心を落ち着かせるためにも、最近周りでも話題の座禅を組んでみたいと思います。 ですが、私は足に障害があり、畳の上などに座ることが出来ません。正座も胡座もかくことは不可能です。その場合に同様な行為をするにはどうしたら良いでしょうか?体験で座禅、というお寺も何件かはあるのですが…。写経もやはり正座して行うのでしょうか?
初めまして。答えにくい微妙な質問だとは思いますが、どうか読んでいただけたらと思います。 私は10年ほど心の病で通院しております。基本的には安定していますが、時々今日みたいにとても気分が落ち込み、何もする気が起きない日があります。本当はベッドから起きたくもありません。 もちろん、そんな訳には行きませんし、起きないと余計に気分が悪化するのは分かっているので、なんとか出勤します。 そこでふと、お坊さんも人間ですし、心の病を持っている方や、そうでなくても「とにかく今日は辛い、落ち込んでいて何もしたくない」という日があるのでは?と思いました。(見当違いで失礼な事を言ってたら申し訳ありません...) もしよろしければ、差し支えない程度で、「自分の周りにはこういうお坊さんがいる」とか、「(具体的な解決方法がない理由で)落ち込んでいる時、こういう風な心の持ち方を心がけるようにしている」等といったご意見、その他どのようなものでも、よろしければ教えていただければと思います。 よろしくお願いします。
以前、アルコール依存性の母から息子を守りたい と相談した者です。 あれから 兄弟、親戚にこれまでの事や、息子の状態など全てを解ってもらう為ではなく、知ってもらう為だけに、ただただ話し 息子を連れて 母から逃げました。 母から離れて約一年が経ち、息子は、中学2年になり 人並みに反抗期もありますが以前よりもずっと歳相応の子供らしく思える様子がみえるようになりました。 まだテレビなどでアルコール依存性の人の番組を見たり、実家の近くに近づいたりすると 頭痛・嘔吐など拒絶反応をしめしたりはしますが 嫌な体験ではありますが 他の人より色々な経験を積んだ息子が誰よりも人の気持ちや、辛さをわかってあげられる強い男になれる気がします。 ハスノハに相談したあの時、私自身の精神的限界でした。毎日が辛く 母を殺めようと考えた瞬間もありました。でも母を私が殺めてしまえば残された息子が更に苦しむと考え 息子を殺めて私も自殺を… そんな事ばかりローテーションの様に考えてしまっていました。 ですが、なごみ庵 浦上様からの回答で本当に救われました。考え方を変えることができました。 今、こうして無事 ハチャメチャな反抗期中の息子とケンカできているのも 桜が咲いたと眺められるのも 何もかも普段の当たり前の様な生活の中な何もかもがあの時、なごみ庵 浦上様からの回答の一つ一つの言葉のおかげです。 お礼を伝えたくてこの場をお借りします。 本当にありがとうございました。
いつもお世話になります。 昨年 真言宗のお寺で護摩焚きをした際 祈祷札を授かりました。このお札の裏側には焦げ目のような汚れが、ありました。これは、お札を護摩焚きの火で炙ってるのでしょうか?
