身の回りで怪奇現象が起こり、お寺にお祓いにいったところ、亡くなった祖母が心配して、神鬼として降りてきてくれた、と住職先生がおっしゃっていました。お祓いの最後のほうで、五色のはたを目を閉じてひきました。 五色のうち、 青黄白の三色の組み合わせは何を表すのでしょうか。
変な時間に目が覚めてしまって(^▽^) 久しぶりに質問させていただきます。 私の祖父母は昔、祇園で八百屋を経営しておりました。(今はやってません)小さい頃は配達について行ったりしていたため、四条大橋を通ることがよくありました。その四条大橋でよく、笠をかぶって、お坊さんが来ているような黒の衣を身にまとって、お経のようなものを唱えている一人の(たぶん)女性がいました。その方が本当にお坊さんなのか自分で確かめていないので、よく分かりません。そしてお金が入れられるような箱を首から下げていて、人が寄ってくると説法なのかよくわからない話を始めて、それでお金を集めていた方で小さい時、祖母に「あの人お坊さんなのー?」って聞いたら、「偽モンやで、寄らんとき」って言われて、ずっとあやしい存在でした。地元でも知られていて、確かによく見てみるとその人の話に耳を傾けてる人はだいたい観光客で、地元の人はみんなスルーでした。 私が高校生くらいの時には見かけなくなったので、お亡くなりになられたのか、どこに行かれたのかわかりませんが、暑い中、寒い中も一日中立っている人でした。もし本当に偽物ならあんな、やり方で金を集めるなんて許せません。最近、偽の募金集めもよく見ます。 そういうことをするお坊さんっているんですか? お坊さんではないと思うんですが、、、 京都特に四条大橋大橋近辺にお住まい、または橋を利用されるお坊さんで知ってる方居られませんか?ほんの10年前の話です。ずっと気になっていたので質問させていただきました(❁´ω`❁)
体調悪くて、ほとんどひきこもり生活です。それまではトレーニングジムが日課で、週3回は通ってたのですが…失恋して全く体が思うように行かず、女性の方なら、経験もしてる人いるだろうから、この気持ちわかりますよね。一度、お寺行って、無心になって心の洗濯したいと思う時あります。今は、うつ病とパニック障害併発してるから、余計にマイナス思考。坐禅くんだり、写経書いたりするお寺が,徳島にはあるのでしょうか?知ってる方教えてくださいませんか?すいませんお願いします。ネットで探してたら余計に体力使って疲れます
いつもお世話になっております。まずはご奉告です。 昨日早速に仏具屋さんに行ってまいりました。お位牌、仏壇、三尊像、仏具等のご荘厳を、お店で夜7時ごろまで考えました。 素敵なお仏壇になりそうです!ありがとうございます!! * さて、本題です。「呪力」って何ですか? 我が宗の本山での祈祷や、天台真言の護摩、火加持、虫封じは呪力には含まれないんでしょうか。 そもそも、護摩などの祈祷は本来どういった意味があるのでしょうか?私個人的には、「ご本尊、不動明王様に祈りをささげる儀式。 願い事などなくともよい」という気持ちで臨んでおります。 現に自分のための願い事は最近になって本当にしなくなりました。 * 仏法的には間違った解釈なのでしょうか? ご教授頂きたく存じます。よろしくお願い申し上げます。
私は保守系な思想の持ち主で、政治に関心があります。 これといった活動はしていませんが、朝一番に北朝鮮問題などや与野党のnewsに目を通します。 ですから、左よりなメディアや自分の相反する思想の方のデモなどに反感を持っていますし、 事実と違う事を報道していると思い腹が立つ事が多々あります。 (保守でも戦争は反対だし平和が一番です) しかし、最近はそれが執着の元になっていると思うので、なるべく関心を持たない様にしています。 そこで質問ですが、一般的なお坊さんは政治には関心がある方もいらっしゃるのでしょうか?また、お坊さんが政治活動をすることはどう思われますか?
