浄土教(浄土宗あるいは浄土真宗)の深い信仰に入りたいと思っています。もちろん出家ができればベストなのでしょうが、なにしろ仕事もある身ですから、在家のまま信仰が持てればと思います。勇気を出して近くの浄土真宗のお寺に見学をお願いしたこともあるのですが、門前払いの対応に落胆し、それ以後どこの寺院にも連絡できていません。昔の日本ではお寺は「駆け込み寺」であり、もっと庶民にも門戸が開かれていたそうですが、近年は本当に「葬式仏教」になったのでしょうか? ただ、そうも思いたくはなく、深い信仰をお持ちの僧侶もおられるに違いないとも思います。ご自分の体験から、在家のための信仰の入り方についてお導きください(ちなみに、仏教関係の読書はある程度は広く浅く行ってきました。もう200冊以上は読んできたかと思います)。
主人が亡くなり、両親に会えたかな…と何気なく話をしたら、Sの方に、仏教は3年経たないと会えないんだよ、Sならすぐ会えるから、入りなさいと言われましたが、本当ですか? Sに入る気もありませんし、Sの方達を否定もしておりません。それぞれ、信じる道を進んでよいと思います。ただ、本当なのかな、と思い、こちらに質問させていただきました。
私は、結婚前からお寺巡りを趣味にし、法話会や特別拝観などを楽しみにしている年齢の割に合わない趣味をしていました。 京都、奈良は年一回、普段でも休みの日は鎌倉等に出かけていました。 私は、見た目を若く見られる傾向がいまでもあるか、年齢のわりに幼い所を見過ごされるのかはわかりませんが、お寺に行って拝観料、拝山料を収める時や写経して納経帳をお願いする時に(拝観時間や常識のある時間にに行ってます)お坊さんやお寺の人に私からすれば面倒くさそうな顔をされたり、あんたに何がわかるの?的な顔をされたりされた事がたたあります。 仏教に興味があり、座禅会に行ってたお寺でまだまだわからない事もありあってお坊さんにもっと知りたいのでオススメの書籍はありますか?と相談したら、煙たがられ座禅会を辞めた事もあります。 写経して行っても、あんたが本当に書いたの?と疑われたり、写経会で一番に書き上げたらビックリした表情されたりと、時々不愉快になる事がありました。 お寺は誰が行ってもいいんですよね? 得に忙しい時期に行ったわけでも、法要等のある日に行ったわけでもありません。 なのに煙たがられました。若いから行ったら行けないんですか?年寄りなら歳相応でいいのでしょうか? 受け入れてくれる所には何度も足を運び、法話会にも毎月行ってました。 そりゃあ、来る人の中では若いので多額のお布施はできませんが、見た目で判断されても嫌です。(ハデハデしい今どきファションでお参りに行った事もありません。) カバンから数珠やお線香を出してお参りしている時でも、檀家さんでもないから?か嫌な顔されたり、イヤイヤ納経帳を書いているように見られます。 ハッキリ言って一度くらいそのような態度をとった人に理由を聞いてみれば良かったと本当に思います。
49という数字がやたらと目につきます。 ふと見た電子時計の数時、TVの時計の数時、 広告の値段や、色々ありますが49といあ数時ばかり目につきます。 ネットで調べるとエンジェルナンバーでは49という数時は良いいみらしいのですのが、エンジェルナンバーは海外の考えなので日本人の私にはあまり関係しないような気がします。 どうしても49>死を意識してしまいます。 考えによって49>良くと考える人もいますが、 私にはどうしても死と考えてしまいます。 49数時ばかりめにしてから2年くらいたちました。何か悪いとこが起きる前触れとか誰か死ぬとかの虫のしらせなのでしょうか?気にしないほうがいいのですが、気にしてしまいます。
梵我一如と入我我入の違いってなんですか?
