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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 死 」
検索結果: 5035件
2025/03/16

祖父の形見について

はじめまして、祖父の形見についてご相談があります。 20代前半であまりこういったことに詳しくないため、有識者の方からのご意見を求めています。 10年ほど前、祖父が自ら命を絶ちました。施設に入りそこでいじめを受けたことによるストレスで命を絶ったと聞いています。 葬式や遺品整理が終わり、私は形見として腕時計や、顔写真、少量の骨をいただきました。普段から腕時計を持ち歩くようにしているのですが、最近それは良くないことだと母に注意されました。母も知人から注意されたそうです。 その知人曰く、自ら命を絶った方の遺品は周りの人間に不幸を招くと。 それを信じた母は実家にある祖父の遺影や形見を全て捨てる、あなたも腕時計を捨てなさいと言います。 昨年末から私は体調が芳しくないのですが、それも祖父のせいだと言うのです。 私は数少ない祖父の形見を手放したくありません。それに今まで散々祖父にお祈り(見守っていてくださいなど)をしておいて急に捨てるだなんておかしい話ではありませんか?祖父に関わるものを全て捨てるだなんて、祖父が存在していた事を全て否定するような行為で私は納得できません。 自死を選んだ祖父の形見、遺影などは全て手放すべきなのでしょうか? もし手放すべきであれば、どういったことが必要になるのでしょうか? どなたかお知恵をお貸しください。

有り難し有り難し 7
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2022/12/21

多忙で坐禅会に行けない・無意識下の恐怖

お世話になっております。 以前より、死の恐怖が強い事について相談している者です。 今回は、坐禅会に行く事以外の方法で、無意識下の死の恐怖と生きていることの気持ち悪さを抑制できる方法があれば教えて頂きたく質問致しました。以下、詳細です。 自分の不安一つ一つに暖かなご回答を頂き、今は「頭でっかちになりすぎず、坐禅会などを通して身体で仏道を学ぶ」ことを教えて頂き、実践したいと思っていました。 しかし、多忙のあまり、一度も坐禅会に行くことができていません。また今後も、先1〜2ヶ月ほど予定が詰まっています。 にもかかわらず、死の恐怖がまた、日に日に強くなっています。特に睡眠後一時間程度で、本当に急に「私は私の身体から逃げられないのだ、いつか死ぬ、死んだらどうなるか分からな、死ぬ現実から逃れられない」と思い出し、自分の叫び声で目が覚めます。夢現のせいで、意識的に考えないようにすることができないため、本当に毎日起こり、それが怖くて眠れなくなり…の悪循環です。これが2〜3ヶ月続いていて、心身ともに参っています。 空き時間に、お薦めしていただいた本を読んだりyoutubeを見たりはしていますが、それを観ている時は少しだけ心が落ち着くのですが、夢現の時の恐怖は抑制できません。お念仏も同様です。また、お念仏の動画を流しながら寝れていた時期もあったのですが、最近はお念仏が切れるとむしろ起きてしまうようになったため、こちらも上手くいきません。 毎日死の恐怖を嫌でも思い出すので、昼間も、自分の手が一人称視点でしか見れない事にふと気がついて、いつか消滅する身体や、死そのもの、それに伴う記憶の消失を強く自覚し、生きているのが気持ち悪く、恐怖で叫ぶ…といった具合に、「生きている事」も肯定できないのです。だから、生きているだけでつらいです。 前置きが長くなり申し訳ございません。 上記したような状況から、少なくともあと1〜2ヶ月ほど、適切な坐禅会などに参加できない中で、「睡眠時の無意識下の恐怖」と「昼間の生きている事の気持ち悪さと恐怖」を少なくする方法について、アドバイスを頂きたいです。 お時間ある時で構いませんので、ご回答頂けますと幸いです。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 6
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2022/11/04

