どうしてもパチンコがやめられません。 中毒になっていると自覚しているのですが、どのようにしたらやめれますでしょうか?
世界中の僧侶の中で、日本の僧侶だけ「僧侶」ではないと言われてるのはご存知ですよね? それは結婚=性行為、殺生=生き物を食べる、酒を飲むからです。 出家してから一度も性行為したことなく、蚊や虫を殺したこともなく、肉を食べたこともなく、酒を飲んだこともないというお坊さんがいましたら、そのお方だけの説法を伺いたいです。 肉欲に溺れているのに坊主の説法だなんて自分が恥ずかしくなりませんか? 説法代は懐が痛いくらいがちょうどいいと言います。 とんでもない! そのお金をどんな思いして稼いでると思っているんですか!? 何でたった一度の葬儀に十万も取るんですか? 初七日、49日は3万ずつ。 少ないとなぜ機嫌悪くなるんですか? 葬儀も供養も全てお坊さんの生活のためにある霊感商法なんですか? 真面目に聞いていますので逃げずにお答え下さい。 釈尊が金払えない貧乏人はほっとけと説いたんですね?
どのカテゴリーか分からなかったので、こちらに書きました。 TV、雑誌等で顔や名が知れて有名人と言われている僧侶や神主の方々がいくつか出版されている本があると思いますが、ある有名な神主の方の本に、それこそ一冊20以上の御札が書いてある本があるのですが、その本には、身を清め精神を落ち着かせ、一人の時にその方が直筆で書いた(コピーの直筆)御札の上から自分で筆ペン等でなぞり、自分の目的の気を入れて書き、その御札を切り取って常に身に付けると効果がある等と記されています。 もちろん、効果はそれぞれで、一番は自分の気持ちが一番大切と書いてはありますが、こんなに何十種類もの御札の文言を一般人が真似事のように使用することや、効果を期待させて、何千円もの金額を何億人から徴収させて、本当に世のため人のためと言えるのでしょうか? 御札の文言をそんなに簡単に扱っていいものなのでしょうか?皆様はどう思われますか。
巳の日に、友達と弁才天様に 金運の願掛けにお参りに行こうと思って そのお寺に問い合わせして、祈願の作法を質問しましたが、自由で良いですと、言われました お寺の本堂に弘法大師様がいて、その横に弁才天様が、いらっしゃいましたが、 お賽銭とか、必要なのかな? お参りは、神社とちがうだろうし、 わからないことばかりで どうか教えてください
過去にしてしまった悪行を懺悔しもう二度とやらない事を誓いたいです。 どこでどのような事をすれば良いのでしょうか
自分を肯定すること、認めたり許すことが 幸せに生きるためにどうして必要なんでしょうか? そのままの自分でいてずっと不幸だったのに その不幸の原因になった自分を許してみて 何になるのかわかりません。 今の自分でなくならないと幸せにはなれない気がしています。 今の自分が不幸の原因だったのなら、今の自分が消えてくれないと このままいやな人生のままだと思ってしまいます。
初めて質問させて頂きます。よろしくお願い致します。 去年の3月頃から家族問題をどうしても解決したく、もちろん自分自身でも最大限努力をした上で色々な神社にお参り巡りをしていました。 その中で「断ち祈願」というお参りの仕方があるのを知り、断ち祈願をその頃から行いました。 その神社で行われている断ち祈願は凄く有名??で、願いは叶うが、もし断ち物を破ってしまった場合、自分ではなく周りの人に不幸が起こってしまう、という話もある物です。 そして、もうそろそろかれこれ断ち祈願を1年行なっているのですが、そもそもこの断ち祈願というやり方自体よくないやり方、やってはいけない事(神様に取引を持ちかけているような失礼な行為にあたる)という話を聞き、確かにそのような考え方もあるな、と思いました。 その断ち祈願を行なった神社にも聞いてみた所わ断ち祈願をやめるには神様に手紙?を書いてそれを読み上げ御祈祷するお参りがある。 願いを叶えて頂いたのに、叶えてもらった途端、はい、断ち祈願やめまーす、は神様に失礼に当たるし調子のいい話。 断ち祈願辞めた後を神様に誠意を持った対応が必要、と言われ、断ち祈願を今後どうしていっていいのか本当に迷っています。 「神様に誠意を持って対応」とはどのような事でしょうか?? 月一回お参りや報告、お礼に行けば良いのでしょうか…。 神様への誠意、というのが正しい解釈の仕方がわからず困っております。 断ち祈願への考え方、正しい対処方法、断ち祈願を今後どうしていったら良いかなどアドバイス頂きたいです。 どうかよろしくお願い致します。
