。 それについてはまた別の質問で書かせていただきたいと思いますが、今回は、ここにいらっしゃるお坊さん達が、仏教の教えの中で、今の世相に合わないのではないかと思った部分、疑問を持っている部分などについて聞かせていただきたいと思います。 なぜこのような質問をしたいかと言いますと、例えばイスラム教では豚肉を食べてはいけないという教えがありますが、由来としては「乾燥した地域で、牧草でなく穀物を食べてしまう豚が忌避されたから」「伝染病の蔓延や寄生虫による被害の元になるから」などの説があり、この教えは現代ではほとんど有用性がないといえます。このような、現代社会に合わない教えというものが仏教にもあるのではないかと思ったからです。 なんだか衝突を巻き起こしそうな質問で申し訳ありません。 「ない」という回答でも結構です。 よろしくお願い致します。