楽観的な生き方が出来ません。

人生を深くとらえすぎてしまい、最近なかなか心から楽しめません。あまりに考えすぎてしまい悩んでいます 私はよく、戦争の記事を読みます。 自分と同じ世代の子どもたちが、人間魚雷に乗り、しぬと分かっていて突撃しに行くことが、自分だったらどうかと感情移入しすぎてしまい、家族を思い嗚咽するほど泣いてしまうことが多々あります 特攻隊の方の手紙・遺書をよみ、なぜ何の罪もない人間が、罪深き別の人間に殺されなければならないのか。大切な家族がいて、まだ若いのに家族や恋人を残し、自ら突撃した時の痛み・苦しみを考えるだけで、苦しく、涙が止まりません 自分は普通に生きているけれど、何かに立ち向かう勇気もないし、辛いとすぐ逃げる。そんな自分が心底嫌いです。自分のかわりに生きて欲しかったと思ってしまいます 数年前、学校で被爆者の方の体験談を聴きました。どれだけ月日が過ぎようと傷は消えず、皮膚が少しでも張ると激痛が走るそうで、毎日体重計に乗り管理しているそうです。 地獄のような苦しみの先に命を落とした人も、地獄を経て生きている人も、どれほどの苦しみ・不安・憎しみ・痛みを感じていたのかと思うと、辛くてたまりません。 自分だったらと思うと恐怖で震えてしまい、なかなか寝つけなくなることもあります。 最近、North Koreaの映画を見ました。 人間としての扱いを受けれない人間が今も山のように、この同じ空の下にいると知りました 脱走がバレれば拷問。処刑。脱走しなくても強姦。妊娠。公開処刑。強制労働。餓死。劣悪な衛生環境。病死。それも、大切な家族や友人がされている、苦しんでいる、死んでいく様子を見る。 これ以上に辛いことがあるかと。 自分は、人生結局なんとかなるから大丈夫。や、どんなときも希望をもて。などの名言がとても好きだったのですが、もうどうでもよくなってしまいました。ただの綺麗事だと。 「俺たち、食ってトイレして働いて寝て。なんのために生きてんだ?」と、強制労働者の子の言葉がささりました。 100年前後の人生。私たちは何をしているのか。生きる意味は?頑張る意味は? 19歳で、こんなことを考えすぎて、空虚な、抜け殻のような自分になってしまいそうです。 自分だったら、家族だったらと恐怖に脅え、何も楽しめません。 当事者でもないのに苦しいです。 どうすればよいですか。

有り難し有り難し 6
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親戚の葬式後のメンタル

今日、祖父の姉の葬式がありました。 離れたところに住んでおり最後に会ってから10年近く経っていますが、小さい頃遊んでもらってお世話になった人なので、最後の機会だと思い向かいました。 棺に花を入れる時や火葬では涙が出そうになりましたが、悲しいよりも、もらい泣き、雰囲気につられているだけだと思いました。 ところが葬式が終わり、帰ってきてから夜。 もし自分の子供が死んでしまったら… もし夫が死んでしまったら… と考えると涙が止まりません。 事故、事件など最悪の可能性を想像してしまいます。 少しですが、自分も死んだらどうなる?と子供みたいな事を考えてしまいます。 1度考え出すと止まらず心がぐちゃぐちゃです。 葬式に行かなければよかったとすら思います。 こんなに心がボロボロになるなら、もっと近い人の死で自分がどうなってしまうか怖いのです。 その人がいなくなって悲しいのに加え、お見送りをした後も、こんなにも怯えなくてはならないのでしょうか。 こう考えてしまうのは普通ですか? 亡くなった人だけの事を考えないのは薄情ですか? 検索しても、近しい人の死後のメンタルを労る記述があっても、私とは違い相談できるのがここしかありませんでした。 今後あるであろう死の度、これではとても心が持たないと思い どう思えば前向きに見送ることができるのか、 大きすぎる不安を感じなくていいのか 教えていただきたいです。

有り難し有り難し 7
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人生にステージはあるのか?