どうしても気になることがあり、ご質問いたします。 5〜6年ほど前、家族で京都旅行をしていたときのことです。 東山区にある護国神社や高台寺のあたりだったかと記憶しています。 わりと広い坂道を歩いていると、デモ行進をしている団体がやってきて、その中に黒い袈裟を着た優しそうなお坊さんがおられました。 珍しい組み合わせなので思わず注目していると、お坊さんの方もこちらを見ていることに気がつきました。 そして、距離が近づくと、そのお坊さんは私に向かって手を合わせました。 立ち止まっていた私たち家族の後ろに神社があったため、最初はそちらに手を合わせているのかと思ったのですが、父に「お前に向かって手を合わせるんじゃないか」と指摘されました。 たしかに私とそのお坊さんは終始目が合っていたので、私に向かって手を合わせていると考える方が自然です。 でもなんで?どうして?とドキドキしていたのですが、お坊さんは私に手を合わせたあと、そのまま通り過ぎていってしまいました。 とてもにこやかなお坊さんでしたので、全く嫌な気持ちにはなりませんでしたが、通りすがりのお坊さんに手を合わせられたのは後にも先にもこの一度きりなので、不思議な出来事として印象深く記憶にのこっています。 そこで2点ほどお聞きしたいのですが、お坊さんは、通りすがりの誰かに手を合わせることがあるのでしょうか? (それともはやり私たちの思い違いで、お坊さんは神社に向かって手を合わせいらっしゃったのでしょうか) また、そういったことがある場合、お坊さんはどのような意図があって私に対して手を合わせられたのでしょうか? よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 先ほど位牌を壊してしまったと質問した者です。 * 私たち浄土宗檀信徒は、 「念仏信徒のところには阿弥陀如来が25菩薩を従えて臨終の夕べに迎えに来てくださり、次の瞬間には極楽の蓮の上に『不退転の菩薩』として生まれ変わらせてくださる。」と教わっています。 * これはつまり、 「生前どんなにひねくれていても、意地悪だった人も、極楽に往生すれば慈悲深い性格になる」 「鏡でもって生前の行いを全て見せられた後、意地悪や虐待を心から深く反省、懺悔、後悔し、優しい菩薩さま、仏さまになる」 ということで間違いありませんでしょうか? * ですが、どうしても私は法的かつ生物学的な親たちを好きになることができません。毎年お盆が来るたびに同じことを考えてしまうことが想定されます。何度位牌を作り直しても意味はないでしょう… どうかご教授のほど、よろしくお願い申し上げます。
いつもお世話になっております。 単刀直入に申し上げます。毒親の位牌焼きましたっ!スミマセン!! 迎え火に投げ込んだら、ジジイの方は融けて真っ二つ、ババァの方は表面塗装が剥げました。 ✳︎ もう一つ、バブルの夢にどっぷり浸って威張り散らしていたジジババへの仕返しとして、 今日は現場のトイレをいつもの倍本気だして掃除してやりました。おまけに電車の中でお子さんのお守りもしてやりました! 仏様を信仰していたと思いきや実際は祟り信仰、根本教義である慈悲利他に真っ向から刃向かって、近所の皆さん、店子さんや道端の人に平気で迷惑かけたりdisったり、その上八方美人な両親への、今までできなかった最高の反抗です!! ✳︎ 私の心もスッキリ!晴れ晴れしました。 と、ここまではいいんですが、これって立派な悪心出仏血罪ですよね? 過去にも苦しんでた時期に阿弥陀様のお像の手足を折ってしまっています…。反省してますが。 ✳︎ 大丈夫ですよね?地獄落ちませんよね? くだらない質問とバカなことして本当にごめんなさい…でもこうでもしないと収まらないんです。 ここでも以前にこの手の質問をしましたが…やっぱり私に先祖供養は難しいというか、無理です! ✳︎ こんな私でも、阿弥陀様は極楽へ連れて行ってくれますか?教えて下さい、お願いします…
いつもお世話になっております。 ネットで地獄絵図を見ていたら 地獄の中に白い観音様が立ってるものを見つけたのですが、これは、観音様が地獄に来て亡者を助けるという意味があるのでしょうか?