たったいま、愛犬が亡くなりました。元々心臓病を患っていました。心臓発作でとつぜんなくなってしまいました。今でも信じられません。朝まで息をしてたのに、。あと5年は頑張ろうって言ってました。まだ5歳でした。 小学五年生の時から高三の今までずっと一緒でした。寝る時だった一緒でした。「ねる!?」というと目をキラキラさせながら布団のところへ走って行く姿をもう二度と観ることはないと思うと本当に悲しいです。まだ病院から帰ってきて、会えていません。。死を目の当たりにするのが怖くて、受け入れられなくて、どうしてもできません。 受験なんかどうでもよくなりました。 ほんとうにつらいです。
16歳の妹を亡くしました。 あと11日で17歳でした。 皆さんにはいつもお世話になっております。 24歳、女、公務員です。 7人家族、5人兄弟。末っ子を亡くしました。 仕事で死に目に会えませんでした。 ほんと火葬まであっという間でした。実感が湧かないのか、家族と居れば大丈夫なのですが1人になった時ぽっかりと空いた気持ちと、悲しみが溢れてきて辛くなります。 そんな時、どうすればいいでしょうか。 仕事場でもコントロール出来ないくらい、涙が溢れるときがあります。周りを心配させてしまうから止めたいです、この涙を。 どうすればいいですか。 どうかご助言をください。
先日、檀家ではないのですが、近所の弘法大師さま系のお寺に御朱印をいただきにいきました。 すでに他の神社仏閣で30箇所くらい御朱印をいただいている御朱印帳なのですが、何冊ももっておまいりするのは大変ですから、表?順打ち側を神社、裏?逆からお寺にしていただいていたのですが…“どこのお寺からもらい始めたかわかりませんが、逆打ちですよ!死者のもらい方ですよ!断られるお寺もありますから!”と感じの悪い言い方をされました。結局は書いてはくださいました。 …ですが、まず、一番最初にいただいたお寺は近所のお寺の大本山にあたるお寺でした。 また、お坊さんは結婚指輪をされていましたし、ラフなポロシャツで、お昼頃だったからか、受け付け時間内にも関わらず、時間ばかり気にしていて、尚且つ前に並んでいたおじさまのお願いを、またまた感じ悪くしぶしぶ受けていました。 最近、小さなことにイライラしてしまう自分が嫌で、浄化したいと思い伺ったお寺で、結果、更に大きくイライラしてしまいました。 御朱印の意味や修業ってなんなんでしょう! と思ってしまいました。 我慢してかえりましたが、耐えきれず質問させていただきました。 ご教示お願いいたします。
ブッダの教えを一言でまとめると何ですか? hasunohaや本で読んでもイマイチピンとこないというか、分かりづらいというか、自分でまとめてもモヤモヤするので質問してみました。
梵我一如と入我我入の違いってなんですか?
偉大な僧侶 親鸞聖人の直筆について質問させて頂きたいと思います。 親鸞聖人はとても達筆であると、小説や文献で読んだことがあります。 この前 知り合いの仏壇の中央にかけてある「南无阿弥陀」の掛け軸を知り合い宅で拝見しました。 下記のURLの掛け軸でした。 http://www.kouyu.info/SHOP/SS168000.html 誠に誠に失礼ながら あまり達筆でないような気がしました。 しかし向かって左側の「愚禿親鸞」の筆はとてもお上手です。 この書体にされたのには何か意味があるのではないかと思い 何かご存知の方がいらっしゃれば お教え頂きたいと存じます。 また なぜ「南無阿弥陀」ではなく「南无阿弥陀」なのでしょうか、なぜ「无」の字をお使いになったのでしょうか? 合わせてお教え頂ければ幸いです。 よろしくお願いします。
ヨーロッパにおける、寺院の活動内容、生活や苦労などをご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけないでしょうか?
