初めて質問させて頂きます。よろしくお願い致します。 去年の3月頃から家族問題をどうしても解決したく、もちろん自分自身でも最大限努力をした上で色々な神社にお参り巡りをしていました。 その中で「断ち祈願」というお参りの仕方があるのを知り、断ち祈願をその頃から行いました。 その神社で行われている断ち祈願は凄く有名??で、願いは叶うが、もし断ち物を破ってしまった場合、自分ではなく周りの人に不幸が起こってしまう、という話もある物です。 そして、もうそろそろかれこれ断ち祈願を1年行なっているのですが、そもそもこの断ち祈願というやり方自体よくないやり方、やってはいけない事(神様に取引を持ちかけているような失礼な行為にあたる)という話を聞き、確かにそのような考え方もあるな、と思いました。 その断ち祈願を行なった神社にも聞いてみた所わ断ち祈願をやめるには神様に手紙?を書いてそれを読み上げ御祈祷するお参りがある。 願いを叶えて頂いたのに、叶えてもらった途端、はい、断ち祈願やめまーす、は神様に失礼に当たるし調子のいい話。 断ち祈願辞めた後を神様に誠意を持った対応が必要、と言われ、断ち祈願を今後どうしていっていいのか本当に迷っています。 「神様に誠意を持って対応」とはどのような事でしょうか?? 月一回お参りや報告、お礼に行けば良いのでしょうか…。 神様への誠意、というのが正しい解釈の仕方がわからず困っております。 断ち祈願への考え方、正しい対処方法、断ち祈願を今後どうしていったら良いかなどアドバイス頂きたいです。 どうかよろしくお願い致します。
たったいま、愛犬が亡くなりました。元々心臓病を患っていました。心臓発作でとつぜんなくなってしまいました。今でも信じられません。朝まで息をしてたのに、。あと5年は頑張ろうって言ってました。まだ5歳でした。 小学五年生の時から高三の今までずっと一緒でした。寝る時だった一緒でした。「ねる!?」というと目をキラキラさせながら布団のところへ走って行く姿をもう二度と観ることはないと思うと本当に悲しいです。まだ病院から帰ってきて、会えていません。。死を目の当たりにするのが怖くて、受け入れられなくて、どうしてもできません。 受験なんかどうでもよくなりました。 ほんとうにつらいです。
16歳の妹を亡くしました。 あと11日で17歳でした。 皆さんにはいつもお世話になっております。 24歳、女、公務員です。 7人家族、5人兄弟。末っ子を亡くしました。 仕事で死に目に会えませんでした。 ほんと火葬まであっという間でした。実感が湧かないのか、家族と居れば大丈夫なのですが1人になった時ぽっかりと空いた気持ちと、悲しみが溢れてきて辛くなります。 そんな時、どうすればいいでしょうか。 仕事場でもコントロール出来ないくらい、涙が溢れるときがあります。周りを心配させてしまうから止めたいです、この涙を。 どうすればいいですか。 どうかご助言をください。
先日、檀家ではないのですが、近所の弘法大師さま系のお寺に御朱印をいただきにいきました。 すでに他の神社仏閣で30箇所くらい御朱印をいただいている御朱印帳なのですが、何冊ももっておまいりするのは大変ですから、表?順打ち側を神社、裏?逆からお寺にしていただいていたのですが…“どこのお寺からもらい始めたかわかりませんが、逆打ちですよ!死者のもらい方ですよ!断られるお寺もありますから!”と感じの悪い言い方をされました。結局は書いてはくださいました。 …ですが、まず、一番最初にいただいたお寺は近所のお寺の大本山にあたるお寺でした。 また、お坊さんは結婚指輪をされていましたし、ラフなポロシャツで、お昼頃だったからか、受け付け時間内にも関わらず、時間ばかり気にしていて、尚且つ前に並んでいたおじさまのお願いを、またまた感じ悪くしぶしぶ受けていました。 最近、小さなことにイライラしてしまう自分が嫌で、浄化したいと思い伺ったお寺で、結果、更に大きくイライラしてしまいました。 御朱印の意味や修業ってなんなんでしょう! と思ってしまいました。 我慢してかえりましたが、耐えきれず質問させていただきました。 ご教示お願いいたします。
ブッダの教えを一言でまとめると何ですか? hasunohaや本で読んでもイマイチピンとこないというか、分かりづらいというか、自分でまとめてもモヤモヤするので質問してみました。
梵我一如と入我我入の違いってなんですか?