はじめまして。 私は、近い将来 大谷派で得度したいという目標を持っています。 在家であり、妻帯者であるため、お寺に入ることは無理でしょうか ら、どこかの寺院にお世話になりながら、活動できたら、という思 いでいます。 しかしながら、地元を離れ、縁も ゆかりもない土地に住む私にとっては、頼るお寺が見つかりません。 近くのお寺の報恩講や法話会に参加しても、なかなか、深い話ができないまま、一年近く過ぎています。 そもそも、ご住職のお力添えなくして、得度が出来ないことはわかりますが、弟子をとって得度するようなことを親族以外の人にも行ってくれるのでしょうか。 また、その場合、一般的に謝金等は礼儀として必要なのでしょうか。師匠と弟子の関係というものが、一般家庭で育ち、サラリーマンとして働く私にとっては、なかなか想像がつきません。 ついつい、逆の立場で考えてしまうと、一般の人の面倒を見て、得度させたところで、メリットがあるのだろうか・・・など考えると、なかなか深い話が出来ません。 何かしらアドバイス頂けたら幸いです。
自分自身の考えに限界を感じています。 人生的な考えであって、哲学書などを読みふけっています。 ただ、仏陀の教えに関して詳しく書いている書物を読もうとしても どうしてもその介錯が何か仏陀の教えと言えるものは違うことのように解釈をしている翻訳家が多いように感じます。 仏門を修めている方にその辺りを詳しく書いている本や、自分は仏教や仏陀の教えをこうして学びました、というものがあれば教えていただけるでしょうか。 よろしくお願いします。
特別信仰心が強い訳ではありませんが、お墓は天台宗のお寺にあります。 人が亡くなったら1周忌迄はどのような道のりを歩んでいくのでしょうか? 49日迄は家に居るときいたことがあるのですが、実際天台宗だと亡くなり通夜、葬儀その後をどうゆう経過を辿るとされているのか教えてください。
こんにちは、相談させてください。 よく行くお寺のお坊さんに一目惚れをして、よかったら連絡を下さいという一言を書き、連絡先を書いた手紙を渡しました。 人生で初めてのラブレターでした。 待つ事、早1ヶ月お返事が来ません。玉砕です。 返事がないことが返事。 とわかっているし、覚悟はしていましたが、やはり気になってしまいます。 それに加え、嫌がられるかなとか、そのお寺中の噂になっていたらと少し怖くて、そのお寺にも行けなくなってしまいました... 全てはわたしが決めてした事なので、仕方がないですが、もう一度そのお寺に足を運んでもいいと思いますか? 避けられたり、嫌がられたりするのがとても怖くて、悩んでいます。
たびたび神経質で奇妙な質問、申し訳ありません。 仏様と身近になりたくて、「懐中仏」をいただきました。 (また旅行先等での勤行を行なうため) お不動様と三面大黒天様です。 こちらにも開眼をしたいと思っております。 自宅の祭壇にお祀りしているお不動様は同じ町にあるお寺で開眼していただいたので、同じお寺にお願いしようと思っております。 ところが祭壇の大黒様は、(開眼済みの仏像を通販でいただいたため)非常に遠方のお寺で開眼をしていただきました。 お不動様をお願いしたお寺様では「うちでも大黒様の開眼はできます」と言っていただいているのですが、お願いしてしまっても良いのでしょうか? (ややこしいことに宗派も違います) それともやはり、祭壇にお祀りしている本命の大黒様を開眼していただいた遠方のお寺に、多少無理をしてでも行って、こちらで開眼すべきなのでしょうか? とある人の忠告では、「お寺とのご縁があるので、同じ仏様でも何から何まで同じに考えてはいけない。またお寺との義理もあるでしょう」とのことでした。 こうした場合、どうすべきでしょうか。 アドバイスいただけましたら幸いです。