ガン告知から3年。先日、転移が悪化し完治はほぼ見込めず、病巣によって骨折もし、最近は死についてよく考えます。しかしピンときていないのか「死が怖い 死にたくない」というより「死後の世界はあるのか どう人生を閉まっていこうか」といったことが気になり、エンディングノートを書いたり、断捨離したりしてます。 先日、友人とコロナについてや、痛ましいと報道される有名人の人生の集結のニュースについての話になり、私も死についてや「一人で旅立っていくときのことを考える」ということを話すと「考えすぎは良くないよ」と言われました(励ましてくれたのかなと思います) 「私にとっては、この気持ちは日常で、あまり悲観的ではなく考えすぎっていう感じでもないんだよ」と伝えると、はいはい、という感じで流されました。ある友人は「それでも不遇な死はあると思う」と述べました。 理解されなかった気がして、些細な出来事ですがショックでした。 私は、死は死でしかなく、その死は不遇であるかどうか他人が言うものではないと思うのです。また、何かしてあげられればよかった、と必ず思うものですが、簡単に言うことでもないとおもうのです。私も他界した母に何もあげられませんでしたが、してあげられなかったと思いすぎるのも、亡くなった方に対して失礼なんじゃないかと。なら生きているうちにできたではずですし、まず亡くなった人がそれを望んでいたかもわからないし、他人が人にできることは限界があると思うからです。 病気になってから、どうも周囲とのズレを感じ、30代であんまりこんなことを考えている人も今までの交友関係だと少なくて、孤独を感じます。 そして「人生のステージが違うのだ」と思うようになってきました。 それは「私のほうが死に近いステージだからだ、きっと彼らもそうなったときにわかるだろう」というニュアンスもあります。 ふと「それはおごりではないか?」と思い質問させていただきました。 確かに病気や死は近づいた人じゃないとわからないものがあると思います。私が感じた寂しさや孤独を「人生のステージが違うから」と帰着させるのはおごりでしょうか?偉そうな立場からの勝手な帰着なのでしょうか? そして、死に不遇はあるのでしょうか? 人が人の死を不遇というのは失礼なことではないのでしょうか? 私が死について考えるのは「考えすぎ」なのでしょうか?

有り難し有り難し 12
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2024/03/08

母が恋しい

3年前に亡くなった母に会いたくて仕方がないです。 当時の私は高校3年生の受験真っ只中で、母の死にうまく向き合えず、心の整理がつかないまま大学で3年を過ごしてきました。 就職活動にあたり、自分の将来を思い描くとき、無意識に母がいる姿を想像してしまい、それが叶わないことに気付くと辛いです。 また、最近は毎日夢で母の姿をみます。夢から覚めてすぐは、やっぱり実家はいいな、久しぶりに帰ろうか、母に会いに行こうか、と考えるのですが、しばらくしてもう母はこの世にいないことに気づいて毎日泣いたり吐いたりしています。 この3年間、実家に帰る機会は何回もあったものの、仏壇の前に座って母の遺影と位牌をみて拝むことがほとんどできません。なぜできないのか自分でもわかりません。怖いのかもしれないし、認めたくないのかもしれません。自分でもよくわからず、苦しいです。線香もあげてやらない娘で本当に申し訳ないです。 夢で全く会わなかった時期はあんなに夢に出て欲しいと思っていたのに、実際に夢に見るようになってからは辛いだの苦しいだの言って酷い娘です。でも母に会いたくて仕方ないです。もう意味がわかりません。苦しいです。

有り難し有り難し 9
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2022/12/10

死ぬ勇気も生きる力もない。

前回ご質問させて頂いた続きというか重なる部分があります。 22歳の誕生日前日母の自死。 母は直前あの夫婦(姉と姉の旦那)に言われた事が忘れられません死にます。と残していました。 母の死から1ヶ月経たず、母を死に追い詰めた姉が亡くなりました。 詳しいことは分かりませんが病死だとの事でした。 周りからは母が連れていったんだ、長女で初めて出来た子供だから大切で大好きだから連れていったんだと言われました。 そんな事を言われて悲しかった。 私もお母さんの娘。私を連れて行ってよ。私をママのそばにいさせてよと思いました。 本当に母が連れていったんでしょうか。 死んでしまいたい、消えてしまいたい。お母さんに会いたい。 毎日毎日死にたい消えたいママに会いたいそう思っていても、朝が来て夜が来る。 私には死ぬ勇気すらない。それなのに生きる力もない。 お母さんにあの時声をかけられなかった手を取ってあげられなかった温かい言葉で温かい存在で包み込むことが出来なかった。未だ後悔でいっぱいです。毎日母の分まで生きようと過ごしていますが、でもそれすらも疲れてしまった。 薄情で人としていけないけれど、正直姉が亡くなったと知った時悲しいという感情はうまれませんでした。もうこれから先姉に苦しめられる事はないんだとホッとしました。 でもそれと同時に、1度は目の前で母に手を合わさせたい、母にごめんねありがとうと伝えて欲しかった。 止められなかった自分も憎いけれど、それ以上に姉が憎い。償ってほしい。一生許せない。母が亡くなってそれだけの感情で過ごしていました。 そんな姉まで居なくなり気持ちのやり場がなくなった気がします。 毎日苦しくて辛くて死んでしまいたくなります。 姉ではなく私を連れていってくれたら良かったのにな。 どうしてよりによってあの人を…と思ってしまいます。 死ぬ勇気もない、生きる力も湧かない私はどうしたらいいんでしょうか。 簡単に死ねるのならいいのに、いざとなると怖くて出来ない。 母の死との向き合い方、大嫌いな憎い姉の死との向き合い方が分かりません。 父と話していた時ふと、父私妹3人でもう死んでしまおうかと思った事もあったと。 それを聞くと、母を守れなかった事で父の笑顔、生きる気力までも奪ってしまったとまた後悔に押しつぶされそうになります。 下手くそな文ですがどうかお願いします。