偉大な僧侶 親鸞聖人の直筆について質問させて頂きたいと思います。 親鸞聖人はとても達筆であると、小説や文献で読んだことがあります。 この前 知り合いの仏壇の中央にかけてある「南无阿弥陀」の掛け軸を知り合い宅で拝見しました。 下記のURLの掛け軸でした。 http://www.kouyu.info/SHOP/SS168000.html 誠に誠に失礼ながら あまり達筆でないような気がしました。 しかし向かって左側の「愚禿親鸞」の筆はとてもお上手です。 この書体にされたのには何か意味があるのではないかと思い 何かご存知の方がいらっしゃれば お教え頂きたいと存じます。 また なぜ「南無阿弥陀」ではなく「南无阿弥陀」なのでしょうか、なぜ「无」の字をお使いになったのでしょうか? 合わせてお教え頂ければ幸いです。 よろしくお願いします。
ヨーロッパにおける、寺院の活動内容、生活や苦労などをご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけないでしょうか?
こんばんは。 心配してくれる親しい友人もいて、 たまに様子を見に来てくれる両親もいて、 仲の良い兄妹もいて、 新しい土地で出会えた友人もできて、 最愛の子供たちもいるのに、 誰にも主人を亡くした辛さ全てを話せません。 主人と交流があった方とお会いしても、 表面上のありふれた寂しさを語るくらいで、 相手を困らせてしまうのではないかと、考えると それ以上の話はしません。 死ななければ、何でもできる それ以上の辛さはないから。 わかります。死んだら終わりです。 でも、その気持ちが越えてしまうほどに 悲しみで溢れてしまいそうで、 明日を迎える気持ちも湧いて来ません。 どうしたら良いのでしょう
お世話になっております。相談に乗っていただけますと幸いです。 表題の通り、自分はカッとなって衝動的に行動してしまうことがあります。 物事が自分の思うとおりに行かないとき、自分の所有物でない物を蹴飛ばして壊してしまいました。壊した直後にハッとして、あとから自分で所有者に連絡し、弁償しました。 満員電車で明らかにわざと突き飛ばされたり足を蹴られたことに腹が立ち、やり返したり口論をしたりしてトラブルになりかけたことがありました。 自転車で後続に抜かれた際、聞こえるような大きさで舌打ちと暴言を吐かれたことが許せず、ムキになって抜き返し、意地を張って前につけ続けたことがあります。その後、自分がやったことが恐ろしくなって逃げたのですが、逃げる直前に相手から「クソガキ」「殺すぞ」とより酷い暴言を吐かれ、さらにショックを受けました。 思い返せば、子供のころから常に自分が嫌な思いをした時、やられっぱなしで自分だけが嫌な思いをしている感覚がありました。何か嫌なことをされて、親に相談しても「あんたが悪い。あんたが我慢すればそれでよかったんだ。」の一点張りで取り合ってもらえませんでした。 だからかはわかりませんが、社会人になって数年たった今、誰かのせいで自分が嫌な思いをしたと感じた時にどうしてもカッとなってしまい、やり返したいという思いを抑えきれなくなってしまうことがあります。 いつも後で後悔し、自己嫌悪に苛まれます。 「一歩間違えば自分が犯罪者だったのでは...?」 「もしムキになった結果、事故でも起こしていたら...?」 カッとなって行動したことにより、状況が好転なんてしたことなんて全くありませんでした。 生まれたのは自己嫌悪と危うく犯罪者になるところだったというリスクだけです。 たまに、自分が恐ろしくなります。 冷静に考えたら、衝動的に行動することで一番不幸になるのは自分であるなんてわかるはずのにどうしてこんなことをしてしまうのでしょうか。 どうすれば、今後カッとなって衝動的に行動しないようになれるのでしょうか。 いつか自分で自分の人生をめちゃくちゃにしてしまうのではないかと怖くなります。 自分がこれまでやられたことを思い出してつらくなることは割と前からありましたが、 最近では自分がこれまでやってしまったことも思い出し、さらにつらくなってしまいます。
いつもお世話になっております。プロフィール通りのことを しでかして、デーケアは1ヶ月間の休養を余儀なくされました。 病院に行って、 「怖くて道もまともに歩けない。医者や支援者、坊さん、 警察官や保健師といったお役人しか信じられない。 これ以外の人たちはみんな、パソコンやスマホのウイルスや ランサムウェアーと同じで、一見いい顔をして『その機会』 を狙ってる、泥棒や痴漢やテロ犯だ!」と溢したら、 「さすがにその状態は危険です。直ちに修正をする必要が あります。カウンセリングや入院治療も視野に入れるとして、 せっかくお経が読めるなら、その手の状態を解決するヒント的な 経典はないのかしら?」 「実践プログラム的な修行や法語みたいなの、あるんじゃない?」 と言われました。 しかし、経典は数がありすぎて探し方すらわかりません。 浄土宗の教義については理解しているつもりですが… 密教と顕教の違いすら理解していません。 どこからどうやって、何を目安にしてお経を学べば いいんでしょうか?
