お金にだらしない兄のことで相談させてください。 兄は子供がひとりいるのですが、離婚して実家に一人で住んでいます。 私たちの両親はなくなっています。 兄は仕事はしていますが、40過ぎてお金には非常にだらしないのが悩みです。 しかも口数が少なくおとなしく、話をしないため、何を考えているか分からない人間でもあります。 何年も前から借金があるようなのですが、なぜそのような借金があるのか、 借りるのであればどういう返済予定なのかを説明もせず、私に金の無心をしてきます。 兄の子供、私にとっての姪を思うと黙っていられなくて 私の方から貸すそぶりをみせてしまうことも多々あったのですが、 私の好意もわかってもらえず、 しばらくは毎月決まった日にちに入金があったのですが、 ぱったりと入金が途絶えてメールしても返信すらありません。 自殺でもしているんじゃないかと思って 近くに住んでいる親戚に見に行ってもらったりすると、 ただたんにお金がなかったとか言うだけ。謝りもしません。 私はかなり離れたところにすんでいるため、簡単には行くこともできません。 総額で500万円くらい貸しています。 以前は私も仕事をしていてお金があったのでそういうこともできましたが、 今は専業主婦のため、これ以上は無理です。 それにもうこういうことにうんざりです。 法的には縁を切るのはできないのはわかっているので疎遠になるのが一番なんでしょうが、 実の兄妹という事実と、私の姪のことを思うと薄情に思って辛い気持ちになってしまいます。 ただ、精神的にもまいってしまうので、そうも言っていられないところもあります。 主人には話していません。 私は私の主人と子供との幸せな生活を守って行きたいです。 良き言葉を頂けますと幸いです。
3年位前に、お坊様がTVで『とらわれない心が大事』と話されてるのを観てから、ずっと気になっていることがあります。 『とらわれない心』というのは、自分の欲や我を手放して、人と争わずおだやかに生きること、ではないかと私なりに受け止めました。 でもそれで、『私はこうしたい、こうなりたい』という目標があって、人と意見がちがったら、『私はこうしたい』と言うのは『とらわれている』のでしょうか? 意見がちがうときは自分か相手が譲るか、全く別の案を見つけるかだと思うのですが、いつも自分が譲るスタンスなら私はその人のいいなりになってしまいそうです。 自分の欲というのは望みであり、自分のあかしでもあると思います。 その欲=望みがなるべく汚いものではなく、きれいなものであるように願っていますが、他人から見たら『我』でしかないのでしょうか? とらわれない=思い通りになるようコントロールしない、ということだとしたら、将来に期待はしないでただのぬけがらになってしまわないか疑問です。 私も未熟ながら、人にやさしくありたいと願っています。相手にとって安らげる存在になりたいです。自分と相手をともに大切にして、なおかつ『とらわれない』境地って私にはまだわかりません。 どうか、私に道を説いてくださいますよう、お願い申し上げます。
以前にも毎日のお勤めという事でお世話になりました。その節はありがとうございました。 あれから、毎日の生活ペースは父が亡くなる前に戻りつつあります。母の悲しみの表し方も私の受容範囲です。 でも・・・何故か私の心が 日を追うごとに不安定になるのです。 母の前や、妹、私の子どもには決して涙も感情も見せないようにしています。 でも・・・1人の時や、例えば仕事中に父の亡くなる前の日付の書類を見るだけで、涙が溢れてきます。 父とは複雑な関係だったので、余計にあれこれ考えてしまいます。 もっと話がしたかった・・・・・とか、私に言いたいことはない?とか 今どこにいるの? あちらの世界って本当にあるの?とか 誰にも言えないんです。私が頑張らなきゃいけないとついつい思ってしまうから。 泣き言・・・・・言えないんです。 私はどう気持ちを整えていけばいいでしょうか?
