人は、死ぬ間際、どういう心持ちでいたら良いのでしょうか。 死ぬ瞬間。 浄土系の教えでは、弥陀来迎を信じ、弥陀にお任せして、心穏やかに 最後の時を迎える事だと思います。 死の間際、恐怖なく安穏で居る事は並大抵じゃない。 高度な仏教哲学も、「自分が成っていないと」生老病死の苦しみに対する、屁の突っ張りでしかない。 「成った事」すら、無明を前にして、自覚出来ない気がします。 だとしたら、方便でも、心穏やかに最期を迎えられる、浄土系の教えは、在俗の者に有効なのかなと思いました。 学究であり、優れた人格の法然上人の、庶民への優しさかなと思いました。 しかし、究極の真理は、「自浄其意」だと思います。 しかし、禅宗にも一抹の疑問が涌きました。 「六道輪廻は生きる人間の心の有り様。」と、輪廻思想を切り捨てると、 「而今」の真理から言えば正しいですが、施餓鬼等、自身が行っている事も否定してしまう。 正自覚者である釈尊が、見通した世界。インド土着の世界観等々と切り捨ててはいけない気がするんです。 だとすると、死の間際の心の有り様は重要なのではないでしょうか。 人生に一度しか経験しない、最大恐怖の死。 生老病死の最大恐怖。 何かすがるものがなくても、灯明の如く寂滅できるものでしょうか。 お坊様方は、人は死の直前、間際、どのような状態に居るのが理想と思われますか? 何もかも放下して、消え行く中。 どんな気持ちでいるべきなのでしょうか。 最大の疑問です。 どうぞ、ご教示くださいますよう、お願い致します。
人の幸せな生活や、良い暮らしを知ると(snsや人からの噂)とっても羨ましく激しく嫉妬心を抱いてしまいます。私は4人家族の長女に生まれ、ごく一般家庭的で育ちました。親からは毎日愛され、お誕生日や行事などは必ずしてくれて、やりたい事もできる範囲でやらせてくれて本当に愛されて育った自覚があります。 18歳の頃上京し、大学卒業、就職し働く中、27歳の頃母親の癌が見つかり約3年後に亡くなりました。母は51歳でした。 それからは人生に大きな穴が空いた感覚があり、満たされていない気持ちからなのか 他人がとても羨ましく感じるようになりました。母親の死はまだ受け止めてられておらず、未だに墓参りにも行けていません。 母に最後の親孝行として、ウェディングドレス姿を見せたくて、母の病気が分かってから付き合った人と結婚し、ドレス姿を見てを見てもらい、その結婚式が終わるとその日に母は亡くなりました。 母が死ぬという事は、私の中で人生でありえない事が起きるという事を実感し、それ以来は些細なことでも不安になる事が増えました。 (電車に乗ってる時、このまま事故で死ぬかもしれない、とか、飛行機が怖い、とか、お腹が痛くなりこのまま死ぬかも知らないと思うと過呼吸になり、手足が硬直し救急車で運ばれるなど。。。) そして今1番辛いのは、他人を羨む気持ちが激しく、自分が嫌になる事です。 仕事もあり、家も買い、優しい夫が居て(仲良しです)、十分幸せなはずなのに、 自分より良い暮らしや、贅沢な生活を知ると、とても嫉妬してしまい、結婚相手がもっとお金持ちだったら、。とか、、離婚してお金持ちと結婚すれば。。。などと考えてしまう時さえあり、同時に夫にも申し訳なく、悲しい気持ちになります。 母親が亡くなるまでこんな気持ちになった事がなく、本当につらいです。 他人と比べず、自分の幸せを感じながら 丁寧に暮らしていきたいです。 母親の死を受け止めきれていない事も 人の嫉みに関係しているのでしょうか。 母親の死の受け入れ方と、幸せを感じながら生きる為にアドバイスを頂きたいです。 長文失礼しました。 どうぞ宜しくお願いします。
初めまして。長らく辛い日々が続いています。一年半ほど前に片親を亡くし、その後、彼女(婚約者)に別れを告げられました。 その後、ボロボロの心で何かに惹かれるように巡礼に出かけ霊場各地を巡りました。自分の未熟さに気付くとともに大切な人を失くす前から平凡な事が至極の幸せであると思いながら過ごしてきたにも関わらず、それすらも理解し切れていなかったのではないかと思い知りました。 巡礼の途中、京都で事情を知った尼さんから、「辛いことがあっても試されてると思ってしっかり生きて行けば、必ず仏さんは見てくれている」という言葉が心の支えとなっています。 一時は吹っ切れたと思っていましたが、やはり辛いという気持ちに変わりはありません。親を亡くし、事後処理に追われ半年ほどのちに婚約者は僕の元を去りました。恐らく、色々なことにいっぱいいっぱいになっている僕が頼りなく思えたのでしょう。 周りの友人や、同年代の人が結婚したり街でカップル等を見かけると胸をえぐられるように辛いです。 また、亡くなった母に対しても子供として何も恩返しできず、これからもっとしてあげられるはずだったのにと申し訳なさと、なぜ救ってあげられなかったのかという気持ちでいっぱいです。 正直なところ、なぜ周りの人は物事がトントンすすんでいくのになぜ自分は思わぬところでつまずいてしまうのかと辛くなります。 しかし、最後はどこかで必ず自分にも幸せが訪れると信じで日々過ごしております。こんな僕にこれから日々を過ごして行く上でのアドバイスをいただけないでしょうか。よろしくお願いします。
