12月5日付の新聞報道にアインシュタインの手紙が競売に付され高額で落札されたとの記事がありました。 その手紙に宗教の神に対する否定的な見解が示されていました。 仏教は神がいないことで、宗教ではないと言えます。 仏教の基本は真理と論理による宇宙の真実が語られています。 真実とは、宗教の信仰の有無や宗教の種別に関係なく、すべての人に等しく適用されるものです。 真実の中身は、宇宙のすべてが空で構成され(色即是空、諸法空相)、現実の世界は空が物質に変化したものである(空即是色、諸行無常)と説明しています。 そして論理(縁起の理法)により、身体はその構造が複雑で故障しやすく死に到りますが、構造の簡単な心は死ぬ要因ががなく、通常の心境ではいつまでも生き続けます(輪廻転生)。 涅槃(心を空に戻す)に依る以外に四苦から逃れることが出来ないと言う、瞑想から得た真実の悟りをすべての人に知ってもらう為に、仏教として広めたのです。 心境のレベルによって、涅槃を求める方法が多岐にわたるため、宗派が分かれたと思います。 アインシュタインも、深い洞察でその見解をえたのではないでしょうか?
お世話になります 叔母が亡くなってしまいました、病死です 私は不自由な心身なので医師の許可や人の手を借り、なんとかお見舞へいけました。 自分の思いと感謝は、意識のない叔母に伝わったと信じるしかないですよね。お見舞の翌朝逝ってしまった…悲しいです悲しいです お通夜告別式への参列は、医師の許可がでません…母が参列です。 そこで教えていただきたいのです 叔母は浄土真宗とのこと、母は禅宗との違い(マナーや作法•初七日や四十九日)を心配しております。教えてくださいお願いします
何故霊場を巡ると徳を頂けるのですか?
儲かること関係なしに、 貧乏だろうが、世のため人のためにお坊さんをやっている方は、本当にほとけさまのような存在です。しかし、ふつうに仕事をして、もっと収入を得たくはならないのですか? それとも、やっぱり、お坊さんという仕事をしたくて、やっておられるのですか?趣味みたいなものですか?
お坊さんって儲かるのですか? 儲からないなら、お坊さんという存在はどのようにして成り立っているのですか? なくなってしまいそうです。
本当の意味で仏教に出会う人はとても少なく、出会わない方のほうが多いのはなぜですか? 又、仮に出会えたとしても 「魚の子は多けれども、魚となるは少し」という言葉のように、 本当に信心を持って仏教に触れ合うことができる方は極めて少ないのはなぜですか? 仏教が必要でない人たちばかりだということですか?
人生のなかで、本当の意味で仏教と出会う人はおよそどれくらいいると思われますか? 又、長い人生のなかで、本当の意味で仏教と出会うことがない人もいるのでしょうか?
いつもお世話になっております。 私は、いわゆる誹謗中傷に対して過剰に反応し、 「それは根本的に違うわ!基本的なことなのに、 どうしてわからないのかしら」「ルール守れやアホ!!」 と怒りが湧いてしまいます。 ですが、阿弥陀様やお不動様、つまり私の両親様だったら、 自らの信条や尊厳を著しく侵犯される内容の言動を受けたり、 また公道等で「バーカ!」「○ね!」「きもい!」などと 突然暴言を吐かれる、 また以前自分に暴言を吐いてきた相手と継続的に遭遇 しなければならないとき、どうなさると思いますか? シカトしますか?気分をさっぱり変えて即座にその場から 離脱し、別の仕事に当たりますか? ちなみに私は、応接間まで取って頂いて例の職員から 所属長代理、担当医、担当支援者まで同伴で 謝罪の場を設けて頂いたにも関わらず、 ムラムラと怒りが込み上げてきてしまうことがあります。 そのせいで最近は、例の職員にケンカを売って、 増えるはずだった通所日が減ってしまいました…泣 阿弥陀様やお不動様だったら、ルールを守れない人、 またどうしようもないアンポンタンに遭遇したら どうするんだろうな…と半分興味、半分真剣に気になりました。 ご意見お待ちしております。
こんばんは 今日は 私が いつも行っていることが 素朴に見えて独特のところがあると気づき書かせていただきます。私はなんと言うか 自分の 外側に 神 を作ってしまうのです。 例えば 先行きが不安になると 神社やお寺に行って爆祈りをしたり 占いの結果を信じ切って成功したり失敗したり 学生時代 強くなりたいと願い 格闘技に明け暮れたり そういった 外的要因にすがって 自分を保ってきました。ただ思いました こうやって外的要因にばかりすがって生きる姿勢は 仏教では どういった 煩悩に該当するのでしょうか?
