仕事の都合で、お盆期間中には、自宅に在宅出来ないので、お寺さんに8月5日に自宅にお盆のお参りにお越し頂きます。 お盆には少し早いので、お盆飾り・お供え物ではなく、毎月自宅にお参り頂いておりますので、いつも通りお寺さんをお迎えしょうと思っております。 お寺さんの御布施は、お盆のお参り頂いた様にお納めさせて頂きます。 お盆期間中は、仏壇のお盆飾り・お供え物をお供え致します。 仏壇のお盆飾り・お供え物がなくても、お寺さんに失礼に なりませんか?どうしたものか?困っております。 つまらない質問で申し訳ございません。お教え頂けますでしょうか? 因みに宗派は、真言宗です。
お仏壇の中を全て出して精霊棚に並べて、お仏壇の扉は閉めると聞きました。 御先祖様の位牌も、初盆を迎える息子の位牌も外に出して。 ろうそく、お線香も外に出して、阿弥陀如来様も外に出すのでしょうか?
知り合いに勧められ、思うところあって近場のお寺で一年に一度行われる祈祷会に参加しようと考えています。 ですが、恥ずかしながらお葬式以外でお寺と関わることがなく、どのような流れで行われるかの理解にまったく自信がない状態です。 ・祈祷料は熨斗袋に入れてお納めする形で差し支えないでしょうか。 ・後に予定が入っており、過度な露出はないもののスーツ等ではなくカジュアルな服装でお参りすることになる場合、ご祈祷は遠慮すべきでしょうか。 ・ご祈祷の最中は瞑目したり、自分でも手を合わせるべきなのでしょうか。それとも目を開いてご本尊を拝んでいてよいのでしょうか。 その他、初めて受ける人が見落としがちな作法などございましたらご教示くださいますと幸いです。
お世話になります。 月命日はなんのためにあるのでしょう? 命日は命日。一年にその日だけのはず。 故人を忘れないため? 大切な人を、忘れるわけがありません。 忘れるくらいのおつきあいなら、 それも必要ない気もします。 毎月、住職さんが来てくださるので 夫も私も、住職さんによいお話を 聞かせて頂いて、癒される日に なっています。 彼方の娘にとって、月命日は どういう日になるのですか?
いつもお世話になっております、ハルソラと申します。 先日、「法華経」の原文訳解釈本を読みました。 難解とされる法華経。成立の歴史的背景や細かな用語、意味などはとりあえずさて置き、法華経の最も大切な自身の人生に活かすべき教えとは下記だと解釈しました。 『私にとって、私自身は尊く大切である。同じように他者にとっての自分自身も尊く大切なのだ。 だから他者と接する時、尊く大切な自分と接するように相手の身になって考え、思いやりで接することである。(慈悲の心) その事で無理解、差別、偏見を超えてすべてのものが調和し、平和で穏やかになる。』 私はこのように理解した時、実に心穏やかになって、より良く生きるための智慧の核心に迫ったと思いました。 この解釈、理解はお坊さま方からしたら如何でしょうか? ご回答よろしくお願い致します。
どうもお久しぶりです。 今回の質問は足のしびれを素早く治す方法についてです。 苦を無くすという目的の元、たまに寺に行ってヴィパッサナー瞑想を行っています。 身体が硬いので結跏趺坐を組むまで、音を立てながら2分ほどかかってしまうのですが何とか組めるようになりました。 10分位(感覚値)すると足がしびれだし、そこから10分(感覚値)ほどするとしびれを感じなくなります。 痺れが治まると眠気が出てくるのですが、呼吸を整えて観察しています。 そしてさらにそこから20分(トータル50分前後)ほどすると、白い雲のような眩しい光や、建物の外の駐車場に停車しようとする自動車等の相(ニミッタ)が見えてきます。 相が煩わしいので5分くらい観察したところで瞑想を止めてゆっくりラベリングしながら立ち上がろうとするのですが、足が折れたんじゃないかというくらい痺れて力が入りません。 座り方は、指導者の方が、座布団の端を折り曲げて二重にし、そこにお尻の座骨を落として、座布団に乗せるのは座骨だけ。ひざの端は地面につける。そして体を伸ばして肩の力を抜いた後、板になった様にとのことでした。 個人的には三角フラスコをイメージし身体をまっすぐにして、結跏趺坐を組んだ足は固定されており全く動きません。 ここで質問なのですが、痺れを早く治す方法などありますでしょうか。
