いつもお世話になっております、ハルソラと申します。 先日、「法華経」の原文訳解釈本を読みました。 難解とされる法華経。成立の歴史的背景や細かな用語、意味などはとりあえずさて置き、法華経の最も大切な自身の人生に活かすべき教えとは下記だと解釈しました。 『私にとって、私自身は尊く大切である。同じように他者にとっての自分自身も尊く大切なのだ。 だから他者と接する時、尊く大切な自分と接するように相手の身になって考え、思いやりで接することである。(慈悲の心) その事で無理解、差別、偏見を超えてすべてのものが調和し、平和で穏やかになる。』 私はこのように理解した時、実に心穏やかになって、より良く生きるための智慧の核心に迫ったと思いました。 この解釈、理解はお坊さま方からしたら如何でしょうか? ご回答よろしくお願い致します。
私の母が平成6年7月15日で、父が平成9年7月21日に亡くなっております。今までは、年に一回ずつ7月15日と21日にお参りに来ていただいていましたが、どちらかにしたいと考えていますが、先に亡くなった命日か、後に亡くなった方の命日か、どちらを選べばよいのでしょうか?私は一人っ子なので、仏壇は私の実家の物で私がそれを受け継いでおります、主人は次男で、先祖のお仏壇は長男さんが守っております。私達も高齢になり、続けてお参りに来ていただくのも辛くなってきました。どういうふうに決めればよいでしょうか、よろしくお願いいたします。
始めまして。 とても悩んだ末、このサイトに辿り着きました。 早速ですが、先月5/28日に母が他界いたしました。母の生前よりの希望でもあり、経済的な理由もあって直葬で親族だけで火葬しました。 その時、菩提寺の住職にも連絡しませんでした。 これは後に多いに後悔する事となったのです。後日お寺さんに電話をかけてお詫びをしたのですが、住職が非常にお怒りになり、49日の法要や戒名及び、納骨の日時などを相談したかったのですが、49日はお盆と重なり出来ませんとの事。『改めて日時を連絡します』と言っていきなり電話を切られました。 余談ではありますが、十数年前に兄弟が亡くなった時も『急に言われても困ります』と言ってお通夜に来てもらえませんでした。 お寺さんとの付き合いも祖母の代から100年以上になり、祖母、父、母と受け継がれお布施、お寺の行事も問題なく過ごしてきたはずなのですが・・・・ 常、日頃より住職の態度が威圧的で、怖くてお寺に行く事が憂鬱になります。 このような住職と今後もどう向い合って行けばよいのでしょうかむ。 ちなみに、我が家は真言宗で住いは東京、お寺は埼玉です。 ご回答宜しくお願い致します。
大きな悪行でなくても良くないこともやってきました。そんな人間でも仏様の前に行き全ての今までの悪い行いを話し悔い改め仏様の前で祈ることは許されるでしょうか? このくらいはいいだろうと思うような悪い行いも今思えばどんなに小さなことだろうと良くないと思うようになりました。仏様の前に行くことは許されるでしょうか?