20年ぶりに勧誘されたことに動揺しています。 20年前に宗教に勧誘されました。 お札を置いて、毎日朝夕にお水を替えてあげて拝めば、 夫婦両家のご先祖様の供養が出来る。というもの。 確か、月に2000円程度の会費?みたいなものがありました。 先祖のお墓が遠方にあり、仏壇なども特にない私は、 家でご先祖や祖父母の供養ができるのならと受入れて拝んでいたのですが、 数日後、私にお札を進めた方が知らない人をつれて来訪し、 内容としては、私にも入信者?を増やせというもの。 そうするとご先祖の供養となり、負の因縁みたいなものが消えていくが、 そうしないと、子孫に代々その負の因縁が降りかかり不幸になると。 例としては、子供が病気になるだとか、非行に走るだとか。 私はそういう勧誘のしかたがあまり好きではなく、 その宗教?みたいなものにも魅力を全く感じなくなってしまい、 お札を返したいと伝えたのですが、聞き入れてはもらえず、 来訪しては数時間帰ってくれないという事が何度もありました。 強引に説得されるので、半ば喧嘩のようになりながらも、 どうしても諦めてもらえなかったので、 本部を探して電話にて問合せましたところ、 「会費を入金しなければ自動的に脱退になる」との事だったので、そのようにさせて頂き、 来訪されていた方々は以後、家に入れないという事で対処しました。 その後、何度か忘れた頃に来訪される事はあったのですが、 玄関先で断っていました。 それから20年が経って、突然その方たちが再度訪問をされました。 入信する気は全くありません。 が、20年も経って何故? という気持ちが沸いてきて、ざわつく気持ちに困っています。 何故私を思い出したのだろう。 嫌な予感でもしたのだろうか。 などです。 以前、私にとって一大事があった直後に来た事があり、「ほらね、そんな気がしたのよ」と言われました。 (言わなきゃいいのに誘導尋問に乗って教えました。当時は別に偶然でしょうと思っていましたが。) 今回の来訪では 「あなたの不幸を予言しました!」なんて事は言われていません。 勝手に不安な気持ちになってしまいます。 気持ちが悪いのです。 私はこの出来事をどう受け止め考えたらよいのでしょうか。 気持ちを強く持てる考え方はありませんでしょうか。 長くなりましたがよろしくお願いします。
ハスノハ初心者です。 殆どのお坊様方の下さるご意見は温かく時に厳しいものもあり、大変親身になってお答え下さっているのだと感じます。 しかし先ほど私の質問に対してではないのですが、ショッキングな回答を見かけてしまいました。 あるお坊様が「結婚は女性向き」「結婚制度は女を守る為のもの」等と回答に書かれておられたのです。 要約すると、女は自分に見返りを求めたがる傾向が強いからこそ結婚すべきだし、女は結婚により守られる存在だ、といった感じです。 このお坊様以外にも「子供を作らないのは身勝手」だとか 「男女には向き不向きがあるからこうした方がよい」等と仰るお坊様方もおられました。 男女は対等な存在であり、結婚は支えあい愛する為にするもの。 女だからといって弱くて至らない存在として守ろうとするのは対等ではなく見下しているのと同じ。 子供は授かりもので、その選択も夫婦の自由意思によるもの。 男女に性差はあるがあくまで傾向でしかなく、腕力等ハッキリ違いがあるものを除いて「向いている向いてない」と決めつけるものではない。 私はこう考えています。 そして当たり前のことではないでしょうか。 とても前時代的なお坊様がおられること、そしてこんな書き方はしたくありませんでしたが差別的な発言をされる方が少なからずおられることにショックを受けております。 こんな風に思う私はおかしいのですか? ハスノハの印象が変わってしまいました。
婚家親族に拝み屋さんがいらっしゃいます。 観音様以外にも複数奉られており、一族護られているそうです。 その婚家のお姑さんから嫁いびりを受けております。 他人への差別発言もされますし、動物の虐待のような行為もあるようですが、それでも神様は護るものなのでしょうか。 他者へひどい事をしても神様に護られる家系は存在しますか?
たびたび神経質な質問をして申し訳ありません。 阿弥陀様、お不動様、三面大黒天様をお祀りしています。 勤行は原則、毎日行なうものと聞き、その通り実践しております。 しかし出張や里帰り、旅行等で家を数日あけざるを得ないことがあります。 あるいは病気になるかもしれません。 仏様は怒ったりはしない。 しかし天部の神様は、怒ったりはしないが、失礼にあたる。 と聞きました。 ある人(在家)は、理由をお話しして旅行に出れば、まったく問題ないと言います。 また別の人(’在家)からは、あらかじめ勤行を休むことが分っている場合、「拝み溜め」をした方が良いと聞きました。つまり2日休む時は、前の日に休むぶんを合わせ3回勤行するべきなそうです。そしてこれは外出前に前もって行うのが原則と聞きました。 可能な限り、私は「拝み溜め」をしています。 ただ「拝み溜め」の場合、1日2日の短期旅行の場合は良いのですが、1週間以上の長期旅行となると、少々大変です。 また急な出張等で時間が無い場合もあり得ます。 こうした場合、どうすべきなのでしょうか? よろしくお願い致します。
