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hasunoha 問答検索結果 : 「悟り」
検索結果: 2141件

お坊様方、改めて教えに向き合ってみませんか?

報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌

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ある僧侶の死

前回の質問時に生じた質問です。 もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。 当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。 そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。 筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。 「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」 仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。 「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。

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進行系の苦しみを減らしたい場合

生まれ持ったスペックの中で、いかに楽しく幸せに暮らしていくのか工夫して生きていこうとするのが仏教というアドバイスをいただきました。 私は、楽しむ事が出来ません。 またプラスでそのスペックのせいで苦しみが永続的に続いています。 それらは例えば価値観に対する苦しみもあります 価値観や考えを変えれば変わる価値観もあります、今の大半のハスノハの悩みはそうでしょう。 でも今現在を苦しめさせる何かでもあります。障がいとか、やりたくない仕事とか、仕事のストレス、後悔やら、攻撃的な人間関係やら(イジメとか)、身体の苦痛やら。 それらって楽しむとか以前に一緒に共存したりできないし価値観を変えても苦しいのは苦しく仏教でどうこう出来るものじゃないと思うのです。 そんな中でこういう苦しみは仏教的にはどうやって対処してるのですか? 思考を変えて身体の苦痛やらも改善できるほどのものなのですか? 貴方は選択ミスで、今からお坊さんを辞めて毎日ウンコ食べる仕事をしてくださいと言われてそれを永続的に繰り返さなきゃならないです、ウンコを食べる仕事は辛いです。 ウンコを食べる仕事は性格上向いてないです。 周りのウンコ食べてる同僚達はフルシカトで人間関係でも苦しんでいます、ウンコ食べる仕事はかっこ悪いし恋人もできないです、ウンコ食べる仕事をしていることに後悔を感じています、全部選択ミスで起きた仕事選択です。詰将棋の状況です。 ウンコ食べる仕事をするのに無駄に学歴が高いですあんなに勉強したのに、高い学費払ったのに。 辞めたら履歴書が汚れて、下痢を食べる仕事しか残ってないです。 私はウンコを毎日食べています。 価値観を変えたら幸せなのですか? そんな中で毎日価値観を変えるだけで幸福になるんですか?

有り難し有り難し 55
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自殺した人の魂はどうなるのでしょうか?

最近、父が自ら首を吊ってなくなりました。 私は家族とは離れ1人暮らしなのですが、家族の話ですと前の晩も当日も普段と変わりなかったようです。 遺書とか何もなく、自殺の原因が分かりません(鬱病とかでもありません) 思い当たる事と言えば、父は若いころからずっと運転に係る仕事をしていまして(数年前には年で辞めています)運転には自信があったようなのですが、その父が亡くなる少し前に運転中に意識が無くなったらしく、事故を起こしてしまったのです。 幸い人も巻き込まず、本人もムチウチと少し少切り傷が出来た位で、 1週間弱で退院出来ました。 家族もよくあの事故でこの程度でで済んで良かったと安堵しており、ただし、また運転中意識が無くなったりしたら大変なので心配だから今後はもう運転はしない方がいいね、となっていました。 そうすると大好きな孫(弟の子供)の送り迎えも出来ず、楽しみがなくなったのかな? 運転に自身あったのに、事故を起こして本人は気にしていたようなので自信喪失したり、老いを感じたのかな?等、それ位しか自殺の原因が分かりません。 残された私たち家族は原因も分からず、とても辛い思いをしております。 ですが原因はもう父しか分からないので仕方ない、とは思いながら自殺してしまった人の魂はどうなるのかとても気にかかります。 人生を全うして亡くなった方と違って、成仏できるのでしょうか? 生きるのが辛くて自ら命をたったのに、成仏できないとか、天国と地獄があるのなら、地獄に行ってしまうとか、亡くなっても尚更、辛い思いをするんではないか?と胸を痛めております。 どうか教えて下さい、お願いします。

有り難し有り難し 3986
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気持ちの浮き沈みが激しく、深い自己嫌悪になるときも