立て続けにすみません。 私は天狗様をお祀りしているお寺や神社が好きで、今日も神奈川県の天狗に縁のあるお寺にお参りさせて頂いただきました。 お寺でお守りを買った後しばらくして気付いたら、いつもカバンにつけている他の神社で頂いた天狗のお守りとキーホルダー等を落としたらしく無くしてしまいました。 ただの偶然だとは思うのですが、気に入っていた物だけに色々と考えてしまいます。 やはりお守りを複数持とうとしたことがいけなかったのでしょうか…。 変な質問になってしまいましたが、ご回答の程よろしくお願い致します。
どうもお久しぶりです。 今回の質問は足のしびれを素早く治す方法についてです。 苦を無くすという目的の元、たまに寺に行ってヴィパッサナー瞑想を行っています。 身体が硬いので結跏趺坐を組むまで、音を立てながら2分ほどかかってしまうのですが何とか組めるようになりました。 10分位(感覚値)すると足がしびれだし、そこから10分(感覚値)ほどするとしびれを感じなくなります。 痺れが治まると眠気が出てくるのですが、呼吸を整えて観察しています。 そしてさらにそこから20分(トータル50分前後)ほどすると、白い雲のような眩しい光や、建物の外の駐車場に停車しようとする自動車等の相(ニミッタ)が見えてきます。 相が煩わしいので5分くらい観察したところで瞑想を止めてゆっくりラベリングしながら立ち上がろうとするのですが、足が折れたんじゃないかというくらい痺れて力が入りません。 座り方は、指導者の方が、座布団の端を折り曲げて二重にし、そこにお尻の座骨を落として、座布団に乗せるのは座骨だけ。ひざの端は地面につける。そして体を伸ばして肩の力を抜いた後、板になった様にとのことでした。 個人的には三角フラスコをイメージし身体をまっすぐにして、結跏趺坐を組んだ足は固定されており全く動きません。 ここで質問なのですが、痺れを早く治す方法などありますでしょうか。
目に留めて頂きありがとうございます。 この度、仏壇に手を合わせる時の事でご教示下さい。 我が家は浄土真宗で、自宅にも仏壇があり、母と共に出来る限りお世話させて頂いております。仕事に行く前と帰宅時は『いってきます。今日も1日よろしくお願いします。』『ただ今戻りました。今日も1日ありがとうございました。』など、短いですが手を合わせ、朝と就寝前には、『1日見守って頂きありがとうございます』など感謝の言葉を心の中で言い、しっかり手を合わせておりました。 恥ずかしながら、この歳になっても正しい手の合わせ方を知らず、少し前まで仏壇に向かってお願い事をしておりました。『宝くじが当たりますように』とかではなく、現在、私は婚活中なので、『上手く行くように見守って下さい。』『今やり取りして人が本当にふさわしいのか、正しい道にお導き下さい。』などという内容です。 ですが数ヶ月前にテレビで、仏壇にお願い事をするものではないと、住職の方が仰っており、無知な自分がすごく恥ずかしくなりました。ご先祖様は毎日修行をされているので、南無阿弥陀仏と唱えるといいと仰っておりました。 しばらくは、その通りにしていたのですが、少しずつ正解が分からなくなり、こちらでお聞きした次第です。 どのような言葉をかけるのがいいものなのでしょうか? また仏壇とお墓の違いも教えて頂けますでしょうか?
父親の13回忌が来月中旬ですが、知人よりお経は上げたほうがいいという助言をもらいました。 宗派がハッキリしないのですが、納骨堂に収めてあるお寺は真言宗のようです。 最悪、テープでそのお経を流すだけでもしたほうが良いということなのですが、真言宗でもたくさんお経の種類があるようです。 13回忌に適したお経を教えてくただければ幸いです。
私はお寺参りが好きで色々なお寺に行きます。宗派関係なく、お寺の雰囲気が好きであちこち出掛けます。 私にとってはワクワクしてしまうのですが、節操なく色々な宗派のお寺にお参りに行くのは失礼でしょうか。
こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。
よろしくお願いいたします。 先日、実母が亡くなりました。 諸手続きに於いて、父(喪主)がお寺さん(浄土真宗)より三十五日を行うよう言われました。 遠方に嫁いでいる私は三十五日は参列を見送り、四十九日の法要には参列することになっていました。 ところが、三十五日法要でお寺さんが間違え、四十九日(満中陰)のお経が挙げられ、勝手に繰り上げ法要とされてしまいました。 参加した家族は皆、三十五日法要のつもりでしたが、お経の内容に疑問を持った父が確認したところ判明したようです。 父としては「仕方ない」ということで「満中陰の法要は済んだ」と。 済んでしまったものは仕方ないと思いつつ、母を偲ぶ思いを無碍にされたような、何とも言い難いやりきれなさを感じています。 遠方に嫁ぎ、子も小さい為、頻繁には戻れなくとも、四十九日と百箇日だけは必ず参列したいと思っていただけに尚更。 満中陰の法要は済んでしまいましたが、四十九日まではまだ日があるため、遠方ながら私一人でも本来の四十九日に当たる日に何か出来ることがあればやりたいと思っています。 何か出来ることはあるでしょうか?
