hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
問答一覧
検索結果: 946件

家族の死、自分の死が怖いです。

私は人は死んだら無になると思っています。しかし無になるということを考えるだけで怖いです。私たちに生まれる前の記憶がないように、その頃の状態になるのかな?などと考えてしまいます。 私がまだ幼稚園か小学生低学年だった頃、NHKのニュースを見ていて「北朝鮮と日本がいつか戦争になるかも。そしたら自分も家族も死んでしまうかも。」などと幼いながらに考えてしまい、死が怖くなって、夜な夜な布団の中で泣いてしまい怖くて朝まで眠れなくなってしまったことがありました。それから月日が経ち、死を考えすぎてしまうことは無くなりました。 しかし最近夜になると死を考えて泣いてしまい眠れなくなってしまうことが再び増えてきました。1度考え出すと怖くて3時間は泣いてしまい気づくと眠れないまま朝を迎えています。 輪廻転生という考え方が好きで、その言葉を支えにしたいのですが、輪廻転生も所詮は生きている人が考えた言葉にすぎない。死んだら思考回路すら無くなるんだから、輪廻転生して再び自我が目覚めたとしても、それは新しい自分であって、昔の自分は消えてなくなる。結局人は無になるんだ。という結論にたどり着いてしまいます。 私の父は69歳、母は63歳、祖母は91歳。比較的高齢の家族ですが凄く元気です。ですがふと、この家族で過ごせる幸せな時間は永遠ではないんだと考え「あと何年?」と考え辛くなります。 最近は高齢な家族故に両親と過ごせる時間より、両親がいなくなった後の時間の方が長いのかもと考えて泣いてしまいます。私は両親のことが大好きなので、2人がいつかいなくなってしまう。「無」になってしまう。そんな日がくるのがとても怖いです。 そして今見ている景色、大切にしている物、現世で学んだ知識、死ぬ時は全て手放さなくてはならない、私も死んだら無になる、家族と家族だったことも無くなる、もうこの家族には会えない…どこまでもそのように突き詰めていってしまいます。 よく「(死を考えるくらいなら)今を楽しく生きよう」という言葉を聞きますが、そのような考え方に自分が対応できず、ただ死が怖いです。 本当に最近このような考え方に陥って泣いて眠れなくなることが多くて困っています。 何か少しでも心が軽くなるお言葉、そして仏教では「死」に対してどのような考え方を持っているのか、お話を聞かせていただきたいです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 70
回答数回答 1
2022/08/11

自分を好きになるには

初めて質問させていただきます。 自分をどうしたら好きになれるのでしょうか。 詳細はプロフィール記載の通りで割愛しますが、恐らく家庭環境のこともあり、自尊心なるものの育て方が分からないまま現在に至り、職で精神を病んでからより酷くなったと感じています。 幼少から何かを成しても一度やれればそれでよし、継続せず中途半端で終わる自分が嫌いですが、病になってからは自分で自分を殺したい程に憎悪が膨れているのを感じています。 希死念慮はありますが、死に伴う痛みと死に損なった時が嫌で生きているだけです。 長く生きた屍のようだと感じます。 ただ、そうしてのうのうと生き永らえる選択をしているのも、この歳の娘を病があるとはいえ渋々抱えてくれている両親に甘える選択をしているのも自分であり、結局、自分は不完全で何も出来ないもの、と甘えて誤魔化している自分が悪いだけでは、とも思うのです。 自分さえ普通のように、それこそ病になる前の頃のように振る舞えればもっと改善出来たのでは、と思うのです。 しかしもうとっくに疲れたと根を上げるばかりで、そんな己が嫌いで憎くて仕方ないのです。 体の傷はなくとも心は文字の暴力で殺せますので、多々書き殴っては己を殺しました。 そうした心の自殺が誤っているというのも薄々気付いてはいますが、どうやってもやはり好きにはなれないのです。 そんか不完全さを寛容したいと思いつつも。 この相反する気持ちを和らげたく、多少は好きになれたらと思いますが、自分で自分を好きになれるものでしょうか。 散文書き殴りのような文章で恐縮ですが、お知恵を頂戴できれば幸いです。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

