遠方に住む叔父がなくなりました。 コロナ禍で、葬儀は叔父が住む土地で済ませました。 お墓は私の住む土地=叔父の実家の墓 に納骨する予定ですが、 葬儀を行ったお坊さんからは、お墓のあるお寺から戒名をもらうように言われたようです。ですが、叔父の実家の菩提寺では、戒名をつけることはできない。と言われています。どうしてなのでしょうか?
初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。 私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。 なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。 勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。 ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。 こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。 都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。 また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。 歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。 果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか? 仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。
何点かお聞きしたいことがあります。 ①仏典にある通り、女性は仏にはなれないのか。(変成男子は除く) そうであれば何故なのか、そうでなければいけない理由は何か。 ②上記に関連して、比丘尼に対して具足戒や厳しい戒律を課したと聞いている。 ブッタはどのような考えでそれを課したのか。 ③デーバダッタの反逆は、当時のサンガが有力者等に色々と寄進・援助もあり、かなり豊かだったことにも起因していると聞いている。それに対して500人といわれるディーバダッタについていった人を諭した内容は、どういったものだったのか。(ブッタではなく長老2人) 以上、ご教示ください。 よろしくお願いいたします。
過去の自分の行動を 悔いて 自己嫌悪になっていますが この心の反応は 仏教でいうところの以下七つの欲求の どれに起因していることになるでしょうか? 生存欲・睡眠欲・食欲・性欲・怠惰欲・感楽欲・承認欲
お坊様方には大変失礼な相談になってしまうと思います、 申し訳ございません。 2月に母が亡くなりました。 葬儀の打ち合わせで宗派を聞かれたのですが、わからず。 遠方に唯一の父方の叔父がいるのですが、闘病中で確認取れず。 以前両親が元気だった頃に聞いたことがあったのですが、 2人とも「わからない」との事で、そのままにしてしまいました。 メモリアルパークに両親がお墓を用意していたので 電話して聞いたのですが、 「宗派の欄には何も書かれていなかった」との回答で。 斎場の方は「ご家族で相談して宗派を選んでくださって良いですよ」 との事だったので、 兄が以前読んだ浄土宗関連の本がとても良かったと話していたので、 浄土宗でお経をあげて頂きました。 葬儀が終わり、ふと実家の父方の祖父のお仏壇を見たら 真言宗でした。 (無知でお恥ずかしい限りですが、お仏壇を用意する段階になって 宗派によって御本尊様も違う事を知りました・・・) 祖父は父が子供の頃に離婚していて、離婚後は祖母の名字になり 母と私達兄弟は、お棺の中の祖父が初めての対面でした。 亡くなった祖母も、父も叔父も祖父を嫌っており、 特に祖母と叔父は 「葬式はするけど仏壇や位牌を持ちたくない」と言っていたので 私の母が祖父を連れて帰りました。 その後は父も兄も私も、母にまかせっぱなしでした。 祖父のお墓があるのかどうかもわかりませんし、 祖母のお墓も遠方なので何処にあるかわかりません。 このような状況で、宗派がわからないのに 浄土宗でお経をあげて頂いた事は失礼だったのでしょうか。 母は穏やかに過ごせているのでしょうか。 家族は浄土宗でお経をあげて頂いた事を感謝しており、 朝晩、南無阿弥陀仏を唱えていますが 阿弥陀様やお経をあげて下さったお坊様にも失礼なのかと、 母は大丈夫かと、今さらながら不安になっています。 祖父と祖父の先祖代々のお位牌が実家にあるので、 数日おきに行って手を合わせていますが このまま祖父のお位牌を誰もいない実家というのも気になります。 宗派が違うお位牌を同じ部屋というのは良くないでしょうか?