40代を半ばも過ぎ、あちこちにガタがきはじめたようです。 高血圧の内服治療をはじめました。 定期的な経過観察の必要な、いづれ癌化する可能性のあるものを複数抱えています(おかげで、早期発見の可能性が高いのでありがたし)。 平均寿命還暦前後とあまり長生きではない家系なのもあり、死を意識することも増えました。 こうやってあちこちの不具合を通して、自分の老いや死を受け入れる準備を整えていくのでしょうか。 hasunohaのお坊様方は、ご自分の体の変化やご病気をどのような心持で受けれておられるのでしょうか? 胸がざわつくことが多くなり、辛い心地に陥ることもあります。 お坊様方はどのように心の平安を保っておられるのか、教えていただけないでしょうか。
今月頭に、母が急に逝ってしまいました。 あっと言う間に。 私は母の死が信じられず、棺の中の母を見ても実感がわきませんでした。 しかし、日が経つにつれ、なんとも言えない胸ぐるしさと悲しみがこみあげつらくてたまらないのです。 母は、いまどうしているのか、私を許してくれているのか、答えのないことばかり考えています。母の死を天命だと思いたいですが、もっとしてあげれることはなかったのか悔いることばかりです。 母は、浄土真宗を熱心に信心していました。教えにあるように浄土に行っているのでしょうか? 母は、いつもそばにいてくれるのでしょうか。 ほんとうに、つらいです。
今年の4月から自営業をはじめました。 自分には全く合わない職種でしたが、生活のために選びました。 しかし、実際にやってみると体力面でかなり辛く最近は、精神面でもうつのような症状がでてしまい、希死念慮が強く出てきています。 生活のことを考えると辞めるわけにもいかず行き詰まっています。 自死も考えてしまいます。
いつもコメントをくださる皆様ありがとうございます 母の自死からなんとか立ち上がろうと何度もここを頼らせていただいています だけど…限界を感じています 母の死を受け止めようとしましたし、残されたいざこざもなんとかしたい・なんとかしようと思ってきたのですが… 心と体が悲鳴をあげています なんでもない瞬間に涙が出たり、ただただそこにいることがとても恐ろしくなり…例えばベランダから飛び降りそうになってしまうのです それを抑えるのにも大変な労力が要ります たぶんですけど、母もこんな状態で死んでしまったのかもしれないと思いました とても悪い意味で「心が震える」という感じでしょうか… 胸が痛く、苦しく、呼吸もままなりません でも、どこも悪くありません すべてストレスでしょう きっと、私の自然な死はまだまだ それまでこんな心と体の苦しみは続くのでしょうか 残された実家の家族を、私には支えきれない 手を離したい でも、 私が手を離したら…きっと家族の誰かが母の後を追う 福祉に繋げたつもりだったけれど、家族が福祉を拒みました… もうどうしていいかわからない… 私にできることはない… 勝手に手を離しても、「家族」だから いつか私に尻拭いがやってくると思うと… 生きている意味があるのでしょうか ただ苦しいだけです 人間誰しも、楽しいばかりではないです みんな何かを抱えている わかっているのだけど… それを乗り越えられる強い人がいて でも、乗り越えられなくて自ら死を選ぶ人もたくさんたくさんいて 私は後者なのだととても強く感じています 私にはずっと希死念慮があったけど、 それとは違う「限界」を 今まさに感じています できれば家族のためにもここは乗り越えたいです 一時的なものでも構いません 何かアドバイスをいただけないでしょうか… よろしくお願いいたします