今年に入ってから、毎日、写経をています。もうすぐ一年分になりますが、どのように扱えばよいのかわかりません。 初詣の際に、お焚き上げをしても良いのでしょうか? ご助言をお願いいたします。
職場で、感謝の気持ちを込めて手を合わせて 「ありがとうございます」 を伝えていたところ、 私、仏様じゃないんだけど!!! と二人の方に別々に注意されてしまいました。 勿論、誤解されてまでその方たちに行おうとは思いませんが、 一般的にその様な合掌は正しくないのでしょうか。 インターネットで検索しても、 外国の人が間違ってしてしまっているおかしな日本の文化だ! 若い人がするのを見るとイラっとする! 等あまりよく思われていないようです。 私にとっては、お寺さんやお墓、仏様で手を合わせることも、 いつもご先祖様や私たちを守ってくれている仏様やご先祖様達へ感謝と尊敬の気持ちで行なっていましたし、 ご飯のいただきますの合掌も、 食材や食卓に並ぶまでの多くの人たち、 食事を頂けるということへの感謝と尊敬の念を込めてすると教わり、 そうした気持ちで手を合わせてきました。 お坊様の丁寧なお辞儀と手を合わせたありがとうございます、の仕草が暖かさを感じ好きだったこともあります。 いつの頃からか、 ありがとう感謝します、有難いことです。 を伝えるジェスチャーとして、度々使っていたため、 ちょっとショックでした。 合掌のそのような使い方は正しくないのでしょうか? お坊様のそうした合掌とはまた違ったものなのでしょうか? 本来、合掌の意味とはどんなことなのでしょうか?
以前よりお世話になっております。毎回真摯なご回答を頂き、本当にありがとうございます。 今回お聞きしたいことは、八聖道によって死の恐怖が消せるのかということです。以下、詳細な私の現状です。 私は「死んだ後自分がどうなるかわからないことへの恐怖」と、「自分と世界が存在している(五感で感じ取れる)ことの恐怖」を常に抱えています。 そこで仏教を自分なりに勉強した結果、四諦と八聖道を知りました。恐怖克服のため、ぜひ八聖道を実践しようと思いました。 現在は在家で修行がしたいと思っています。正思、正語、正業、正命、正精進、正念は、日常生活の中でなんとなく「これに気をつけて生活すべきなんだな」という具体的な実践が思いつきます(といっても、素人の浅知恵で、悪口を言わないなどの程度です。ここに関しても今後もっと勉強していきます)。 しかし、正見と正定は、瞑想(座禅)などを行なって会得するものだと拝見しました。 私は禅宗(臨済宗や曹洞宗など)の教えも好きなので、座禅を日常に取り入れたいと考えています。ですが、禅で有名な一休さんでさえ、「死にとうない」と言って死んでいったと聞き、正直とても怖くなりました。 座禅を含め、八聖道を実践していっても、死や存在の恐怖は克服できず、怯えたまま生きて死ぬしかないのか?と不安です。 hasunohaでは、座禅の中で悟りのような経験をされている方や、「実践を伴って初めて仏教がわかる」とご回答されている方をよくお見受けします。そのため、知識を学ぶだけではダメで、具体的な実践をして初めて、疑り深い私でも「仏教を知識だけでなく心で納得する」ことができるのだと考え、八聖道を実践しようと思いました。 長々とすみません。以上の流れから、 1.八聖道(座禅含む)を実践していったら、死と存在の恐怖を消すことができるのか? 2.もし出来ないなら、私は今後どうしていったら良いのか?(恐怖に苛まれるのは本当につらいので、なにか解決策があればご教示頂きたいです) の2点をお伺いしたいです。 また、私の現状の中でも、間違ってる行動や考えがありましたら、ご指摘頂ければと思います。 長文になってしまい申し訳ございません。お時間ある時で構いませんので、ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
春に妹が、亡くなりました。 その際に檀家のお坊さんに、頂いた戒名が とても妹に合っていて素敵だと思ったので 秋に産まれる予定の私の子どもに、 字画など合えば、戒名から1字でももらって つけられないものかと考えています。 亡くなった人の名前をもらうべきではないのか どうなのかがそもそもわからないので 質問させていただきます。