こんばんは。 心配してくれる親しい友人もいて、 たまに様子を見に来てくれる両親もいて、 仲の良い兄妹もいて、 新しい土地で出会えた友人もできて、 最愛の子供たちもいるのに、 誰にも主人を亡くした辛さ全てを話せません。 主人と交流があった方とお会いしても、 表面上のありふれた寂しさを語るくらいで、 相手を困らせてしまうのではないかと、考えると それ以上の話はしません。 死ななければ、何でもできる それ以上の辛さはないから。 わかります。死んだら終わりです。 でも、その気持ちが越えてしまうほどに 悲しみで溢れてしまいそうで、 明日を迎える気持ちも湧いて来ません。 どうしたら良いのでしょう
お世話になっております。相談に乗っていただけますと幸いです。 表題の通り、自分はカッとなって衝動的に行動してしまうことがあります。 物事が自分の思うとおりに行かないとき、自分の所有物でない物を蹴飛ばして壊してしまいました。壊した直後にハッとして、あとから自分で所有者に連絡し、弁償しました。 満員電車で明らかにわざと突き飛ばされたり足を蹴られたことに腹が立ち、やり返したり口論をしたりしてトラブルになりかけたことがありました。 自転車で後続に抜かれた際、聞こえるような大きさで舌打ちと暴言を吐かれたことが許せず、ムキになって抜き返し、意地を張って前につけ続けたことがあります。その後、自分がやったことが恐ろしくなって逃げたのですが、逃げる直前に相手から「クソガキ」「殺すぞ」とより酷い暴言を吐かれ、さらにショックを受けました。 思い返せば、子供のころから常に自分が嫌な思いをした時、やられっぱなしで自分だけが嫌な思いをしている感覚がありました。何か嫌なことをされて、親に相談しても「あんたが悪い。あんたが我慢すればそれでよかったんだ。」の一点張りで取り合ってもらえませんでした。 だからかはわかりませんが、社会人になって数年たった今、誰かのせいで自分が嫌な思いをしたと感じた時にどうしてもカッとなってしまい、やり返したいという思いを抑えきれなくなってしまうことがあります。 いつも後で後悔し、自己嫌悪に苛まれます。 「一歩間違えば自分が犯罪者だったのでは...?」 「もしムキになった結果、事故でも起こしていたら...?」 カッとなって行動したことにより、状況が好転なんてしたことなんて全くありませんでした。 生まれたのは自己嫌悪と危うく犯罪者になるところだったというリスクだけです。 たまに、自分が恐ろしくなります。 冷静に考えたら、衝動的に行動することで一番不幸になるのは自分であるなんてわかるはずのにどうしてこんなことをしてしまうのでしょうか。 どうすれば、今後カッとなって衝動的に行動しないようになれるのでしょうか。 いつか自分で自分の人生をめちゃくちゃにしてしまうのではないかと怖くなります。 自分がこれまでやられたことを思い出してつらくなることは割と前からありましたが、 最近では自分がこれまでやってしまったことも思い出し、さらにつらくなってしまいます。
こんにちは。私の実家は江戸時代より続く寺です。小さい頃より家を継ぐのが楽しみで、僧侶になることに今は迷いはありません。現在は大学生活を楽しんでいますが、卒業後は家を継ぐ予定です。僧侶になったからには人の為に生き、悩み苦しむ人の為に身を削る覚悟でいます。その為には辛苦をいとわないつもりです。 ただ、その様な僧侶となるためには今何をすべきか、勉強をしておくべきか、最近の寺に求められていることは何なのかといったことが自分の中で不明確になりつつあります。 現役の僧侶の皆様、人の為に生きる僧侶となるために今何をし、勉強しておくべきか。そして、今の寺(僧侶)に求められていることは何かご教示頂けないでしょうか。よろしくお願い致します。