いつもご教示ありがとうございます。先日相談させていただきました。 改宗についてですが、家族と話し合ったところ、近い将来に現在住んでいる近くの日蓮宗さんの寺院にお世話になるかもということになりました。 そこで質問、相談なのですが、我が家は先にも話しましたとおり、新興宗教を家族がやっておりまして、仏壇には新興宗教の本尊があり、私は日蓮宗さんにお世話になるのであれば、仏壇には大曼荼羅御本尊を安置したいと考えております。 今度、身延山久遠寺へ行くのですが、そこのお土産屋さんに大曼荼羅御本尊が売られているようです。こちらを日蓮宗さんの菩提寺にお世話になるまで私が個人的に読経するときのためなどに自室に安置してもいいものなのでしょうか? やはり、寺院で授与してもらい、開眼して頂いたほうがいいのでしょうか? 私一人が寺院に伺って檀家になりたいですとか、本尊授与をお願いしたいです、と勝手には言えないのですが、本尊はあったほうがいいと考えております。いかがなものでしょうか?ご教示いただけますと助かります。前置きが長くなってしまい申し訳ございませんでした。
所属寺を持たないといけませんか? 私の亡き祖父母、日蓮正宗。父母はノンポリ。私だけ真宗シンパだが正式に門徒かと言われると?です(築地本願寺護持会員ですが)。野良門徒です。築地または家からは遠い法話に熱心なお寺で聴聞しています。が、どのお寺に所属すべきなのかいまいち悩んでいます。近所の寺は門徒をこれ以上増やしたくないとのことですし。
キリスト教を、信仰してます。 12才の、時から孤独で、親にもあきらめられ、 酒と堕落の日々を、送って参りました。 22才ごろの時に、転機があり、山に籠り、神仏に、祈り始めました。 その後、数奇な、運命をたどりました。 仏教に興味があります。ハスノハ様の、お坊様には、アドバイスを、沢山頂きました。 悟りとは、なんですか? 真言、カルマ、神仏と言うもの、なんとなく、解ります。 キリスト教は祈りによって、解決します。 仏教が、あらゆる全ての、解らないもの、についての、答えがあるのでしょうか? 私は今公的扶助の、恩恵に預かってます。 仏教の、軽い本を、読みましたが、当たり前のことを当たり前にする事、が、一番納得できました。 放送大学を始めようと思います。仏教についてより良く、学ぶことは出来るのでしょうか? ご助言をおまちします。
私は海外に移住していて、家にお仏壇がありません。日本に帰ったときに小さなものを購入したのですが、それでも大きすぎて持ち帰ることができず、まだ実家にあります。 日々の勤行をしたいのですが、お供えやお経を読む対象がありません。如来さまの仏画をプリントアウトして、自分なりに簡易仏壇のようなものを作ってもいいものでしょうか? 勝手にそんなことしたら、バチが当たっちゃいますか? あと、身内の多くがまだ健在なのに、仏壇を設置したら縁起が悪いと親に言われちゃいそうだな、とも思っています。笑 ご意見をお聞かせください。よろしくお願い致します。
「回向」と言うのは、どういう意味なのでしょうか?
いつもお世話になっています。 日々のご回答に感謝いたします。 質問者の方々が励まされ心情に変化をもたらし心が好転していることが伺えます。仏道を志す者としても嬉しい限りです。 在家ですが、日々坐禅を行って心の清浄に努めています。 多くの質問者は、他人の質問を読むことでも勉強になっていると思います。 「苦」を観察しました。 我々は見るものであると同時に見られるものです。我々は現象を観察するものであると同時に観察される現象そのものです。 いつも主体と客体という目線でしか観察できていませんでしたが、己を客体として観察すると、己は他人(=現象を見ている主体)から見れば「客体」であって、見られる現象そのものです。 現象は諸行無常であり縁によって起こっています。この世は、全てが縁によって起こっているので恒常不変の「我」など無いので無我であり管理や制御のできない世界に生きています。 現象は常に未知であり無常であり無我であるゆえに実体のない蜃気楼か幻想のような実体のない「空・無」です。この身体や五感も現象であって、無常です。この世は、一時的な現れの現象が連続で展開されているだけでしかありません。 己に視点を移すと、我々は未知なる一瞬一瞬の刹那を体験してるだけです。この幻想の「世界」では掴むことのできない「空・無」を一生懸命につかもうとしています。しかし、己の頭の中では「現実」として展開されていて掴めるものと思い込んでいます。できもしないのになんとか掴み取ろうともがき苦しんでいます。