托鉢とはどのような行なのですか? 駅前に立っているお坊様がおられるので 見たらお布施をしています。 大概私もお坊様も無言です。顔も見ません。 たまに「ありがとうございます」と顔を見ておっしゃるお坊様もいてびっくりしますが 私がありがとうございます。とお金を入れるのが礼儀なのでしょうが、 意味もわからず、ありがとうございますというのも変なので 意味や托鉢について教えて下さい。
僧侶になりたいと思っています。 私は高校入学をして間もないころにうつ病になり一年間不登校になり、高2の春に通信制高校へ転校しました。 転校後は以前よりも回復し、ボランティア活動へも従事できるほどになっていましたが完全にうつ病が治ったわけでもなく日々人との関りや両親の喧嘩が絶えない家でしたのでそんな家庭のこと、バイトをしておらず親に頼ることへの罪悪感など様々なことに悩みながら過ごしていました。 そんなあるときに、インターネットで日蓮宗のご僧侶の方が主催する唱題の会というのを見つけ、参加してみることにしてみました。 初めて参加したときはびくびくし緊張もしていましたが唱題を進めていくうちに、まるで登山でもしたかのようなすがすがしく心が空っぽになるような感覚を体験し深い驚きと感動を感じました。それから何度か通うようになり僧侶の方のお話を聞くうちに心が軽くなるような、ストレスや悩みを置いていけるような安らぎを感じました。 私は幼いころから今日にいたるまで、一貫して人の役に立つ人の心を支えたい安らぎの手助けをするような人になりたい思っています。高校時代にボランティアを通して東日本大震災の被災地やそこで葛藤しながらも前向きに生きる人たちと触れ合いました。また自分の様にうつ病や家庭のことで悩み苦しむ同級生や友人の姿を多く見てきました。 そのような人たちのために、自分が安らぎを感じた法華経・お題目で人の役に立ちたいと思っています。この様な理由から僧侶になりたいと思いました。 しかし、現実的には師僧の方を見つけることや家庭のことを考えると就職したほうが良いのか、また宗門指定の大学へ進み僧侶になるべく学びその中で師僧を見つけるか、はたまた就職をしてそれから先の人生で僧侶になるかなど日々悩んでいます。また現在もうつ病の気がある私が果たして僧侶になれるのかというのも心配な部分です。気持ちや思いはあるものの現実的な部分が漠然としてしまってます。 唱題の会の僧侶の方とは、昨年末に家庭内が大きく揉めそれが発端で一時期引きこもりのような生活になってしまい、その間唱題会へも行っておらずそれから音信不通になってしまっています。 拙い文が長々となってしまって申し訳ありません。言葉の間違いがありましたお許しください。 どうか、皆様のご意見を頂戴させていただけますようお願い申し上げます。
お坊さん自身がご自身が好きな仏様がおられたら教えて下さい。また理由があれば教えて下さい。 題が自分にぴったりの仏様という題ですが ぴったりというのは受験や仕事など目的に向かってというのもあります。 何か分からないけどご縁? かも知れないものがあるような感じがします。
坐禅をなさる宗派のお坊さんは1日にどの位、坐るのでしょうか? また、接心の間は辛くはないでしょうか? 素朴な質問ですみません。 よろしくお願いします。
お坊さんの煩悩とは何ですか? 煩悩が生じた時にそれをどう対処されますか? 失礼過ぎてすみません。