有り難し有り難し 26
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2023/06/27

生き続ける意味

夫の不倫と離婚がきっかけで希死念慮に憑りつかれている子なし独身の女です。 不倫の発覚から何度も死にたいと思い続けてきましたが、両親や友人を悲しませたくないという一心で何とか生きながらえてきました。 しかし最近は自分のためでなく他人のために生きていることに意味があるのだろうか、と考えることが増えました。 心療内科に通ったり仕事に打ち込んだり、新たな趣味を始め体を動かしてみたり、色々試しましたが特に効果はなし。最近は具体的な死に方や、死ぬ前に必要な手続きのことばかり考えています。 もちろん私が死ねば悲しむ人が大勢いると理解しています。 自死を選ぶ業の深さも分かっているつもりです。 でもそれを上回る希死念慮が日に何度も襲ってきて、そのたびギリギリのところで踏みとどまっています。 ひとまず死ぬ前の身辺整理をしているうちに気持ちが変わるかもしれない、と思い時間稼ぎをしていますが、そろそろ整理も終わってしまいそうです。 自分が望んでいないのに生き続けなければならない理由ってなんなのでしょうか。 周囲が悲しむ・迷惑がかかるから、という理由以外に何かありますか? いつか時間が解決してくれるとしても、それまで耐え続けるのはあまりにも辛いです。

有り難し有り難し 5
回答数回答 2

最後の課題にアドバイスをください

尊敬する大好きな恩師が亡くなって2年。 病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで夢を語っていた恩師。半年後に亡くなりました。この現実を受け入れることは出来ません。人はいつか死ぬと分かっていたし、元々敏感な方でした。でも、病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで恩師は夢を語っていました。なのに3ヶ月後には夢を諦め死に備えて身辺整理。恩師は自ら余命を聞き、身辺整理をし弁護士に遺言の立ち上げを頼みました。そしてもし自分が死んだらあなに貰った手紙を棺に入れるよう息子に頼んでいいかと聞かれました。妊娠中の私は、促進剤を入れる前に恩師に会いに行ってから出産しました。恩師の危ない状況を聞き、2日退院を早め、その足で恩師の元へ行きました。意識が朦朧としていたけど、頷いてくれました。そしてその日に亡くなりました。産後2日目のことで、痛みを抑えながらお葬式へ行き、自分の手で手紙を入れました。それからは子育ての日々。衝撃的な事で、受け入れる時間もなく今日まできました。あんなに夢を語っていた恩師が亡くなったことで、人の死は無条件に突然訪れるものなんだと初めて強く実感しました。普段は忘れているけどいつも死と隣り合わせなんだと。それから生きるのが怖くて、家族を失うのではないかと不安です。だから後悔しないために、常に最悪の状態を考えています。今車が突っ込んできたらこの位置は危ないとか、もしあの看板が落ちてきたら危ないから走ろうとか。父の癌を早期発見したのも私で私が家族の命を守りたいという気持ちに苛まれています。もし家族の誰かが倒れたら誰に119番を頼んでAEDを誰にどこから持ってきてもらうかなど常に頭でシュミレーションしています。それでも人は死ぬのでこの行動が全て結果になるとは思いません。もっと楽しく生きれる人が生まれたらよかったのに。死の恐怖に潰されるくらいなら最初から無でよかったのにと考えてしまいます。でも、恩師とこの世で出会えた事、恩師と過ごした時間は私にとって最高の宝物です。今までもこれからもずっと私の大切なかけがえのない時間です。恩師が亡くなってから悩んだりしても、自己解決できるようになりました。恩師の教えがあるからです。でも恩師が亡くなったことや受け入れられないこと死の恐怖に関しては悩んだままです。きっと恩師の死は私に与えてくれた最後の課題なのです。どうかアドバイスいただけませんか。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2