しかし、叶わないので「苦」となっていると思います。 存在していない仮想の「わたし=無我」を使って、掴むことのできない世界で掴もうとする「渇愛」がありつづけます。「渇愛」を消すこともできずに「苦」のままに生かされています。 我々は、楽で「苦」をカバーしきれなくなり、「苦」に耐えきれなくなるようです。やり場のない怒りや憤りが募り、仏道に拠り所を求めるようになっているのでしょうか。「苦」を認識することによって仏道に入っていくなら、「苦」は避けるものではなく直視しなければなりません。「苦」は消滅できると証明されたのがお釈迦さまでありその道が仏道であると日々感じています。 お坊さんのますますの活躍をお願いいたします。
恁麼の道理なるゆえに、尽地にて万象百草にあり の、意味を子供にわかるようにせつめいするには適切な言葉はありますか? よろしくお願い致します。
YouTubeで、お坊さんの怪談話の動画を観たんですが、怖くて最後まで聞いてられませんでした( ;∀;) 他の話なら面白くて、楽しいからいつまででも聞いていられるのに。 お坊さんて何でそんなに、話をするのが上手いんでしょう・・・。 私が下手すぎるだけなんでしょうか。 怖いなら、怪談話なんて、見なければいいのにって思われるかもしれませんが、見てしまいましたΣ(ノд<) くだらないこと言ってごめんなさい
いつもお世話になっています。「金剛経5章」の勝手な考察です。お坊さんからのヒントをお願いいたします。 我々凡夫は、如来であるとの確証を得た(=如来は凡夫にとって価値があるということを知った)後に、如来を探し出せるような特徴を必死に見つけ出します。如来(=価値がある存在)と確証する前は如来でも何でも無いので特徴など詮索しません。探す目で見ていないので特徴はあっても特徴は認識できないので特徴はありません。特徴があるとは、気づいた後に作り出すものであり前には特徴はありません。 誰かが発見する前から重力や浮力は存在していて誰もが目にしています。特徴などないので気づきません。発見した人が「万有引力」やら「浮力」などの名前をつけて特徴としています。 そもそも、あらゆるものに特徴などなかったのです。人間だけに利用価値や意味があるので特徴を見つけ出します。人間以外の動物に「偽札」の特徴など知る必要はなく、特徴などありません。 動物には「言葉」がないので、臭いとかまずいとかの概念はなく本能的な反応だと思われます。我々人間も味を「言葉」にして分けていますが、親に教えられて「にがい」という味覚と経験を記憶しているだけです。 特徴があると断じても、諸法は無我であるので縁によって以前の特徴がいつまでもあるわけではありません。宇宙空間での「音」の特徴は、空気という縁がないので音は振動として伝わらないので音の特徴などありません。人相の特徴ですら、三十年も経てば全く変わってしまい以前の特徴はなくなっているでしょう。 特徴がないと断じたとしても、人間が価値を認めれば特徴を必死に見つけて特徴を定義します。 「ぶどう」は房に実が鈴なりについていて、甘酸っぱくて黒や緑色をしているという特徴によって「ぶどう」と名付けられます。この共通認識によって、市場で果物として流通しています。「ぶどう」は「ぶどう」と名付けられる前から存在していました。「ぶどう」は「ぶどう」と呼ばれなくても「ぶどう」ですから、明日から「ぶどろ」と呼ばれてもいいのではないでしょうか。 特徴によって存在しているのではなく、存在に特徴をつけて勝手に思いつくままに適当な「名前」をつけているだけではないでしょうか。 結局、あらゆるものは概念と名前によって個別の存在として有るだけで本来は区別差別のない一体であると認識しました。
お世話になります。 子供にも分かりやすく説明したいのですが、何と説明すると、分かりやすいでしょうか? 以下の文です 恁麼の道理なるゆゑに、尽地に万象百草あり、 一草一象おのおの尽地にあることを参学すべし。 かくのごとくの往来は修行の発足なり。 到恁麼の田地のとき、すなはち一草一象なり、会象不会象なり、会草不会草なり。 正当恁麼時のみなるがゆゑに、有時みな尽時なり、有草有象ともに時なり。 時々の時に尽有尽界あるなり。 しばらく今の時にもれたる尽有尽界あるやなしやと観想すべし。 よろしくお願いいたします。
法然様や親鸞様は専修念仏を教化しておられますが、出家せずとも在家のままでも有意義な念仏はできるものでしょうか? やはり、浄土教系の寺院で指導を受けるべきものでしょうか? 在家のままでも有意義な念仏が可能だとすれば、どのような点が大事になるでしょうか? ご教示頂ければ幸いです。