いつもお世話になっております。 菩提寺から施餓鬼会の知らせが届いた のですが、申し込み方がわかりません。 仏様おひとりには1本分の値段というのは わかるのですが、我が家の先祖代々も 1本分の値段でいいんでしょうか? お知恵を拝借したく存じます。 よろしくお願いいたします。
まず、私自身、障害者(身体内で出血があり原因不明の病気です。)であり、生保と障害年金で生活をしています。 月にすると約78000程で光熱費や家賃の不足分等を支払っています。 毎月残るのは45000程です。 家族、兄弟姉妹は居らず単身独居です。 母の妹が一番近い身内になりますが確執があり連絡を取ることを拒否されています。(障害者だということで嫌われています) 先日、お寺より寺費の請求がきました。 約13000円です。 生活で目一杯で払えずにいます。 このことをお寺の方にも伝えたのですが分かってもらえず困ってしまいました。 大切な家族が眠るお墓がある、お世話になっているお寺様なので払いたい気持ちは山々です。 しかし現実は困難です。 再来月には母の1回忌を控えており、その為にやっと僅かなお布施と花代を貯めました。 1月~3月までは生保が351円しかいただけず、暖房もつけずに一日一食、食パンを一枚だけ食べて過ごしました。 母の供養のお布施を使うわけにはいきませんし… 知恵をお貸しください。 また、トバの名前は私の名字になるのですが、元旦那の暴力で夜逃してきた為に籍は抜けていますが元旦那の名字のままです。(離婚後に暴力を受けました) この名字のトバをお墓に立てたくはありません。 事情を話し、旧姓でトバをお願いすることは出来るのでしょうか? お教え願います。 そして最後の質問というか悩みなのですが、母の妹である叔母との関係はどうしたらいいのか悩んでいます。 昨夜、親戚が亡くなっていたのを地元の友人と話していて知りました。 すぐに電話で連絡を取りお詫びをしたのですが、叔母に私へ連絡をするように頼んだそうです。 しかし叔母から連絡は来ていません。 正直に話し、私の連絡先を親戚には伝えました。(他の親戚にも伝えてもらえるようお願いしました) 何も出来ませんがせめて最期のお別れくらいは言いたかったです。 なぜ、障害者というだけでそこまでの仕打ちを受けなければいけないのか…納得いきません。 だからと言って、この事を叔母に伝えても夫婦揃って役立たずの障害者!お前は恥だ!と罵られるでしょう…。 好きで病気になったわけではありません。 このまま肩身を狭くして生きていかなければいけないのでしょうか? 法要の事もあり落ち着かずにいます。 支離滅裂な文章になってしまいすみません。
こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。
いつもお世話になっております。 最近は菩提寺とも距離を取り、近所の天台宗の末寺さんで 親修されている毎週恒例の読経会にお参りしています。 そこは広くもなく狭くもなく、時間は決まっていますがいつも 門を開けている、住宅街に境内地をひっそり置く静かなお寺です。 境内には築山や小さなお堂などの拝所が3、4つあり、 門の外参道には御嶽山大権現さん?の御分霊がいらっしゃいます。 墓地もあるにはありますが、境内の1割2割程度です。 法会は朝9時に始まり、5分ほど前になるとお参りの おばあちゃんたちが本堂正面の戸を勝手に開けて 「住職さ〜んwおはよ〜w」と言いながら入って行く、 あまり硬くない雰囲気です。 始まる前にそれぞれの拝所でお念仏をしたいのですが、 距離をとった菩提寺の(自主規制)坊主から言われたことが 頭を離れず、いつも始まるギリギリに滑り込んでたまに皆さんを お待たせしてしまうこともある状態です。 午後の法会などでしたら問題ないかもしれませんが、 いかんせん朝だけに… お知恵をお貸しいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
