やっぱり亡くなった人は亡くなればどこにもいなくて、 側で見守っていてくれるというのは、残された人が後追いをしないように、寂しい思いをしないための言葉ですよね。 だって、亡くなった人がこの現実を知るというのは酷だと思うのです。 もし主人がこの現状を見たら、、たぶん怒りと悲しみでもがき苦しむことでしょう。 それとも亡くなればそうした欲はすべてなくなってしまうものということなのでしょうか。 私は、人も植物や虫などと同じで亡くなれば、それで終わりで、魂だって何も残らないと考えてしまいます。 夢の中に出てきてくれても、なぜかいつも亡くなる1日前という設定で私は一人焦るような夢ばかり。 主人がいるのが当たり前で、いないという現実を未だに受け入れられることも出来ずに、それでも日常をこなし、子供たちを育てなくてはならない。 1年たってなんとかやれて来れたと少し自信もついたと思ったのに、最近はどうにもこうにも気持ちが下向きです。今まで自分の悲しみに重い蓋をして過ごしてきてしまったせいか、今になってその蓋が溢れた悲しみで吹き飛ばされそうで、こわいです。 どこかで、主人の今の居場所を肯定したいという気持ちと、ならば自分はこの先どう生きていけばいいのかを知りたいです。 抽象的な文章で、本当に申し訳ありません。 周りの方々には元気でいる姿を見せたくて、こちらでしかお話しできません。私にはありのままの自分が出せるのは、だいぶ努力をして周りに甘えられるようにはなりましたが、今も主人だけなのです。
読んで頂きありがとうございます。 自分が悪いということは承知で質問させて下さい。 私は彼と2年ほどお付き合いしています。 私の彼は私が飲み会に行く事に怒ります。 なので私は飲み会があると嘘をついて行く事があります。 先日それがバレてもう別れる。電話もメールもしないでと言われました。 私は今までにも会社の飲み会に彼に嘘をついて行き、バレて別れると言われたことがあります。その度にもう嘘をつかないからと許して貰いました。 今回は3回目です。 私としては転勤前に会社の同期で集まれる最後のチャンスだったので、嘘をついて行ってしまいましたが、この状況になりやはりやめておけば良かったと後悔しています。 今は彼は着信拒否して電話もメールも一切出来ません。また彼とは遠距離恋愛なのですぐに会うことは出来ません。でも私はまだ彼が大好きなので別れたくないのです。別れるなんて死にたいと思うほどに大好きです。 どうしたら仲直りできるのでしょうか。 助けて下さい。
最近、考えています。 なぜ、何のために、人は生まれ、生きるのか。 教えてください。
こんばんは。私は過去(小学生の頃のころ)沢山の人を傷つけてきました。 陰口や悪口を言ったり暴言を吐いたりなどです。私自身も沢山悪口を言われてきました。その時の悲しみを私は分かっていた筈なのにです。 そしてその悪口や陰口が原因で友人達は離れていきました。その際にやっと自分がとんでもないことをしたのだと気づき、それからは自身の言動に気をつけ思いやりを忘れず生活してきましたが、ふと昔のことを思い出すと罪悪感で潰されそうになります。 「みな試行錯誤であり、それは良い経験であった」「もし昔のことを思い出したら心の中で謝り、今出会っている人たちやこれから出会う人たちを大切にしてあげてください」「神仏やご先祖様に向かって罪の告白、相手への謝罪、今後あのようなな事はしないといった誓いなど懺悔することを日課にする」といったアドバイスをいただいたり他の方向けのご回答を拝見したりして少しでも考え方を改めようと思いましたが、それでも罪悪感で息苦しくなってしまいます。過去が消える訳でもありません。もし今仲良くしてくれている友人達が昔の自分のことを知ったら?昔の自分を知っている人と今の友人が出会って自分の過去のことを知られたら? そのような想像をしてしまい不安で仕方ありません。今でこそ多くの人に「優しいね」と言ってもらえることが多いのですが、昔の自分を思い出し、「本当はそんなことない」と素直に受け止めることができません。 「死」を選ぶことは逃げであり結局は自己満足でしかないことは分かっています。それでも罪悪感でいっぱいになり生きていくのが辛いです。 もう「死」が一番の贖罪ではないかと考えてしまいます。
