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正法眼蔵第59の「家常」に、「困来は、困中又困なるべし、困の頂ねい(スマホの辞書に漢字がなかったため、平仮名で書かせていただきます。)上より全跳しきたれり。」とありますが、ここにいう「困中又困」とはどのような意義を持つもので、この一文を通してどのようなことが言われているのでしょうか。
仏教でなくてもいいんだけれど、なんらかの信心を持ちたい、と思い質問させていただきます。最近キリスト教のミサに行ったり、モスクに行って礼拝を見学させてもらったりしましたが、どうにも信じる気持ちというものが芽生えません。 私は学校卒業と同時に家を出て、その後家族とはほぼ交流がありません。水商売をしていましたが、金に困り、やむなく今月から風俗業をしています。 こんなことになったのも自業自得だなあと思い、ふと気になって自業自得の意味を調べたら、仏教の言葉だということで、興味を持ちました。 私は、善悪の区別がつかないのではと思い、不安です。お世話になった人をなんの理由もなく音信不通にし、ばれなさそうな嘘なら意味もなくつき、人の陰口もすぐに同調し、それらのことに特に胸が痛みません。自分の立場が危うくなったら嫌だな、くらいです。 社会的な義務を何一つ果たさず、当然年金も未払いです。 とにかく自分が信頼できないので、バイト先には、私が頂く給料のほかは私に店のお金を一切触らせないでほしいとお願いしています。生涯運転はしないと決めています。 風俗業とはいえ、まだ人生を台無しにするような、決定的な罪は犯していないはずです。 しかし、私自身の倫理観のなさが、いつか決定的な罪を招きそうで、「信心」があれば変わるのではと思ったのです。 しかしながら、どうも難しいのです。 祈る=決まった文句を唱えることの安心感 などと解釈し共感することはぎりぎりできるのですが、それを仏や神のために、となるともうさっぱりです。 どんな神経で信じてるんだ?というのが本音です。 それこそ預言者の人のように、声を聞いたとか見たとかがあれば違うのでしょうけれど、そうでない人は、なぜ、なんのきっかけで、信じたのでしょう。 というより、本当に信じているのですか? 教義に共感しているだけですか? 今を良く生きるための便宜に、来世とか地獄を想定しているのですか? 共感できそうな宗教を探すなら、それはそもそも自分で全部考えることと何ら変わらないのではないでしょうか。 信者の方は、来世とか地獄とか長いスパンでの「自分の立場」を心配している、今小さな嘘をばれないでほしいと願う私となんら変わらないのではとも思いはじめました。 既に反抗的なことを書いてしまいましたが、 本当に信じたいのです。 どうしたらいいのでしょうか。
先代のお坊さんはとても良い方で、人徳者でした。 しかし、今代のお坊さんがとてもよくないです。 葬儀をあげるとき、1週間以上待たせたり、お布施をたくさん要求したり、話もなく勝手にお坊さんを余所から呼び、その分割増しにしたり、檀家を辞めたいという方に金銭を要求したり… 常に多くの金銭を要求してきます。 お坊さんになる修行もどうやら袖を通して早めに切り上げた等、悪いうわさしか聞きません。 お寺は田舎にあり、小さいお寺なのでそのお坊さん一人でおります。 代々そのお坊さんの家系が継いできたのですが、このお坊さんをお寺からいなくなって貰うことはできるのでしょうか? また、新しいお坊さんに来ていただくことは可能なのでしょうか?
先日、母が交通事故に遭い、京都の薬師如来様をお祀りしているお寺で祈祷していただきました。以前から疑問に思っていたのですが、神社は二礼二柏手一礼と知っていますが、お寺は同じではないのでは?と思いました。そもそも神道と仏教という事点で違いますよね?お寺の正しい参り方をお教えいただけませんでしょうか、また母の見舞いに行ったとき、すがる思いで薬師如来様の真言唱えているのですが、厳しい修行を積んだお坊さんでもないのに口にしていいものでしょうか。いろいろと無知で申し訳ありません。
度々、申し訳ありません。 私は以前、禅宗のお坊様から教えて頂いた「十句観音経」という短いお経を、例えば恐怖を感じた時や落ち込むような事があった時に、心の中でとなえています。お守りのようにしています。 では、ものすごい怒りで心がいっぱいになってしまった時に、平常心に戻る為に心の中でお唱えできる短いお経やご真言がありましたら教えて頂けないでしょうか。 できましたらそのお経やご真言の意味も教えて頂けると、大変ありがたいです。 よろしくお願いいたします。
真言宗の僧侶以外の人が真言を唱えてもいいんですか?