どうしても意味・ユーモア感覚が分からないので、ここでお坊さんに直接質問をさせて頂きます。 いま私は、とある掛け軸について研究をしています。ですが、私は仏教の世界を深く知るようになったのは、つい最近になってからであり、そのせいで仏教世界のユーモアが分かりません。 研究している掛け軸には、掛け軸の下の方に、『十六羅漢のうち十人が水が足首らへんまでしか来ていない海(若しくは川)の浅瀬を渡って、上の方を見上げている』描写があり、左上の方に、『龍頭観音と思われる龍が一匹と、龍の口らへんに、モワモワした煙と共に、お花のような(?)ものを手に持っている着物を着た女性が一人立っている』描写があります。更に、この空の方へ登っている龍には、十六羅漢のうち六人が乗っており、そのうちの一人が釣り糸みたいなもので蛸を海から釣っています。 十六羅漢が川ではなく、海を渡っているのは、蛸が海にしか生息していないからという理由で、海だと推測しました。 この絵には漢詩が付いているのですが、以下のようなものです: 是秋釈子袿第響 無転十六蛸入道 為老先生博祭無事居楽 遊印には→星洲晩漁 と書いてあるはずなのですが(あまりきちんと読めませんでした)、漢詩の意味は全て分かりませんが、ここには蛸入道としっかり書いてあります。 以上のことから、私は、蛸とお坊さんの頭を掛け合わせて、笑いを取るような絵だと見受けました。 が、私の感性では、釈迦の弟子たちで笑いを取るという感覚が全く分からないのですが、ひと昔の日本では(明治・大正あたり)、このようなことはよく起こり得たのでしょうか?またこのような、ブラックユーモア的な掛け軸は、よくあったのですか? ちなみに、私の推測はあっていますでしょうか?(蛸とお坊さんの頭を掛け合わせることで、笑いをとるという感覚) 若しくは、他に何か意味があるのでしょうか? 漢詩の意味も分かりませんが、このセンスが本当に意味が分からなくて、大変困っております。どなたか詳しく説明して頂けますと幸いです。 掛け軸の絵を写真で添付できないので、絵そのもののイメージがし辛いと思いますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ちなみに、この掛け軸は、近代に描かれました。
離婚を機に 落ち込んでいたり 将来の不安になっていたんですが、朝の説法という番組で救われて 仏教に興味を持ち出しまして一年 坐禅やったり 護摩滝行やったり 読経したり 写経したり と毎週 どこかの寺院にいっては色々とやっているんです。ただ ここで少し疑問におもったんですが、滝や護摩は真言宗 坐禅は曹洞宗 臨済宗と 宗派も違えば お寺も7つぐらいを グルグルまわっているんです。(私の地元の青梅は古い寺院がとっても多いんです) 多分 私は仏教が好きでお寺が好き 尚且つ好奇心旺盛で一つに決められないんです。ただこの一年 振り返ってみて荒行やったり色々とあったが 果たして私は どこと深く付き合ってきたんだろうか?どの宗派の教えが自分のあったものか?などなど 色々と自分自身に疑問をもちました。みなさん宗派を決めたりした理由はなんでしょうか?私はミーハーなんで 空海って映画 禅って映画で この二つの宗派を特に力いれてます。あとこんなにあっちこっち行きまくっている人を住職はよくおもわないですよね?なにもいってこないんですけど
麻酔科医の主な仕事は、「体の痛み」を取り除くこと。 お坊さまの主な仕事は、「心の痛み」を取り除くこと。 患者様に寄り添う仕事。 救いを求める人たちに寄り添う仕事。 ほぼ同じようなもの。 もし互いに協力し合えれば、もっとたくさんの人たちを救うことが出来るのではないでしょうか? でも、何だか今、非常に高い「壁」を感じています。 「どちらかだけの世界」として存在しているように感じています。 私は、そんな「偏った世界」や「無意味な壁」を取り除きたい。 「誰でもいらっしゃい!」と人を招いておきながら、互いの中に「分け隔てる壁」を持ってしまっているのではないでしょうか? 窮屈です。 息苦しいです。 全然、開放的ではない。 閉鎖的です。 この「壁」は、これからもずっとずーっと無くならないものなのでしょうか? それだと、せっかくの「ビハーラ活動」もなかなか広まらないのではないでしょうか? こっちはこっち、あっちはあっち。 そんな状態、良いとは思えません。 これは「喜怒哀楽」で言うならば、私にとって「怒」ではなく「哀」です。 このままだと、ここに私のいる意味など無くなってしまいそうです。 助け合いの精神とは…? 「助けたい」 これも「欲」の「煩悩」なのでしょうか? ここhasunohaに来て1か月が経ちました。 去るべきかどうか迷っています。 hasunohaは、とても心地よく素晴らしい場所です。 しかし、何だか… うまく言葉に出来ませんが… 迷っています… 消えた方がラクなのでしょうか…