偉大な僧侶 親鸞聖人の直筆について質問させて頂きたいと思います。 親鸞聖人はとても達筆であると、小説や文献で読んだことがあります。 この前 知り合いの仏壇の中央にかけてある「南无阿弥陀」の掛け軸を知り合い宅で拝見しました。 下記のURLの掛け軸でした。 http://www.kouyu.info/SHOP/SS168000.html 誠に誠に失礼ながら あまり達筆でないような気がしました。 しかし向かって左側の「愚禿親鸞」の筆はとてもお上手です。 この書体にされたのには何か意味があるのではないかと思い 何かご存知の方がいらっしゃれば お教え頂きたいと存じます。 また なぜ「南無阿弥陀」ではなく「南无阿弥陀」なのでしょうか、なぜ「无」の字をお使いになったのでしょうか? 合わせてお教え頂ければ幸いです。 よろしくお願いします。
ヨーロッパにおける、寺院の活動内容、生活や苦労などをご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけないでしょうか?
最近人付き合い、自分自身の人生に疲れてしまいました。 人にずっと押し付けられて、それが重くなり悲しくて、疲れてしまいました。 ふと気づくと本当にやりたかったこともできず、人の意見で否定されてできなかったと後悔してます。 あのとき、否定されてもいい、意見なんか聞かずに前へ進めばよかったからやればよかったと後悔してます。 人に笑われるのが嫌で、人に合わせてしまったことに後悔してます。 何で謝らないといけないとき笑いながら謝ったりするのでしょう? 今からでもやり直しはできるのでしょうか?
もうすぐ、夫の父の三回忌なのですが、どうしても行けません。 いえ、行きたくないのです。 夫の母と妹が法事を計画しているのですが、家族全員での出席を求めてきます。 夫は病気で介護施設にお世話になっていて、外を歩くことも難しく、食事も飲み込む力が弱くなってきているので、軟らかくした物を用意してもらっている状態です。 一周忌の時は、どうしても法要に行きたいという夫の気持ちを尊重して、介護タクシーを頼み、やっとの思いで行きました。 介護タクシーにも費用がかかったので、会食もありましたが、御仏前に1万円包みました。 家族揃って出席できて良かったなとも思いました。(昨年は夫も普通の食事を食べることができたので。) しかし、後から妹に、御仏前として包んだお金が少ないと言われとても傷ついたのです。 5万円が相場だと言われました。 この時、夫の母と妹が私たちの生活の大変さをわかってくれる人ではないと理解しました。 長い間闘病していて、介護費用もかかっていて、それを私が支えているうちの経済状況が大変なこと、 夫の体の状態も大変で介護専門の人に同席してもらわなければ出席は無理なこと、 それでも一周忌にみんなで出席したのは、夫と亡くなったお義父さんとお義母の気持ちを大切にしたからだということ、 今後はお付き合いの仕方を考えたいとのことを伝えました。 ですが今年また三回忌に全員で出席してほしいと言われています。 私は上記の理由でもう行きたくないのです。 夫は行きたいと言うかもしれませんが、体の状態もあって難しいと思っています。 子供たちには、私と義家族の間であったお金の話は伝えたくありません。 義妹はお断りしても、大切な三回忌のことをどう考えているのですか? と、責めてきます。 義母と義妹で好きなように法要はやればいいとおもいます。 ただ、体の状態や、心の状態、その他もろもろあって欠席ということを認めてもらうにはどうしたらよいでしょう。 私は亡くなったお義父さんの為に祈ることも、お寺に行くことも、お墓参りに行くことも嫌ではありません。 私たちの苦労になんの配慮もない義母と義妹に合わせることが嫌なんです。 私と子供たちでお墓参りに行くだけではダメでしょうか?
先月の月末に、浄土真宗のお寺を訪問し、お経を読ませてもらいました。 その翌日に、旦那の祖母(義祖母)が亡くなり、行かなければよかったのか未だに引きずっています。 昨日で初七日が終わり、家では少し落ち着いてきています。 悩み・後悔 ・倒れる前日におかしいのに気づけばよかった。 ・亡くなる前日にお経を読まなければよかった。 この2つが今になって後悔の種です。
かつて寺院はどんな小さい地区にもあり住民の中心の存在であったと思います。 そしてそこでは信仰のほかに住民の学び、憩い、集い、経済そして避難の場所としてとても大切な場所であったと思います。 だからこそ寺院そして仏教が身近なものであったと思います。 しかし今の寺院の多くは葬式などの儀式だけの場所となってしまっていると思います。でも私はいまでもたくさんの人々が仏教の生きた言葉と働きを求めていると確信しています。だからこそ時代に即した形で寺院が変わり、再び人々が来やすくなる場所になる努力をしてもよいのではと思います。 僧侶の皆様も努力されていると思いますが、どうお考えでしょうか?