一歳半、息子は発達障害(自閉症)です。 毎日、特徴ある行動を目の前でされ、もう限界です。 可愛いとは思うけど愛せていない。旦那も発達障害…わかってたら結婚も出産もしなかった。 リセットしたい。 ママとも言わず、私がいなくても泣かない子ども。 普通でよかった。普通が欲しかった。 生まれたときから家庭環境がよくなく、ずっと暖かい家庭が欲しかった。親戚のお寺に通い毎週お金も時間も使い人のためにと動き、徳積みだからねと言われ頑張った。この徳は私か、私の子どものための貯金のようなものだよと言われ頑張った。 結婚も本当に好きな人じゃない。それにもっと若いときに結婚したかった。 出産も流産経験した。本当は女の子が欲しかった。 子どもに障害があるなら子どもなんて欲しくなかった。 共働きだけど辞めなくてはいけない。辞めても旦那の給料じゃまともに生活できない。 これから一生、発達障害の旦那にお金を頼り、私は子どもと旦那のお世話… 包丁は痛そうで怖かった。首は絞めても自分の手では死ねなかった。 飛び降り?怖いな…痛そうだな… 死にたいのに死ねない。人生不公平すぎて自分が生きるには厳しすぎた。 こころの相談?市の保健センター?誰も真剣にきかない。マニュアル通り 息子と心中なんてできない。障害もたせてごめんね。生きずらい人生をごめんね。 仏さんは、残酷。お寺止めたら助けてくれないんだって。仏さんに沢山捧げて支えた人だけが優先的に助かるんだって言われた。 この障害ある子どもと生きることは考えられない。 なのに死に方がわからない どうか、楽になる方法を…意識が消える方法を教えてください。
尊敬する大好きな恩師が亡くなって2年。 病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで夢を語っていた恩師。半年後に亡くなりました。この現実を受け入れることは出来ません。人はいつか死ぬと分かっていたし、元々敏感な方でした。でも、病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで恩師は夢を語っていました。なのに3ヶ月後には夢を諦め死に備えて身辺整理。恩師は自ら余命を聞き、身辺整理をし弁護士に遺言の立ち上げを頼みました。そしてもし自分が死んだらあなに貰った手紙を棺に入れるよう息子に頼んでいいかと聞かれました。妊娠中の私は、促進剤を入れる前に恩師に会いに行ってから出産しました。恩師の危ない状況を聞き、2日退院を早め、その足で恩師の元へ行きました。意識が朦朧としていたけど、頷いてくれました。そしてその日に亡くなりました。産後2日目のことで、痛みを抑えながらお葬式へ行き、自分の手で手紙を入れました。それからは子育ての日々。衝撃的な事で、受け入れる時間もなく今日まできました。あんなに夢を語っていた恩師が亡くなったことで、人の死は無条件に突然訪れるものなんだと初めて強く実感しました。普段は忘れているけどいつも死と隣り合わせなんだと。それから生きるのが怖くて、家族を失うのではないかと不安です。だから後悔しないために、常に最悪の状態を考えています。今車が突っ込んできたらこの位置は危ないとか、もしあの看板が落ちてきたら危ないから走ろうとか。父の癌を早期発見したのも私で私が家族の命を守りたいという気持ちに苛まれています。もし家族の誰かが倒れたら誰に119番を頼んでAEDを誰にどこから持ってきてもらうかなど常に頭でシュミレーションしています。それでも人は死ぬのでこの行動が全て結果になるとは思いません。もっと楽しく生きれる人が生まれたらよかったのに。死の恐怖に潰されるくらいなら最初から無でよかったのにと考えてしまいます。でも、恩師とこの世で出会えた事、恩師と過ごした時間は私にとって最高の宝物です。今までもこれからもずっと私の大切なかけがえのない時間です。恩師が亡くなってから悩んだりしても、自己解決できるようになりました。恩師の教えがあるからです。でも恩師が亡くなったことや受け入れられないこと死の恐怖に関しては悩んだままです。きっと恩師の死は私に与えてくれた最後の課題なのです。どうかアドバイスいただけませんか。
お世話になっております。 以前より、死の恐怖が強い事について相談している者です。 今回は、坐禅会に行く事以外の方法で、無意識下の死の恐怖と生きていることの気持ち悪さを抑制できる方法があれば教えて頂きたく質問致しました。以下、詳細です。 自分の不安一つ一つに暖かなご回答を頂き、今は「頭でっかちになりすぎず、坐禅会などを通して身体で仏道を学ぶ」ことを教えて頂き、実践したいと思っていました。 しかし、多忙のあまり、一度も坐禅会に行くことができていません。また今後も、先1〜2ヶ月ほど予定が詰まっています。 にもかかわらず、死の恐怖がまた、日に日に強くなっています。特に睡眠後一時間程度で、本当に急に「私は私の身体から逃げられないのだ、いつか死ぬ、死んだらどうなるか分からな、死ぬ現実から逃れられない」と思い出し、自分の叫び声で目が覚めます。夢現のせいで、意識的に考えないようにすることができないため、本当に毎日起こり、それが怖くて眠れなくなり…の悪循環です。これが2〜3ヶ月続いていて、心身ともに参っています。 空き時間に、お薦めしていただいた本を読んだりyoutubeを見たりはしていますが、それを観ている時は少しだけ心が落ち着くのですが、夢現の時の恐怖は抑制できません。