父親の13回忌が来月中旬ですが、知人よりお経は上げたほうがいいという助言をもらいました。 宗派がハッキリしないのですが、納骨堂に収めてあるお寺は真言宗のようです。 最悪、テープでそのお経を流すだけでもしたほうが良いということなのですが、真言宗でもたくさんお経の種類があるようです。 13回忌に適したお経を教えてくただければ幸いです。
こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。
いつもお世話になっております。 菩提寺から施餓鬼会の知らせが届いた のですが、申し込み方がわかりません。 仏様おひとりには1本分の値段というのは わかるのですが、我が家の先祖代々も 1本分の値段でいいんでしょうか? お知恵を拝借したく存じます。 よろしくお願いいたします。
まず、私自身、障害者(身体内で出血があり原因不明の病気です。)であり、生保と障害年金で生活をしています。 月にすると約78000程で光熱費や家賃の不足分等を支払っています。 毎月残るのは45000程です。 家族、兄弟姉妹は居らず単身独居です。 母の妹が一番近い身内になりますが確執があり連絡を取ることを拒否されています。(障害者だということで嫌われています) 先日、お寺より寺費の請求がきました。 約13000円です。 生活で目一杯で払えずにいます。 このことをお寺の方にも伝えたのですが分かってもらえず困ってしまいました。 大切な家族が眠るお墓がある、お世話になっているお寺様なので払いたい気持ちは山々です。 しかし現実は困難です。 再来月には母の1回忌を控えており、その為にやっと僅かなお布施と花代を貯めました。 1月~3月までは生保が351円しかいただけず、暖房もつけずに一日一食、食パンを一枚だけ食べて過ごしました。 母の供養のお布施を使うわけにはいきませんし… 知恵をお貸しください。 また、トバの名前は私の名字になるのですが、元旦那の暴力で夜逃してきた為に籍は抜けていますが元旦那の名字のままです。(離婚後に暴力を受けました) この名字のトバをお墓に立てたくはありません。 事情を話し、旧姓でトバをお願いすることは出来るのでしょうか? お教え願います。 そして最後の質問というか悩みなのですが、母の妹である叔母との関係はどうしたらいいのか悩んでいます。 昨夜、親戚が亡くなっていたのを地元の友人と話していて知りました。 すぐに電話で連絡を取りお詫びをしたのですが、叔母に私へ連絡をするように頼んだそうです。 しかし叔母から連絡は来ていません。 正直に話し、私の連絡先を親戚には伝えました。(他の親戚にも伝えてもらえるようお願いしました) 何も出来ませんがせめて最期のお別れくらいは言いたかったです。 なぜ、障害者というだけでそこまでの仕打ちを受けなければいけないのか…納得いきません。 だからと言って、この事を叔母に伝えても夫婦揃って役立たずの障害者!お前は恥だ!と罵られるでしょう…。 好きで病気になったわけではありません。 このまま肩身を狭くして生きていかなければいけないのでしょうか? 法要の事もあり落ち着かずにいます。 支離滅裂な文章になってしまいすみません。
こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。
晋山式のある曹洞宗のお寺様(金沢市)へ清酒を贈ろうと思っているのですが、お寺様に贈る場合の熨斗飾りの有無、水引の種類について教えて下さい。 ネット等では仏式の行事に生臭である熨斗鮑をおくらない=熨斗飾りをつけない、という記載で「熨斗飾りなし・蝶結び」 自身の家の菩提寺(他宗)の方丈様は 「熨斗飾り無し・結び切り」が良いのでは。 地域性もあるので、送り先の酒店に聞いてみてはという助言を頂いたので 金沢市内の水引も取扱う酒店に聞いたところ、「どちらかと言うと結び切り」 曹洞宗の禅センターという所に問い合わせた所、「熨斗有り・蝶結び」で問題なしという回答 曹洞宗の東京宗務所は「どちらの結びでも構い」という回答 お寺的には何回でもあって良いものだと思うけど、住職になる方にとっては一世一度だし...。先様に失礼のないようにしたいのですが。宗派、地域問いませんのでご回答お願いします。
