こんばんは。 明日、ひいお婆ちゃんのお葬式があります。 どうして人は死ななければいけないのか、 おばあちゃんや親族とと一緒にいた方が幸せなのに、どうして離れなければいけないのか、全部忘れてしまうのかと 死 についてずっと考えていました。 夜、ねれなくて、死後の世界について調べていると、天国や地獄も実際にあることを、臨死体験の方の証言で知りました。 証言によると、お釈迦様やイエス様の愛が心にある人は天国へ行き、守れなかった人は(宗教が心になかった人は)永遠に地獄で苦しんでいること。誰もが死の後、この裁きを受けこと。 急に全てが怖くなりました。 ひいおばあちゃんも裁きを受けるのか、天国で安らかに過ごしてほしいです。 そして自分も、今、23才ですが、不平不満を言ったり、自己中心的であったり、自分のことが嫌いだったり、正しい行いはできていません。これから正していけば、赦していただけるでしょうか。とても怖いです。 大切な家族や、友人や恋人も、 いつも宗教が心にあるわけではないと思います。 すごく熱心に宗教に精通している家族ではないので、、申し訳ありません。 お釈迦様、イエス様の教えに背いてしまったり、してしまうこともあったのかもしれません。(わたしよりはみんなとてもいい人たちなのですが、) それでも大切な人たちにはみんな天国で過ごしてほしいです。 明日のお別れが辛いこと、 そして今後、大切な人たちや、自分も裁きを受けることが不安で、 死への恐怖が、裁きへの恐怖が怖くてどうしたらいいかわかりません。 これから行きていく上での指針や、 自分がこれからできること、 わたしがこれから家族や大切な人たちの今後のためにできること 仏教の面から助言を頂けますと嬉しいです。 何卒よろしくお願いいたします。
設備管理の仕事をしてると、つい考えてしまう事です。 ポンプ、モーター、配管、電磁弁、ボイラー・・・等 毎日接してると何となく愛着みたいなものも湧いてくるし、 「所詮は機械だから」とも思えてくるし。 20代のころ、工場の中にびっしり張り巡らされてる 配管を見て、「まるで生き物みたいだ」と感心した事もあります。 虫や植物など、生物全般には仏性や魂はある、と考えるのが仏教の 基本的な姿勢だと思うのですが、(間違ってたらごめんなさい) では完全な人工物たる機械にも仏性、あるいは魂みたいなものが あるの・・・? お坊様方はどのようにお考えでしょうか?
お坊さんは仕事柄、年配の方と接する機会も多いと思いますので、質問させてください。 私は有料老人ホームで清掃パートをしてますが、たまに入居者様から話しかけられます。 殆どが挨拶で、たまに、ありがとう、とか、助かるわ〜、とか言われます。私は単純だからその一言でやる気になります。 話しかけられるのは嬉しいのですが、たまに、ここならボケても安心ね〜、という自虐ネタ(?)があります。 それに対し私は、本気の怒り50、冗談50のバランスで、そんな悲しいこと言わないでください〜(=゚ω゚)ノと返事しました。 が、後から考えて、どう見ても、しっかりした(話し方も外見も)ご婦人でしたから、アレは100%冗談だったんだ…と気が付きました。 何気ない冗談が通じないと悲しくなりますよね。 逆に、あぁ私はもうボケるネタさえ本気にされちゃう年齢なのね。 と、ガッカリさせてしまったのではと反省してます。 お坊さんなら、どのように返事しますか?私は過去に福祉施設に利用者として住んでたことがあり、スタッフさんとのやり取りで、励まされる事、傷つけられる事があったので、居住者さんと自分が重なります。 立場としては、清掃パートの私が下で、高額な居住費用を支払う入居者様が上です。当然ですが…
