子孫繁栄に何故快楽を伴わせたのでしょう。そんなことをするから目的が子孫繁栄ではなくなる男性が増えたのではないか、何故、快楽等と言うものをお与えになったのでしょう。
最近、初めてのアルバイトを始めました。 ですが、仕事内容と覚えなければならないことの量の多さに初出勤から怖じ気づいてしまいました。長く続ける自信も無くしてしまいました。 慣れれば大丈夫と友人や家族に言われましたが、神経質で緊張しやすく物覚えの悪い私はそう簡単にその励ましを受け入れられませんでした。 他にも家族からは、アルバイトでそんなことを言っていたらこの先就職なんてできないと言われました。本当にその通りだと思います。自分は甘えていると思います。こんな自分が恥ずかしいし、情けないです。 最近そんなことばかり考えていて、こんな自分に何ができるのだろうか、生きていても社会のためになるのだろうか、生きていてもどうしようもないのではと考えてしまうこともあります。 とにかく、失敗が怖いです。それに伴って怒られたりすることも…。 失敗しないことはないとわかっていても、したくないです。 私はどう考えたらいいのでしょうか… 文がまぜこぜで申し訳ありません。
以前子育てで後悔していると相談した者です。過去にこだわって現在を見ていない、とお教えいただきました。 これから何ができるか前向きに行動するためにも、今そこにいる子供たちをそのまま見て受け止められるようになりたいと思ってます。 ですが未だに後悔や不安にかられる癖が直りません。 どうすればこの凝り固まった後悔の念を手放すことができますか? すぐになくす事はできなくても、現在やこれからを考えるために自分の中でどう割り切ればいいのか、お教えいただけますか。 今できる事に集中したいので、過去は過去として現在と分けて考えたり感じられるようになりたいのです。 わかりにくい文で申し訳ありません。
どうしても霊が見えるようになりたいです。 見えるようにならないといけないんです… 何かが起こる気がして… 方法はないですか? 気配を感じたり、目線を感じたり、少しオーラが見えたり、予知夢を見たり勘が鋭いくらいです。
他人に何か言われるとすぐに心が折れてしまいます。 他人に無理だと言われたらもう何もかもやる気が起きなくなります。 先日志望校を決めたところ、そんなところに行けない、君の将来は見えてる、悪い方向にしか行かないと言われ何もかもやる気がなくなってしまいました。 相談しても弱すぎそんなんでショック受けんなと言われます。 私って弱いんですか?これってダメなことなんですか?
これから起きる事に冷静に対処していける心構えと智慧を知りたいです
私の地元に全国的に有名なお寺があるのですが、そこのお坊さんが超高級車であるフェラーリやマクラーレンを長年所有していると知りました。最近は中古価格が1億円を超えることもあるマクラーレンを所有しているそうです。親に聞いて見たところ、昔から地元では有名だったそうです。 私の中でお坊さんと言えば質素な生活をするのが当たり前?だと思っていたので大変驚きました。超高級車を乗り回すなんて煩悩の塊ではないかと思うのですが、お坊さんが超高級車を所有することは仏教の教えやお坊さん達にとって問題のない事なのでしょうか?
最近、「自分ができないことをできる人への嫉妬」を感じてしまうことがあります。 たとえばピアノについてです。 私は子どもの頃に「ピアノを習いたい」と親に伝えましたが、経済的な理由で諦めざるを得ませんでした。 そのため、大人になるまでずっと「ピアノは仕方なくできなかったもの」と自分の中で整理してきました。 ところが、同期の一人が同じような理由で子どもの頃にピアノを習えなかったにもかかわらず、社会人になってから自分でレッスンに通い始めたと知りました。 そのとき、「私がピアノをできない理由は、昔の環境だけではなく、自分自身の熱意が足りなかっただけなのかもしれない」と気づき、モヤモヤした気持ちが湧き上がってきました。 かと言って、今からお金と時間を使ってピアノに打ち込みたいという熱意もありません。現時点で英会話、ジムに通っており、習い事を増やす時間が無いのも大きな理由ではありますが、それすら自分への言い訳なんだろうなと思います。 2週に1度くらいの頻度であれば何とか通えるんだろうなと思うので、本当にピアノがしたいのであれば通えるはずだからです。 自分ができなかったことを行動して叶えている人を見ると、どうしても嫉妬や劣等感を抱いてしまいます。 この気持ちとどのように向き合えばよいのか、アドバイスをいただけたら嬉しいです。
NHKでみたのですが、永平寺での修行はとても大変そうですね 修行していた方、どうでしたか? 並の人ではとても耐えられないような修行ですがどのような気持ちで修行していたのですか?
