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「仏教・お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

お経や真言

我が家は浄土真宗なのですが、最近お笑い芸人さんが般若心経について書いた本を読んで、般若心経に興味を持ち写経とかも、余計な事を考えないように、心を落ち着かせて集中するのには良さそうだな、、と思っていたのですが、 恥ずかしながら仏教のルール(?)を全然理解しておらず、浄土真宗では般若心経は唱えないと知ったのがほんのつい最近でした。普通に曽祖母の仏壇の前で般若心経を音読していた事もあったので、しまった!!と思いました。浄土真宗では何のお経がベストでしょうか?曽祖母のために読みたいなと思うのです。 色々仏教についてネットで調べているうちに真言(マントラ)というものも知り、これについても素人が唱えるのはやめましょうとか、出来れば唱えた方がいいとかネットの情報が錯綜していて、理解するのが難しかったです。 例えば我が家で言えば、御守本尊の一覧を見ると、私と父は阿弥陀如来様で一緒なのですが、母だけ不動明王様だったり、 そうなると、我が家は浄土真宗で私と父は御守本尊が阿弥陀如来様だから、真言も阿弥陀如来様の真言のみしか言わない方がいいのかな。 とか、でもブレない強い気持ちを持ちたいので、不動明王様の真言を唱えてみたい気持ちがあるのですが、それを私がすると良くないことなのか、、など、ネットの情報だと何が正しいのか分からなく、 本当に何も分かっていない自分が恥ずかしいのですが、こちらに質問させて頂きました。 それからせっかくお経や真言を唱えるにあたり、何か作法というか、これだけは、、というルールがあれば教えて頂きたいです。 あるサイトで○○の真言を唱える時は手をこのようにしましょう。とか祈り方まで書いてあったのですが、、ただ手を合わせる形じゃいけないものなのかな?と気になったので。 もっと仏教について色々知りたいです。 このサイトで色々読ませて頂けるのが楽しいです。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 55
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信徒さんの言葉

 何回かここで悩み相談をさせて頂いている者です。 厳しいながらも温かいお言葉を頂いて自分に決心がつき覚悟を持ってことに臨んでいきたいと思っています。 今回は悩みというより疑問に感じたことがあります。  過去の質問を見てい頂けると分かるのですが、私の母は、結婚に反対しており、彼女やそのご両親が合わないと感じ、後々私が苦労するだろうと直感し、ある仏教の信徒さんに相談しに行ったそうです。  信徒さん(母が言うには、神様のお告げ)の答えが母自身が感じてた通りの答えとなり、この結婚をないことにするためには、私と彼女が喧嘩別れをするのが良いと助言されたそうです。  神様のお告げの割には随分乱暴な助言だと思いました。話を聞くうちにその信徒さんは、真言宗の方らしいです。  真言宗には、十善戒という戒律があると知りました。その中で"不両舌:他人を仲違いさせない"という教えがありました。    私は、宗教の教えには疎いのですが、その教えを受けている筈の信徒さんがどうして十善戒の戒律に反するような助言を母にしたのか疑問に感じました。決して真言宗の方を批判するわけではないので誤解されないでください。  もしかすると何か本当の意味があるのかとも思いました。出家されていない信徒さんは、未来が見えたり、神様のお告げ聞けたり、相談に乗るということをするものなのでしょうか?

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私は死後地獄行でしょうか?

極楽浄土へ行くためには 戒律を守らなければならないと聞いたことがあります。 では戒律と私がしたことについて 殺生をしない まずこれはどんな生き物とて殺してはいけないのですよね? 蚊やゴキブリなど殺していますし 肉や魚も食べています。 盗みをしない 盗みは少年時代よくやりました。 しかもつい数年前万引きをして 警察に捕まりました。 このことについては 反省しています。 酒を飲まない ビールを飲んでます。 悪口を言わない  極力言わないようにしていますが 嫌なことされたり頭にくることされると 時に反論や悪口を言ってしまう時があります。 嘘を言わない 嘘はついたことはよくあります。 大人になってからは正直に生きたいと 思ってましたが会社などで働いていると 普通に本音を言うと怒られたり 敵対されいじめの標的にされた事がよくあります そういう経験をして以来 時に思ってもいない嘘を言って ごまかしその場を乗り切ることがあります。 ふしだらなことをしない これはあまりしませんがエロ動画や画像などは 鑑賞します。こういってことでも ふしだらなことになるのでしょうか? 心から懺悔をし善行を積み 南無阿弥陀仏など毎日唱え修行をすれば 罪罰から遠ざかるとありますが本当ですか? そもそも地獄は実在するのですか?