お念仏も同様です。また、お念仏の動画を流しながら寝れていた時期もあったのですが、最近はお念仏が切れるとむしろ起きてしまうようになったため、こちらも上手くいきません。 毎日死の恐怖を嫌でも思い出すので、昼間も、自分の手が一人称視点でしか見れない事にふと気がついて、いつか消滅する身体や、死そのもの、それに伴う記憶の消失を強く自覚し、生きているのが気持ち悪く、恐怖で叫ぶ…といった具合に、「生きている事」も肯定できないのです。だから、生きているだけでつらいです。 前置きが長くなり申し訳ございません。 上記したような状況から、少なくともあと1〜2ヶ月ほど、適切な坐禅会などに参加できない中で、「睡眠時の無意識下の恐怖」と「昼間の生きている事の気持ち悪さと恐怖」を少なくする方法について、アドバイスを頂きたいです。 お時間ある時で構いませんので、ご回答頂けますと幸いです。よろしくお願い致します。
お世話になります。 こちらで沢山の質問、相談を自分におきかえて、自分と似たような思いをされてる方など、読ませていただいてます。 よく見るのが、亡くなったら、仏教は、みな同じ、自死になろうが、悪いことをしてた人生であろうが、皆同じ、お釈迦様がお浄土へと導いてくださる。 しかし、別の見方では、自死はずっと同じ事をしてあの世で苦しむ… 自死の行為を何度も繰り返して苦しむとか… 地獄行きなど、針の山などある、などなど…あると聞きます… また、ご先祖様は、修行を積み重ねられ、上の方に行かれているとか… 主人がどういう場所で、どんな修行をしているのか… また上の方に行かれたご先祖さまと同じ場所におれてるのか。 考える日々です…
離婚していた妹が昨年、自殺しました。うつ病だった妹ですがそのワガママとお金使いの荒さには辟易していましたが、死の間際に怒ってしまったことの後悔や、ショックが不意に一人になると押し寄せます。小学4年の甥っ子は首を吊った妹の第一発見者です。彼の事を思うととても胸が痛みますが、たまに来る新築のローンを父に押し付けて離婚した元旦那が許せません。甥っ子のために友人にも妹の事を知らせられずに辛いです。妹の死に対する悲しみと同時に無責任さにやり切れない怒りも湧きます。どうしたらこの痛みと憎しみから抜け出せるのでしょうか。
高3男子です。ここ1、2週間の話ですが、急に死の恐怖に苛まれるようになりました。「まだ高校生の分際で…」と自分でも思います。しかし、このような状況になってから何事もあまり楽しく感じられません。授業や受験勉 強も手につかずに、今はYouTubeを沢山見て気分を上げようとしていますが、どうも一時的です。不変の心理なのは分かっています。それでも今までのように楽しく生きたいです。同じ症状を克服された方や、何か治す方法をお願いします。本当に世界の見え方が歪んでしまい、困っています。
私は昔から予知夢を見ます。 どうにも霊感?直感が強いみたいです。 小学生の頃に自分が交通事故に遭う夢を見て、現実になり、中学生の頃に祖父が亡くなる夢を見て、現実に亡くなりました。 友人が病気になる夢も現実になりました。 良い夢では友人の結婚の予知夢です。 そして今苦しんでいるのは、 今年の初めに母が家を出て行く夢を見ました。 もう二度と会えなくなる夢でした。 そして今現在、母はうつが重症化してしまい、入院と診断されてしまいました。私が夢を見たのにも関わらず、うつになっていたことに早く気づけなかったからです。 予知夢を回避することが出来ませんでした。夢を見ても、祖父が死ぬなんて思っていなかったから、祖父の死は避けられなかったし、母の入院も回避できませんでした。 何のために予知夢を見るのでしょうか?嫌な予知夢は、現実にならないために見るものですよね? 回避できないならば見る必要など無いと思います。 私は何のために祖父の死を知ったのでしょうか? なぜ母に会えなくなる夢を見たのでしょうか? こんな能力何のためにあるのでしょうか。
私の生き甲斐だった娘が突然死で亡くなりました。 まだ17才でした。 娘に会いたくて会いたくて仕方ありません。 時々夢に出てきてくれます。そんなときはこのまま一生眠っていたいといつも思います。 私が死んだ時 娘に会えるのでしょうか
先日は、質問にご回答頂きありがとうございました。 再び、質問させて頂きます。 自分はこれまでに、何度か身近な人を自死で亡くしました。 その度に、自死したことを後悔してほしいという思いが湧いて、かき消すことができずに過ごしていました。 それは生きているもののエゴであり、本来なら成仏を願いながら供養すべきだと分かっています。 自分自身の思いとどう向き合えばよいでしょうか?