死が怖いです。

死への恐怖について。 こんにちわ現在中学3年生の男子です。 まだまだ人生経験が浅いのに対してこんな事を言うのもあれなんですが、、、 いずれ自分にも必ず訪れる「死」がとても怖いのです。 この恐怖については色々なタイプな恐怖があるそうですが、自分の場合は「自我の喪失」など「永遠の無」への恐怖です。 まだまだ何も分からないのですが本来仏教では浄土も輪廻も釈迦は無記と称していると耳にしたことがあります。 とは言ってもまだ何の証明もされていないので死後がある可能性も0%ではないと思います。 まだこのように思い今後の人生を生きていけたら良いのですが、 「何時か科学で死後は永遠の無だと証明されてしまったらどうしよう。もしそうなってしまったのなら僕はもう生きていけない。」 と思うことがあります。 この原因は自分自身にあります。 死が怖いと言って、心の中だけで留めておいたら良かったもののネットで色々(科学や哲学など)調べてしまったりしたので、余計こういった恐怖が煽られてしまったのかもしれません。 つまり簡潔にまとめると ・永遠の無、自我の消失への恐怖 ・いつか科学などで死後が永遠の無だと証明されてしまうかもしれない恐怖 ・生きる意味がみつからない です。 長い文章になってしまって大変申し訳ございません。 そして質問はどうしたらこの恐怖を取り除くことができますか?です。 ご回答よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 66
回答数回答 3

祖母の死

先日祖母が亡くなりました。 祖母は、孫や子供が大勢いるなか、私を一番可愛がってくれました。数少ない女の孫でもあったのと、頻繁に会いに行っていた為だと思います。 会うたびに私の学校生活の心配をしてくれ、会うたびに励ましてくれました。 諸事情で高校を留年した時も、ちゃんと卒業できるの?と心配してくれました。また、○○ちゃんは何も悪くないよと言ってくれました。 最近は自分のことで忙しく、祖母に会うことも少なくなっていました。 また、祖母は心配して電話をかけてきてくれていましたが、イライラしている時はわざと電話にでなかったりしてしまいました。 先日、祖母が私の家にお昼ご飯を届けにきてくれて、「頑張りなさいよ。またね」と言ってくれました。 その日の夕方、祖母は自殺しました。 祖母は元々外に出かけるのが好きな人で、老いで足が不自由になってからは毎日とても辛そうでした。それが原因だと思われます。 突然のこと過ぎて、実感がわかないですし、もっと一緒にいてあげればよかった。と後悔の気持ちでいっぱいです。 そして、祖母に自身の卒業する姿を見せてあげたかった。 初めての身内の死ということもあり、祖母の姿を思い出すたびに涙が出ます。 またおばあちゃんと話したいです。またおばあちゃんの声が聞きたいです。 このままだと後追いしてしまいそうで怖いです。 祖母の死を乗り越えられるためには、いったいどうすればいいのでしょうか?