お不動さんのお像の開眼について、ご質問です。 私の念持仏の開眼をお寺にお願いしましたところ、お護摩をたく日に来てくださいと言われ、護摩の煙であぶるようにしまして、開眼をしていただきました。 その後、ご縁がありまして、別のお不動さんのお像を、別のお寺で開眼する儀式に立ち合ったのですが、こちらは「護摩をたく日でなくても良い」とのことで、主に読経による開眼の儀式でした。 その時は、「同じ密教のお寺でも、開眼方法に違いがあるのかな」ぐらいにしか思っていなかったのですが。 今になって、疑問がいくつかでてきました。 (書物を見たところ、開眼方法が大雑把に出ていたのですが、こちらは主に読経による方法でした。) ・開眼の方法によって、何か違いがあるのでしょうか? ・大変失礼ながら、「手抜き」と言うものは無いのでしょうか?(と心配です) 聞きにくいご質問ですが、よろしくお願い致します。
灌仏会(花祭り)釈迦牟尼の誕生日に関する質問があります。 灌仏会(花祭り)釈迦牟尼の誕生日に於いて「天上天下唯我独尊」などの誕生偈を唱える宗派はありますでしょうか? また、その唱える誕生偈の文面とその引用のもととなったお経は何でしょうか? ご解説お願いいたします。
四十九日について質問です。 よく、四十九日には会食を設けるとか、参列者に引き出物を渡すとか言われているようですが、そのようなお金が無い場合、用意しなくても構わないでしょうか? お布施も分割で二万円工面するのがやっとです。
仏壇のロウソクの大きさに意味はありますか? 家では10号か20号のロウソクを使っていますが 以前 先祖供養(因縁罪障も) をお寺でして頂く際に お寺の方から用意する物を教えて頂き その中に ロウソクは出来るだけ大きい物を。 と言われました。 その時は20号か30号だったと思いますが 「大丈夫ですが少し小さいですね」 との事でした。 それまでロウソクの大きさについて 考えなかったのですが ロウソクの大きさの意味は どういうものなのでしょうか? 先祖供養の場合と 家で仏壇で使う場合 どの位の大きさのロウソクが 良いのでしょうか? 宜しくお願いします
たびたびお世話になります。浄土宗です。 四十九日まで食べてはいけないものはありますでしょうか? ときどき、肉や魚は食べてはいけないとか聞くのですが焼き魚や焼いた肉、卵、牛乳など避けた方がいいものはありますでしょうか? 何がよくて何がいいのかわからなくなってきました。 また、タンスの上に遺影を飾って、いつも使っていたテーブルに別に写真を置いて、私が食べてる物を一緒に食べてる雰囲気を出してます。遺影を飾っているところにはなまぐさ物はお供えしていません。(修行していた亡き祖母からの代々の教えです。) やめた方がいいでしょうか? お忙しいとは思いますがよろしくお願いします。
私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。
密教に詳しいお坊様にご質問・ご相談です。 護摩に何度か参加させていただいているのですが、一字金輪仏頂のご真言を最後によく唱えます。 興味を惹かれて、文献で調べましたところ、大変な効力のあるご真言で、他の真言や修法の効果をかき消してしまう。しかし修法の時に唱えれば、「あらゆる障碍(しょうげ)を払い修法を成功させる」とありました。 ここまでは良かったのですが、普段の家のお勤めの時、このご真言が頭に浮かんでしまいます。 これではお勤行の功徳がかき消されるのでは? と心配にかられます。 また私は、子供の頃から、軽い涜神恐怖(とくしん恐怖)があります。 強迫性障害のひとつで、無意識のうちに、思ってもいないはずの神仏への冒涜的な雑念が、勝手に頭に浮かんで、その不安と恐怖に駆られる非常に厄介なものです。 こちらはお勤行の時に懺悔文を唱えることで、数年以上前に克服できたのですが、この「一字金輪仏頂」のことを知ってしまったために、ぶり返してしまいました。 つまり、冒涜的な雑念と一字金輪仏頂のご真言が、一緒に頭に浮かんで、せっかくのお勤行が台無しになるのでは? と言う脅迫観念と言いますか、不安です。 これは気にし過ぎでしょうか? やはりご真言は、口で唱えるか、意図して観想したものでなければ問題ないと考えてよろしいのでしょうか。 我ながら、バカな質問では? と思うのですが、よろしくお願い致します。
祖父の50回忌の日が過ぎてしまいました。過ぎてからでも、やはり、50回忌はやった方が良いでしょうか? また、自宅近くのお寺に頼むと、檀家にならないといけない、みたいな雰囲気が有り、嫌なので、他の所で頼みたいと思っています。 この様に檀家にならなくても、お経をあげてもらうことは、可能ですか?