職場で、感謝の気持ちを込めて手を合わせて 「ありがとうございます」 を伝えていたところ、 私、仏様じゃないんだけど!!! と二人の方に別々に注意されてしまいました。 勿論、誤解されてまでその方たちに行おうとは思いませんが、 一般的にその様な合掌は正しくないのでしょうか。 インターネットで検索しても、 外国の人が間違ってしてしまっているおかしな日本の文化だ! 若い人がするのを見るとイラっとする! 等あまりよく思われていないようです。 私にとっては、お寺さんやお墓、仏様で手を合わせることも、 いつもご先祖様や私たちを守ってくれている仏様やご先祖様達へ感謝と尊敬の気持ちで行なっていましたし、 ご飯のいただきますの合掌も、 食材や食卓に並ぶまでの多くの人たち、 食事を頂けるということへの感謝と尊敬の念を込めてすると教わり、 そうした気持ちで手を合わせてきました。 お坊様の丁寧なお辞儀と手を合わせたありがとうございます、の仕草が暖かさを感じ好きだったこともあります。 いつの頃からか、 ありがとう感謝します、有難いことです。 を伝えるジェスチャーとして、度々使っていたため、 ちょっとショックでした。 合掌のそのような使い方は正しくないのでしょうか? お坊様のそうした合掌とはまた違ったものなのでしょうか? 本来、合掌の意味とはどんなことなのでしょうか?
以前よりお世話になっております。毎回真摯なご回答を頂き、本当にありがとうございます。 今回お聞きしたいことは、八聖道によって死の恐怖が消せるのかということです。以下、詳細な私の現状です。 私は「死んだ後自分がどうなるかわからないことへの恐怖」と、「自分と世界が存在している(五感で感じ取れる)ことの恐怖」を常に抱えています。 そこで仏教を自分なりに勉強した結果、四諦と八聖道を知りました。恐怖克服のため、ぜひ八聖道を実践しようと思いました。 現在は在家で修行がしたいと思っています。正思、正語、正業、正命、正精進、正念は、日常生活の中でなんとなく「これに気をつけて生活すべきなんだな」という具体的な実践が思いつきます(といっても、素人の浅知恵で、悪口を言わないなどの程度です。ここに関しても今後もっと勉強していきます)。 しかし、正見と正定は、瞑想(座禅)などを行なって会得するものだと拝見しました。 私は禅宗(臨済宗や曹洞宗など)の教えも好きなので、座禅を日常に取り入れたいと考えています。ですが、禅で有名な一休さんでさえ、「死にとうない」と言って死んでいったと聞き、正直とても怖くなりました。 座禅を含め、八聖道を実践していっても、死や存在の恐怖は克服できず、怯えたまま生きて死ぬしかないのか?と不安です。 hasunohaでは、座禅の中で悟りのような経験をされている方や、「実践を伴って初めて仏教がわかる」とご回答されている方をよくお見受けします。そのため、知識を学ぶだけではダメで、具体的な実践をして初めて、疑り深い私でも「仏教を知識だけでなく心で納得する」ことができるのだと考え、八聖道を実践しようと思いました。 長々とすみません。以上の流れから、 1.八聖道(座禅含む)を実践していったら、死と存在の恐怖を消すことができるのか? 2.もし出来ないなら、私は今後どうしていったら良いのか?(恐怖に苛まれるのは本当につらいので、なにか解決策があればご教示頂きたいです) の2点をお伺いしたいです。 また、私の現状の中でも、間違ってる行動や考えがありましたら、ご指摘頂ければと思います。 長文になってしまい申し訳ございません。お時間ある時で構いませんので、ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
春に妹が、亡くなりました。 その際に檀家のお坊さんに、頂いた戒名が とても妹に合っていて素敵だと思ったので 秋に産まれる予定の私の子どもに、 字画など合えば、戒名から1字でももらって つけられないものかと考えています。 亡くなった人の名前をもらうべきではないのか どうなのかがそもそもわからないので 質問させていただきます。