こんばんは。女子高校生です。 気持ちの変化が激しく、とことん凹む日・怒りっぽい日・機嫌のいい日などがはっきり自覚できます。一日の中でさえも、ささいな一言で涙が止まらなくなったり、憂鬱になったり、かっと怒りが湧くのを感じたりします。もともとプライドが高く、自分のウィークポイントやコンプレックスを突かれるとそのようになるようです。 その性質を自覚し恥じており、「他人におおらかに・冷静に」を目指してきました。幼いころに比べたら今はずっとましですし、家の外では、優しい性格だと思われているかもしれません。友人にも恵まれました。 しかし、コンプレックスが話に出るとやはりだめなのです。 たとえば母が何気なく(しっかりしたいい人です)幼いころの私のわがままな言動について思い出話をします。 すると、笑って一緒に懐かしもうとしても、笑顔が引きつってしまうのです。その場では「その節はゴメンねー、ほんとありがと!」と言えても、あとでどこか心わだかまりを感じ、兄(気弱ですが優しい人です)と自分の性格を比較して落ち込んだりします。 また、ある日母を怒らせたとき「私の嫌いな人に似ないで」と言われました。父や父の家族のことです。 母は子供に平等な人なのでそのことを言ったのはそれきりです。母も疲れていた日だったし、そもそも私がだらしないから悪いんです。その言葉自体は本当にとるにたらず、むしろ尤もなことであり、それ以来いつもは忘れています。 しかし落ち込んだ時や失敗したと思った時、急に蘇り涙が出ます。いつにもまして「母は娘を愛してくれるけど、私という人間は嫌いだろう」と思い、鏡を見れば自分の顔が父にそっくりで消えたくなります。 これを書いている今も、意味もなく泣いています。泣き虫な甘えた自分も含め、気持ちをコントロールできるようになりたいです。 どうすればいいでしょうか?アドバイスお願いします。

有り難し有り難し 47
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「般若心経不信」になってしまいました。

こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?

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妻帯について

こんばんは。 同じような質問を他でも見かけるのですが、改めて質問させてください。話をまとめるのが苦手ですので長くなりますがご容赦ください。 一週間ほど前に出会った海外の僧侶の方に、 「なぜ、日本の僧侶は結婚するのか」 という質問をされました。 私の生半可な知識では到底答えられなかったのでhasunohaで見かけた意見などを紹介してみたのですが、いまいち質問の意図にそぐわない気がしました。 彼が訊ねていたのは妻帯を許されるようになった歴史とか、結婚したらしたなりの別の修行があるから、というようなことではなく、なんと言えばいいのか…もっと根本的なことのように思います。(と、いっても私の拙い英会話力での印象ですが) 会話の中では"不必要な結婚"(わざわざ戒律を破る不可解な行為)とも表現していました。 彼はインドで修行を開始し、その後"世捨て人"(なんと訳せば良いのかわかりませんが、英語ではrenunciantと呼んでいました。彼は家も(自認する)国籍も持たず、各地を放浪しながら乞食修行を行なっているようです)になったようです。不学なので詳しくはわからないのですが、インドでの仏教のあり方に最も共感しているようです。それ故、日本でのこの特殊な仏教のあり方に心底疑問を抱くようで、お寺が世襲制であることにも違和感を感じているようです。また、人によってそれぞれ適した修行方法があるし、だからこそ妻帯者には妻帯者なりの仏道修行があるのは認めた上で、それでも、最終的には乞食修行に行き着くのではないか、とも語っていました。 日本という国や仏教に関心を寄せる身として、「今後空海のような人が日本から出てくることはないだろう」とか、「日本のお坊さんは会社員と同じ(誰でも望めばなることができるし、ビジネスとしてやっている)」などと言われてしまうとなんだか悲しくなってしまいしたし、うまく答えられないことがとても悔しく感じました…。勿論、彼に日本を貶めようとかいう気が全くないことは重々承知の上ですが…。 長くなりましたが、hasunohaに集うお坊さま方は彼の質問"日本の僧侶はなぜ妻帯するのか"にどのようにお答えになりますか?是非皆様の智慧をお貸しください。 彼はまだしばらく近くに滞在しているので、会う機会があれば伝えたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 83
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仏教の「助け合い」

先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。

有り難し有り難し 244
回答数回答 7