愚問でありましたら 申し訳ありません 両親の葬儀からのご縁で 浄土真宗本願寺派のご寺院に法要法話にお伺いさせていただいております 家には お仏壇もお迎えしております ご住職さま 門徒の方々みなさんご親切にしていただいております 両親が亡くなり一人になった私にはいろいろな先生のお話を聞け 法要法話にお伺いするのが楽しみなのです。 法要法話の時に門徒の皆さん 式章をされていまいして お聞きしますと 法要法話に 寺院にお参りする時の正装 とお聞きしましたので 素人考えだったのですが ご寺院に失礼の無いようになのと まだ小さな信仰心から 京都 本願寺様の売店で購入し 式章をつけて法要法話にお伺いするようにしておりました ただ 私まだ帰敬式も受けておらず正式に門徒に なっておりません。 色々な思いからなのですがまだ釈の法名をいただく気持ちに なれないのです。 いつかは釈の法名をいただくつもりなのですが。 いまさらながらに考えますと正式に門徒でない人間が 式章をつけて法要法話に参加しているのは ご住職や門徒の方たちにかえって失礼な事だったのでしょうか? 決して悪気ではなく 正しく参加させていただこうと思った気持ちなのです。 ご住職さまや門徒の皆さんからも注意されたことは無いのですが 質問をお読みいただいた お坊様皆様 のご寺院に正式に門徒 檀家で無いものが そのような正装をして参加しているのは良くないことなのでしょうか? ご意見をお聞きできましたらありがたいです。
こんにちは。 最近、浄土真宗の僧侶と籍を入れ僧侶の嫁として奮闘中です。 夏、冬用、自宅での黒衣の洗い方やお手入れの仕方はそれぞれだと思いますが、どの様にしたら良いのでしょうか? 白衣や襦袢は主人から教えてもらったので出来るのですが、 黒衣を洗ったり手入れをした事がなく… 衣替えの季節でもありますし、そろそろ…と思っております。 クリーニングに出すという方法をお義母さんはしているらしく自分で洗う方法は知らない、また、主人も長い間黒衣に関してはお義母さんに任せていたのできちんとしたやり方を忘れてしまった様で… 教えていただけると有り難いです。 宜しくお願い致します。
例えば浄土宗の檀家で、普段は念仏を唱えているけれど、ときどき座禅や阿字観に参加したり、お護摩に参加する。 そう言う人が知人に居ます。 私の場合、浄土宗で冠婚葬祭も勤行も、阿弥陀様メインではありますが、同時にお不動様と大黒天様に惹かれ、こちらも勤行しています。 (浄土宗のお寺にも多くは無いですがお不動様をお祀りしている所があるので、大きな軋轢は無いだろうと思いました) 最近、一般向けの仏教の啓蒙書でも、そうした「宗派にこだわらない」立ち居地から仏教を紹介している本も少なくないように思います。 私も、とある有名な仏教解説者の影響を受けて、こうした立ち居地が、個人的に合うように思い、そうしてきました。 ただ、色々と仏教を勉強していると、「そうした信仰はよくない、宗派は1つに絞るべき」と言う意見にも、しばしばぶつかります。 最近では、浄土宗の檀家の私が、護摩に参加するぐらいならともかく、結縁灌頂まで受けるのはやり過ぎかな? と悩んだりもしています。 お坊様は「宗派にこだわらない信仰」についてどう思われますか? この質問は聞きずらいですし、お坊様がたもお答えしずらいかもしれませんが、「宗派にこだわらない」一般仏教啓蒙の影響を受けた者には、けっこう切実な悩みです。 よろしければ、ご意見を伺えたら幸いです。
私は出家希望者です。理由は正式な仏弟子になりたいからです。別にお寺の住職になりたいわけでもお葬式でお経を唱えたいわけでもありません。 しかし、最近思うようになったのは、日本仏教において僧侶は在家とほとんど変わらない生活をしています。お寺の住職は別として、それ以外のお寺を持っていないお坊さんは、在家のように働き、在家のように生活を送ります。 すると、どうでしょう? 僧侶といっても剃髪して法名をいただいているだけで、その実際は在家とかわりないわけですよね?在家得度というものもあるそうですが、そうなると出家と在家の区別って物凄く曖昧じゃないですか? 私は仏弟子になりたくて出家を希望していますが、仏弟子になるなら在家のままでもいいかもしれない、と悩みはじめています。 日本仏教において僧侶の存在意義って何なんでしょう?特に、お寺の住職ではないお坊さん。
