主人が亡くなり、両親に会えたかな…と何気なく話をしたら、Sの方に、仏教は3年経たないと会えないんだよ、Sならすぐ会えるから、入りなさいと言われましたが、本当ですか? Sに入る気もありませんし、Sの方達を否定もしておりません。それぞれ、信じる道を進んでよいと思います。ただ、本当なのかな、と思い、こちらに質問させていただきました。
5月末に、坐禅会に行くのですが、情けないのですが、何を尋ねようか考えあぐねています。 そのお方の坐禅会は、3ヶ月待ったもので、 決して少しでも無駄にしたくなく、有意義なものにしたいのです。それならば、大分前から考えられただろう!と思われると思いますが、 ある程度は、質問を纏めたのですが、いまいちパッとせず、煌めかないのです。 なぜ坐禅会に行こうと思ったかというと、随聞記に自分で正しいと思うところがあっても、 もっと正しいところがあるかも、しれぬ。広く師僧たちにも尋ね、先人の言葉なども調べてみるべきである。と書いてある事と、僕の師事している方も、色んな方に会って、尋ねるのがいいよ!と言った事です。 もう一つあって、今、思うところ、僕は、すぐに自惚れて得意になり一つの見解に落ちて、それで人や物を見て、聖や凡に振り分けていたけれども、そもそも何に気付いたかといえば、 鳴かぬカラスはなんとでも鳴く、鳴らぬ屁はなんとでも鳴る。 人に、カラスの鳴き声は、どんなもの?と、尋ねれば、人の数だけのカー!!が、あるでしょう。一人一人が鳴き声を思い浮かべ、それは異なります。カラスの鳴き声は、このようなものだ!と、持ち込んでも実際の鳴き声はその瞬間だけのものです。 過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という実際、僕らの有りように気付いたのに、後から頭で分別し、悟った立派な人と、悟らぬ凡夫という具合に分けていたのです。 今、私には凡人も別格の人もおらず、ただその人が見えます。誰にも鎖など、ついていません。既に救われております。 大海という土壌の上に波が立ち、風という縁で波という僕らが生まれて、やがて波の一つ一つも大海という仏に還る、といった具合に考えていたけれども、それは大間違いで、 僕らは初めから、波などではなく、大海どころではなく、どこまでも際限のない無限の広がりそのものであり、陽光が照らす花そのものだった。 宇宙に比べて人間は、ちっぽけである。と人は言うが、あなたが宇宙そのものだとしたら、どうか?今から目指して成るのではなくすでにそうなってあるのだと、今、世界中で起こっている争いに限らず、僕らの苦しみが、世界中のいわゆる悲劇は、ほんの些細な勘違いによるものだとしたら、なんと悲しく哀れに思う。自惚れているかもしれませんが、僕は、仏法以外に人の世が、救われる方法は、ないと思います
以前の質問とはうって変わった内容で失礼いたします。 禅宗のお坊様方の中で、ご存知の方がおられましたらお教えください。 Wikipediaの「応量器」の項目に、こんな記述があります。 材質は鉄または土が本則とされ木製は禁じられているが、漆をかけたものは鉄製とみなすとして一般には黒塗りの漆器である ここで疑問に思ったのですが、なぜ木製が禁じられているのでしょうか? 器の腐敗を防ぐため、あるいは木片(ささくれ)がのどに刺さることを防ぐためなのかとも思いましたが、鉄製であれば錆もでましょうし、それがのどに悪影響を与えることもありましょう。 にもかかわらず、なぜあえて木製の器のみを指定して禁じたのか、その経緯をご存知であれば、お教えください。 また、昨今はプラスチックの器が増えておりますが、漆器ではなくプラスチック製を応量器(持鉢)に用いているということは無いのでしょうか?こちらも、お教えいただけましたら幸いです。
いつもお世話になります。 般若心経について質問させていただきます。 先日、いつもお世話になってるお寺で般若心経の経典をいただき般若心経を唱えているのですが、一つ引っかかる点が出てきました。霊能者やその類の人が言うには、般若心経には、悪霊や無縁仏の霊を寄せ付ける力があるので、僧侶でないものが唱えるのは危ないと言ってる人がいます。正直こんなことを言う人がいるとやりづらいです。どうしたらいいでしょうか?