よろしくお願いいたします。 私は、常に他人からの評価を気にしてしまいます。 いろいろなことにそれは反映されますが、たとえば趣味で描いているイラストです。 自分ではとてもうまくできたと思っているし、実際以前に描いたものよりもずっと出来がいい、というものでも、思うような評価を貰えずに苦しむことが多々あります。自分と同等、もしくはそれ以下(であるように思ってしまいます)の作品が自分のものより評価されている、ということがさらに自分を苦しめます。 自己評価と他者評価とのギャップに苦しんでいる、と言えばいいのでしょうか。 しかし、絵を描くのは楽しく、やめたいとは思いません。 自分は自分、他人は他人、と思えればいいのでしょうが、そう理屈ではわかっていてもできません。 たとえば、自分というものを否定され続けてきたならば、生きていくために、肯定されるために「他者」を取り入れるほかどうしたらよかったと言うのでしょうか。 というのも、私は不美人ですが、小中の頃から勉強も運動も芸術も、そこそこにできたのです。しかし、勉強も運動もできて部活も強く、顔が可愛くて男女問わず人気者の女の子が幼馴染みとして長年隣にいた、という過去が私のこの人格形成に影響しているのではないか、と最近になって思うようにもなりました。 まとまらなくてすみません。 毎日苦しいです。助けてください。
こんばんは、高校生です。 最近、父と、私の死が怖くてたまりません。 現在、両親と離れて生活していますが、たまに私の様子を見に来てくれます。しかし、運転する父は大変忙しい職業柄で、時々目に大きなくまを作ったりしながら車で遠い私の家まで来ます。 「様子見に行こうかな」と言われると、途端に交通事故で死んだらどうしよう、、等考えてしまいます。 私は私のせいで親が死ぬのが嫌なのでしょうか? また、私は暗闇も極端に嫌いになり誰かいるのでは無いか? 物音がしたら、殺される!と、パニックになる事が多々あります。 病気なのでしょうか? よろしくお願いします。
昔から自分で決めることがとても苦手です。 いつも誰かの決定に従って生きていきたい、と思うほど自分で決めることが出来ません。誰かに決められないと、何をすればいいのか分からず非常に不安になります。 高校のころまでは自分で決めなければならない場面が少なかったため、こんな性格でもなんとか過ごせてこれました。けれども最近は自分で決めなければならない場面に多く直面しています。そして周りの子が当たり前に自分で決めているのを見るたびに、自分もああならなくては、と焦っています。そんな風に焦ってはいるものの、結局自分で決めることが出来ず、友人にどうすればいいのだろうと決定を求めてしまっているのですが…。 自分で決められないのは、自分の決定に責任が伴うのを恐れているせいだろうと思います。また、何に対しても「そういう考え方もあるんだなあ」と疑問を持たずに受け止めてしまい、結局何が正しいのだろうかと悩んでしまう性格のせいだろうと思います。 責任を持てないふわふわとした自分に嫌悪感があふれ、このような性格のまま生きていけるのだろうか、と不安を抱える毎日です。どうすれば自分で決めることができる人間になれるのでしょうか。(こうして聞いている時点で人に決定をもとめていますね…笑) 長々と申し訳ありません。つまらない悩みかもしれませんが、何かお言葉を頂ければ嬉しいです。
私は2回ほど質問させていただいています。とても素晴らしい回答でとても嬉しいです。 前へ向いて生きて行こうと思っています。 ですが、マイナス思考に戻ってしまいます。 私の短所はいつもマイナス思考に考えることです。 前までは自分でも言ってしまうほどプラス思考でした。マイナス思考になるまでとても辛いことが続いてしまい、どんどんマイナスになってしまいました。 今では何かがあるといつもマイナスになってしまいます。 こんな自分が嫌いです。前のプラスに戻りたいです。 どうやったら戻りますか? 逆質問になってしまいますが、皆さんならマイナスからプラスにどうやって戻しますか??
無理心中したら一緒に死んだ相手と一緒にいれますか? 一緒にいれない場合はその相手はどこに行って私はどこにいくのでしょうか。 死後の世界を教えてください。
ちょっとした失敗や、恥ずかしいことがあると何日も何日もそのことを気にしてしまい、辛いです。 友人達に言わせたら「そんなことで」というレベルのことでも、くよくよ悩んでしまいます。 どうやったらもっと楽天的になれるでしょうか?
お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。
苦しむこともなく安らかに息を引き取り、お浄土へ修行に出られた我が父のことで少々ご相談致したく。 確かに父は死を迎え、我が家からは表面上姿を消しました。 然しながら何かにつけて見え隠れする父の存在の大きさに息子として見ると詠嘆するばかりです。 「それに比べて我が身のなんという小ささよ」 とふと、自分が卑下の心にとらわれてしまいます。 無論、こんな心にとらわれるのは馬鹿げていて何も生み出さないのですが時折熱病のように我が身を襲うのです。 超えられなかった父の存在、超えるべきであった父の存在。 両者の間で惑う自分がおります。 「僕は父のようになれただろうか?」 「僕は父のようになれないのだろうか?」 「父」という存在が未だ自分を動かしている。という事実が苦しいのです。 如何ともし難い現状ですが、少しでも抜け出せるお言葉をいただけたら幸いでございます。 合掌。