家族に新興宗教の集会に連れて行かれ、幹部に浄土真宗の信仰をしようとしているという旨を話され、幹部に浄土真宗などという最低な教えをやる必要はない。枝葉の教えである浄土三部経などではあなたは救われない。と言われてしまいました。 挙句の果てにはお釈迦様などより新興宗教の教祖に従っていればいいなどと言い出す始末です。これは仏教ではありませんよね?そんなことを言われ私は何も言い返すことができませんでした。 私は親鸞聖人の現世利益和讃などを読んでも分かるように浄土真宗にも現世利益はあると思っていますが、間違っていますでしょうか? また、浄土三部経でもお釈迦様が説かれたのですからちゃんと仏にならさせていただけると思うのですが間違っていますでしょうか? また、今度集会に連れて行かれた場合、どのように言い返せばいいと思いますか?本来仏教徒であればこういった言い争いがなるべくしないほうがいいと思うのですが、浄土真宗のことを侮辱されたようで悔しいのです。どうぞお知恵をお貸しください。
坊さんのこと考えると 「こんのくそ坊主が!」 と激しく憤る自分がいます。 どういうことなんでしょうか。特に坊さんと会ったことなんてないですけどね。
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私は家族全員と親戚の叔父、叔母からも虐待を受けて育ちました。ネグレクトや暴力をうけました。 虐待加害者も虐待被害者も亡くなったら、同じ場所に行くのでしょうか? 御釈迦様や観音様は虐待被害者にも優しくなさるのでしょうか? 申し訳ありませんが教えてくださいませ。
世間では犯罪者、加害者、受刑者には厳しい目が向けられます。 お坊さんもそうなんですか。 上記の様な人間は問答無用で死ねと思いますか。 刑務所では宗教が更生の手段となってるとのことですが
自分のことについてはこちらを読んでいただくとありがたいです。 https://hasunoha.jp/questions/17526 https://hasunoha.jp/questions/18461 非常にまずい状況です 今は離れて暮らしてますが、ちょくちょく「よし、殺しに行くか」など 母親の殺人について具体的に考えてしまいます。 それはやっぱり自分には更生が無理なのか。何かに見捨てられたような時に起こるのです この手の投稿は何度かしましたが、今日これはやばいと感じました すごい冷静に考えしまうんです、こういうことを。なんとか別のことを考えたり、まあそう思うのもしゃあないよな。とか考えたりしてしのいでます。 たとえ離れて暮らしてるといっても、会いに行けないわけじゃないです。同じ国にいるわけですから。 以前の投稿で母親との記憶に関して話しましたが、具体的ではありません。そのあとよくよく考えてみると、僕はすっかり過去の記憶を思い出せないことに気づきました。なにせ、直前のことまで忘れるのです。うそでしたらごめんなさい。 過去の記憶はほんの一瞬の光景が思い出せるか思い出せないかなのです。それもわずかな。 描き忘れてしまいましたが、事件が起きたとき、罪の意識を感じましたので警察のほうへ自分で出頭しました。そのあと何人かの警官があつまり事情聴取となりました。聞かれたことは動機と過去に虐待があったかどうかです(これは受けてないと答えました)そのあと事件で起きたことを説明となりました。 処分に関しては母親が「犯罪歴をつけたくないから」ということ、警察のほうも「今回は注意」とのことで放免。知らせを聞いた父親につれてかれるというので終わりました。 現在は警備員のアルバイトをしています。 しかし現在母親に強い恨みを持ってるのも事実なのです 僕にはもう、僕がよくわかりません。助けてください
インターネットをみていたら、以下のような お釈迦さまが自殺をとめられた話がありました。 とても分かりやすいのですが、 これは、何というお経に出ているのか教えて頂けないでしょうか。 ある時お釈迦さまは托鉢中、 大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、 しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。 自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、 早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、 相手がお釈迦さまと分かった娘は、 心を開いてこう打ち明けました。 「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、 今は捨てられてしまいました。 世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、 死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。 