有り難し有り難し 12
回答数回答 2

息子の死

今年の2月に長男を病気で亡くしました。 数日後に迎える初盆をどういった気持ちで迎えたら良いのか分かりません。 1歳半の時に体調不良が治らず、夜中に痙攣を起こして初めて脳腫瘍が発覚しました。 頭から腰あたりまで脳腫瘍に侵されているのが分かり、その日のうちに手術〜生死を彷徨った息子 命は取り留めたものの全身に障害が残りました。 そのごも2度〜3度心肺停止。 何度も病院に呼び出され死の覚悟をしてきました。 治療の甲斐あって腫瘍自体も小さくなって元気を取り戻していました。 再発したらもう手の施しようがないと言われていたので 毎日覚悟しながら頑張っている息子を側で見守ってきました。 2歳〜3歳に成長して、言葉も発せず身体も自由に出来ずそれでも生きていてくれることがすごく嬉しかった。 外に外出して家族で出かけたりも沢山しました。 昨年は次男を授かり出産したのもあり なかなか息子に手をかけてあげられないことも増えました。 今年に入って容態が急変、腫瘍が再発してしまいました。 いつか来るとは思っていましたが、あまりにも早く毎日息子の弱っていく姿を見ているのが辛かった。 息子が息を引き取り、気持ちの整理をする暇もなく、葬儀の準備や末っ子の世話、慌ただしく時間が過ぎて行きました。 息子を想わない訳ではなかったのですが、周りが心配する中自分でも不思議なくらい冷静になって息子の死をすんなり受け入れてしまっていました。 なにより毎日の介護から解放されホッとした自分がいて嫌になりました。 なんで病気が発覚する前に、息子が苦しむ前に、一番近くに居た自分がもっと早く気付いてあげられなかったのかとか そんな事ばかり悔やまれます。 ちゃんと息子を好きでいてあげられていたかな? ちゃんと母親できていたのかな? 息子はママのこと好きでいてくれていたかな? 病気に気付いてあげられなくて怒っていないかな? 今は痛い・苦しい思いをしていないかな? 沢山不安に思う気持ちがあります。 今はお墓に入っている息子。 お盆に迎えに行って、家に帰ってきてくれるのかな?とか ちゃんと成仏出来てなかったらどうしようとか 不安に思います。 初盆どんな気持ちで迎えたら良いでしょうか?

有り難し有り難し 13
回答数回答 1

死への恐怖

母は私が幼いころに癌を患い、その後治療を続けていたものの半年ほど前に再発しました。今すぐに命に関わるという病状ではないのですが、身近な人間の死に関わりうる病気を通して死というものを考えることが増え、もうどうしていいかわかりません。 私と母とは30ほど歳が離れています。つまり、一般的な寿命を迎えることができても、私はいつか母がいない時間を30年も過ごさなければいけない。そのことが私には耐えられないことに思えます。私には妹弟はおりませんので、私は家族の中で最も長く生きる可能性が高いわけですが、自分の大切な人が皆亡くなってもなお生きていかなくてはいけないのでしょうか。頭ではそんなことわかっているのです。死は避けられない、身近な人の死も受け入れなくてはいけないし、皆そうやって受け入れて乗り越えて生きていると思うのですが、わたしにはそのことができないように思えます。親不孝の極みですが、母が死ぬ前に死ねたら幸せだなとすら思ってしまいます。 私が中学3年の時に祖父が亡くなった時のことを未だに忘れることができません。少し前まで生きていた、人が、生きてはいないということが受け入れられず、その恐怖を忘れることができません。昔見たドラマで、大量殺人を犯した犯人が、人をモノにするのが好きなんだと言っているものがありました。祖父の葬式の時に感じた、人がモノになったということが、私の中に恐ろしい記憶として残っています。祖父の死以来、刑事ドラマも不愉快で見ることができません。人の死を面白がって作っているように思えてしまうのです。私はどうしたらいいのでしょうか。受験期に入り、ストレスや疲れもも溜まっているのか、死ぬこと、母のこと、いつか大切な人が皆亡くなってしまった時のことなどばかりかんがえてしまいます。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