高校二年生です。 質問のカテゴリが少しズレているかもしれません、すみません。 相談というよりも、誰かに分かってほしいという思いの投稿です。 突然ですが、私たちは各々『自我』をもって、それぞれ自分の見る世界があって、色々なことを考えたり感じながら生活しています。よね。 自分以外の人がもつ自我を『他我』と呼びますが、私はこれがすごくこわいです。 うまく説明ができません。 友達に理解してもらうこともできませんでした。 ネットで調べてもそれらしい答えは見つかりませんでした。 例えの1つなのですが、 ごくたまに、一緒に生活している親のことを、『他人』と認識してしまうことがあります。 「あ、この人も私と同じ時間で別の人生を生きている1人の人間で、」 「私から見た『親』は親には分からない、そして同じように 今このとき、親から見た『私』がたしかに存在しているんだ」 そう思って、親のことを何か得体の知れない生き物のように、生々しいものに感じて怖くなってしまいます。 何を言っているかわからない自覚はあります。 私は、私のまわりのひと全部、なにかRPGのキャラクターのように認識しているのかもしれません。 それぞれにそれぞれの意識や感情や人生があることが、こわいんです。 自分でも、どうしてこんなに心の中で他人のことを怖がってしまうのか分かりません。 死んだ後の世界や自分の行く末がわからないことが怖いように、人の意識や心なんて絶対にわからないことだから、それが怖いのでしょうか。 どちらにせよ私は私のことを寂しい人間だと思っています。
どの扉を叩いても、押しても引いても、うんともすんとも言わない時。 何もやっても集中出来ない時、上手くいかないと感じる時。 達成感のかけらもなく、生き甲斐もなく、夢も希望もありません、な時。 または、そんな人生。 そういう場合、焦らず倦まず「待つ」ことが大切だと様々な場所で見聞きしました。世間のいろんな人がそれについて語っていますが、他のご意見も聞いてみたくて質問しました。 宜しくお願いいたします。
こんにちは。 私はうつ病とPTSDと診断されていて通院しています。 阪神淡路大震災で祖母の家が倒壊したり知人がたくさん亡くなった事が原因のようです。 しばらくは大丈夫だったのですが東日本大震災があって当時の事が色々フラッシュバックしてきて死への恐怖心が強くなりました。 両親も祖母も段々と年をとってきて毎日毎日不安で仕方がありません。両親や祖母が亡くなったらどうしよう。生きていける自信が持てない。って事ばかり考えてしまいます。知人に相談したらいつかはそういう時がくるんだから割り切って考えた方がいいと言われたんですが割り切る事ができません。怖くて怖くて仕方がありません。死に対して向き合う事ができません。どのように考えればいいのでしょうか?この不安は取り除けるのでしょうか?
主人が自死で亡くなってしまい、約半年…。 未だに、主人の歯ブラシやら、髭剃り、洋服、帽子、靴など、そのままにしています。押入れの物は書類などがあり、片付けたりしましたが。 なかなか、まだ死を受け入れる事が出来ておらず、未だ、仏壇の前には座る事が出来ず、手も合わせていません。合わせれない自分がいます… たまーに、死臭?というのか、遺骨の匂いなのか、一瞬、匂いがする事があるんです。タバコの匂いでもなく、お花の匂いでもなく… ん?と思って、また意識すると、その匂いはありません。 これは、主人が会いに、側に来てるのでしょうか? 何かしら、感じるものがあるという事は、やはり後悔だらけで、まだ成仏できてないという事でしょうか? 未だ、遺骨は家にそのまま。 主人がなぜ自死をしてしまったのか…など、家族揃って話す事も。 主人の物も、まだ整理しておらず、、 こんなんでは、なかなか、成仏できないんでしょうか? たまに、する一瞬のにおいは、魂でしょうか?