こんばんは。 心配してくれる親しい友人もいて、 たまに様子を見に来てくれる両親もいて、 仲の良い兄妹もいて、 新しい土地で出会えた友人もできて、 最愛の子供たちもいるのに、 誰にも主人を亡くした辛さ全てを話せません。 主人と交流があった方とお会いしても、 表面上のありふれた寂しさを語るくらいで、 相手を困らせてしまうのではないかと、考えると それ以上の話はしません。 死ななければ、何でもできる それ以上の辛さはないから。 わかります。死んだら終わりです。 でも、その気持ちが越えてしまうほどに 悲しみで溢れてしまいそうで、 明日を迎える気持ちも湧いて来ません。 どうしたら良いのでしょう
先日、母から流産していた話を聞きました。 何がきっかけでそのような話になったかは覚えておりませんが、「もしかしたら貴方には兄弟がいたかもね」なんて話をされ、過去に触れる事にもなるのであまり掘り下げはしなかったのですが、ふと気になりお教え頂きたく質問致しました。 私は幼い頃にかなり大きな交通事故、また最近に手術を必要とする病気にかかったのですが事故の際は幸いにも痕の残る怪我のみで後遺症は一切無く、病気に関しては危なくなる一歩手前で気付く事が出来ました。 これにはやはり何か過去の霊の様なものが助けてくれたのでしょうか? また、私自身から進んで何かするべき事はあるのでしょうか? これから産まれてくることが出来なかった彼(彼女)の分まで幸せになる為に是非お教え頂けますと幸いです。
最近可愛らしい如意輪観音様の陶器の置物と出会いました。あまりに可愛らしいので、置物ですが、お水、お花、御灯明をお供えして手をあわせております。 長くお付き合いしたいと思い、開眼供養を思いたったのですが、一般的に、こういった人形のような御像でも開眼供養というものはしていただけるものでしょうか? また、近くに如意輪観音様をお祀りしているお寺様がない場合、観音様をお祀りしているお寺様にお願いすることは可能でしょうか。 よろしくお願いいたします。 (ちなみに実家のお墓のあるお寺様は浄土真宗なので、こういったご相談ができません)
先日49日法要が終わり納骨も済ませて、家に帰ると何だか心にぽっかりと穴が開いたような もういないんやなと思ってしまいます。 忌明けまでまだ数日ありますので、御供やお花など納骨前と同じようにしていますが なんだか寂しいような、変な感じなんですが この感情でおかしいのかな?などど考えてしまいますが どうなんでしょか? あとお線香を二本にするのは忌明けからでしょうか? 仏壇はないんですがおちゃ、お水、ご飯は毎日あげたほうがいいのでしょうか? それとも写真を飾るだけでいいのでしょうか? すみません教えて下さい
22歳、病院受付をしています。 直接の先輩に当たる 受付の方が怖くて仕方ありません。 先輩の言い方や接し方がきつく 失敗をするとしつこく責められる為 何をするにもビクビクしながら 仕事をしています。 仕事場では先輩の許可が無ければ 何も出来ませんし 勝手に行動すると怒られます。 どうしてこんなにきつい言い方しか 出来ないのだろうと思ってしまいます。 毎日息が詰まりそうで苦しいです。 家に帰っても仕事の事を思い出すだけで 心臓がバクバクし苦しく 毎朝仕事に行きたくなくて 起きれません。 私がもっと仕事が出来れば 頑張らなければと思えば思う程 辛くなっていきます。 仕事を辞めたくても やっと見つけた仕事で 先輩以外の周りの薬剤師さんや看護師さんは いい人ばかりです。 それに先輩が近々産休に入られる為 私が辞めてしまっては 受付の仕事が出来る人がいなくなってしまいます。 今のところ産休の変わりの方も見つからず どんどん追い詰められていきます。 私はどう頑張ったら良いでしょうか? わかりにくい文章で申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