母の死

こんにちは 初めて質問させてもらいます。 今年の1月母が癌で亡くなりました。闘病生活1年、入退院を繰り返し、効果があると言われれば温泉にいったり、食生活を変えてみたり、他県の最先端の治療を受けにいったりと色々走りました。一時はいい方向にいきましたが結局癌を止めることはできませんでした。先生にもう本人の好きなことをしてゆっくり過ごしてくださいと言われましたが2月に産まれる私の子供が見たいからと最後まで 諦めず治療をすることを選びました。闘病中、母は私に1度だけ苦しいもう治療をやめたいと言いました。私は心の中でもういいよと思いながらも諦めるの?と言ってしまったのです。その時は治療を信じるしかなかったのです。母は自分でまず3年生きるだから頑張ると言ってくれましたがたぶん私を不安にさせないためだったと思います。頑張ると言っていた治療を終え退院し自宅に帰って来た次の日容態が悪化し酸素をつけながらも自分が死ぬのをわかっていたのかみんなに会いたいと姉妹全員が病院に来てくれ、そして家族全員とありがとうと握手をして、だんだん意識がなくなりみんなに看とられながら亡くなりました。 すごく痛く、苦しい中でも周りを気づかっていた母。 闘病中、一生懸命支えようとどんどん変わっていく母を見て涙を流さないようにと強がって厳しく接することしかできず、死を受け入れてちゃんと接することができませんでした。もし受け入れていたらこんなにも辛い治療を選ばせずに、体を傷つけずにもう少しだけでも長生きできていたのかな、心穏やかに過ごせていたのかなと後悔しかありません。どれだけ無理をさせて苦しめてきたのかと思うと涙が止まりません。優しくできなかった、病気を早く見つけてあげられなかった、自分が憎いです。

有り難し有り難し 16
回答数回答 1

好きであるとは、心に懸けるとは

失礼致します。先日はご教示ありがとうございました。 このたびはご質問をさせていただきたく存じます。 生活していると、ある物や趣味、またある人間に対して「好きである(好きになる)」という表現が用いられることが多々あります。 この「好き」という言葉につきまして、自身の中で不安定な部分があり、お伺いする次第です。 自身にも少ないながら趣味があります。ただ最近、その「好き」が趣味そのものではなく「趣味を嗜んでいる自身」に向かっていることに嫌悪感・罪悪感や不安を抱かずにいられません。 自らの存在価値がないと感じられた折、「趣味を嗜んでいる自身」にすがって心を保った経験があり(自死などを選ぶよりは遥かにマシである、といった風に)、そのような場合にはある程度有益な見方では、とも考えられました。 ですが、精神的に最悪の状況から少しなりとも抜け出してなお、その見方がなされてしまうのは、いかがなものでしょうか。趣味に対する冒涜のように感じられる部分が拭いきれません。職業でこそないにしても、自身にその道を歩む資格があるのかと疑われ、真に心を入れて取り組んでいる方々を思うにも不甲斐なさが付いて回ります。 人を好きになることについても似たように考える節の無いこともありません。 正常な形とは言えない執心を断ち切らんと、なぜ自身がその人に執着しているのかを自問したところ、その理由は一つではなく、過ちを謝罪したいと思っていたことなどいくつか考えられました。その中にはやはり「彼女を好きである自身」に拘っていた部分も見出され、これは単なる自惚れではないかと気づいた次第です。 純粋にその物事や人を「好きである」と言い、心に懸けるとは、少なくとも現在の自身にはたいそう難しいことのように感じられます。 ただ、趣味・人のいずれにしても、関わっている自身を心のうちで称揚することは、一方では対象への敬意・感謝であるとも解釈できるのではないでしょうか。それがあってこそ、その人がいてこそ自らの心身が救われたという具合です。 「好きである」ということはどうあるべきか、そもそも「どうあるべきか」という基準を意識する必要はあるのか。 ご意見をお伺いしたく存じます。よろしくお願い致します。 長文失礼致しました。 ご高閲ありがとうございました。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

孤独死しかない

もう年齢的に結婚は無理だと思うし貯金が全くなくて借金だけあります。若い頃、好きになった男性が無職で私が働いていたのでカードローンなどして破産まではいかなかったのですが裁判所で返済の手続きをしたので現在でもローンを組んだりが出来ず必要な物は現金でしか買えません!その時の男性は別の女性と結婚して幸せに暮らして居ます。自分の責任と分かっていても悔しくて憎いです。私には借金があるだけで子供も居ないし借金が返し終わる頃には幸せなんて遠くて1人です。おしまいです。生命保険には入ってるので何とか借金は返せて火葬代だけはあると思います。私の生まれた意味なんてないです。世間では必ず生きてる意味があるとか言いますが辛い事だらけ人の幸せとか嬉しい事を聞いても素直に喜んであげれません。私って最低ですね!仕事は看護師をしていますが、こんな私に看護される患者さんは不幸です。でも、この仕事しか私には出来ないし今の給料だから返済も出来ています、だから仕事も辞めれない。急に自分が病気になったりしたらなど考えると不安で辛いです。両親は年金生活なので負担をかけたり迷惑だけはかけれないです。その為に貯金と思うのですが現状無理です。毎日、不安だらけで心が辛いです。どうしたら少しは軽くなりますか?