実家の菩提寺が先祖代々浄土宗です。教義を理解していないのですが、父や伯父の葬儀のときに、心のこもった美しいお経を、長時間にわたり、読んでいただいたことがとってもありがたく、気持ちが救われました。 最近『うちのお寺は浄土宗』という本を読んでいて、次は、浄土三部経か選択本願念仏集について書かれたものを読んでみたいと思っています。どちらを先に読んだら良いでしょうか?この著者のものがいい、その前にこれを読んだ方がいいといったおすすめはありますか? 「浄土宗」や「浄土宗 本」でhasunoha の問答の検索をしてみたのですが、同じような問答は見当たらなかったので、質問させていただきました。よろしくお願い申し上げます。
身体の痛み、不調がある知り合いがいます。 病気を治してほしいとはいいませんが、その方が自分のやりたいことを十分できるように、お寺での祈願をしたいと思っています。 その方はお坊さんなのですが、他の宗派のお寺で祈願されたり、そもそも自分が祈願の対象となることは、不愉快なものなのでしょうか。
私は14年前、母を交通事故で亡くしました。 突然のことで、最後に話すこともできず お別れしてしまいました。 亡くなってからしばらくして、母の夢をみました。 私が母を抱っこしたら骨になった…という夢で、 その日が四十九日の日でした。 それから14年、ずっと母の夢をみていません。 自分も病気をして1度命の危機を感じたとき すごく母に逢いたいと思いました…。 思いついてお墓参りに行ったりしましたが なんとなくすっきりせず…。 仏教的には 夢にみたり、逆に全然夢に見なくなったのは 何か意味があるのでしょうか? 気になります。
お寺の小僧さんの生活について教えてください。 得度前の小僧さんは、どのような生活をされているのでしょうか。 下座行とはお掃除以外にもありますか。 朝の勤行などお坊さんのお勤めは、得度してからですか? ごはんの前にお経を唱えたりとか、夜もまたお勤めしたりとかあるのでしょうか。 得度前、あるいは得度後(一人前になる前)の小僧さんの暮らしについて知りたいです。 どうぞよろしくおねがいします。
先日はお坊様からのアドバイス頂き、ありがとうございました! そのアドバイスに、利他行をするようにとありましたが、具体的に利他行とはどのようなことをしていけばよろしいのでしょうか?
いつもお世話になっております。私は 去年から千手観音さまのお札を拝ませていただいております。そこで、質問なのですが、数珠を手にして拝むと言うのは、間違いでしょうか? 一応お寺のお札なので、 あと お札の両脇に榊をお供えしてます。やはり 榊ではなく、お花がいいでしょうか?
正座をされたまま畳に置かれたお茶を取るなど腰に響く動作が多いように思われます。 例えばお坊さんから「腰痛なんですよ」と言われた時などは 脚付きのトレーなどでお茶をお出しした方がよいでしょうか? お膳でお茶とお菓子というのも大層な気がするのでちょっと高さが出るお盆などがいいかなと思ったのですが、やはり畳に置くのが一般的でいいのでしょうか?
連日の投稿を失礼いたします。 「写経」という言葉がありますね。 平安時代くらいの物語を見ると、何かある度に写経。 これはどうやら、トラブルや揺らぎがあった際に心を落ち着かせる手段です。 ただ書き写すだけの単純な行為は冷静さをもたらしますが、 当時絶対的な力を持っていた仏教の……経典で良いのでしょうか? それを書き写すことにより、「お釈迦様のおかげ」となっているような気がします。 何故なら、お経は唱えるものです。 サンスクリット文字に、中国で「音に近い読みをする漢字」を当て、 それが日本に来たからです。 純粋に、釈迦の教えではなく、かつての中国文化が混じっています。 なので、口に出さず、ただ書き写すのは、ちょっと違う気がします。 # あえて「釈迦」と書いたのは、亡くなっているからです。 # 人々が「天智天皇陛下」と呼ばないのと同じです。 # 軽んじているわけでは、決してありません。 仏教に興味はありますが、わざわざサンスクリット語を勉強するほどか、と言われたら、否です。 なので、釈迦の教えを説く立場の皆様にお伺いしたいと思った次第です。
何処に行けば仏教を教えていただけますか? お金は無いです。
お酒を飲みたい思いと葛藤しています。 親族の死をきっかけに仏教について調べるようになり、五戒のうちの一つに不飲酒戒 があるのを知りました。 ネットで調べていると、「『不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し悪行を行うことを戒めているのだから、多少ならば良い』などというのは詭弁」 「飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏教の核心に大きく差し障る行為」 とありました。 不安になり、ここ約半年間、飲み会の席でも飲むのをさけ、料理をするときもみりんや酒などを使わない、もしくは沸騰させてアルコールをとばすようにしたりしています。 みんな飲んでいるし、少しくらいなら、自分のためになることもあるのに、などと言い訳をしている自分がいます。不飲酒戒について知らなかった人は飲んでも許されるのだろうな、いいなと思ってしまったりもしました。 飲み会があってもいつもは飲んでいたのに飲まない私は他人からどう思われているのだろうとか考えてしまいます。 ここにこうやって書いているのは、「飲んでも大丈夫」と言ってもらいたいのかもしれません。 罪悪感と煩悩と、いろんな考えで頭がごちゃごちゃです。 飲酒についてのお坊さんのお考えを教えてください。