こんにちは。 迷った時にいつでもこのサイトに訪れています。 私は少し前に般若心経の現代語訳に触れ、そこから仏教が大好きになりました。 今までも嫌いだった訳ではなかったのですが、宗教自体が自分とはあまり関係の無いものだと思っていました。 さて、そんな私もいろいろ調べていくうちに、他の今苦しんでいる誰かにも、仏教の事を話してみたくなったのです。 ですが実際話してみると、そんな事が出来てたら苦労しないよ、とか、そんな事で納得出来るほど私は素直になれないわ!とか、受け入れてもらえない意見もちらほらありました。 (もちろん、仏教の素晴らしさを理解してもらえた方も多かったのですが。) 全ての人を納得させたかった訳ではありませんが、やはり私が話すからには私的見解が入る為か、思っていたより上手く伝わらないのだと知りました。 そこで質問です! お坊さん方は、普段説法や法話をされる時に、より沢山の方に理解してもらう為に、どんな事を心掛けておられますか? 厳しいアドバイス、面白い実体験など、回答いただけると嬉しいです。 お忙しい事とは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
おはようございます 他のお坊さんの御回答を意識されますか? また、既にお礼が書かれてある質問にはご回答しづらいと感じられますか? 2つ目の質問は、以前お礼があることを気にされているお坊さんがいらしたので、質問させて頂きました よろしくお願いいたします
半年ほど前からお寺で受付をしています。 不思議な縁で主人がお坊さんになり、そこのお寺が人手不足になり、お役にたてればと思い働かせて頂くことにしました。 ところが、元々信仰心がそれほど無い事もあり、信者さんとの温度差に罪悪感が生まれてきました。 夫婦で働いている為、我が家の生活が信者さんの支えのみで賄われていることが、有り難くもあり、申し訳なく思います。 熱心になれれば一番良いのですが、心を変えることはなかなか難しいのです。 はやり、信仰心の薄い私がお手伝いするというのは浅はかだったのでしょうか?
私は脳脊髄液減少症という病気で、いろんな症状に悩まされ不安な毎日をおくっております。 私が未熟なのでしょうが、周りが羨ましいです。 健康な体があるだけでも、もっと感謝すればいいのにと思います。 友達と会っても、彼氏のあんなとこが悪い。もっといいものが食べたい。など、なんかイライラします。 私も健康体だったら、そうだったかもしれませんが、、 「人は人」と気にしないようにはしてますが、なんかイライラします。 私の周りには大変な人がたくさんいるので、その人達の事も思うと、周りの言動になんか腹がたちます。 みんなわがままに見えてきます。 自分の気持ちが濁ってる感じがしていけないと思ってます。 せっかく病気という修行をさせてもらっているのに。 お坊さんのような穏やかな気持ちになりたいです。 周りにイライラすることなく、穏やかな気持ちなるにはどうしたらいいですか、、、。
こんばんは。最近仏教の勉強を始めて、初めての仏教本を読んでいます。お暇な時に、よかったら教えてください。 ハスノハのお坊様のお話から学ばせていただくうちに仏教は実践重視なのだと何となくわかってきましたが、それでも苦しい時お釈迦様や観音様にお祈りすることもあるだろうと曖昧に考えていました。それが、仏教は神のない宗教と本に書かれていて、私動揺しています。 どうにもならないこともあるけれど、私は何があってもいつも神を拠り所としてきました。その神がいないとどうしても不安になってしまいます。仏教ではブッダの教えを実践して苦しみを減らすから、神に救いを求める考えがもともとないということなのでしょうか。でも、人間は完璧ではないと思うし…苦しい時、お坊様はどうされていますか?