たわいもないことですが 薬を飲む機会がほとんどあるのか、薬のときは、薬師如来様が浮かんできます。 お勉強であれば、知恵の虚空蔵菩薩様や文殊菩薩様が浮かんだり、とういうよりも、ご利益がそうなのかもしれないですね。 今は、ほとんど行ってないですが、夫婦和合の歓喜天様や十一面観世音菩薩様もそれぞれご利益があるとか。 仏様を信じることがなかなかわからないときあります。 守られてるなと感じるときはどんなときでしょうか? 私にはなかなか仏様に見守られてる実感がわきません。でも、なんやかんや無事でいられるだけでも良かったのかなと。
こんにちは。私は色々自分の中で整理ができなかったので質問させていただきます。 去年の4月頃、当時の私はコロナやこれからの事など色々な不安なことがいっぺんに来て心を病んでいました。本当に先も見えない日々で私は、ふと十数年前に見た何かの雑誌の特集の守本尊を思い出し、わらにもすがる気持ちで阿弥陀如来様の真言を唱えました。すると、数日の間に夢に阿弥陀如来様が出てきました。(夢の内容は長くなってしまうので割愛しますが、怖い印象の夢ではなかったです。) とても偶然には思えなかった私は、ネットで色々とどんな神様か改めて調べていました。すると、あるサイトで真言と一緒に印も掲載されていて、迂闊だった私は一緒に印も結ばないといけないと早とちりをしてしまいそこから真言と印を結んでました。 つい先日に、越法罪の存在を知りそれは越法罪にあたるのではないかと、だとしたら自分はなんて愚かで軽率なことをしてしまったと後悔しており、深く悩んでしまうようになりました。また、初めて印を結んだ時から大分時間がたってしまっていたこともあり、記憶も曖昧になってもしかしたら印を結んだ事で夢に出てこられたのではそうすると、ヤバいことをしてしまったのではと段々思考もエスカレートしてしまい自分でもよくわからない状況になってきています。 このような場合は越法罪に当たるのでしょうか? もしそうだった場合どうすればよいのでしょうか 拙い文章で申し訳ないですが御回答をいただけたらと思います。
特に何の報せもありませんでしたが、ふと、何故か急に地獄に行きたくないな、と思いました。 気になって調べてみました。手段としては、 1:これまでの罪を懺悔し、反省すること。 2:今よりこれからを、より良く(正しく?)生きること。 3:自力ではなく他力として念仏を唱えること。(唱えることで心の闇を祓い、また祓って下さった仏様へお礼として唱えること) 4:他者の罪を許すこと。 5:心の闇(仏教では我執や煩悩に区分されるのでしょうか?)に囚われないこと。囚われて、心の闇に操られ、それが求めるままの行動をしないこと。 これ以外に地獄行きを回避する方法はありますでしょうか? また、自分の家の宗教は法華経なのですが、地獄を免れる念仏として「南無阿弥陀仏(浄土宗)」を唱えると良いと書かれていました。法華経の自分が唱えるのは場違いでしょうか? よろしくお願いします。
スマナサーラ長老とダライ・ラマ法王、 どちらかと言うなれば、どちらを支持されますか?
あるきっかけで、職場の人に密教のお寺に連れて行かれました。 お寺に行くと霊がたくさん憑いていると言われ、住職の方に上半身と下半身に分けて除霊をすると言われました。 下半身の除霊は性行為でする。と密教の本を見せられて説明されました。 今まで除霊の経験もなく、そんなことがあり得るはずもないと思いその場では断りました。 それでもその方法で除霊を受けている人もたくさんいて、料金をとられるわけでもありません。 除霊せずにこのままいると、手遅れになるなどと除霊をせかされます。 人助けをしている住職がそんな卑劣なことをしたりするのでしょうか? 私を連れて行った職場の人は、その方法で除霊を受けています。 誰にも相談できずとても悩んでいます。 宜しくお願い致します。
過去にとあるお寺でお坊様に悩みを相談したところ、心無い言葉を言われ深く傷ついた者です。 発言に傷ついたことを伝えると、それは煩悩のせいだぞ、自分が絶対正しいと思っているからそんなことを言うんだ、と責められてしまいました。 それは貴方もですよね?と返せば、僕は凡夫だからね仕方ないよと開き直られ・・・。 仕方なく相談料を払ってお寺を後にしました。 しかし、よく考えたら信仰している時点でその考えが正しいと思っているということですよね。 否定されればお坊様とて反論するでしょう。 それは煩悩とは違うのでしょうか? 自分が正しいという考えと何が違うのでしょうか? もしも気分を害されたらすみません。 お坊様がどのように考えておられるかとても気になりまして。 いろんなお坊様の意見が聞きたいです。