いつも ご相談に真剣に答えてもらえて ありがとうございます✨ 体調も、良くなりつつあり 悲観的、批判的にならないように静養中なんですが 先ほど 僕の母が信仰している宗教(僕も一応いますが)で 僕のやっているFacebookに会社の批判や色々書いてるのと、問い詰められ 僕は、批判的な事も書いてないし ただ僕の病気の経過や仕事に迷惑かけるから転職しようかな とか、ネガティブなブログを書いてましたが 病状も良くなり、少しずつ好きな事の話を書いたり 友人に逢った話をブログにしてたのに、 以前 ご相談させて頂いた 僕の宗教の僧侶さんが、また僕がブログに会社の悪口や上司の批判的な事を書いていると母に言ったらしく 母は、勘違いしてるのか知らないですが、僧侶の◯◯さんが心配しているとか 僕のFacebookを批判してきて 僕は、寂しく悲しい気持ちになりました 確かに、なんでもかんでも書いたりしたら色々な方々見るからに、いけないのかも知れませんが、Facebookで知り合った人に勇気や元気 励ましを受けたり 小中学校の久々に、逢えたり懐かしの人達とも交流が持てたり Facebookも、使い方次第で良いコミュニケーションツールにでもなると思うのですが 僕の考え方間違えてますか? 仕事も出来ない まともに遊びに行けない 情緒不安定な今の僕には、ハスノハと同じ位 居心地良い場所に今では、なっています 会社の上司や一部同僚も僕がFacebookやっているの知っています。 長文 乱文で失礼しました
お正月に地元のお寺へ初詣に行きました 。 出入り口で鈴を鳴らしながら丼を持って立っているお坊さんがいて、丼に皆お金を入れていました。 私は出入り口前で用事を済ませたので、すごく込み合っている本堂に入ってお賽銭をあげるならここでと思い、用意していた千円札を三枚握りしめ、いざお坊さんに並んでいる列に入ったのですが、 前に並んでお金を入れている人は皆小銭を入れていた為、当方ジャージ姿ということもあり急に恥ずかしくなってしまい、列を抜ける訳にもいかず、結局丼にお金をねじ込むように入れた後プイと逃げるように立ち去ってしまいまいた。 恥ずかしかったですが今年はちょっと奮発したので気分が良かったです。 ちゃんと手を合わせなくてすいませんでした。
心を落ち着かせるためにも、最近周りでも話題の座禅を組んでみたいと思います。 ですが、私は足に障害があり、畳の上などに座ることが出来ません。正座も胡座もかくことは不可能です。その場合に同様な行為をするにはどうしたら良いでしょうか?体験で座禅、というお寺も何件かはあるのですが…。写経もやはり正座して行うのでしょうか?
初めまして。答えにくい微妙な質問だとは思いますが、どうか読んでいただけたらと思います。 私は10年ほど心の病で通院しております。基本的には安定していますが、時々今日みたいにとても気分が落ち込み、何もする気が起きない日があります。本当はベッドから起きたくもありません。 もちろん、そんな訳には行きませんし、起きないと余計に気分が悪化するのは分かっているので、なんとか出勤します。 そこでふと、お坊さんも人間ですし、心の病を持っている方や、そうでなくても「とにかく今日は辛い、落ち込んでいて何もしたくない」という日があるのでは?と思いました。(見当違いで失礼な事を言ってたら申し訳ありません...) もしよろしければ、差し支えない程度で、「自分の周りにはこういうお坊さんがいる」とか、「(具体的な解決方法がない理由で)落ち込んでいる時、こういう風な心の持ち方を心がけるようにしている」等といったご意見、その他どのようなものでも、よろしければ教えていただければと思います。 よろしくお願いします。
以前、アルコール依存性の母から息子を守りたい と相談した者です。 あれから 兄弟、親戚にこれまでの事や、息子の状態など全てを解ってもらう為ではなく、知ってもらう為だけに、ただただ話し 息子を連れて 母から逃げました。 母から離れて約一年が経ち、息子は、中学2年になり 人並みに反抗期もありますが以前よりもずっと歳相応の子供らしく思える様子がみえるようになりました。 まだテレビなどでアルコール依存性の人の番組を見たり、実家の近くに近づいたりすると 頭痛・嘔吐など拒絶反応をしめしたりはしますが 嫌な体験ではありますが 他の人より色々な経験を積んだ息子が誰よりも人の気持ちや、辛さをわかってあげられる強い男になれる気がします。 ハスノハに相談したあの時、私自身の精神的限界でした。毎日が辛く 母を殺めようと考えた瞬間もありました。でも母を私が殺めてしまえば残された息子が更に苦しむと考え 息子を殺めて私も自殺を… そんな事ばかりローテーションの様に考えてしまっていました。 ですが、なごみ庵 浦上様からの回答で本当に救われました。考え方を変えることができました。 今、こうして無事 ハチャメチャな反抗期中の息子とケンカできているのも 桜が咲いたと眺められるのも 何もかも普段の当たり前の様な生活の中な何もかもがあの時、なごみ庵 浦上様からの回答の一つ一つの言葉のおかげです。 お礼を伝えたくてこの場をお借りします。 本当にありがとうございました。
いつもお世話になります。 昨年 真言宗のお寺で護摩焚きをした際 祈祷札を授かりました。このお札の裏側には焦げ目のような汚れが、ありました。これは、お札を護摩焚きの火で炙ってるのでしょうか?