2回目の投稿、失礼いたします。 前回頂いたアドバイスを参考に、虫さんを殺さずに外へ逃がしてあげる、見て見ぬ振りをするなど虫さんに慣れようと努力しているところであります。 そんな中、とても大きな後悔をしてしまう出来事がありました。 今日入浴中、排水口の近くにクモさんがいました。水に流されて死んでしまう、逃がしてあげようと思い、少し大きめのブラシにのせて水のかからない場所に避難させてあげようとしました。 しかしそれが間違いで・・・。誤ってブラシでクモさんのお腹を貫いてしまいまったのです。 ショックでした。逃がしてあげようと変に気を使ったせいで・・・。なにもせず、そっとしておけばよかったと後悔しています。今でもクモさんを殺してしまった光景が頭に残って、どうしていいかわかりません・・・。串刺しにされてどんなに痛かっただろう、怖かっただろう、本当にごめんなさいという気持ちでいっぱいです。 そのクモさんに対して心から謝りたいです。そして罰を受けたいです。どうすれば良いでしょうか?どうかご回答のほうをよろしくお願いします。
私は子供の頃から、死に対する強い恐怖があります。10代後半頃にそれが原因で精神的な病気になり、今も治療を続けています。 死に対する恐怖は、当初よりマシになってきたと感じます。 ですが、最近では自分が年をとることに対してどう考えて生きていけば良いのか悩んでいます。年をとる、と言っても老後の話だけではなく、現在20代前半の私が30代になったら…という、比較的最近のことに悩んでいるのです。 どうやら、年を重ねると若い時にしていたことや好きなことをやめなきゃいけなくなるのでは?ずっと続けているのはおかしいのでは?と、感じているようなのです。 これから頑張ろうと感じている趣味や、今のファッションなどにも悩んでいます。 死に対する恐怖もプラスされて、今やってることって何の意味があるのだろう?ととても悩みます。 今後の生き方がどうしても分からないのです。アドバイスをお願いしたいです。 よろしくお願いいたします。
中絶してしまった子の為に写経したいのですが、家で密やかに出来ますか? また、どのような経典が良いのでしょうか? 宗派によって何か違いはありますか?
私は小4~中2まで、自殺も考えるほどのいじめに遭いました。毎日、新しい傷をこさえて帰り、教師たちはその事実を知っていたのに助けてくれるどころか、私をスケープゴートにし、何かトラブルがあるとすべて私のせいにしていました。 親も兄も取り合ってくれず、警察へ行ったこともありましたが、私の傷を見ても「学校の先生、ご両親と相談してね」とやんわり帰されました。 教師はある日、私をいじめた男子たちに反撃に出た私を咎め、私にだけ反省文を書くよう強要しました。そのときの教師たちが未だに許せません。私の相談に乗ろうとしなかった警察も許せません。以後、私は教師、警察を「ゴミ」と思うようになりました。税金泥棒も甚だしいです。 よくよく考えたら、学校は教師たちのためにあるのです。生徒たちのためなどにあるのではありません。自分たちを守るのは当たり前なのです。それに当時、気づかなかった私が愚かでした。 教師たちだって、生徒に嫌われるのは辛いです。保護者とトラブルになるのも嫌です。なら、私を生贄にし、その他大勢のご機嫌を取って上手くやった方が楽なのです。教師はゴミです。 私には小学5年生の娘がいます。私の通った中学に進むことになります。私が味わったおぞましい思いの詰まった中学、そこへ進学させるのがひどく怖いのです(ちなみのこの中学は、選挙の投票所です。選挙のたびに吐き気がします) 娘は友達と離れるのは嫌だというので、母校へ行かせる一択ですが、私と同じ目に遭ったらと思うと、怖くてたまりません。教師たちほど信用できない者たちはいません。ゴミに人権はありません。 私は当時、いじめられていたので、落ち着いて勉強できるような状況でなく、当然、成績も悪かったです。その私を「勉強のできないやつは人間のクズだ」と罵った教師もいました。 高校へ進学して、好成績をとると、教師たちは現金なもので、品行方正、成績はいつもトップクラスだった私を可愛がりました。教師たちはえてしてこのようなものです。つくづくゴミです。 このような人たちを、どうやって尊敬し、何を学べというのでしょうか? もし娘に指一本でも触れ、狼藉を働く者がいたら、教師も生徒も皆殺しにするつもりです。生ぬるい馴れ合いをする気はありません。容赦はしません。あの中学はゴミ箱です。 どうしたら不安が解消されるか、回答お待ちしております。
はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。
