宗教のあり方について 私は祖母の代から仏教を信仰しており、 団体にも所属し、毎日お経をあげたり、 イベントなどに参加してきました。 友達や周りの人には進めたりしておらず (所属していることも誰も知りません) 誰にも迷惑をかけずにやってきており、 小さい頃からの習慣でしたので 今迄宗教に対して嫌悪感はありませんでした。 最近その宗教のイベントがありました。 イベントの開始が早い時間だったので、早起きが 必須なのですが前日仕事だったこともあり 正直もっと寝ていたいと思いました。 でもそれと同時に、 参加しないと悪いことが起きるんじゃないか という気持ちが湧いてきました。 今迄には感じたことのない気持ちで、 すごく驚き、嫌悪感を感じました。 結果その日は参加するのをやめました。 その日の夜に自分自身のことで悪いことが起きました。 すると、今日参加しなかったから悪いことが起きたんだと勝手に心が感じたのです。 思い返すと、お経とあげたりイベントに参加すると いいことがある。と大人たちに言われてきていたので 逆に参加しないと悪いことが起こると自分の中で 心の仕組みができていたんだと思います。 それからというものの、宗教に対する強迫観念がすごく、いいこと悪いことどちらがおきても結びつけてしまいます。 生まれてから当たり前にやってきた宗教活動が すごく怖く感じています。 自分はこの先宗教とどう向き合っていけば良いのでしょうか? よろしくお願いします。
こんにちは。 空即是色等に言われる空ですが、 なんとなくでの感覚ではわかるのですが、 こういうものだ、というものがはっきり言葉にできません。 言葉にするとどのようなものでしょうか? 何卒、御教示お願い致します。
仕事で落ち葉の掃き掃除をする時に、小さな虫やアリが落ち葉についていています。 仏教でも、生き物を殺すのはいけないことと聞きますし、そのまま掃いてしまうのがいけない気がして、虫を見つけては取り除き、、としていました。 しかし、なかなか掃除が進みませんし、他の同僚たちの目も気になり、どうすれば良いかわからなくなりました。 ゴミ袋に入れた落ち葉の中に、間違えて虫も入れたのではないかという不安で、仕事中も考えたり、人の目を盗んで手を合わせて虫に謝ったりしています。 掃除をするのが怖いです。どのような気持ちで、どのように掃除をしたらよいのでしょうか。 よろしくお願いします。
こんばんは。 ネットを閲覧していると、意地悪な人が多い事に驚かされます。 匿名で、気持ちが大きくなるのでしょうか。 お坊さんは、ネット上で意地悪な気持ちになることはございませんか? こんな人には意地悪したくなる的な、です。 よろしくお願いいたします。
どうもこんばんは。 いつも皆様には質問をお答えいただき感謝しております。 今回は大乗仏教の三宝について質問があります。 ブッダ入滅後の原始仏教や上座部仏教での三宝は、 仏=釈迦牟尼(ブッダ) 法=ブッダの教え(ダンマ) 僧=僧団(サンガ) と思います。 大乗仏教の三宝では、 仏=本尊 法=ブッダまたは本尊や宗祖(または高祖や太祖)の説いた教え 僧=僧侶(ここは色々と議論の余地はありますが) であると認識しています。 今回の質問はご本尊についてですが、ニュアンス的に本尊は『仏』ではなくて『法』に思えるのですがいかがでしょうか。 例えば、大雑把に言うと 阿弥陀如来(アミターユスとアミターバ) それぞれ無限の光と無限の寿命の体現 大日如来・毘盧遮那仏(マハーヴィローチャナ・ヴィローチャナ) 宇宙の真理の体現 内容から見ると大覚者というよりは真理そのものではないかなと考えてしまいます。 大乗のマハーパリニッバーナスッタンタ(大般涅槃経)では三宝一体常住不変説があるから、『仏』で良いのだというのは理解が難しいです。 どういう流れでご本尊は三宝の『法』ではなくて『仏』なのでしょうか。 マハーヤーナ(大きな乗り物=大乗)に掛けて、木造の手漕ぎの小舟しか知らない人が大型豪華客船(鉄船)を見ても船と『認識』しませんが、変化の過程を理解すると鉄でも浮いて自動で走るのが理解できるかと思います。 ここは私の知識欲だけの話で、問題が解決してもしなくても自分の苦を滅することには関係いたしませんが、どうかご教授の程宜しくお願い致します。
