以前、流産と不妊について相談させていただいた者です。その節は心のこもった回答をありがとうございました。 ご回答やそれ以前の問答を拝見したりして、少しずつ落ち着きを取り戻していますが、なかなかすぐに元気にというわけにはいかず、まだやっぱりもがいています。 ところで、以前TVでストーカーのニュースを見ていたとき、「ストーカーの人が幸せになれるとしたら、それは執着を手放して、他の道を進んだときだよね」と、家族に話しかけて自分でもはっとしたことがありました。私もそうだ、と思ったからです。 たぶん私は子供がほしいと思うあまりそのことに執着しているのではないだろうかと気がつきました。繰り返し流産して、いったん手にしたと思ったものを何度も失ったことで、余計にそれが強くなってしまったのかもしれません。 なんとかこの執着を手放したいと思ってきましたが、なかなか難しいようです。もともとこんな気持ちが背景にあったので、こちらの仏教に関連したサイトにご相談させていただいたのかもしれません。 説明が長くなってしまいましたが、このような執着を手放すための心の持ちようはあるのでしょうか?ご助言をいただければ幸いです。
大忍貫道 様 ご回答を有難うございます。 追記を見落としまして失礼しました。 私は初期経典は全く知らず、大乗経典の一部だけの知識しかありません。 般若経に勝る初期経典とはどんな内容の経典でしょうか? 大変興味深いです。
生きるのがつらくて、阿弥陀様になんとか救って頂きたくてお縋りしています。 でも阿弥陀様が約束された救済は死後の救済、今生ではありません。なので阿弥陀様を拝んで顔を見上げる時に「死んだ後と言わずに今救われたい…」と思ってしまいます。 阿弥陀様に良くなりますようにと祈っても現世利益はないと言いますし、私はどんな気持ちで阿弥陀様と向き合えばいいのでしょうか? とても恥ずかしいし苦しいし、阿弥陀様に申し訳なくてご本尊の前にいられません。私は地獄に落ちるのでしょうか。
まず、煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか? だとすると、「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。 何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。 個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。 (本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが) では仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。
父親は胃がんを発症し、病院でも匙を投げられ緩和ケアの段階に来ています。 言葉を発する事もなくなり、食事も殆ど摂らず寝ている事が一日の大半になりました。 息子として何かしてやりたいのですが父親としてはそれを望んでいないようです。 母親も椎間板ヘルニアを患い、介護自体も辛そうです。 自分は今、孤独と焦燥感がない交ぜになったような日々を過ごしています。 いずれ父親の死を看取る事になるでしょう。 その時の心構えが頭ではわかっていてもやっぱり割り切れないのです。 父とは折り合いが悪く「くたばっちまえ!」と何百回と思いましたが、いざその時が近づくと居ても立っても居られない自分の気持ちがわからないです。 これからどう日々を生きてゆけば良いのか無明の世界に居るようなものです。 どうか助言をいただけませんでしょうか?
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌
#坊さんあるある2015盆というのが流行ってますが、 http://togetter.com/li/846826 http://grapee.jp/66218 http://matome.naver.jp/odai/2143761674237463401 こちらでも聞いてみたいです。 知り合いのお坊さんの話でもいいです お願いします★
最近、父が自ら首を吊ってなくなりました。 私は家族とは離れ1人暮らしなのですが、家族の話ですと前の晩も当日も普段と変わりなかったようです。 遺書とか何もなく、自殺の原因が分かりません(鬱病とかでもありません) 思い当たる事と言えば、父は若いころからずっと運転に係る仕事をしていまして(数年前には年で辞めています)運転には自信があったようなのですが、その父が亡くなる少し前に運転中に意識が無くなったらしく、事故を起こしてしまったのです。 幸い人も巻き込まず、本人もムチウチと少し少切り傷が出来た位で、 1週間弱で退院出来ました。 家族もよくあの事故でこの程度でで済んで良かったと安堵しており、ただし、また運転中意識が無くなったりしたら大変なので心配だから今後はもう運転はしない方がいいね、となっていました。 そうすると大好きな孫(弟の子供)の送り迎えも出来ず、楽しみがなくなったのかな? 運転に自身あったのに、事故を起こして本人は気にしていたようなので自信喪失したり、老いを感じたのかな?等、それ位しか自殺の原因が分かりません。 残された私たち家族は原因も分からず、とても辛い思いをしております。 ですが原因はもう父しか分からないので仕方ない、とは思いながら自殺してしまった人の魂はどうなるのかとても気にかかります。 人生を全うして亡くなった方と違って、成仏できるのでしょうか? 生きるのが辛くて自ら命をたったのに、成仏できないとか、天国と地獄があるのなら、地獄に行ってしまうとか、亡くなっても尚更、辛い思いをするんではないか?と胸を痛めております。 どうか教えて下さい、お願いします。
一休さんはとんちが得意なのですが、お坊さんはみんなとんちが得意なのですか? どうやって磨くのですか?とんちが得意になりたいです。