有り難し有り難し 145
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仏教徒に対する疑問パート8

前にウィトゲンシュタインの形而上学の話をしたお坊様がいて その人が形而上学の世界を考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってるといってましたが そのウィトゲンシュタインの形而上学の話でさえ形而上学から来た考えじゃないですよね? だからその考えが必ずしも正しいとは思わないんですがもしもそれが正しいなら 悟りは考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってる・・・ それなら菩提樹で瞑想して悟りへ行けるのも間違ってるんじゃないですか お釈迦様が怪しくないですか? 自殺大国日本を救うような奇跡を見せたりすればなんとなく信じれるんですが 都合よく無記って言葉で片付けて良いなら どんなカルト宗教も成立しますよね わざわざアビダンマや大乗や密教やらが一貫性のない色んな経典使って 色んな山の麓からアプローチして悟り目指す必要もない 最終的には無記なんですもん わかんないですもん  ウィトゲンシュタインの話しが正しいなら 形而上学の世界は考えるのも言葉にするのも探すのも色んな経典で計るのも悟りが存在することも間違ってませんか?そもそもそんなもの無いのでは・・・ 有るんだったら誰が作ったんですか?人間から神様になったお釈迦様ですか?それともこの世の最初から有った原因のわからない結果ですか?それとも過去仏ですか?やはり無記ですか・・・ 本当に悟りを開いてる人がいたら今のこの戦争や犯罪や自殺が蔓延する ナイトメアストリートダンジョンな世界を救ってると思うんですけどね

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仏教徒に対する疑問パート7

前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?

有り難し有り難し 111
回答数回答 7

南無阿弥陀仏?

お世話になります。 ここでご相談させていただいているうちに大事なことに気付き、気付かせていただいたお坊様に、手を合わせて『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで落ち着けると教わり、とりあえず意味も分からずやっています。 毎日何かに向かって唱えていると、病気の原因の1つである母の声を電話で聞くだけでイライラし、調子が悪くなっていた私の状態が、今までと違い、ある変化をしたことに驚きました。 最初の頃、主治医から『自分のために、家族とは縁を切りなさい』とアドバイスされていました。最近は『なるべく接しない様に』と言われています。私の調子がとても悪くなるからです。ときには自傷してしまうほどのストレスを抱えてしまいます。 その私が、電話口で私が電話したことを喜んでいる母の様子を、何となく…“喜んでいるよ..良かったなぁ..”と感じました。発症して以来、初めてのことです。電話を切ったあとも、特別調子が悪くなることはありませんでした。 このまま順調に回復するとは思えませんが、これが南無阿弥陀仏の力なのでしょうか? だとしたら凄いとは思うのですが・・・・よくわかりません。 お坊様の皆様は、この変化をどうお考えになりますか? まだ、1回こういうことがありました…というだけですが・・・。 お考えを聞かせていただけると、参考になります。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 62
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仏教徒に対する疑問パート6

では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 因を無視した果の法則ですよね そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて  涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか

有り難し有り難し 160
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仏教徒に対する疑問パート5

お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?

有り難し有り難し 81
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仏教徒に対する疑問パート4

それではさっそく質問です この世の最初の最初にあった無明それはなんの原因と結果で生まれたんですか? 無明を作った原因と結果それを作った原因と結果それすらも作った原因と結果 そうやって全ての原因を作った犯人を永遠と見つけれないでただ結果だけあったら 因果の法則というより因を無視した果の法則じゃないんですかね そしてその無明が業を作り出しこの娑婆の世界を作ったそして自分の存在も 最初の最初だった頃は自分は何の業も作ってないのに無明が勝手に業を作り 業の濡れ衣を着せられた自分はこの娑婆の世界へ落とされた これも因を無視した果の法則じゃないですか? ホントに最初の最初の状態 そこには原因の犯人がわからない結果だけがただ無明としてあり その無明は業を作り続けて 勝手に自分も業を作ったことにされるなら 悟りを開いても勝手に業を作らされれるんじゃないですか 無明は因果なんて無関係に悟りにも襲ってくると思います 無明は因果の法則というより因を無視した果の法則として 無明は最初の最初に始まりの原因と終わりの結果の全てを作ってしまった この世の法として襲ってくるからですよ まるで神のような速さで煩悩として悟りに追いつくと思います それなのになんで悟りはそこからも解脱できるんですか? 毒矢のたとえでそんなこと考えないで修行しろと説いた お釈迦様は無明からも解脱した根拠はなんですか? 人前で誰にも出来ない奇跡を起こしたりしたんですか? なぜお釈迦様は周りの娑婆僧とは完全に違うと周りは気ずいて その人の言うことが真理だとして宗教にしようとしたのですか? もしも何の根拠もないなら そこらへんの神を妄信するカルト宗教と大して変わらないですよね

有り難し有り難し 37
回答数回答 3