もし、知らない誰かに殺されたら許すべきですか?或いは殺されかけて障害持ちになったらその人を許すべきですか? 人の怨みは集団であればあるほど増幅します。犯罪リスクも高まります。 この日本も例外ではありません。 いつ誰かに恨みを持たれて、その恨みを共有してなんていうことをしていたら、そいつ殺しちゃえば?と誰かが言ってその人は殺されてしまうかもしれません。 殺されて、或いは障害持ちになってもその人を許すべきか教えて下さい。
皆さま初めまして、みーと申します。 このような神聖な場に 自己中心的で不快な書き込みをしてしまい 申し訳ありません。 話し相手がいないので最後に 自分の思いの丈を ここに吐き出させて下さい。 そして僕が生きた証を残さして下さい。 まず、僕は小学3年生の頃まで両親に虐待の限りを尽くされ殺される寸前で警察の方に助けられました。 その後、両親と連絡が取れなくなり施設で高一まで過ごしました。 そして高校を中退し、自分の1番したかった事 漁師になる!を実現させました あの頃は毎日が楽しく 仕事も楽しく・交友関係も問題なし・ 恋愛も順調でした。 この時期に交際相手との間に 子供が出来ました 勿論、歳も若いし育てられる訳がないと 相手の親に猛反対されました。 それでも降ろす事など考える事が出来ず 絶対に産んで欲しかったので 職場も変え、家も嫁の家の近所に引っ越し 何度も嫁の実家に足を運んでお願いする日々が続きました そして形的に出来婚になりましたが 相手の親に認めてもらい無事 長男を出産し家族に迎え入れる事が出来ました。 しかし幸せな時間は続かず生まれて3ヶ月 長男が突然死しました。 この頃から自分の中の何かが変わり 生きる希望や意欲何もかも無くなり 自殺を考えるようになりました。 そこから嫁も変わり、 喧嘩をしても話し合いが出来ず いつも僕が悪い、私は悪くないのループで 僕が折れて謝り機嫌をとっての繰り返しでした。 あまり言い過ぎると癇癪を起こし物に当たり手を出して来るのでそれ以上は何も言えず。 そして次男・三男が生まれたが 何も変わらずこのような日々が続きました そして1ヶ月前ついに離婚届を渡され書いてしまい。 独りになりました。 独りには慣れていたつもりなのに いざ独りになると寂しいもので 結婚を機に地元との関わりも全て切ってしまったので 相談相手も居なく 頼れる人も居なく この苦しみを分かってくれる人が居ない。 本当に辛かった。 離婚してから自分がどうしてたのか思い出せません。 仕事には行ってたみたいですけど 全く記憶に無くて 体重も1ヶ月で13キロ落ちました 今日目覚めると同時に死を決断し 気分が楽になりました。 職場も無断欠勤してしまいました。 今日は思い出の地を巡り 好きな物を食べ1日が終わる頃に旅立とうと思います。 最後に長話に付き合ってもらいありがとう
お世話になります。 先月父が亡くなりました。 父の実家は真言宗のお寺の檀家ですが、父は長男ではなくまた飛行機の距離に住んでおり、お寺との関わりはほとんどありません。 そのため今の住まいの周辺でお墓を探すことになりました。 母と姉と姉家族、そして私で近所の民間霊園と寺院霊園(浄土宗)の見学に行きました。 私たちは寺院霊園の印象が良く、そちらに決めようとしました。 しかし管理寺院の住職の方に「焦らなくても良い」と熟慮することを薦められ、契約には至っておりません。 そんな中母がやはり今後の法要のことを考えて、真言宗ではない寺院霊園は止めるべきでは、と悩み始めました。 ちなみに母の実家は浄土真宗の檀家だったため、あまり熱心ではありませんが「南無阿弥陀仏」が落ち着くと言っております。 寺院霊園は宗派は問わない、檀家になる必要はない、但し寺院で法要等を行う場合は他宗派では行わない、とのことでした。 このような状況ですので私としては寺院霊園が良いと思っているのですが、母の気持ちを考えると押し切るのは良くないと思います。 ただ生前の父はお経を唱えることもなくまた初詣やお祭りくらいにしかお寺に足を運ばなかったため、信仰や宗派にこだわっているようには見えませんでした。(一度尋ねたことがありますが、こだわっていないとの回答でした。) そのため真言宗にこだわって民間霊園にしようという母の意向に従えない思いもあります。 真言宗にこだわるべきか? 気にしなくても良いのか? 出来れば心の持ち方の御指南をいただきたくお願いいたします。
以前、自分が男なのか女なのかと質問をしました。 男とか女とか、関係なく、自分らしくあればいい。 そう言い聞かせ、それからも生きてきました。 でも、社会に出れば男女で別けられることが多く、その度に悲しくなります。 公的な書類も、ちょっとしたアンケートも性別を書かなければなりません。 避けて通れるものなら、避けて通ります。 しかし、避けたくても避けれないものでこの世は溢れています。 自分は自分。 そう思っていても、世間はそう思わせてくれない。 女じゃないんです。男でもないんです。 性的な様々な病気もありますが、 知っている限りでは自分に当てはまるものもありません。 何かいい方向に考えられるようにアドバイスをお願いします。