こんにちは。 昔、芥川龍之介の書いた『蜘蛛の糸』という小説を読みました。 お釈迦様がガンダダが救おうとして結局救われないという話だったと思います。 しかし今思い返すとあの話は少し変だと思いました。 あの話ではお釈迦様は極楽浄土にいて、そこから糸を垂らしてガンダダを救おうとします。 しかし仏教では解脱したら輪廻が終わり、無に還るだけだと説いているので、浄土にお釈迦様がいるのは場違いです。 そして調べてみると極楽浄土というのは阿弥陀仏の浄土なのでお釈迦様がいるのはやはりおかしいそうです。 またお釈迦様が人を物理的に助けるというのもおかしな話です。 お釈迦様は神様ではありません。(仏教的には神さまよりも上の存在(?)) あくまで現世で弟子たちに教えを残しただけです。 この作品は日本人に誤った仏教感を植え付けていると思いませんか? もちろん作品の演出だと言えばそれまでですが、日本で古くから信仰されている宗教だからこそ日本人は仏教を正しく認識する必要があると思います。
私は現在適応障害を発症しており今の仕事を退職予定です。去年、無くなった祖母は自宅で庵をしておりました。 僧侶として人生を歩むと言うのは私と同じように精神疾患があったり悩みがある方への少しの力にでもなればと思いますしもう一度祖母がやっていた庵を復活させたいと思っております。 今回の適応障害が私の一度目の人生が終わったと感じ、残された命を仏様のお力を借りながら一歩ずつ歩みたいとも考えております。ですが、一歩踏み出す勇気が中々でずに気持ちが先走るばかりです。どのように踏み出したらよろしいでしょうか。色々な僧侶様からご意見頂ければと思います。
ある企画の手伝いでお坊様と一緒になりました。 その企画に初参加で少し空回り気味でした。 お坊様とはほとんど会話はありませんでした。 しかし、企画の最後に突然握手を求められました。私は他にする事があり急いでいて、深く考えもせず応じました。 もう一年以上経ってますが、今だに握手を求められた理由が分かりません。 合掌ならわかりますが... 私の態度や行動ぶりはけして好印象を抱かれたとは思いませんし、お坊様に対して良いお接待をする器用さもありません。 お坊様が一般人に対して握手求める意味とはなんでしょうか? 教えて下さい。
私は現在適応障害を発症しており今の仕事を退職予定です。去年、無くなった祖母は自宅で庵をしておりました。 僧侶として人生を歩むと言うのは私と同じように精神疾患があったり悩みがある方への少しの力にでもなればと思いますしもう一度祖母がやっていた庵を復活させたいと思っております。 今回の適応障害が私の一度目の人生が終わったと感じ残された命を仏様のお力を借りながら一歩ずつ歩みたいとも考えております。ですが、一歩踏み出す勇気が中々でずに気持ちが先走るばかりです。どのように踏み出したらよろしいでしょうか。
例えば、神社にお参りした後お寺にお参りするなど・・・・・
今高校生なのですが、天台宗のお坊さんになりたいです。 どのようにしてお坊さんになることができるのですか? 仏教系の大学に行くべきなのでしょうか?
外国の仏教と日本の仏教の違いって何ですか? チベット仏教とかテーラワーダ仏教とか色々聞くんですけど日本とは何が違うんでしょうか?
無一物の意味がいまいち理解できません。 何ものにも囚われるなという意味のようですが、仕事とかあるし、囚われない自由な生き方なんて出来ないと思うのですが… そういう意味じゃないんですかね?? どこ読んでも小難しくわかりずらかったので端的にわかりやすく教えて頂ければ幸いです。
私はいつも光明真言や、不動明王などの真言を学校に行く前に大体15分くらい唱えているのですが、真言の効果って、時間と共に薄れていくのですか? また、よく真言を唱えるときに噛んだりしてしまうことがあるのですが、それによって祟りなど、不幸なことが起こるのですか?