有り難し有り難し 41
回答数回答 1

死と宗教について

私はキリスト教と仏教のもとで育ちました。 学校はキリスト教で、お葬式などは仏式が多かったです。 ハスノハは、非常に説得力がある意見もあり、頼っています。 仏教の話もキリスト教と同じかそれ以上好きです。 しかし、キリスト教的な祈りが一番馴染むのです。 古典的な宗教は、同じこと、人間の本能に従って考えつくされたもので、共通するものがたくさんあると思っています。 天の国を悟りと考えたいのかもしれません。 邪道と言われる方もいると思いますが、 父母もキリスト教を信じていた時期もあるので、 僕がキリスト教で育つことになったのですが、 今の両親は、無宗教に近いです。 既存宗教に疑念を感じ、個人の問題と考えている感じで、 ぼくも似ています。 しかし、葬式をどうするかという話がずいぶん前に出たのですが、 家族の意見ががバラバラだったのです。 親も老いてきて考えると、 仏教を信じて、「悟りの中に救われて」亡くなっていく人と、 キリスト教に肩入れしながら、天の父に迎えられると思いながら去っていくことが、 違うものであってほしくないと思ったのです。 母は、無宗教で、自然に返るかのように楽になりたいと思っています。 父も、曹洞宗に肩入れしてますが、似た感じだと思います。 キリスト教に肩入れしている自分だけべつな場所に行くような気がして非常に寂しいです。 これをどう思われますか? これからも続く人生、いつ死ぬかわかりません。 死んでも共にいられる・・・というような安心感が欲しいのかもしれません。 それは、宗教的な問題ではなく、日常で考えるべきことで、いま寂しいだけかもしれません。 考えて行こうと思いますが、 何度か考えたことなので、ご意見を伺ってみたいのです。 1人の凡夫として諭していただけたら 本望かと存じます。

有り難し有り難し 26
回答数回答 2

「死」を考えると気持ちが落ち着きます。

母の自殺から数ヶ月が経ちました。 四十九日を終え緊張の糸が切れたのか、うつ病が悪化してしまいました。 自責・不安・焦り・虚しさに毎日襲われます。気晴らしに…と好きなことをしても、楽しくありません。 また、母の自殺をフラッシュバックしてしまうため、"母が自殺した日"を何度も何度も追体験してしまいます。つらいです。 服薬治療も含め、できることは全てやっています。 でも、3年経った今も改善しません。それどころか悪化したので、「元気になりたい」という気持ちが湧いてこなくなりました。 以前は「元気になる」という目標がありましたが、今はそんなことを思えるほどの気力がありません。ただただ、生きるのに疲れました。自殺未遂をするほどには。 ただ、窓の外をぼんやり眺めながら遺書の内容や死ぬことを考えていると、心が落ち着くのです。 虚しさや不安を忘れ、「死んだら母のところに行けるかもしれない」と希望も湧いてきます。 以前こちらで相談したとき、【先に往かれた親しい方々やご先祖様がお母様をあたたかく優しくお迎えなさって下さいます。】と回答をいただいきました。 ふとそれを思い出し、「わたしが死んだら母が迎えてくれる、死んだら母に会えるんだ」と嬉しくなりました。 嬉しいなんて気持ち、久々に湧きました。だから、ホッとしたのかもしれません。 「死」を考えることで心が穏やかになるなんて、おかしいでしょうか。 また、心身共に疲れ果て気力がなくても、自分に鞭打って生きなければいけないのでしょうか。 わかりません。教えてください。

有り難し有り難し 42
回答数回答 3

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る

お坊さん33秒法話ピックアップ