晋山式のある曹洞宗のお寺様(金沢市)へ清酒を贈ろうと思っているのですが、お寺様に贈る場合の熨斗飾りの有無、水引の種類について教えて下さい。 ネット等では仏式の行事に生臭である熨斗鮑をおくらない=熨斗飾りをつけない、という記載で「熨斗飾りなし・蝶結び」 自身の家の菩提寺(他宗)の方丈様は 「熨斗飾り無し・結び切り」が良いのでは。 地域性もあるので、送り先の酒店に聞いてみてはという助言を頂いたので 金沢市内の水引も取扱う酒店に聞いたところ、「どちらかと言うと結び切り」 曹洞宗の禅センターという所に問い合わせた所、「熨斗有り・蝶結び」で問題なしという回答 曹洞宗の東京宗務所は「どちらの結びでも構い」という回答 お寺的には何回でもあって良いものだと思うけど、住職になる方にとっては一世一度だし...。先様に失礼のないようにしたいのですが。宗派、地域問いませんのでご回答お願いします。
いつもありがとうございます。 今日は、お手紙の書き方についてご相談させてください。 祖母の姉が先日亡くなりました。百歳越えの大往生でした。これといった病気もせず、眠るように亡くなりました。 祖母の姉のことは、おばさんと呼んでいたので、ここでもそう書きます。 おばさんの家族はすでに亡くなっていますので、妹である祖母の親族である私たちがお世話をしてきました。すでに、父母が中心となり、納骨を済ませました。 おばさんは、自分が亡くなった後、お墓を守る人がいなくなるので、生前に永代供養も済ませ、お墓の永代使用料もお渡ししました。 ただ、事情が複雑で、幼い頃に亡くなった、おばさんの娘さんのお墓が、別のお寺にあります。 もちろん、そちらも同様に永代供養してあります。しかし、おばさんがそのお墓に入るわけではなく、そのお寺様に葬儀のお経をお願いしていないので、そのお寺様は、おばさんが亡くなったことを知りません。 毎年、そのお寺からお手紙が送られてくるので、おばさんが亡くなったことをお手紙でお知らせしたいのですが、どのようにお知らせしたらいいのかわかりません。 アドバイスをお願いします。
お不動さんのお像の開眼について、ご質問です。 私の念持仏の開眼をお寺にお願いしましたところ、お護摩をたく日に来てくださいと言われ、護摩の煙であぶるようにしまして、開眼をしていただきました。 その後、ご縁がありまして、別のお不動さんのお像を、別のお寺で開眼する儀式に立ち合ったのですが、こちらは「護摩をたく日でなくても良い」とのことで、主に読経による開眼の儀式でした。 その時は、「同じ密教のお寺でも、開眼方法に違いがあるのかな」ぐらいにしか思っていなかったのですが。 今になって、疑問がいくつかでてきました。 (書物を見たところ、開眼方法が大雑把に出ていたのですが、こちらは主に読経による方法でした。) ・開眼の方法によって、何か違いがあるのでしょうか? ・大変失礼ながら、「手抜き」と言うものは無いのでしょうか?(と心配です) 聞きにくいご質問ですが、よろしくお願い致します。
灌仏会(花祭り)釈迦牟尼の誕生日に関する質問があります。 灌仏会(花祭り)釈迦牟尼の誕生日に於いて「天上天下唯我独尊」などの誕生偈を唱える宗派はありますでしょうか? また、その唱える誕生偈の文面とその引用のもととなったお経は何でしょうか? ご解説お願いいたします。
こんにちは いつも元気がでる回答を頂きありがとうございます 2ヶ月ほど前に、私たち夫婦と義母の予定があわず、少し遅れつつ息子のお宮参り(お礼参り?)へ行ったのですが、 その時に「お食い初めの時に食べさせてやってください」とお米を何粒か袋に入れて頂きました。 ただでさえお宮参りが遅れてしまっていたので、お食い初めもするつもりでしたが、しようしようと思いながら時が経ってしまい、なんとなく離乳食を始めてしまい、その頂いたお米は結局食べずじまいです… このような場合、神社で頂いたありがたいお米ですし、遅れてでも息子に食べさせて良いですか? それとも、また次のお参りなどのときに、お守りや歯固め石などと一緒に返した方がよいのですかね?? 少し遅れてでもお食い初めしておけば良かった…と後悔です。 回答いただけたら嬉しいです。