どうかこのまま死なせてくださいませ」 と娘は、よよと泣き崩れました。 その時お釈迦さまは哀れに思われ、 こう諭されています。 「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。 ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、 朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。 つくづくその牛は思った。 なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、 自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。 そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、 牛は車を壊すことを決意した。 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、 木っ端微塵に壊してしまったのだ。 ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、 頑丈な車でなければまた壊されると、 やがて鋼鉄製の車を造ってきた。 それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。 その車で重荷を同じように毎日引かせられ、 以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、 深く後悔したが後の祭りであった。 牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと 思ったのと同じように、 そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。 そなたには分からないだろうが、 死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。 その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」
今回はお経について質問が三つあります。 1.『浄土宗のお経』という本を読んでいます。初心者向けの本です。毎日のおつとめで読まれるお経が収録されています。懺悔偈のところで、「普賢菩薩が毘盧遮那仏の前で〜過ちを反省して、許しを請う偈文」と説明されているのですが、普賢菩薩が毘盧遮那仏に許しを請う、というのはどのようなエピソードでしょうか?普賢菩薩といえば、智恵を司り、白い象に乗ったクールなイメージなので、意外に感じて伺う次第です。また、毘盧遮那仏、普賢菩薩、阿弥陀仏はどのような関係にあるのでしょうか? 2.法要の時に「サンバラ〜サンバラ〜」と聞こえることがあるのですが、何というお経の一節かお心当たりがありましたら、教えてください。上記の『浄土宗のお経』を「サンバラ〜」と読めそうなところに注意して見てみたのですが、それらしいところが見つからないのです。 3.今度七回忌があるのですが、そこで読まれるお経とその順序は「浄土宗勤行式次第」と同じでしょうか?法要で読まれるお経が聞き取れるようになりたいです。 教えていただけるとありがたいです。よろしくお願い申し上げます。
いつもお世話になっております。 今まで日和を気にしたことはあまりなかったのですが、子どもが生まれてから少し気になるようになりました。 というのも、長女が生まれた日は仏滅、次女が生まれた日は赤口でした。二人とも日が悪く、気の持ちようかもしれませんが、少し気になっているので、お坊さんからのアドバイスをいただけるとありがたいです。
現在、京都の佛教大学に通ってます。浄土宗の教義を勉強しております。家の仏壇や大学の礼拝堂で、半年間ほど開経偈から真身観文までの助行と本願念仏を唱えてきました。 しかしながら、阿弥陀仏の浄土の存在と死後浄土へ往生できそうだという手応えを一度も感じることができず、今は念仏をやめてしまいました。 例えば、自転車に乗る練習を何回かすれば乗れる手応え感じるはずです。 しかし、念仏に関してはそれが無いのです。 善導大師や遊蓮坊園照は証覚を得たと言います。私も手応えを得れば、今後の人生を明るく有意義に暮らせるとおもいます。 念仏をされてるお坊さんで、浄土の存在と死後往生できそうだという手応えを得てる方はおられますか?それともやはり、極楽浄土は絵空事のフィクョンなのでしょうか? よろしくお願いします。