知り合いの住職の話です。 田舎に帰省した際に、時々会います。聞いた話では、なにか兼業を始めたようです。 でも。。会うたびに、そういったお金の話ばかりします。私も気持ちよく帰省したいので、あまり住職さんからお金の話は聞きたくないのですが・・・うまく気にせずにいるには、どう心を持っていればいいでしょうか?」
看護助手をしております。 主に高齢者のターミナルケアを主にした病院なので、亡くなられる方も多いです。 先日、長くお世話をしていた方が、急変して亡くなられました。 その方が亡くなられてから、自分の身のまわりで不運な事が立て続けに続いています。 同僚が夜勤中に倒れたり、同僚の親御さんが亡くなったり。 また脳出血で倒れて療養中の私の父親も、新たに脳梗塞が見つかりました。 これは亡くなった方の怨念のようなものが影響しているのでしょうか。 毎日自宅で勤務前に坐禅を組み、般若心経を唱えて心を落ち着かせています。
私の父母は浄土真宗で山口県に父方のお墓があります。 父は3人兄弟(長男)ですが昔から弟2人と仲が悪くどこに住んでいるのか連絡先もわかりません。 父母は私が産まれる前に宮城県に転勤で来ていてお寺さんとも連絡をとっていない状況です。 母から聞いた話ですがお寺の中に墓があり 母の弟(昨年死去)の嫁さんがたまにお墓参りしてくれているらしい。誰が管理しているのか分からないと言うことでした。 先日父が突然亡くなり葬儀をあげましたがこちらの地区には浄土真宗のお寺が1件しかなく 葬儀をお願いしました。 なかなか距離もあり納骨を子供の夏休みに合わせて山口県に行こうと思っているのですが 山口県のお寺のご住職に納骨をさせていただけないか お手紙を書きたいと思うのですがお恥ずかしい話上記理由で 御無沙汰しておりますので何と書いたらいいのかわかりません。 アドバイスお願いします。
来月40歳になる男子です。自らの残りの人生について相談させていただきたく思います。 来月40歳になるのですが、とうとう結婚することができずに40歳を迎えることになりました。国立社会保障人口問題研究所の出生動向基本調査によれば、40歳時点で結婚できる人は全40歳代男性の0.3パーセントであるという結果も出ています。従い、40歳までに結婚できなければ、もう事実上私の人生に結婚はないだろうと思います。 結婚相談所に登録するなど、今まで人並みに活動はしてきました。また、運動や食生活に気をつけ清潔感や身だしなみにも気をつけてきたつもりです。 しかし、自分がいいなと思う人に気持ちが伝わることはありませんでした。正直、40年生きてきて女性ときちんとおつきあいをしないまま30歳代が終わってしまいました。生まれてこの方何をしてきたんだろうと思います。 精神医学や心理学をたくさん勉強しましたが、どうやら私は精神的な成長に失敗したようです。子供時代に両親の愛も希薄な状態で育てられたのも今は認識しています。 この文章を読んでいただければおわかりの通り、女性の気持ちをどう考えているかもおそらく伝わらない、稚拙な文章だと思います。女性を愛する能力は子供の時から鍛えられなければならないと言うことを、恥ずかしながら今知ってしまい、もう間に合わないと落胆しています。 周りの幸せな家族やカップルをみて非常にうらやましく思うとともに、正直なんで自分だけがこんなに孤独なのだとねたましく恨めしく思います。 人間最後は皆平等に死ぬと思うのですが、私は今から自分自身の死だけを目標に生きていくことに落胆しております。結婚だけが人生ではない、ほかにもつらい人たちはたくさんいるといわれても全く耳に入らないのです。 残りの人生、前向きなイベントは終わってしまい、残りの人生は両親の死と自分の死だけが待っています。 私には何が足りなかったのでしょうか?残りの人生何をしていったらいいかわかりません。アドバイスをよろしくお願いいたします。