仏像は開眼(魂入れ?)をしなければ、ただの人形、置物と聞きました。 それで土産物の観音様や大黒様の像は部屋のインテリアにしても、問題無いと聞きました。 ところが仏壇を新調した時に、ご本尊の後に脇侍の像を新しく入れました。 ご本尊はもちろん開眼しているのですが、脇侍はまだです。 この場合、脇侍は仏壇の飾りに過ぎず、やはり開眼の供養を行なった方が良いのでしょうか? ある人(在家)の意見では、「ご本尊様であっても、開眼供養をしなくても、毎日勤行をきちんと行えば、開眼したに等しくなる」と言うのですが、そうなのでしょうか? ご教示頂けましたら幸いです。
以前、何度か質問させていただきました。 私は信仰心が強く、仏様を信じています。 でも、祈って病気が治るならみんな死なない と言うようなご回答をいただきました。 ごもっともだと思い、見返りを求めていた 自分を反省しました!そして私は心配性です。 別の質問をしたとき、仏様を信じているから このままではいけないと、仏様がハスノハへ 導いてくださったのです。とご回答を いただきました。携帯を変えたので質問が 残っているかは確認してません。 このハスノハでたくさんのことを勉強 させていただきましたが、結局物事は なるようにしてなり、起こるべくして起こり、 現実をどう受け止めるか。なのかなと。 仏様を信仰しているのはただ人が仏様を 信仰することでいいことをした気分になり 救われるような気がするからで、 その後いいことや悪いことが怒っても 仏様の力でもなんでもなく、ただ起こるべく して起こっただけなのかなと思うようになりました。私は祖母に小さい時から仏様に 手を合わせなさい、朝起きたら朝日に向かって 手を合わせ世の中の人の平和を祈りなさい、 そうすると心が穏やかになるんよと 言われて、できるときはそうしてきました。 小学生でひいおばあちゃんが亡くなり、 ショックで落ち込んでいると般若心経を 覚えなさいと言われ、毎日写経しました。 何年か経ち、私が祖母の部屋でなんとなく 写経していると、もう1人のひいおばあちゃんが 亡くなったと連絡がきました。 私が写経している間に眠るように亡くなった そうで、祖母が、ひ孫のお経で逝ったんやね と言っていました。他にも亡くなった人や 仏様との結びつきを強く感じることが 小さいころからたくさんありました。 その度に私は感謝し、手を合わせました。 つらいことが怒っても仏様なんかいない! とは思ったことはなく、どう乗り越えるか 私が強くなるための試練を与えて下さってる と信じて超えてきました。 でもハスノハで仏教のことを いろいろ教えていただきましたが、 現実を見せられた気持ちになりました。 仏様なんか!とかではありません。 私が信じてきた仏様はいないのですか? 人が勝手に仏様と結びつけているだけで。 そう思うと、手を合わせる意味がわからなくなってしまいました。仏様なんか!とかそうではなく、純粋に混乱しています笑 複数ご回答いただけると嬉しいです!
こんばんは。 少しだけ心がしんどいなあ、というときにいつも開くhasunoha。皆様方の問答に共感しては時に涙し、頑張って前を向いている方々を見ては自分を奮起させるきっかけにさせていただいております。 今回は心の葛藤などの悩みではなく、お坊さんの敬称についての質問です。是非お教えください。 お坊さんの敬称で、「和尚様」「お坊様」というのは正しいのでしょうか。流派によって違うものですか? また葉書の宛先などは、 〇〇寺 住職 △△様 で失礼に当たらないでしょうか。 △△の後に続く特別な敬称等あれば是非お教えください。 いつもお世話になっている方ですので、出来るだけ失礼のないようにしたくこちらで質問させて頂きました。仕様もない質問で申し訳御座いませんが、お答え頂けますと幸いです。
保育士をしています。 子どもたちは鬼ごっこが大好きで、私も、色んな鬼ごっこを子どもに伝え、一緒に遊んできました。 しかし、最近、鬼から逃げるという遊びは仏教の観点から考えると良くないのではと思い、不安になり、子どもから誘われた時にとても困ってしまいます。 ご意見をよろしくお願いします。
