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「行事・座禅・お経」を含む問答(Q&A)一覧

瞑想後の足のしびれを早く治す方法について

どうもお久しぶりです。 今回の質問は足のしびれを素早く治す方法についてです。 苦を無くすという目的の元、たまに寺に行ってヴィパッサナー瞑想を行っています。 身体が硬いので結跏趺坐を組むまで、音を立てながら2分ほどかかってしまうのですが何とか組めるようになりました。 10分位(感覚値)すると足がしびれだし、そこから10分(感覚値)ほどするとしびれを感じなくなります。 痺れが治まると眠気が出てくるのですが、呼吸を整えて観察しています。 そしてさらにそこから20分(トータル50分前後)ほどすると、白い雲のような眩しい光や、建物の外の駐車場に停車しようとする自動車等の相(ニミッタ)が見えてきます。 相が煩わしいので5分くらい観察したところで瞑想を止めてゆっくりラベリングしながら立ち上がろうとするのですが、足が折れたんじゃないかというくらい痺れて力が入りません。 座り方は、指導者の方が、座布団の端を折り曲げて二重にし、そこにお尻の座骨を落として、座布団に乗せるのは座骨だけ。ひざの端は地面につける。そして体を伸ばして肩の力を抜いた後、板になった様にとのことでした。 個人的には三角フラスコをイメージし身体をまっすぐにして、結跏趺坐を組んだ足は固定されており全く動きません。 ここで質問なのですが、痺れを早く治す方法などありますでしょうか。

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般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

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寺費など色々質問させてください。

まず、私自身、障害者(身体内で出血があり原因不明の病気です。)であり、生保と障害年金で生活をしています。 月にすると約78000程で光熱費や家賃の不足分等を支払っています。 毎月残るのは45000程です。 家族、兄弟姉妹は居らず単身独居です。 母の妹が一番近い身内になりますが確執があり連絡を取ることを拒否されています。(障害者だということで嫌われています) 先日、お寺より寺費の請求がきました。 約13000円です。 生活で目一杯で払えずにいます。 このことをお寺の方にも伝えたのですが分かってもらえず困ってしまいました。 大切な家族が眠るお墓がある、お世話になっているお寺様なので払いたい気持ちは山々です。 しかし現実は困難です。 再来月には母の1回忌を控えており、その為にやっと僅かなお布施と花代を貯めました。 1月~3月までは生保が351円しかいただけず、暖房もつけずに一日一食、食パンを一枚だけ食べて過ごしました。 母の供養のお布施を使うわけにはいきませんし… 知恵をお貸しください。 また、トバの名前は私の名字になるのですが、元旦那の暴力で夜逃してきた為に籍は抜けていますが元旦那の名字のままです。(離婚後に暴力を受けました) この名字のトバをお墓に立てたくはありません。 事情を話し、旧姓でトバをお願いすることは出来るのでしょうか? お教え願います。 そして最後の質問というか悩みなのですが、母の妹である叔母との関係はどうしたらいいのか悩んでいます。 昨夜、親戚が亡くなっていたのを地元の友人と話していて知りました。 すぐに電話で連絡を取りお詫びをしたのですが、叔母に私へ連絡をするように頼んだそうです。 しかし叔母から連絡は来ていません。 正直に話し、私の連絡先を親戚には伝えました。(他の親戚にも伝えてもらえるようお願いしました) 何も出来ませんがせめて最期のお別れくらいは言いたかったです。 なぜ、障害者というだけでそこまでの仕打ちを受けなければいけないのか…納得いきません。 だからと言って、この事を叔母に伝えても夫婦揃って役立たずの障害者!お前は恥だ!と罵られるでしょう…。 好きで病気になったわけではありません。 このまま肩身を狭くして生きていかなければいけないのでしょうか? 法要の事もあり落ち着かずにいます。 支離滅裂な文章になってしまいすみません。

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般若心経の「無」について

こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。

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浄土真宗の父の墓前で般若心経を唱えても良いでしょうか?

私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。

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ご真言と涜神恐怖

密教に詳しいお坊様にご質問・ご相談です。 護摩に何度か参加させていただいているのですが、一字金輪仏頂のご真言を最後によく唱えます。 興味を惹かれて、文献で調べましたところ、大変な効力のあるご真言で、他の真言や修法の効果をかき消してしまう。しかし修法の時に唱えれば、「あらゆる障碍(しょうげ)を払い修法を成功させる」とありました。 ここまでは良かったのですが、普段の家のお勤めの時、このご真言が頭に浮かんでしまいます。 これではお勤行の功徳がかき消されるのでは?  と心配にかられます。 また私は、子供の頃から、軽い涜神恐怖(とくしん恐怖)があります。 強迫性障害のひとつで、無意識のうちに、思ってもいないはずの神仏への冒涜的な雑念が、勝手に頭に浮かんで、その不安と恐怖に駆られる非常に厄介なものです。 こちらはお勤行の時に懺悔文を唱えることで、数年以上前に克服できたのですが、この「一字金輪仏頂」のことを知ってしまったために、ぶり返してしまいました。 つまり、冒涜的な雑念と一字金輪仏頂のご真言が、一緒に頭に浮かんで、せっかくのお勤行が台無しになるのでは? と言う脅迫観念と言いますか、不安です。 これは気にし過ぎでしょうか? やはりご真言は、口で唱えるか、意図して観想したものでなければ問題ないと考えてよろしいのでしょうか。 我ながら、バカな質問では? と思うのですが、よろしくお願い致します。

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