いつも心の支えにさせてもらっております。 このサイトに来て仏教という物に関心を持ったのですが、私はお寺に行くという事が滅多になく、どういうところなのかピンと来ません。 神社とか願掛けによく行っていたのですが、お寺は大晦日くらいです。 私の家の宗派は真言宗のようですが、宗派の違うお寺でも皆さん気にせず参ったりしてるようで、ほとんど観光って感じですよね。 日本人はあまり特定の宗派に信仰心が無いのは知っていますし、信仰心が文化レベルまで落ちついているとか言われてますが、寺に観光に行けば願掛けしたり、 健康になると煙を浴びたり、神社とあまり変わらないような、 ふと思ったのですが、みんな何しにお寺に行ってるのかと、 私は神仏に対する知識はほとんど無いけれど、なんとなくのイメージとして 本来寺院は煩悩を無くし、心を正すところと思っているのですが、 願掛けなどは煩悩で、それと真逆の事なのでは? 大抵の人がお寺に参拝するときはどういう心構えなのか気になりました。
こんにちは。 よく夏になると心霊番組をやっています。 そういう番組がやっていることを考えると日本人は霊魂を信じている人が多いのだと思います。 しかし私は霊魂について疑問を持っています。 ほとんどの宗教では霊魂の存在を認め、人は誰でも死ねば不変不滅の霊魂になると言われています。 しかしそうなるとこの世は霊魂だらけになってしまいます。 一方、仏教では不変不滅の霊魂については否定し、あらゆるものが輪廻すると説いています。 仏教では輪廻するものに魂が宿り、霊魂単体では存在できないという考え方なのでしょうか? だとすると霊魂は体に依存した物質的な存在という事になります。 また解脱した場合は無になるとお釈迦様は仰っています。 無になるとは具体的にどういう状況ですか? 寝ているときのような意識がない状態を指すのでしょうか。 あるいは別の次元に行くことなのでしょうか。 疑問に思ったので教えていただきたいです。
父が入ってるお墓を、最近流行りのロッカー式に変えようと思ってます。なぜかと言うと、墓参りになかなか行けない事、墓周りの草抜きが私たち姉妹では手に追えないくらい増えて大変な事です。で、実家の宗教と母も含め、姉妹の嫁ぎ先の宗教が違ってるのですが、この際お墓を変えるのと同時に、父も私たちと同じ宗教に変えることにしました。一旦魂を抜き、その後仏教にする予定です。こんなことって珍しいことでしょうか?私は嫁ぎ先のお墓に入るのは嫌もあるし、今後、子孫も墓の手入れはしないと思います。それ思うと、ロッカー式の墓に、実家の親子で入るのが理想です。未だ先だと思っても、いつどうなるかわからない人生、色々考えてしまいます。
質問内容によってはお坊様たちも回答避けたりすることがあるのでしょうか?
私は現在、30代後半です。 40才からの生き方を模索しています。 私の人生は10代は学力不振、20代はうつ病、30代は仕事を転々と紆余曲折、迷走してまいりました。 そういった中でも20代からのスポーツへの取り組み、30代からの神道仏教の学びと経験は分かりやすい成功ではないものの心身の健康、人格の向上と心の平穏を得る事ができまして、ある一定の価値を感じています。 しかしながらもうすぐ40才にして実家暮らし独身の派遣社員ではなんとも心許なく、これからの生き方に一抹の不安を感じます。 仏教に感銘を受けているので40才から出家、修業してお坊さんになる道を考えています。 出家して修業するとなれば、一般社会よりも厳しいであろうと覚悟はしています。 40才からお坊さんになれますか?お坊さんになる方法を教えて下さい。 よろしくお願い致します。
仏教では親よりも先に死ぬと地獄へ行き、賽の河原で永遠に石をつまされると聞きました。 もし自衛官や消防士などの危険な職の人が任務中、多くの人を救うために親よりも先に死んでしまった場合もそうなってしまうのでしょうか?
いつもお世話になっております。 諸経典に、「法身、報身、応身」「自性輪身、正法輪身、教令輪身」などと記載がありました。 ✳︎ その中の、阿弥陀如来の三輪身、三輪応身(どう違う…?)について、一説には 「阿弥陀仏→文殊菩薩→大威徳明王」、 もう一説には 「阿弥陀仏→白衣観音(うろ覚えですが…)→馬頭明王」とありました。 ✳︎ 私の本山でも、祈願殿に馬頭観音様をお祀りしています。馬頭観音様は一説によると、 競馬場などにお祀りされて動物の供養、回向の本尊とされているそうです。 ✳︎ なぜ、阿弥陀様は分岐しておられるんでしょうか。それと、「輪身」「輪応身」も違うんでしょうか。教えていただけたら幸いです。