毒親育ちで、ここ三年ほど家族と疎遠です。妹に、親からの虐待を打ち明け、その後連絡をたっていました。妹からは、落ち着くまでこちらからは連絡しないね、と言われていました。 私もなるべく実家のことは考えないようにしていましたが、飾ってある母の写真に毎日欠かさずお線香をあげています。墓参りも行ってないため、なんとなく後ろめたく、バチが当たる気がするから。 だけど、毒親が私にしたことは消えないし、今も人生生き辛さがあり、苦しんでいるので、親を許せない気持ちがあり、そんな状態で墓参りもおかしい気がするからです。 そうこうしているうちに、母の7回忌が過ぎてしまったことに気がつきました。妹からの連絡がなかったため、このコロナ禍で、執り行ったのかはわかりませんが、毒親とはいえ、実母の7回忌を欠席してしまったことに心がざわざわします。どうしたらよいかアドバイスお願いいたします。
こんにちは。今回は差別戒名について質問です。 突然ですが、差別戒名は本当に実在したのでしょうか? よく「戒名に動物の名前や「革」、「畜」、「屠」、などの 字を入れたものは差別戒名だ。」といった記述を 見かけるのですが、私は懐疑的に見ています。 なぜなら俗名に動物の名前が含まれている人はいますし (馬場、鮎川など)、生前の職業を考慮して革なめし業者に「革」 畜産業者に「畜」、屠殺業者に「屠」という字を入れた可能性も 十分に考えられます。 また、昔は人名に「糞」や「悪」という字を魔除けの為に入れる風習が あったそうなので、戒名に悪い文字を入れることが必ずしも差別的だとは言えないと思うからです。
真言についてお教えください 真言を唱えると御利益がある、または真言はやたら唱えてはいけない(ネット情報)などと言われていますが。 実際、真言を唱えることに どのような意味があるのでしょうか。 自分が坐禅会でいつもお世話になっている和尚様は 気分が落ち着かない時 地蔵菩薩の真言を唱えることがあると言われていました。 坐禅会に参加するようになり3年経ちましたが仏教に興味が湧いて参りました。 よろしくお願いします
お坊さんたちに4つ質問がございます。 どんなに難しい回答となってしまっても構いませんので(仏教を勉強して頑張って理解します)、何卒よろしくお願いします。 ① 人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。 ② 人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。 ③ 人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。 ④ 「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。
日蓮聖人は上行菩薩の再誕? それとも、応現? 再誕って事は上行菩薩は亡くなったのですか? よくわかりません ご教示よろしくお願い致します
初めまして、私の家には古くから伝わる「日蓮宗」の巻物がいくつか伝わっており、毎年年2回ご開帳させて頂きお祀りしています。 今年家の増改築に伴い、ご開帳を菩提寺の本堂でさせて頂けることになりました。その際に普段のご開帳では開けることの無い(古すぎてボロボロなので…)巻物をご住職と開ける事にし、お経を上げました。 中には、七面大明神が書かれた掛け軸でした。 それから七面大明神や毘沙門天に興味が湧き、仏像を、新しくした家に迎えたいと考えるようになりました。 普段から毎日、方便品・寿量品・陀羅尼品を仏壇で上げているのですが、毘沙門様をお迎え出来たとして、調べると「毘沙門天の真言」というものがあると読みました。 日蓮宗でも毘沙門様のご真言を唱えてもいいものなのでしょうか? それから、毘沙門様のお祀りの仕方などあるのでしょうか?
こんにちは。日本仏教と権力についての質問です。 時々「日本仏教は政治権力に迎合していたため堕落してしまった。」 というコメントを見かけるのですが、 日本仏教は本当に権力に迎合していたのでしょうか? また、仏教では権力や権力者は「悪」なのでしょうか? 私には権力が嫌いな特定の思想を持った人達が 大げさに言っているだけのような気がします。
私は父と祖母が最近亡くなり、遠方に嫁いだので嫁ぎ先に小さな写真を飾っていつも見守って欲しいなと思ってるのですが、最近だと小さい仏壇などもあるようで実家には大きな仏壇がありそこに先祖代々居るのですが、それとは別に仏壇を用意しても良いのか?その場合位牌なども必要なのか?写真だけで良ければ写真だけ用意してお線香をあげるなども考えています。何をどこまで用意する必要があるのか色々無知で教えていただきたいです。実家の仏壇には阿弥陀様が真ん中にいますが、私も用意した方が良いのか…そこまでの必要はないのか等気になります。 ちなみに我が家は門徒宗?らしいです。
自分の家には、祈祷してもらった護摩札があるのですが置く場所が迷っています。 お不動さんの仏像があるのですが、その上に 置いてあるのですが、お寺などは、お札を横に 一列に綺麗に並べて御本尊様の下の方に置いてあるのですが自分は上に置くよりそっちの方が御本尊様に思いが伝わると思うのですがどちらが良いでしょうか?どうぞコメントの方宜しくお願い致します。