私は浄土宗の檀家です。 お仏壇も阿弥陀様を主役におまつりし、毎日「阿弥陀経」を読誦し、発願文を読み、お念仏を100回唱えております。 しかしお不動様と大黒様も大好きで、阿弥陀様とは別に個人的な持念仏として、毎日勤行しております。 浄土宗のお寺にもお不動様をお祀りしている寺院もあること、個人的に尊敬している祐天上人がお不動さんと縁のある方であったこと。 またお不動さんを開眼してくださった密教系のお寺でも「阿弥陀様と共に信仰しても構わない」とアドバイスをいただいたことから、問題無いと考えていたのですが・・・ しかし法然上人のご著書を読んだところ、専修念仏では雑修(お念仏以外の仏道修行)は行わない方が良いと書かれていました。 阿弥陀様以外の仏様に浮気をする雑修は、往生の妨げになると。 (真宗では特に厳しく、阿弥陀様以外の仏様は、原則祀らないと聞いております) しかし家の菩提寺の浄土宗のお寺では、お地蔵様や聖観音様、馬頭明王様も祀られています。 (菩提寺とは遠方に住んでおり、ご住職とはほとんどお話しできません) 浄土宗は、本当のところ、雑修をどう考えておられるのでしょうか? ご意見をいただけましたら、幸いです。
お坊さんの1日のスケジュールはどんなものか気になります。 やはり朝は早く起きて、夜遅くに寝てらっしゃるのでしょうか? お寺によって様々な催し物も開催されているようなので、お坊さんとはとても活動的な人達なのでは、と思っているのですが...。 hasunohaで様々なお坊さん達の取り組みを知り、質問してみたくなりました。 よろしくお願いします。 (前の質問、自殺をしたら地獄へ行くの?では多くの方々から回答を頂けたのにも関わらず1人1人にきちんとしたお礼ができず申し訳ありませんでした。一度お礼を書いてしまうと、後から書いてももう反映されないみたいですね...?参考になりました、ありがとうございました。)
密教をご存知のお坊様に、質問をさせてください。 3つ質問があります。 「越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)」が非常に気になっております。 密教には、在家の人間がやってはいけないことがあると聞きました。 在家の人間が、阿闍梨の許可なく、勝手に真言を唱えたり、伝授なしに梵字を書いたり手印を結んだりするのはいけないと聞きました。 これを破ると越三摩耶戒罪、越法罪という宗教上の罪になる。 何の功徳も、ご利益もなく、徒労に終わる。 「大叫喚地獄に落ちる」とか「無間地獄に堕ちて出ることができなくなる」という恐ろしげな記述もありました。 1つ目の質問です。 何人かの先輩の信徒(在家)から色々と聞いて、自分なりに考えをまとめました。 ・真言なら唱えても良いし、功徳もご利益もある。 ・手印を結んだり、梵字を書くのはやめたほうが良い。 ・阿字観はお坊さんの指導のもとやること。独学は駄目。 ・本格的な祈祷の真似事をやるのは絶対に駄目。 ・「地獄に堕ちる」は、師僧の指導に従わない・修行のルールを守らない修行僧を戒める方便。でも原則として守らなければならない。 これでよろしいのでしょうか? 2つ目の質問なのですが。 私は信仰を持つ前から、仏教に強い興味がありました。 多くの本を集めて読んでいたのですが、愚かな素人の悲しさ、当時は越三摩耶戒罪のことは知らず、手印や梵字の書き方の本、さらに儀軌や口訣書を含めた専門書もかなりの数、蔵書として所有しております。 また密教美術にも惹かれ、曼荼羅の色紙も購入してしまいました。 しかし阿闍梨の許可なく、曼荼羅を建立したり、儀軌や口訣書などの専門書を読むのも越三摩耶罪に当たると聞きました。 ・小さな仏壇の上に、両界曼荼羅の色紙を額に入れて飾っているのですが、これを気にするのはやはり神経質すぎるでしょうか? ・密教の専門書を読むことを気にするのも、神経質すぎるでしょうか? 3つ目の最後の質問なのですが、先輩の信徒(在家)から、 ・「そもそも貴方は結縁灌頂を受けておらず、正式に三摩耶戒を授かっていないので、越三摩耶罪は成立しない。だから気にする必要はない。しかし灌頂を受けると越三摩耶罪が成立してしまうので、注意しなさい」と聞きました。 この解釈は正しいのでしょうか? 長文かつ生意気な質問で、申し訳ありませんが、ご意見を伺えましたら幸いです。