これまでどれだけお金、時間、手間をかけて、努力してきましたが全て徒労に終わりました。 どれだけ頑張っても相手に選ばれないのです。 もうどうしたら良いか分かりません。 美容師、恋愛テクニックの業者、生成ai数多に相談しても全部だめでした。 一時は死をも考えましたが、今まで振ってきた女どもをいつか見返してやり捨てにしてやるという想いを持って泥水をすすりながら必死に生きながらえております。 でも何をやっても上手くいかないからそろそろ限界なのであります。
こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。
こんにちは。 私は、命が怖いです。人は簡単に死ねるからです。屋上から飛び降りたり、線路に飛び込むことで。 私はそんなあやうく、儚い命が怖いです。なぜ、私たちは死ぬのにそのような命を今生きているのでしょうか?死のうと思えばいつでも死ねる、なのに何故皆生きているのか、と思います。 そして、そんなことを考えているとふと、ここから落ちたらどうなるんだろうなどという想像をしてしまいます。私はそんな自分もとても怖いです。 死にたいわけではないのですが、自分が突発的に自殺したらどうしよう、と…。 しかし世の中には生きたくても生きられなかった方もいます。それに、私の命は親から頂いた大切なものです。だから、こんなことを考えるのはいけない、そう思います。 ですがだめとおもってもその想像は私の頭から離れません。怖いし、苦しいです。 どうすればこの考えから抜け出せるのでしょうか…。私の考えはおかしいのでしょうか? 又、冒頭の繰り返しになりますが、なぜ生きているのでしょうか。命とは何なのでしょうか? まとまりのない文章で申し訳ないですが、教えていただきたいです。よろしくお願い致します。
こんにちは。浄土真宗を学んでいる者です。僕はこれまで阿頼耶識というのは無意識のことだと理解していましたが、どうやら無意識は「意識」のカテゴリーに入るみたいですね。では魂なのかと考えましたが、魂は我の絶対化なので諸法無我という考えに反しています。そこで、ある本を見つけ阿頼耶識というものは「業を保管する意識だ」という記述を見つけました。しかも、業というのは永遠不滅だということですが、一体どういうことなんでしょう?魂と何が違うのか分かりません。永遠不滅というのも、諸法無我の法則に反してはいないのでしょうか?どなたかとても分かりやすく解説お願い致します。
大忍貫道 様 ご回答を有難うございます。 追記を見落としまして失礼しました。 私は初期経典は全く知らず、大乗経典の一部だけの知識しかありません。 般若経に勝る初期経典とはどんな内容の経典でしょうか? 大変興味深いです。
新しい年が始まりました。hasunohaに、おられるお寺様方にも。今年もたくさんの幸せがありますように。 よろしくお願いします。 私の友人は、とても精神状態が悪く、死にたい。頻繁に口にします。 死んではならない理由。 どうして死んではならないのかを、上手く説明する事ができませんでした。 私も一番うつ病が酷かった時は、同じように毎日死ぬ事ばかりを考えてきました。 今でも咄嗟に消えてしまいたい。と思う事が、あるのも正直、事実ではあります。 でも、自分を作り上げている、数えられない程の細胞の一つ一つ。日々全身を巡る血も。 地球に、人の小さなはじまりが発生した時から、今日の自分が、お腹に宿り、細胞分裂、生まれて、大人になった、今まで。 人になるものの発生からスタートして、今の自分まで、たくさんの、生死生死を繰り返し、自分まで繋がった。物凄く怖い程に深く壮大な歴史。意識はしないけれど、本当ならば、物凄い事なんですよね。 自分の体をつくる全ての細胞の一つ一つに、数えられない位前から繋がってきたご先祖様たちの、数えられない人数の血が、自分にも入ってるんだと思うように最近なりました。 自分一人の体で生きている気はするけれど、全ての細胞一つ一つにに、全てのご先祖様が宿っていると思えています。 友人にもそのように伝えました。 お寺様方は、自殺がダメな理由、死んではならない理由。 どう考えますか?どう思われますか? 苦しむ友人に、どうしたら、伝えられるでしょうか? そして、時々、間違ってしまいそうになる私に。 命をどう伝えてくださいますか?