NHKの風土記という番組で、徳島の阿波おどりが特集されていました。 大通りを踊り歩く他に、各町々でも小規模ですが踊りを披露して、いい光景だなと久しぶりにテレビ📺に見入っていました。 しかし、途中で警察がきて、騒音の苦情がきたので町中で踊るのをやめてほしいと、後味の悪い終わり方でした。 お寺でも除夜の鐘がうるさいと苦情がきた結果、鐘をつくのをやめたり昼間についたりするお寺もあるようです。 世のうつりかわりといえばそれまでですが、やっぱり楽しみにしている人もいるわけです。 しかし、苦情をいう人の気持ちもわかります。ゆっくり寝たい人もいるでしょうし、正月とはいえ朝から仕事の人もいるでしょう。 どちらも正しいし、どちらも間違っていません。 とはいえ、そうやって日本の風土、伝統がなくなっていくのは少し寂しい気もします。 お寺としては、伝統よりも人々の生活に沿うことが正しいのでしょうか? 世のならいで古来より続いてきた風習がたえることも、それもまた仏様の意思なのでしょうか。
私の上司はヘアスタイルとして坊主頭をしています。 法事に行った際、いらっしゃったお坊さんから 「あなた清々しい顔をしてるなぁ。面倒見てあげるから坊主にならんか?」 と誘われたそうです。 上司は「転職考えてるんでお願いしようかなぁ」と冗談で返したそうですが。 上司はその話をしながら、「本気で行こうかなって思った」と私に話してきました。 上司は、自分の思い通りにならないとすぐに文句やクレームをつけたり、 損得勘定がとても強い人です。 毎日のように給料への不満、宝くじが当たらないとかぼやき、 面倒なことは人に押し付け、ミスは人のせいにしたり、 あれ欲しいあれ食べたい、など、欲が尽きることがありません。 誰でも欲はありますが、欲多き人間が簡単に僧侶になれるのでしょうか? また、初対面の人を坊主に勧誘するお坊さんは、大丈夫なのでしょうか? こういった質問を書いている時点で、過去にとらわれていますよね。 ただ、少し僧侶の世界はどうなっているのか興味がでてきましたので 現状をお聞きしたいとご質問させて頂きました。
お遍路巡礼してますが、本堂と大師堂がありますが、両方とも般若心経唱えるものなのですか?大師堂には弘法大師のお姿が見えるお寺もあって、私は弘法大師の優しいお顔をじっと見て、心の中にある邪気とかお願い事をつぶやいてますが、これではダメなのでしょうか?巡礼してる人それぞれ違ってて、私はこれでいいのかな?と、思うところがあります。もちろん、ロウソクとお線香は立ててますが…。
初めまして、私はタイ国からです。早速ですが、ご質問いたします。和尚という言葉がよく理解できませんので 意味を教えていただきたいと思います。因みに、お坊さんと和尚には同じ意味ですか? 日本語はまだ十分ではありませんので ご遠慮なく、どんどん教えて下さい。
宗教家と臨床心理士の共通点と違いはどんなことが考えられますか? ユングの分析心理学の勉強をしているなかで、宗教的な考えがでてくることもありますが、宗教の実践者からみた意見をいただけましたら幸いです。 表面的に仏教を学んだ私から感じる共通点は、禅の「公案」が心理療法でいう夢分析、仏性というのが、ユングでいう、意識と無意識の全体性の中心にあるとした自己(セルフ)。などなど 単に依頼者に相談にのるという単純な共通点ではなく、宗教家も臨床心理士も無意識的なことが深く関わっている印象を持ちました。 また、お坊さんで臨床心理士の資格を取られる方がいらっしゃいますが、反対に臨床心理士が悟りの修行をすることの意義など考えられることがありましたらお願いします。
生後8ヶ月の息子を亡くした母親です。 仏壇に花を備えています。 バラやゆりなどの花も備えています。 幼くして亡くなった息子。 堅苦しくはなく、子どもだからこそかわいく 色んなものを見せてあげたかったから 菊などの仏花にだけこだわらなく バラなども備えています。 話したところ義母に注意され今度見に来るとまで言われました。 お墓などに備えるのは仏花にはします。 だけど仏壇など家にあるものにも昔ながらのルールや風習を取り入れないといけないですか? 自分の故人に対する思いで供える花を変えることはそんなにいけないことですか?