出家したばかりでお寺を持っておらず、僧侶以外に職を持っていないお坊さんって収入はゼロなんですか?本山?から給料は出ないんですか? 素朴な疑問です。
心の眼で見るとは、どういうことなのでしょう。どうすれば見ることが出来るのでしょうか? よろしくお願い致します。
仏教の教えは、自分の感情はおさえ、他のために尽くすこと、うまくおつたえできないのですが、何事も諦めることになるのでしようか? よろしくおねがいいたします。
こんばんは。 話が長くなるかもしれませんが、お付き合いくだされば嬉しいです。 ずばり、①ここにいらっしゃるお坊さまは家中のゴキブリにどう対処なさいますか。②また蚊はどうですか。 例: 殺虫する、生け捕りにして外へ逃す、全く気にしないので放置 加えて、ゴキブリに対するその対応について、既婚者の方は、③奥さまも同じように対応なさいますか。 こんな質問をするに至った経緯を説明しますと… 私の住んでいる県ではうちわまきがあり、蚊に対しても不殺生、というエピソードを何度と聴くうち、「そうか、蚊も生きているのだものな」という事実を認識するようになりました。 私自身は仏教徒かと問われれば甚だ疑問の残る、なんでも信じる人間ですので可笑しな話ではあるのですが、なんとなく、蚊を叩き殺したりすることに葛藤が生まれ、ただ払うことが多くなってきたのです。(※肉食するのでそもそも論でいえばなぜそんな不徹底なことをするのか意味がわからないですが…) そしてつい最近、同じ県内に"護鬼佛理天"(ごきぶりてん)なる神様の像があることを知ってしまいました。なんでも、害虫駆除の被害にあった虫を供養するためのようです。さて、ここで、蚊もゴキブリも虫であり、理論でいえばゴキブリも殺さずにおくべきなのでしょう。とはいえ、やっぱりどうしても無視できないのです。同じ場所にいると考えるだけで嫌悪感が募ります。自分で殺虫できればまだいいのかもしれないですが、あろうことか、自分で手を下すのが嫌なので(単純に怖いというのもある)誰かに殺してもらっている、というのもなんだかひっかかります。自分の手は汚さずに…という感じで精神的にはひどいな、と思います。 訓練すればゴキブリすら無視できるようになるのでしょうか…。 さて、宣言通り長くなりましたが、質問は上にあげさせていただいた通りです。お坊さまたちとそのご家族は一体どんな意見をお持ちなのか伺いたいです!お手隙のさいにでも回答をいただければ幸いです。よろしくお願いします。 ここまで読んでくださり有難うございました◎
職場で、感謝の気持ちを込めて手を合わせて 「ありがとうございます」 を伝えていたところ、 私、仏様じゃないんだけど!!! と二人の方に別々に注意されてしまいました。 勿論、誤解されてまでその方たちに行おうとは思いませんが、 一般的にその様な合掌は正しくないのでしょうか。 インターネットで検索しても、 外国の人が間違ってしてしまっているおかしな日本の文化だ! 若い人がするのを見るとイラっとする! 等あまりよく思われていないようです。 私にとっては、お寺さんやお墓、仏様で手を合わせることも、 いつもご先祖様や私たちを守ってくれている仏様やご先祖様達へ感謝と尊敬の気持ちで行なっていましたし、 ご飯のいただきますの合掌も、 食材や食卓に並ぶまでの多くの人たち、 食事を頂けるということへの感謝と尊敬の念を込めてすると教わり、 そうした気持ちで手を合わせてきました。 お坊様の丁寧なお辞儀と手を合わせたありがとうございます、の仕草が暖かさを感じ好きだったこともあります。 いつの頃からか、 ありがとう感謝します、有難いことです。 を伝えるジェスチャーとして、度々使っていたため、 ちょっとショックでした。 合掌のそのような使い方は正しくないのでしょうか? お坊様のそうした合掌とはまた違ったものなのでしょうか? 本来、合掌の意味とはどんなことなのでしょうか?
