障害のある私の生きる価値?
私は障碍者です。今はやりの「発達障害」なかでも「アスペルガー」という障害です。
これは先天性の障害で、治りません。薬などで抑えることもできません。
障害の内容としては、「言語障害のない自閉症」と説明するのが一番正確です。人間とコミュニケーションをとることができません。興味の対象も限定されており、予測のつかないことが苦手で、日常の行動などには一定のルールがあり、そこから外れたことが起きると極度に不安になります。
これは、先天的に脳の構造が健常者とは違うせいで、気の持ちようなどでどうにかなるものではありません。
ですが、このような障害をかかえているので、どんな仕事も健常者と比べてずっと低いレベルでしかすることができません。例えば、先の読めないことが苦手なので、電話の応対ができませんし、人との話ができませんので、営業職なども付けません。
今は、公務員の障碍者採用に潜り込み、仕事自体は続けられていますが、やっている内容は掃除機をかけるだけ、一日八時間の労働時間のうち、私の仕事は十五分で終わってしまい、残りの七時間四十五分は何もすることがなく、ただ座っているだけです
私が健常者のようにきちんと働けないのが悪いので、人に文句を言いたいとは思いません。ただ、何をしても明らかに人より劣り、障碍者保護の法律のおかげで、お情けのような扱いを受けている、また、そのお情けを受けなくては生きていかれない自分が、ひたすら悔しく、情けなくてたまりません。
何をしても、人より劣り、健常者の蔑み交じりのお情けにすがらなくてはまともに生きてもいけない障碍者である私など、生きている価値はないのではないか、といつも思っています。特に、仕事に行った後では、毎回ひどく落ち込みます(ちなみに、うつ病ではありません)今は、高齢の父と、猫と一緒に暮らしていますが、二人がいなくなったら、私も一緒にこの世から脱出しようと思っています。
私はこれは一種の「尊厳死」だと思っています。キリスト教では、自殺はどんな理由でも絶対に許されない、と聞きましたが、仏教ではこのようなみじめな生を終わらせることをどう判断するのか、そこもうかがいたいと思いました
有り難し 25
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