おはようございます。質問に戻ってきてしまいました。余裕のある時に、よかったら教えてください。 智慧の意味を人に訊かれてとっさに自分なりに理解している範囲で説明してしまったのですが、あれでよかったのか気になって、ここで確認させていただきたいと思いました。 「智慧とは、自分の主観を介さずに物事をありのままに見ること。事実をそのまま捉える心の目を持つことであって、頭が良いという意味で知恵があると呼ばれるのとは違う」。 これでいいでしょうか。違っていたら人にごめんねと言って直せばいいだけのことなのですが、本を読んだりしてきてもう全くの「初心者」という程ではないので間違えていたら私は少し恥ずかしいです。
私は元々、心許せる友人と少人数で集まるとか、一人で読書等をする方が好きな方で、人の私生活に深く立ち入るのも、自分の私生活に立ち入られるのもあまり好まない所があります。 それでも、少なければ少ないなりに仲のいい友達はいていい関係だったと思いますし、夫、舅姑とも円満にやっていました。 しかし、年を重ね、友人とも物理的に離れたり、お互いの生活が違ってくると交流もままならず、話も弾みにくくなるので疎遠になる事も多くあります。女子会などが好きな方ではないので、なかなか新しい友達もできにくく、寂しさを感じています。無理して同調するのも疲れる気がしますし、つるむだけの友達ではなく、もっと深い部分で親しくなりたいと思っています。 今のところ、健康には不安がなく、生活の心配もありません。 結婚十年以上になりますが、夫、姑との関係も良好です。しかし、近くにいる友達らしい友達は1人か2人だけになりました。 もっと大変な悩みを抱えている人からしたら贅沢な悩みになるのかもしれませんが、子供もいないのでいつか一人になるような気がして不安になる事が時々あります。もっと明るく前向きに生活するにはどのように考えたらいいのでしょうか。助言を頂けたらと思います。
昨日や一時間前、一週間前が一瞬に感じる様に そう言ってる間に10代20代は終わって やがていい歳になっていく 答えがない死後について頭を悩ませて 金や権力の道具にされた宗教が みんなに馴染んで ちっぽけなこの先の安定を求める 蠅や犬と変わらない生物の分際で ごく当たり前の様に驕り高ぶって 人が人を裁く 真理が聞きたいです 教えてください この様な事をどう受け止めどう生きるのか 仏陀の様に真理を知りたいです 本当の仏教で教えて欲しいです
私は現在主人と息子(3か月)の3人暮らしです。 初めての子育てで、わからない事ばかりで毎日奮闘しています。 私の幼い頃の家庭での思い出は辛い事ばかりでした。父親は定職につかず家でお酒を飲んで気に入らない事があると私に暴力を振るいました。 母には暴力をふるわなかったのですが、そんな父に怯え助けてくれず知らないふりをされていました。 私は両親に気に入ってもらおうと必死で何をされても笑顔で素直な自分を演技して生きてきました。 いつの間にか自分自身の事がわからなくなってしまい、突然不安におそわれたり、感情がシャットアウトしてしまいます。 そのためか、主人や子供との接し方がわからず混乱します。 今までは我慢や演技で乗り越えてこれたのに、子供が産まれてから何かがか変わったようで、 感情に抑えがきかず不安定です。 主人の優しさの受けとめかたがわからず傷つける事をしてしまいます。自分が嫌になります。 本当は幸せで暖かい家庭を築きたい気持ちは人一倍あるのに空回りしています。 家族や家庭の意味がもうわからない状態です。
不寛容な社会だともがいていたら、自分の中にも差別感があることに気付き、「自他不二」という世界の観方を探究したく仏教に興味を持っている一般人です。 仏教において、「空」や「仏性」ということが大切であることを知りました。それは思考や感情に囚われない普遍的な「全体性」ともいうべきもの(こと?)であり、全てのものは「自性」を持たないということかと思うのですが、そうすると私達の「意識」にも「自性」はなく、「自己選択をしているようで、実は選択していない」ということになるのでしょうか?そして、我々は様々な関係性の中で「刺激」に対する「反応」としてのみ「行動」しており、そこに「自己選択」などというものはないということになるのでしょうか? 教えて頂けると助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。