戦国時代の大河ドラマをみていました。 織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、信長の奥さんがお坊さんをたくさん殺すなんてとんでもないと信長を激しく非難します。 しかし、信長は「比叡山の僧は酒をくらい女を抱き、夜盗のような暮らしをしている。あんなものは僧ではない」といいます。 だからと言って殺していいわけではないと思うのですが、確かにお坊さんなのに武器を持って武士を殺し、仏を敬わず酒色におぼれる。 お寺に住んでいるけれど、戒律を守らずに略奪ばかりしている。 とてもお坊さんと呼べるような人たちではありません。 もちろん時代劇ですので、面白いように脚色しているのはわかります。 しかし、現代でもお坊さんなのに悪いことをする人もいるし、権力闘争で世間を賑わす人たちもいます。 一度仏門に入ってしまえば、悪いことをした後でもお坊さんとしていられるのでしょうか。 お坊さんも僕らと同じ人間なので、誘惑に負けたり間違った判断をすることがあると思います。お坊さんが悪いことをするとどうなるのですか?悪いことをして死後地獄におちた場合、お坊さんだと仏様に近い生活をした分だけ罪が軽くなるのでしょうか?
わたしは昔から自分のことが嫌いでした。 自分に厳しくしすぎたのか、とうとう鬱になりました。その一年後、自殺未遂をして警察に保護されました。 親が泣きながら迎えにきてくれましたが、自分でも驚くほどわたしはなんとも思えませんでした。それだけ生きることに絶望していました。 でも、付き合っているYさんにお願いだから死なないで、僕のために生きていてと言われたとき、ああ生きなきゃいけないなと思いました。 それからわたしの生きる意味は、Yさんです。それしかないんです。 よく、自分のために生きなさい、と本でもネットでも言われています。 人のために生きるのはやめなさいと言う言葉を何度も目にしました。 でも、生きる理由が見つからない、と調べると、家族のため、恋人のため、友人のためでいいから生きなさい、と言われます。 死にたいと言ったら誰かのために生きろと言われ、誰かのために生きると言ったら自分のために生きろと言われる、結局自分のために生きること以外は悪いことなんでしょうか。 わたしは理由もわからないのに自分が嫌いで自分のための生きる意味がすぐ見つかるとは到底思えません。 また、生きる意味がYさんだからといって執着したり重荷をかけたりしている訳ではありません。 それでも人のために生きてはいけないんでしょうか。 自分のために生きられない人は生きる価値がないんでしょうか。 分からないんです。苦しいです。 助けてください。
はじめまして。 わたしは、ある本を読んで、勝鬘夫人が書かれた『勝鬘経』に、すごく興味をもちました。 『勝鬘経』とは、どういう内容のお経なのですか? すごく、知りたいです。 よろしくお願いします。
高校3年生です。 僕は、多分周りの誰よりも死ぬのに臆病です。 人は必ず死ぬ。その事実をなんとかして受け止めようと、色々模索していたところ、お釈迦さんの教えである「無常」に辿り着きました。 「世の中にある万物は変化し続け、ずっと変わらないものなどない」という様に自分は解釈し、自分の生き方に当てはめてみました。 しかし、ある疑問が出てしまったんです。 僕はあの世とか魂などというものを、あったらいいなとは思いますが、なかなか信じられないでいます。 それ故に、人は死ねば終わりだ、「無」だ、と考えているんです。 お釈迦さんも、死後のことについてはあまり説かれなかったと聞いています。 ならば、死んで「無」であったとしたら、 「無常」という考え方は果たして通用するのか自分には分かりません。 お坊さんなりの解釈やヒントを教えていただければ幸いです。
お世話になります。 お寺のことはお坊さんに伺うのが一番と質問させていただきます。 この度供養をしてあげていないわが子が心配になり、納骨供養を視野に入れお寺さんの供養を考えています。 そこで、大事なわが子を、大事にお護りくださるお寺さんに是非お預けしたく、子どもを預けるに特に相応しい勧めることのできるお寺をご存知でしたら教えて頂きたいです。 地域は多少離れていても構いません。 宜しくお願いします。m(_ _)m