はじめまして、 高校生の息子についてのご相談です。 将来の夢は僧侶になることで 私はあまり詳しくは無いのですが お経の勉強や仏教関連のことを 詳しく調べたり、毎日自作の仏壇?に お勤めしたりしています。 そこまでは いいのですが、高校の勉強は 将来役に立たない、 今の学校(理系)には合っていない、 この学校に行く意味ない とか言い始めて困っています。 私が、 大人になってから 自分で好きにするのは自由だよ、 今は目の前にある勉学に 勤しむべきだと伝えても 教義を持ち出し 私からすると屁理屈を言い出します。 当人は屁理屈とは思っていなくて 私が間違えてるそうなのです。 私は僧侶になることに 反対しているわけではなく、 今は 仏教に関係ないことも 学んでおくことは大切だと 考えております。 入学してから理系が向いて いなかったと感じているのも そのことに 拍車をかけているように 感じます。 まだ高校生活が 始まったばかりで 3年間続けられるのか不安です。 対応のヒントを お願いしたく 質問させていただきました。 よろしくお願いします。
寝ているときは、不安や心配がありません。 すなわち、起きているときに存在する私という感覚(自我)は、不安や心配そのものであると言えるでしょう。 また、自我は問題の生じるところにしか存在せず、問題は善悪を裁く部分にのみ存在すると感じます。 言い換えれば、善悪を裁くことがなくなれば、自我による不安、心配から開放されそうです。 そこで、善悪とは何なのか、何によって生じるのか、仏教においての善悪の解釈を教えて頂けませんでしょうか? 今まで善悪についてあまり考えず、周りに流されてきた気がしています。 よろしくお願い致します。
3年前に結婚が破談になってから卑屈な自分となりうつ病を患ったりと安定しない日々を送ってきました。今はうつ病の薬もやめて体調も安定したのですか、卑屈な自分が前面に出ているのか声が出しにくく対人スキルがかなり落ちました。 もともとは人見知りもなく明るくて、よく話し積極的で前向きな性格だったのでこんな数年で自分の変わりように悲しくなります。お酒を飲むと明るい話せる昔の自分に近づくのですが。このままだとさらに独身だろうなと自分で分かりまたしょげてしまいます。どうしたらいいのか分かりません
高齢者の安楽死についてご意見をお願い致します。90歳になる身内の者が倒れ入院となった際、医師に言われました。平均寿命を超えているからもういいのではと。つまり、延命治療をせずに逝かせるということです。家族は反対し、できうる限りのことをしてほしいと願いましたが、いざ胃瘻をどうするかの際に、この医師は容態について虚偽の説明までして胃瘻を阻止しようとしました。 高齢者の医療負担が大きな問題となっていますが、この医師も口から食べられなくなったら寿命とは言うものの、だからといって家のように栄養を少しずつ減らして二三ヶ月で逝かせましょうだなどと私はどうしても疑問を拭うことが出来ません。 医師が捉える死と御坊様が捉える死とは違うとは思いますが、命を救うのが医療であって、そこに延命も何も無いのではと私は思ったりもするのです。蝋燭は燃え尽きてこそ終わりです。口から食べられない、平均寿命を超えていることから死に至らしめようと安易に考える医師に私は命に対する驕り高ぶりと恐ろしさを感じます。たとえ口から食べられずとも、今その目の前に尽きていない命があるのですから。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
こんばんは。 どうしよう。涙が出そうです。 病気の事に関しては以前通院していたないかの先生は「もっと前からなってたんじゃないの?」と言われました。 病気でもたいしたことないんですが、今テレビでも話題になっている「バセド病」です。よーく考えてみると先生の言うとおり小学生の頃からだったと思います。よく「目が大きいね」といわれてました。 学生の時は、なんでも興味津々でした。夢もありました。でも今は、やりたいこともないです。前向きになれません。 どうせ死んだって、亡くなった友人に逢えるわけでもないし、将来の旦那様と同じ墓は入りたくないし。 やっぱり一人がいいです。 何故そんなに無縁仏がいけないんですか?
お坊さんは幽霊や霊魂が見えたりするのでしょうか?もし見えてしまったらどうしたらいいですか?
私の姉のことで相談させてください。 姉は2人の息子を連れて20年前に離婚しました。その後専業主婦だった姉は一生懸命働き幸せを求めて頑張りましたが、思い通りに収入を得れず10年前に2人の息子を元夫の下に戻しました。現在子供達は元夫の戸籍に入っています。上の子供はその父と生活できましたが、下の子は父との対立から間もなく施設で生活する事になったそうです。息子を手放して毎日泣いて暮らしていた姉はこのことを知り元夫と公的機関に何度も息子との再会を頼みましたが許可されませんでした。姉は酒もギャンブルもしません。気弱なだけです。私もずっと2人の幸せを祈っていました。昨年末やっと息子達と連絡がついたそうで姉はホッとしていました。やっと生きた心地になれたのだと思います。再会は出来ませんでしたが手紙や電話で連絡が取れたらしいです。これから改善に向かうと願っていた矢先、先週下の息子の訃報が届きました。姉は再び絶望です。姉の下に今亡骸を預かっています。その事情から戒名もまだのようです。このような場合どのようにすれば子供は成仏できますか?何処に相談するのか教えてください。
私の宗派は浄土真宗なのですがもっと自分の考えに近い宗派があるのではないかと考えております。宗派を変えることはできるのでしょうか? また、宗派を変えるにはどうしたらいいのでしょうか?
離れて暮らす、母はデイサービスに通ったり、それなりに父と二人の生活をしているようですが、暇になると何の用事もないのに毎日のように電話をしてきて、こちらも「またか・・」と思ってしまうので、特に話さず、黙っていると「じゃあいいわ」と言って切ります。先日こちらのたまっていた気持ちをぶつけると「もう電話しない」と電話もこなくなりました。生活に張りがなくつまらない気持ちをくんであげて話くらい聴いてあげればと思い、冷たくあしらったこと後悔していますが、私は病気療養中で体思うようにいかず、おおらかになれないのかもしれません。間違っていたのでしょうか・?
お願い致します。 仏教では「人生は修行」と、キリスト教では「耐えられない苦難は与えない」と言います。しかし世界には過酷な悲惨な状況下に於いて命を落とす人達が多くいます。赤ん坊や幼い子供であっても容赦のない状況があります。修行でも 耐えられる苦難でも無く 生まれてきた意味さえ見つからないと思うしか無いような。 長い間の疑問です。お教えいただきたくよろしくお願い致します。