今まで、とてつもない重いものが乗っかってるような気分で生きてきました。 それが、心のsosだとわかって、向き合い、受け入れるようにしてきて少しずつ、気分が晴れて軽くなり、視界も広がってきたような感じもします。 一人では決して、自分と向かい合えなかったと思います。 回答してくれたお坊さんに、感謝
今、お坊さんを題材にしたものを描きたいと思っています。 まったく想像もつかない職業でキャラを作ったのですが 青年誌向けの雑誌なのでリアリティーを出すために 一つ質問があります。 お坊さんで言葉で説くのが下手くそで 行動で示すお坊さんは「あり」でしょうか?
55歳を過ぎ、子育ても仕事も一段落した現在、これからの人生は仏教に関する行いを通じて、世の為・人に為に人生をささげようと考えております。 僧侶とまではいかなくとも、仏法対話ができる能力までになりたいです。 僧侶になるには、どのようなステップがありますでしょうか? 高卒で就職したものですから、仏教系の大学も出ておりません。先祖は日蓮宗を信仰しております。 そもそも僧侶になりたい・・など、甘くみてはいけない!と𠮟られるかもしれませんが。
私が住む住宅地に霊園が造成されています。県(担当は保健福祉事務所)の許可を得ているという申請者は、登記上は日蓮宗の寺になっています。 知り合いの工務店の社長が色々調べてくれて、寺の代表は、ここから70キロメートルくらい離れたところに住む不動産業者であって、曹洞宗の檀家の世話役をしているということです。 単立の寺で、信者なし、本堂なしというところだそうです。不動産業者の地元の中小企業経営者団体の会合では、僧侶として、般若心経について講演したと聞いています。テレビのぶっちゃけ寺という番組で、出演する僧侶が一斉に般若心経を唱える場面がありましたが、日蓮宗の僧侶だけは、唱えませんでしたので、その寺の代表が本物の僧侶ではないと疑っています。 県庁の宗教法人グループに確認依頼をしたら、いろいろな形の宗教法人があるので、自分たちは関与できないと、つれない回答でした。私の疑問は、杞憂なのでしょうか。
質問というか。 在家出身のお坊さんって大変じゃないですか?お坊さんとしての仕事はほとんどゼロという方が多いのでは? 個人的な推測ですが。
自死で子供に先立たれた親です。 いのちの集いに参加したい気持ちがありますが、仏教でも宗派には拘らずに出向いていいものでしょうか? 私自身それほど仏教に詳しいわけでもないのですが。 気になりましたので、一応質問させていただきました。 ご回答いただけると助かります。
梵我一如と入我我入の違いってなんですか?
「たき木はひとなる、……」からはじまる、道元禅師が「現成公案」において「仏教にいうところの不生・不滅の考え方を説」*いているところでわからない点があるので質問させてください。 ①「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」の「さきありのちあり」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。 ②その直後の文「前後ありといへども、前後際断せり」の「前後」は「さき」「のち」を言い換えたものであるとして、「前後際断せり」とはどのようなことを表しているのでしょうか。 ③「前後ありといへども、前後際断せり」の文において、なぜ「前後あり」と「前後際断せり」とは「といへども」でつながっているのでしょうか。対象をその前後に分析した場合、その対象は前後で分かれていると考えるのが自然だと思うのですが、ここであえて両者を逆接の確定条件でつなげているのはどのような狙いからなのでしょうか。 *増谷文雄全訳注『正法眼蔵(1)』(2004)p.47
知り合いのご住職から、法華経の読み違いがあっても、その欠落した分を補ってくれる法華滅罪真言(補欠分真言)なるものを教えて戴きましたが、 出典はご存じないとのことでした。 ①以下のように聞き取ったのですが、間違っておりませんでしょうか。 なも あらたんな たらやーやー おん きゃらきゃら くじゅうくじゅう からから(たらたら?) おん たどたんだら じびたー そわかー ②出典をご存知の方がありましたら、お教えください。
こんばんは。 お坊様の着る衣装ってどうなっているのか、画像を検索したりしてるんですが、私が思うほど単純じゃ無さそうで細かいところがよくわかりません。 ひょっとして宗派によってデザインが違うんでしょうか? お坊様の好みで選んだりもするのでしょうか? 何種類ぐらいあるんでしょうか? 着るのもきっと難しいんでしょうね。